4月号 
「平安朝文学の中の天文」

1.はじめに
 本誌1月号に「人と地域と天文と」というタイトルで「京都天文めぐり」の紹介をしました。京都と天文のつながりを多角的に捉えていこうという試みですが、今回1年にわたって連載することになりました。執筆は私たち「京都天文めぐり」グループが交代で行います。みなさんと一緒に楽しみながら天文をめぐっていきたいと思います。 

2.星は忌むもの?楽しむもの? 
 さて第1回は平安の昔の貴族たちが星をどのようにとらえていたかということを古典文学に求めてみたいと思います。
 奈良に都があった時代から、星というものは死んだ人の魂が天に昇ったものだという捉え方が強く、好んで眺めるものではないと考えられていました。これは都が京都に移ってからも同じことでした。このような見方が変化しだしたのは、『枕草子』が成立(およそ西暦1000年)する50年ほど前あたりだと言わ
れています。清少納言が書いた『枕草子』には次のような一節があります。

   星は すばる。彦星。夕づつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。

 すばるや彦星という名は今でも残っていますね。夕づつは宵の明星、つまり金星のこと、よばひ星は流星のことです。さらに続けて彼女は流星の尾がなければもっと素敵なのにと言っています。今とはちょっと違った感覚ですね。
 他に『倭名類聚抄』(西暦900年代前半)にもこれらと同じ星の名があり、このころに星も見るに値するものという感覚が定着しつつあったようです。

3.美しくも哀しい星空
 星空の美しさや幻想的な雰囲気を書き残したのは建礼門院右京大夫という人でした。彼女は、平清盛の娘で高倉天皇の中宮徳子(後の建礼門院)に仕えた人で、平家の御曹司、平と恋に落ちた人です。しかし、母の病がきっかけで、宮中を離れ、京都・西山に暮らしていた彼女は、やがて恋焦がれた資盛の死と接することになります。壇ノ浦での平家一門の最期です。このあまりにも衝撃的な報せは、彼女のその後の人生を一変させました。右京大夫二十代半ばのことです。
 ある日彼女は悲しみに耐えかね、兄を訪ねて比叡山の麓、坂本に滞在します。
そしてそのときに偶然目にした風景を次のように書き残しています。

  「12月1日頃、夜になって雨とも雪ともつかないものが降っていました。むらがった雲の行き来が激しく、一面曇ってしまうわけでもなくて、雲間から星が見え隠れしていました。頭から布団をかぶって寝ていたのですが、夜更けの午前2時過ぎ頃に目がさめて、布団を引きのけて空を見上げてみました。すると、なんともきれいに晴れていたのです。浅葱色の空には特に光の強い大きな星が出ていて、ひとかたならぬ興味をおぼえました。まるで薄藍色の紙に金箔を散らしたようでした。今までに何度も見ている夜空なのに今夜はじめてみるような気がしました。星明りで月夜のように明るい夜は見なれているのですが、今は特にこんな状況のためか、特別のように思え、ただ物思いに更けるばかりです。」

さらにこれに続いてつぎにような歌を詠んでいます。
 
 月をこそ  ながめ馴れしか  星の夜の  ふかきあはれを  今宵しりぬる

 失意のうちに訪れた坂本の地で、思いもかけない状況を目の当たりにした右京大夫。晴れわたった星空によって彼女の哀しさがいっそう強調されていて、読んでいる私たちも物悲しくなってきます。

4.星を詠む
 この『建礼門院右京大夫集』はもともと藤原定家が選者となった『新勅撰和歌集』選定のために彼のたっての願いで1200年代前半に右京大夫が差し出した和歌集です。この和歌集において、ようやく星は鑑賞の対象として取り扱われました。しかし、右京大夫が詠んだ星の歌は勅撰和歌集の選定からは外されてしまいます。かの定家も星を詠むということにはまだまだ抵抗があったのかもしれません。
 それから約80年、京極派と呼ばれた歌人たちにいたってようやく星が詠まれ、勅撰和歌集にも盛り込まれるようになっていきます。とはいっても星の歌はその他のものに比べて圧倒的に少なく、古典文学の対象としては最期まで馴染みきらなかったようです。     

(ありもと・じゅんいち:京都市立塔南高)



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