5、地質分野


・小藤文次郎、(1856−1935)、地質学者。
石見国(島根県)津和野藩士の子に生まれる。1870年(明治3)東京開成学校に入学、79年東京大学地質学科の第一期卒業生となる。翌年から84年までドイツに留学した。帰国して東大と地質調査所に勤務し、三波川変成帯の紅簾片岩の研究を発表。86年帝国大学理科大学教授に進み、1921年(大正10)の退官後も日本地質学界の指導的立場にあった。1891年(明治24)の濃尾地震で生じた根尾谷断層の研究や、門下を動員しての火山研究など先駆的な研究が多い。創業期地質調査所の指導者、ナウマンに協調しなかったが、日本列島構造論ではナウマン説に近かった。また地学会、東京地質学会(現日本地質学会)を創立し、地理学、地震学など関連学界にも寄与した。 (C)小学館

・ナウマン、Edmund Naumann、(1850−1927)ドイツ、地質学者。ザクセンのマイセンで生まれる。ミュンヘン大学で学位を取得した。日本政府から東京開成学校(東京大学の前身)の鉱山学科に招かれたが、1875年(明治8)来日のとき鉱山学科は廃止されていて、金石取調所で和田維四郎(つなしろう)と鉱物の調査にあたった。77年に東京大学が創設され、地質学担当の教授となった。和田とともに建言していた地質調査所が79年に設立されるとここに移り、85年の辞職まで地質調査の指導にあたった。日本への地質学の導入、地質調査事業の開始に果たした功績は大きい。日本の地質を初めてまとめ世に紹介した『日本列島の構成と生成』(1885)の著書がある。とくにそのなかで、フォッサ・マグナによる東北、西南日本の区分、本州を通じて走る「中央割れ目帯」(西南日本のものはのちに中央構造線とよばれた)による内、外帯の区分などの地体構造区分の研究は、大きな影響を日本に残した。 (C)小学館