京都ダウン症児を育てる親の会(トライアングル)データベース


ダウン症を考える


(1990年4月号 掲載)

能力ってな〜に?

花園大学教員(発達心理学)
浜田 寿美男   

 大学で「発達心理学」などという看板を立てて仕事をしていると、いろんな話が舞い込んできます。智恵遅れの人たちが巻き込まれた刑事事件の裁判などというかなり特殊な相談は別としても、小さな子どもの育児やしつけから学校での学習の問題、あるいは障害をもった子どもたちの保育や就学、そして卒業後の就職問題、またいわゆる登校拒否や非行やいじめ、さらには種々の精神障害の問題・・・およそ子どもに関わるあらゆる問題が持ち込まれます。話を持ちかける方は、私たちのことを「発達心理学の専門家」と思って相談してくれているのでしょうが、正直なところ、この発達心理学の専門知識でもって答えられることはそれほど多くありません。いや、生身の子どもの具体的な生活に関わる問題に対して、いわゆる専門的知識だけで答えられるものなどないと言ったほうがよいくらいです。少なくとも私はそう思っています。実際、人間という生き物はじつに複雑にできていて、残念ながら、心理学が人間について知り得ていることは、まだまだほんのわずかでしかありません。それに、日々の生活で具体的にどう生き、どう暮らしたらいいのかという問題になると、かなりの部分、その人の価値観が絡んできますから、そう安易に「こうするのがいい、ああするのがいい」などと言えるものではないでしょう。

 ところが、どういうわけか、今日、世間では「こうしなさい、ああしなさい」、「これはいけない、あれはいけない」と断言する専門家の人気が高いようです。たとえば、「登校拒否は病気だから早期に治療しなければならない」と言う某国立大学のI先生とか、「発達の道筋」にそって子育ての条件を何箇条かに整理して、これを守らなければならないと唄い上げる、同じく某国立大学のK先生だとか、種々の疾病を母親の育て方のせいにして「母原病」などという言葉を作り出した医者のH先生とか、彼らのあの自信は一体どこから出てくるのでしょうか。私には不思議でならないのですが、世間はあいまいさを好まないもののようです。そのためでしょうか、〈専門家信仰〉はますます募り、自分自身の生き方、暮らし方についてまで専門家の意見に委ねようとする傾向が強まっていますし、専門家自身も、自らの専門性を高め、それを資格制度化していこうとする動きを強めています。しかし、これは、じつのところ非常に危険なことではないか。専門と言われる領域でそれなりに仕事をしてきたものとして、そう思わざるをえません。

 たとえば、障害の問題についてはもうずいぶん前から「早期発見−早期治療」というスローガンが唱えられて、これにそって健診体制−治療教育体制が強化されてきました。そのなかで発達心理学の知識が大いに利用され、これに自信を得た専門家たちはその専門性を誇示してきました。たしかに、この早期発見−早期治療ということそのものの意味を疑わずに、その流れのうえで考えれば、発達心理学にできることはいろいろあります。「障害」というのは、同年齢の子どもたちの標準に比べて何かが極端に「できない」ことでしょうから、その「できなさ」を測るものさしを精巧にすればするほど、障害の発見率は高くなりますし、また「できなさ」を越えさせる手がかりを見つけられれば、一歩でも半歩でも発達させる手立てが積み上げられていくことになるはずです。これはじつに結構なことであるように見えます。〈できる−できない〉という能力の発達に限定して考えれば、早期発見−早期治療こそは理想であり、たとえ発見が遅れたとしても最大限の治療教育を受けることが望ましいということになります。

 能力は伸びるに越したとこはない、障害は克服できるに越したことはない、多くの人たちがそう思うのはもっともです。能力が伸び、障害が少しでも越えられることで生きやすくなるのであれば、それは当然うれしいことです。その意味では、治療や訓練、あるいは教育そのものの大切さを認めなければなりません。しかし、そこで私が懸念するのは、能力発達や障害克服の試みが本当にその人の生きやすさや生活の豊かさにつながっているのかということなのです。

 ひとつには、ひたすら能力発達を目指し、障害克服を目指して努力するとき、その熱意は一見美しいようでいて、実のことろ非常に危ないものにもなります。というのも、そうして能力発達に励む気持ちの背後では、できないがままの子どもの姿、克服できないがままの障害を否定的に捉える気持ちが強く働くからです。どんなに頑張っても思うように能力を伸ばしたり、障害を克服したりできないことが多いものです。子どもの伸びを期待しながら、実のところ、子どものいまのあるがままを肯定し、引き受けることができなければ、お互いの日常の関わりさえ貧しいものになりかねません。なんのかの言っても実際のところ、その能力こそが問題の世の中なのだから、少しでも能力を高めることが大事なのだと言って突っ走るとき、結局、能力社会に巻き込まれ、そこに乗っかろうとすることで結果的には私たち自身、自分で自分の首を絞めていくことにならないか、とくと考えてみなければなりません。

 つい先日も、軽い自閉的障害を持つ小学生のお母さんから、子どもがどんどん学校の授業についていけなくなって、落ちこぼれてしまうのではないかという相談を受けました。話を聞いていて、もちろん、お母さんの不安はよく分かります。ただ、やはりそこで釈然としないのは、同じ学年の他の子どもを基準にして自分の子どもを測り、なんとかその基準に乗せようとしている点です。たしかに、他の子どもに合わしていけるならば、お母さんとしても安心でしょうが、そうそううまくはいかないものです。そんなとき他の子供の基準にできるかぎりあわせたい、ついてはいけなくても、次善として、せめてその基準にどれだけ近づいたかを問題にしたくなるというのが、親心というものかもしれません。しかし、他の子どもたちの基準をもとに優秀から劣等まで並べたのもさしを描いて、そこに自分の子どもをあてはめて見ようというのも惨めなことではないでしょうか。

