京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)データベース


保育園での生活


(1993年12月号 掲載)

大好きな保育園
山本秀子   
 我が家の慶太郎も、今年の夏で6才になりました。
2132gで生まれ、7ケ月の時に点頭てんかんで入院治療。発作が収まったと思ったら、食道狭窄がある事がわかり、まず治療の為の手術をし、約9ケ月間治療をしました。

 その治療というのが、口から玉を入れ、食道の狭い所をだんだん広げて行くのですが、麻酔をせずにするので、泣き叫ぶ慶太郎を押さえつけてするという、それはそれは残酷な治療でした。しかし、その荒治療のかいもなく、食道の狭い部分を切除する開胸手術をしたのが、2才をすぎてすぐでした。

 こうして、何でも食べられる身体にはなったのですが、離乳期の大事な時に思う様に食べられなかったストレスは大きかった様で、食べさせる事には苦労しました。栄養は粉ミルクにたよっていたし、おかししか食べない時期もありました。そんな最中に、北白川いずみ保育園に入園したのです。当時、手足は細く、本当にか弱いという表現がぴったりだったと思います。こぐま園の時も、母子分離がイヤで泣いてばかりだったのに、活発な子供達といっしょに過ごす保育園が、いごこちいいはずがありません。最初の10日間は母子通園し、給食を食べずに1ケ月くらい、それから週に2・3回給食を食べ、それになれたら週に2回は、お昼ねをしておやつを食べるまで、という感じで、慶太郎の様子を見ながら、保育時間をのばして行ってくれました。そうして、お友達にも、保育園にも慣れたのですが、給食はほとんど食べませんでした。

 給食がイヤで保育園もイヤになっては困るからと「けいちゃんの一番好きな物を給食に」と言って下さり、次の日から、その当時大好きだったかぼちゃを毎日つけてくれる様になりました。そうしているうちに、他の物も食べる様になり、今では給食は何でもピカピカです。こうして慶太郎が何でも食べられる様になったのは、何とか食べる様にと色々と工夫して下さったキッチンの先生のおかげだと思っています。

 慶太郎だけでなく、アトピーの子には除去食を作っているし、無添加無農薬はもちろん、主食は胚芽米、輸入果物はいっさい使わず、国内の食材のみを使用、おやつは手作りと、食べる事をとても大事に考えたくれている保育園なのです。

 慶太郎が年少組になった時、担任の先生たちは、とりあえず何でもみんなといっしょにやらそうと決めたそうです。散歩も遠足も運動会も、慶太郎ができる様に工夫してくれたり、がんばらせてくれたり、そうして慶太郎も友達が好きになり、先生が好きになり、保育園が楽しくなって来た様でした。クラスの友達も慶太郎が自分達より発達の遅れた障害児ではなく、クラスの一員で、自分達の友達だと言ってくれました。

 年中組になった時、大文字山に登る事になったのですが、慶太郎は少しきついかなという事で、園に残って近所の散歩になったのです。今まで何でもいっしょだったからか、他の子供達は「何でけいたろうは来へんの」と言い、「留守番なんや」と言うと、「けいたろうが待ってるから早よう帰ろ」と、みんなは走って走って、予定より1時間も早く園にもどって来たそうです。慶太郎も自分だけおいていかれたものだから、ついて行った担任の先生を無視し、ずーっとおこっていたそうです。

 こんな事があり、本当に何もかも同じにしないと、慶太郎もクラスのみんなも納得しないという事で、今年は比叡山登山に挑戦しました。日頃、裏山の散歩できたえた足と、クラスのみんながいっしょという事で、みごと頂上まで登る事ができました。それも、おくれる事なく2時間半という、すばらしい記録でです。運動会も感動しっ放しだったけれど、この事も、とても感動しました。

 4年前、保育園を探している時、なかなか受け入れてくれる園がなく、やっと見つけた保育園だったし、障害児の受け入れは初めてという事で、手さぐりのスタートだったけれど、どの先生も、けいたろうに愛情を注いでくれているし、すばらしい15人のお友達にも会えて、この園に入園できて、本当によかったと思っています。

