都天文名所図会

〜京都天文史跡めぐり〜

江戸時代に「都名所図会」という本が出版されました。この本はいわば今でいうところの京都の観光案内で、たいそう良く売れたそうです。今回は京都にある天文関係の史跡を紹介するという企画なので、この本になぞらせて紹介していきたいと思います。
もちろんこれですべてが紹介できているわけでもありませんが、代表的なもの、写真が入手できたものを中心に紹介します。

平安城(洛中)

・織姫神社(北区紫野)

今宮神社の境内にあります。今宮神社はいわゆる西陣と呼ばれる地域にあり、この織姫神社は織物の神様として西陣の人たちから深く信仰されています。毎年11月11日の「西陣の日」には織物にたずさわる人たちがそろって参拝されているそうです。

・晴明神社(上京区堀川今出川下ル)

晴明神社はもともと安倍晴明の屋敷のあったところで、安倍晴明を祭神としています。安倍晴明というと占いや妖術などオカルト的なことを連想される方が多いのではないかと思いますが、彼は陰陽師という職業で、最終的には天文博士にまで上り詰めます。天文博士というのは今のような学位ではなく、役職名です。この天文博士は陰陽寮という役所に設置されたポストであり、ここでは天体観測、報時、造暦、占いを行っていました。占いというものを除くとちょうど今の国立天文台に相当すると考えてよいでしょう。彼はその陰陽寮の天文セクションの最高責任者ですから、平安時代の天文学者と呼べるわけなんです。(もちろん現在のような西洋発の「天文」と東洋発の「天文」は違いがありますし、実際彼がどれほど本務を遂行していたかはわかりませんが・・・。)

堀川今出川の交差点を少し下がったところにあります。それほど大きくない神社で、最近は小説、マンガの影響で若い女性がたくさん参拝に訪れています。
よく勘違いされるそうですが、ここの宮司さんは安倍晴明の子孫などではなく、何の関わりもないそうです。ただ、晴明公の神示による人生相談は宮司さんがしておられて、1回3000円から5000円で運勢についていろいろ話してくださるそうです。

 

こちらが本殿です。提灯に入っている五芒星(晴明桔梗)が印象的です。堀川通りをはさんで神社の向かい側には一条戻橋もあり、晴明伝説に浸ってみるのも良いかもしれません。

晴明神社のお祭り(神幸祭)は9月にあります。そのときにはこのような鉾やお稚児さんの行列などが繰り出します。

・円光寺(下京区梅小路)

安倍晴明の子孫は代々陰陽師として朝廷に仕え、天体観測や造暦を行ってきました。しかし、京都は応仁の乱の戦火に焼かれ、安倍一族は福井県名田庄村に疎開します。3代にわたって、かの地に暮らし、いつの日にか京都に戻ることを夢見ていたようです。やがて、権力を握りつつあった織田信長に接近し、破格の待遇で京都に戻ることを約束されますが、その密約の翌夜、本能寺で信長は討たれてしまいます。
その後、安倍氏(この時代には土御門と呼ばれ始めます。)の陰陽師としての政治への影響力に目をつけたのが、徳川家康です。結果的に安倍氏は家康のお陰で京都に返り咲くことを果たします。
その屋敷跡にあるのが円光寺です。円光寺には現在、江戸期に実際に使われた観測器具である渾天儀の台座が庭石として残っています

ここでは私たちが月1回くらいのペースで行っている「京都天文めぐり」という勉強会が主催し、地元京都の高校生といっしょに行った「渾天儀復元プロジェクト」のときの写真を掲載しておきます。

これが渾天儀の台座で、その大きさを測定している様子です。

そして、文献を考慮し、渾天儀を復元しました。この写真は復元を記念し、実際に礎石上に据え付けたときのものです。簡単な復元物ですが、少なくとも100年ぶりに礎石上に渾天儀が据えられたことになります。
ちなみに渾天儀を使っているのは私で、衣裳は上賀茂神社よりお借りしたものである。

