京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)会報


(1999年10月号 掲載)

林間学校体験記

小畑 裕美   

 先日、娘の林間学校に行ってきました。
「え? 林間学校に付添い? 幼稚園の?」と思われる方もあるかもしれません。いえいえ、娘は小学校5年生です。でも、普通の子とは違うといわれます。
実は娘はダウン症という障害を持っているのです。

 保育所の時からずーと地域のお友達と一緒に過ごしてきました。今も地域の小学校の普通級に通っています。勉強の中身はいっぱいわからないこともあるようですが、娘なりにすこしづつ、いろいろなことを覚えて、身につけてきました。
なによりも、集団の中で行動することのを苦労もしながら、楽しんでいます。

 さて、5年生になって、問題になったのが林間学校です。日常生活はほとんど不便を感じずに学校で過ごしているように見える娘ですが、宿泊の学習には親の付き添いが必要だと学校から要請をうけました。

 本来、親と離れて学校の仲間と寝起きを共にすることも学習の目的の一つのはずの宿泊学習に本当に親が付いていって良いのだろうか? 普段は他の子どもたちにも助けてもらって、とてもいい関係ができているのに、親が行くことで、他の子どもたちにも遠慮をさせるのではないだろうか? 思いはつきません。
でも「おとながいないところで、わが子や他の子どもたちがどんな風にしているのかちょっと見てみたい」とどの親も思う気持ちもあり、これはチャンスかもしれないと、参加することにしました。

 さて、当日、常にわが子を遠目に見守るようにしました。到着と同時に、テントを見てはしゃぐ子どもたちと一緒にはしゃいでいる娘を見ていて、心の成長はどの子も一緒だととてもうれしく思いました。

 一番の心配は二日めのオリエンテーリングでした。状況の理解の遅い娘のことを配慮し常に声をかけてくれるのですが、オリエンテーリングでは子どもたちが班毎に行動します。子どもたちだけの行動になりますし、山の中の移動になりますので、この時に娘を受け入れてくれた班の子どもたちがどうするのか? というのが先生の心配の中心だったと思います。

 当日、私は娘の班の後ろから付いていき、基本的にはよほどの危険が無いかぎり口出しをしないで影になることに徹することにしました。
見ていると、行動の遅い娘と行動を共にする子と、先に行って方向を示す子などの役割分担がとても上手にでき、ポイントを探すところでは、「○○ちゃんはここで待っときや」と数人の男の子が走ってポイントを探しに行き、見つかったら「こっちが近道や」と一番近い道を教えてくれるなど、沢山の微笑ましい工夫がみられ、私ひとりで見ていていいのかとちょっぴり得をした気分でした。

 ダウン症という障害を持ち、理解や行動が遅かったり、もちろん他の子どもたちの負担になる条件はたくさん持っている我が娘です。ところが、娘がいるという大変さを頑張りにきっかけにして、全力をだしきった娘の班は、上位の成績を納めました。班ごとに頂上で撮った記念写真の表情は、どの子もやりきった満足で輝いていました。しんどさをもった仲間をどう受けとめるか、おとなが心配するよりも、子どもたちの力は大きいとつくづく思いました。ずーと一緒に生活してきた積み重ねが、あたり前に配慮をする力を子どもたちひとりひとりの中に育んだようです。

 暗いニュースが多い時代、学級崩壊やいじめもたくさん聞きますが、弱さを持った娘がこんなにイキイキと林間学校に参加できたことからも、子どもたちの心や力を信じて良いのだと確信しました。

 私にとって、とてもうれしいことの多い林間学校体験ではありましたが、障害を持っている子どもたちが、学校行事に参加する時の保護者の付添い方や、方法については本当に行くべきだったのか悩みは消えません。
今回は学校側からの要請もあり、付添いの是非についての議論を深めずに、親としてのいろいろな気持ちから行きましたが、帰ってから、つきそった私の宿泊費・食費だけでなくバス代まで請求されて、また少し複雑な気分になりました。

 障害児の親たちの間でもよく話題になるのですが、行事につきそうと、ひとりのおとなとして、他の子どもの面倒をみたり、スタッフとして働かざるを得ない場合が多くあります。学校教育の現場に、親がどのように関わればよいかのか、それは障害児の親だけが関わっていくのか、これからの大きな課題だと思っています。
社会的にはノーマライゼーションやバリアフリーがうたわれ、だれもがあたりまえに暮らせる街づくりが目指されているはずです。
そのためには、社会を担う子どもたちが、お互いの人格を認めあい、自分自身も他の人も同様に大切にできる人間に育ってほしいと思います。

 子どもたちを育てる核になる学校では「心の教育」が叫ばれていますが、従来の教育のあり方では、子どもたちが本当にお互いの個性を受け止めあえる豊かな人格が育つでしょうか? 障害のある、なしにかかわらず、限りない未来のある子どもたちのためにも教育の中心である学校の果たす役割は大きいと思います。

 ほんとうにだれでもが受け入れられ、気持ち良く暮らせる社会がくることを願って、今、私がしなければならないことを考え、伝え続けながら、娘と一緒に一歩づつでも歩んでいきたいと思います。


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