 慶太郎は、今日も元気に大好きな保育園に通っています。

(1993年12月号 掲載)

運動会を終えて
会員T   
 事の始まりは夕方にかかってきた息子の保育園の先生からの電話でした。
我が家のMは8月に両足指の合指症の手術の為、京大病院に4週間程入院しました。手術後はずっとギプスをつけた状態で歩けませんでした。退院後、しばらく家で静養して、そろそろ登園させたいと思い園に週明けから登園する旨の連絡をしました。担任からの電話はどうもその件に関する返事のようでした。「実は来週から運動会の練習に入るのですが、今のM君の状態がよくわからないので、きちんとみてあげる事ができない」と先生は言われたのですが、私には「今来られても、忙しくて保育体制がとれない」と言われたような気がしました。その場は「運動会までほぼ1ケ月あるので、こちらもとても家でみる事はできないのですが」と言って電話をきりました。くやしくて転園できるならさせたい心境でしたが、Mは来年が就学なので、それも無理な話です。重い足取りで月曜日にMを保育園へ連れて行きました。

 登園した息子の以外と元気な様子に先生方は驚かれながらも受け入れに慎重なそぶりでした。私達夫婦としては、本人が手術後の事でもあり歩く力も弱っているので運動会に参加できなくても仕方がないと思い、その代わり練習風景だけでもMに見せてやって欲しいと先生にお願いしました。とりあえず、お友達の練習を見ているだけの何もする事のない日が何日か続きました。Mは行進をさせても満足にできないとの事で「運動会はどうされますか?」と先生に聞かれ、「それなら休ませます」と答えていました。でも私もこれでよいのかと思い、佐々木さんに相談すると“早く降園して家で歩く練習する方がよいのでは”とのアドバイスを頂きました。また仲のよいお母さん達に今のMの状態を聞いてもらったりしているうちに、お母さん達からも「最近、先生は子供を放ったらかしにしすぎる」との不満の声が出始めたのです。

 話が盛り上がって保護者の話合いを持って、園に改善の要求を出そうという事になりました。園長先生を交えての話合いが持たれた中で、私の子供の話も出ました。「障害があっても受け入れた以上はもっときちんとみてあげるべきだと思う。最後の運動会なのに何で出してあげへんのですか?」と何人かのお母さんが言って下さったそうです。残念ながら私は用事で中座して最後までその場に居なかったのですが、その事を後で聞いて胸が熱くなる思いで一杯でした。その話合いの後、職員会議が持たれたようで、翌日からは先生方の子供に対する接し方がガラッと変わりました。心なしか暗かったクラスのふんい気も明るくなりました。2・3日して、今度は先生の方から「M君のできる範囲で運動会に参加させてあげたいので、当日は休まずに来て下さい」と言われたのです。内心私は、「ヤッター!」と思いました。仲間のお母さん達も「よかったネ!」と言って下さり、それまでの心のモヤモヤが吹き飛びました。

 そうして迎えた10月9日の当日。昨日の雨がうそのようにカラッと晴れ渡り絶好の運動会びよりになりました。2才児で入園した年の運動会は、まだ歩けなくて乳児さんと一緒に乳母車に乗って入場したMが今年は術後のハンディを克服してゆっくりながらも歩いて行進しています。感動の涙でカメラのファインダーをのぞく私の目もくもりがちになりました。障害走ではハシゴをくぐったり鉄棒にぶら下がったり本当にのびのびと喜んで参加していました。リレーも半周だけですが、先生と一緒に走ってと友達にバトンを渡す事もできました。先生方ができないと最初から決めてかからずに、少し見方を変えて取り組んで下さったら、障害のある子も喜んでやれるんだなと今回の運動会で感じました。入園してから毎年悩みの種だった運動会。当日までいろいろ悩みましたが、他のお母さん達の思いもよらぬ助け船のおかげで運動会に出られるようになった事を思うと健常の子供のお母さんとのお付き合いもこれからも大事にしたいと思います。

 何はともあれ、今年の運動会は私達親子にとって、きっと心に残る思い出の運動会になると思います。

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