・梅林寺(下京区梅小路)

円光寺の筋向いにあるお寺で、安倍(土御門)家の菩提寺です。境内には卦表などが残っています。

大将軍八神社(上京区)

「天神さん」として親しまれる北野天満宮のすぐ近くにこの神社はあります。もともとは平安京造営時に都の四隅を守護するために作られたもののひとつで、ここ大将軍八神社は天門の方向(北西)を守護する目的で勧進されたそうです。都の守護というとすぐに鬼門(北東)を思い浮かべる方が多いと思いますが、古代においては鬼門と同じくらい天門も重要視されました。とくに平安時代においては怨霊は天門の方向からやってくると考えられ、菅公も鬼もこの方向から都を脅かしました。

 

この大将軍思想はもともと陰陽道に由来するもので、この神社も昔は大将軍堂という名の陰陽道の社だったそうです。さらにこの大将軍八神社には79体もの武人、神官、胡人、童子などの彫像があり、それが星曼荼羅を具現化したものと言われています。星曼荼羅とは密教の宇宙観を描いた日本独特のもので、北斗七星、黄道十二宮、二十八宿、惑星、彗星などが描かれています。驚くことに北斗七星の第六星である武曲星は二重星として描かれていて、これはミザールとアルコルのことだといわれています。
つまり、密教の宇宙観を絵ではなく、立体的に目の当たりにすることができるというわけですね。ただし、これらの貴重な彫像は常時一般公開はされておらず、年2回だけなので注意が必要です。
ちなみにこの神社の収蔵庫には1684年に国産第1号の暦である貞享暦を作った渋川春海製作の天球儀もあり、天文とのつながりを強く意識してしまいます。

・三条改暦所跡(中京区)

江戸時代では安倍(土御門)家の造暦能力は著しく低下していました。それに対抗する形で幕府は渋川春海を祖とする天文方という造暦チームを結成します。この天文方の京都における主張所のようなものが、三条改暦所です。残念ながら現在は何も残っておらず、場所も定かではありません。中京区の住宅街にある本当に小さな祠である月光稲荷あたりではなかったかという説が有力です。

 

細見美術館(左京区岡崎)

細見コレクションという個人の収蔵物をもとに始まった美術館です。平成10年オープンなのでまだまだ新しいです。ここに星曼荼羅(北斗曼荼羅)があります。寺院にあるものは信仰の対象となっているために普通は見ることはできません。特に京都の場合は大寺院が所蔵していますのでよほどのことがない限り目にすることはできませんが、ここは美術館ですから直接見ることができます。
しかし、ここでも常設展示しているわけではないので、企画展などのときを待たないといけないですが。

・龍谷大学図書館(下京区)

江戸時代も後半になると西洋天文学が日本にも入ってきて、幕府天文方を中心に、伊能忠敬、司馬江漢などもそれを支持しました。しかし、それに反対する動きもありました。その急先鋒が天台宗の円通でした。彼は仏教の宇宙観である須弥山を研究し、仏教天文学を広めようとしました。
仏教天文学を広めるにあたって、具体的なものが必要でした。つまり、模型です。そこで彼は須弥山儀という須弥山の模型を作りました。この現物が龍谷大学に残っています。常時一般公開はされていませんが、ときどき企画展としてみることができます。
ちなみにこの須弥山儀は田中久重の手によるものです。田中久重はからくり儀右衛門という異名もある大変優れた人物で、土御門家に通って天文学や数学を学んでいたようです。さらに彼の養子が後に作った田中製作所はやがて芝浦製作所ー東芝へと発展していきました。

左青龍(洛東)

・京都大学花山天文台(山科区花山)

「月はおぼろに東山・・・」と唄にも歌われている東山の一角、花山(かざん)の山頂に京都大学花山天文台があります。もともとはこの天文台は左京区吉田の宇宙物理学教室の建物の屋上にあったそうですが、京都の光害がひどくなってきて、1929年にこの地に移転したそうです。