 それにまた、そもそもそこでいう〈できる−できない〉とか、能力のあるなしというのは何でしょうか。能力の発達を問題にする発達心理学は、その能力メカニズムを解明し、発達の過程を明らかにしようとしますが、そこでいう〈能力〉とは一体、人間にとって何なのでしょうか。そんなことは問うまでもない問題だ、この世の中を当り前に生きていくためにどうしてもなくてはならないものなのだから、四の五の言うことではない、そう言われてしまいそうですが、私はこれこそ、いま十分に問われなければならない問題だと思っているのです。

 簡単にいえば、能力とは使われるものです。それは言うまでもないことです。しかし今日、私たちの世界では能力がほんとうの意味で使われているでしょうか。たとえば、子どもたちが学校で学ぶ読み書きの力は、子どもたち自身の生活の中で生かされているでしょうか。あるいは、理科や社会で学んだ知識は、子どもちたが自分の周囲の自然や社会を見ていく力になっているでしょうか。あるいは家庭科や生活科で習ったことが、家庭での生活の実際に生かされているでしょうか。残念ながら、そうは思えません。子どもちたの能力は、ただ学校のテストで、あるいは学校から学校へ上がるための受験のさいに使われるものなのです。ただその能力・知識を持っているかを試されるだけのテストという場こそが、能力を使う〈本番〉であって、生活の中で使うか使わないかは二の次です。少なくとも子どもの意識の中では(いや親たちの意識の中においても)、〈能力〉はそういうものになってしまっています。〈能力〉とは他者と競いあって、学校という制度、社会という制度の梯子を渡るための手段でしかないのです。

 しかし、あらためて能力とは使われるものだということ確認しておかなければなりません。そこで〈使う〉というのは、単に〈持つ〉ということではありませんし、また〈持っているかどうかを試される場面で使う〉ということでもありません。文字通り、自分が生きているこの生活の場で使うということです。能力は本来、人と競い合わせるようなものではありませんし、人の基準に合わせてついていけるかどうかが問題になるようなものでもないのです。それは〈使う〉ものなのです。つまり能力を使う〈本番〉は、生活の場以外の何ものでもありません。

 しかし、いったいどこで話が逆さまになってしまったのでしょう。それに、どうして多くの人たちがこの逆立ちに気づかないのでしょう。

 学校関係者や教育委員会の人たちが障害児の親に「養護学校や特殊学級に行けば、専門の先生方が木目細かに、お子さんに合った形で教えてくれますから、能力が伸びますよ」と勧めたりするとき、そこでいう〈能力〉も、どうも同じ意味で逆立ちしていることが多いように、私には思えます。事実のほどをともかく、養護学校や特殊学級での方が、発達テストや知能テストで測る〈能力〉は伸びるかもしれません。少なくともその可能性はあります。しかし、たとえ〈能力〉が伸びたとしても、他の子どもたちとは異なる教育の場に閉じ込めることで、その〈能力を使う生活の場〉を奪っているとしたらどうでしょう。使う場を奪っておいて、いくら能力を伸ばしたとて何になるでしょう。実際、いまでもなお、養護学校や特殊学級を卒業したあとは、ほとんど障害者だけの集まる職場や施設しか行き先がないのが現実です。就学段階で行く学校を区別することで、〈健常児〉は輪切りの能力社会に送り出され、〈障害児〉は障害児→障害者という人生ルートの上に乗せられてしまうとすれば、そこでは能力は生活を豊かにするための糧としてではなく、人と人とを選別する手段になってしまっていると言わざるを得ません。

 繰り返して言いますが、能力は生活の中で使って生きるためのものです。ですから能力を高めることが問題になると同時に、その使い方、それを使う場、使って作り上げる生活が問題になりますし、さらに言えば高められない能力、越えられない障害をありのままに引き受けて、どう生きていくのかが問題にならなければならないはずです。一言でいえばまさに〈生き方〉が問題になるのです。そこでは、〈能力〉は問題のごく一面にすぎません。能力の有無や多寡を測って、人の生き方まで左右するようなことは、まさに本末転倒といわねばなりません。いや実際、私たちの生きているこの世の中、まるでこの本末転倒を地で行っているようなものです。だからこそよけい、ここでひとつ踏ん張って、自分たちの〈生き方〉そのものを振り返ってみなければ、とも思うのです。

 昔から親は子どもの育ちや暮らしぶりに無関心ではいられませんでした。それは当然のことです。しかし、その関心の持ち方が、学校制度や施設制度の中に囚われた我が子の能力発達にしか向いていないとすれば、そしてその親の期待に答えるべく発達の専門家たちが、能力発達の梯子を詳細に描いて、親の期待と不安をあおるしかないとすれば、親の熱意も、専門家の善意も、結局、子どもの首を絞めて、生き苦しくさせるだけでしょう。

 私たちの子どもたちへの思いは、発達心理学者が個々バラバラに取り上げて云々しているような能力発達に向けられるべきものではなく、文字通り、子どもたちの暮らしぶりに向けられねばならないはずです。またそのことによって、私たち自身の暮らしぶりも振り返ることになると思うのです。

 障害を持った人たちがその障害のままに生きる、そうした私たちの暮らしをイメージできなければ、能力発達の試みも、障害克服の努力も、かえってあだになりかねません。ですから、発達の専門家たちが狭い能力発達の土俵を越えて、人々の暮らし全体にまで目をやれるようになるまでは、せいぜい眉に唾して彼らの言葉を聞くのが賢明でしょう。また私自身、そうした暮らしに向ける目を自分のなかに育てなければと、このごろとみに感じています。


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