主な観測装置としては45cm屈折望遠鏡(写真)や宇宙物理学教室開祖の新城新蔵ゆかりのザートリュウス18cm屈折望遠鏡、70cmシーロスタットなどがあります。普段は公開されていませんが、年に1度秋に特別公開があります。

しかし、京都の光害はとどまるところをしらず、ここでも空が明るくなったため、先端的な観測は1968年岐阜県飛騨に作られた飛騨天文台に移転してしまいました。現在では飛騨を補完するような観測や教育用に使われているそうです。

・妙見寺(山科区大塚)

妙見というと大阪・能勢の妙見さんが有名ですが、京都にもあります。妙見というのは北を司る菩薩で、北極星をあらわすとか北斗七星をあらわすなどといわれています。由来は古く1000年以上前の中国までさかのぼれるそうです。1000年以上前ということは歳差運動を考えるとこぐま座α星は北極星とは呼べません。ですから個人的には北斗七星かなと思っているのですが、どうも1000年以上前の中国でも、妙見が北極星か北斗七星かは判別がついていなかったようです。
妙見寺はもともと平安京を造るときに、四方を守護する目的で東西南北に建立されたもので、ここ大塚のものは東にあたるものだとされています。

・霊鑑寺(左京区鹿ケ谷)

妙見さんは江戸時代になると非常にポピュラーなものとなりました。そして、平安時代以後に増えたものを含め、御所の紫宸殿からみて12の方角にある妙見寺、妙見堂を訪ね歩くという「洛陽十二支妙見めぐり」なるものが流行しました。当時の都の人たちにしてみると格好の日帰りレジャーだったようです。
明治になり、廃仏毀釈のなかでいくつかは失われていきましたが、昭和61年にこの「妙見めぐり」が復活しました。
この鹿ケ谷霊鑑寺は卯の方角にあたります。

右白虎(洛西)

・安倍晴明墓所(右京区嵐山)

安倍晴明は85歳で他界します。亡くなる直前まで若々しいままだったという伝説が残っています。その後、彼はどこに葬られたかということは定かではありませんが、現在、もっともそれらしいものが嵐山にあります。
嵐山といっても観光客でにぎわう表通りから離れ、住宅地の真ん中にあります。案内の看板などもなく、人目をはばかるようにひっそりとしたたたずまいを見せています。

安倍晴明ブームは晴明神社にとどまらず、このひっそりとした墓所にも押し寄せています。なかなかわかりづらいところにあるにも関わらず、やはり若い女性を中心に多くの人が訪れ、静かに手を合わせているようです。

これがお墓です。ちゃんと五芒星も刻まれています。

全国各地に晴明の墓はたくさんあるようですが、多くは後の陰陽師たちが自らを権威付けるために作ったものだそうです。果たしてこれが本物かというと実はそれも怪しいようですが、一応晴明神社が管理をしています。

・三宝寺(右京区鳴滝)

現代版「洛陽十二支妙見めぐり」の戌の方角にあたるお寺です。

 

・大覚寺(右京区嵯峨)

かつて嵯峨天皇が作った嵯峨御所の跡である真言宗の大本山です。密教では節分のときにその年の運命を司る星を供養するという儀式があります。祈願をささげることにより人生に幸福と平和がもたらされるそうで、この儀式を星供といいます。一般の人でも祈念料1000円からで祈願してもらえるそうです。

・仁和寺(右京区御室)

桜の名所御室にある仁和寺には星曼荼羅(北斗曼荼羅)が残っています。ただし、曼荼羅は信仰の対象ですから、公開は一切されていません。

・厭離庵(右京区嵯峨)

新古今和歌集、百人一首の撰者であり、冷泉家の祖として知られる藤原定家の屋敷の跡です。この地で百人一首は作られたそうです。現在は尼寺になっており、拝観は一切できません。

 

定家はその日記「明月記」に現在かに星雲として知られる1054年の超新星の爆発の様子を記録しています。他に彗星やオーロラなど多くの天文・気象現象を記録しています。
しかし、藤原定家の生まれは1162年です。「明月記」が書かれ始めたのは1180年といわれています。ですから、1054年の超新星爆発はどうがんばっても彼は見ることができないはずなのです。
ではなぜそんな記述があるのでしょうか?それは彼が陰陽寮に出入りしていたからなのです。彼は陰陽寮の書庫に出入りし、昔の観測記録を丹念に見ていたようです。そして、その中でとくに印象に残ったものをメモ書きして持ち帰り、日記に記していたようです。先年行われた「冷泉家の至宝」展で現物の「明月記」を見ましたが、毎日の天気や出来事などが細かく書かれていました。かなり几帳面な性格だったことがうかがえます。

 

前朱雀(洛南)

・観月橋(伏見区)

ここから見る月は非常に美しいということでこのような名前になった観月橋のすぐ北側に橘南谿という人の別宅「黄華堂」がありました。今は何も残っておらず、およそ御香宮の筋向いくらいだったろうと言われるのみですが、ここで日本最初の天体観望会が開かれました。寛政五年(1793年)のことだったそうです。泉州貝塚の岩橋善兵衛が望遠鏡をつくり、この黄華堂に持ってきて、橘南谿の友人たち10名で屋根に上がったりして観望を楽しんだそうです。このときは興奮のあまり、かなりはしゃいだそうで近所からクレームがついて、屋根から降りたという記述も残っています。なんだか今とさほど変わらない状況が面白いですね。

・東寺(教王護国寺)(南区)

五重塔や「弘法さん」で有名な東寺には星曼荼羅(北斗曼荼羅)が残っています。ただし、曼荼羅は信仰の対象ですから、公開は一切されていません。

 

・醍醐寺(山科区醍醐)

秀吉の醍醐の花見で有名な醍醐寺には星曼荼羅(北斗曼荼羅)が残っています。ただし、曼荼羅は信仰の対象ですから、公開は一切されていません。

後玄武(洛北)

・妙見神社(左京区岩倉)

ここは現代版「洛陽十二支妙見めぐり」には含まれていませんが、ここには面白いものがあるそうです。神社を管理されている方によると祠には石が祭られているそうで、この石はずっしりと重いそうです。ひょっとすると隕石ではないかという見方もあるそうです。しかし、御神体のような扱いになっているそうで、いかなるときにも未開帳だそうです。

・道入寺(左京区修学院)

現代版「洛陽十二支妙見めぐり」の寅の方角にあたるお寺です。

・円成寺(北区鷹ヶ峰)

現代版「洛陽十二支妙見めぐり」の亥の方角にあたるお寺です。

 

・三千院(左京区大原)

洛北を代表する三千院には星曼荼羅(北斗曼荼羅)が残っています。ただし、曼荼羅は信仰の対象ですから、公開は一切されていません。


天文というものをどうとらえるかによって天文史跡というものはまったく変わってきます。現在私たちが天文学と呼んでいる西洋に端を発する学問は明治以後に入ってきたものですから、そこまで狭くとらえると史跡と呼べるものはほとんどなくなってしまいます。反対に陰陽道、密教、仏教など宗教的なものを含めるとその量はかなりのものになります。
天文はひとつの文化です。文化というからには周辺領域や他の分野と密接なかかわりがあります。そこまで広くとらえて、文化としての天文という視点で教育にあたっていけば、天文史跡は格好の地域教材、総合的な学習の素材になります。
今回私は京都ということで紹介しましたが、宗教を含めて考えると日本全国いろいろなところにいろいろなものが眠っていると思います。教材開発という意味だけでなく、今まさに失われようとしているそれらの歴史を掘り起こしてみるのも面白いのではないでしょうか。

この原稿を書くにあたって、「京都天文めぐり」研究会のHPや研究報告を参考にしました。また、掲載の写真について晴明神社は西村昌能さん、妙見は長谷川倫人さんに提供いただきました。この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。