★★長時間離脱★★

どんなに「楽しい体外離脱」であっても、それを長時間続けるのは難しいことである。

体外離脱を続けていると、いろんなモノを見たり触わったりするうちに、どんどん意識がハッキリして「脳」が覚醒してくる。そうなると、離脱中にも現実のカラダの感覚をチラホラ感じるようになり、ついにはすべての感覚が「幻体」から現実のカラダに戻ってしまう。

前章で、幻覚に意識を集中しすぎると、すぐに現実のカラダに戻されてしまうと書いたのも、意識を集中することで、半覚醒状態の「脳」を完全に覚醒させてしまうからだ。

では現実のカラダに戻されないためにはどうしたらいいのかというと、体外離脱中は、できるだけ意識をハッキリさせないことである。

離脱中は普通に移動しているだけでも、「脳」は様々な視覚や触覚などの「幻覚」を作り出すため活発に活動しているので、そのまま移動していると、いずれは「脳」が完全に覚醒し、現実のカラダに戻されてしまうことになる。

そこで、時々は「幻体」を立ち止まらせ、視覚や触覚を働かせないようにしながら、何も考えずに、そのまま眠りに就くぐらいの気持ちでリラックスするのである。そうすれば「脳」の覚醒度が下がるので、体外離脱はさらに続けられるようになる。これを何度も繰り返せば長時間の離脱が可能だ。

また、たとえ現実のカラダに戻されたとしても、それで体外離脱が終了したわけではない。現実のカラダと意識をうまくコントロールすれば、すぐにまた体外離脱することができるのだ。

現実のカラダに戻っても、現実のカラダを動かさないようにしながら、何も考えずに、そのまま眠りに就くぐらいの気持ちでリラックスする。そうすれば、現実のカラダが再度「金縛り」になるので、体外離脱も可能になる。

ただしこの時、絶対にビタ1ミリたりとも現実のカラダを動かしてはいけない。現実のカラダに戻ってきた直後は、再び「金縛り」になりやすい状態になっているのだが、ほんの少しでもカラダを動かしてしまうと、その状態がリセットされてしまい、完全に目が覚めた状態と同じになる。そうなると、再び「金縛り」になるためには、イチから眠り直さなければならなくなるのだ。

しかしながら、どんなに長時間離脱(現実のカラダに戻された直後の再離脱を含む)のための工夫をしても、やはり離脱していられる時間には限界がある。

普通、体重のかかっている箇所の血行不良を防ぐため、健康な人なら睡眠中に何度か「寝返り」をうつが、体外離脱中は、現実のカラダは金縛り中にあるため寝返りをうつことができない。

寝返りがうてず、体重がかかって圧迫されている部分の「痛み」は、体外離脱中でも「幻体」の感覚とは別に感じられるようになり、長時間の体外離脱を続ければ続けるほど、その「痛み」は大きくなっていく。

こうなると、もっと体外離脱を続けたいと思っても、徐々に現実のカラダの苦痛が「幻体」の感覚を上回り、ついには苦痛とともに、すべての感覚が現実のカラダに戻ってしまう。

苦痛を取り除くためには、現実のカラダを寝返りさせる以外に方法はなく、そうなると完全に目は覚め、再び「金縛り」になるためにはイチから眠り直すしかない。つまり、体外離脱をしていられる時間は、どんなに長くても最後に寝返りをうってから次の寝返りをうつまでの間ということになる。

 
★★リアリティー★★

これまで体外離脱中の「幻覚」が、いかにリアルなモノであるかを何度も説明してきた。しかし、離脱中の「幻覚」はすべてがリアルなわけではなく、じつはそのリアリティーも様々だ。

たとえば、最もリアルな「幻覚」は何かといえば、体外離脱を伴わない金縛り中の「幻視」だ。そのリアルさは、「幻覚」なのか「現実」なのか判別がつかないほどである。カラダが動かないため、寝ている場所から見える部分だけの「幻視」を「脳」の記憶情報から再現すればいいので、おそらく「脳」にとっても作りやすい幻覚なのだと考えられる。

体外離脱をすると、「幻体(げんたい)」の章にも書いたように、「幻視」には現実との相違点がいくつも現れるようになるので、「幻視」のリアリティーという点では離脱を伴わない金縛り中に及ばなくなる。特に普段あまり行かない場所や自宅から遠く離れた場所に行くほど相違点は増えてゆく。

「幻視」の基本は「脳」の記憶情報からの再現なので、毎日毎日見ている自室や自宅をリアルに再現することはできる。しかし、あまり行かない場所や自宅から遠く離れた場所の記憶は正確ではないので、当然のことながら「幻視」も現実との相違点の多い不正確なモノになる。

そして全く知らない場所に来た時、たいていはどこかで見たような情景が眼前に展開される。全く知らない場所だけに、その場所の記憶情報はないので、その場所に最も適すると思われる視覚情報が記憶から引き出され、代用されているのだと考えられる。

この状態になると、いま見ていた情景が、次の瞬間、別のものに変わってしまうというように、「幻視」は全く安定しなくなる。その感覚は「幻視」を見ているというより、むしろ「夢」の中にいるような感じで、明らかにそれが「幻覚」であると自覚できる。

また、前章に書いたように、長時間離脱をするために「脳」の覚醒度を下げた時も、全く知らない場所に来たとき同様に、「幻視」が不安定になり「夢」の中にいるような感じになる。そもそも全く知らない場所に行くこと自体、そうとうな長距離&長時間移動なので、そのためには「脳」の覚醒度を下げなければならず、結果的には同じことなのだとも言える。

このように「幻視」は、体外離脱中に移動した場所や距離、移動時間や覚醒度の違いなどによって、そのリアリティーも様々に変化する。

ただし体外離脱は、「幻視」だけでなく「幻触」を含む「五感」の「幻覚」なので、たとえ「夢」の中にいるような感じで、明らかに幻覚だと自覚できる「幻視」であっても、一概に体外離脱という体験のリアリティーまでもがなくなるわけではない。「幻触」や「幻聴」にモノ凄いリアリティーがあることもあるからだ。

それに、この「夢」の中にいるような感じこそが、じつは「体外離脱」という現象の最も重要なポイントでもあるのだ。

 
★★明晰夢★★

体外離脱中、覚醒度を下げると「幻視」は不安定になり、「夢」の中にいるような感じになる。それでも、自分が見たいモノを見て、触わりたいモノが触われるというように、「五感」を感じられるところと、自分の意志で自由に行動できるところは「夢」とはまったく違う。

ところが、睡眠中になにげなくみる「夢」でも、これとまったく同じ状態になることがある。「夢」をみている時、「これは夢だ」と自覚すると、「夢」の中でも「五感」を感じられるようになり、「夢」の中を自分の意志で自由に行動できるようになるのだ。

これは一般的に「明晰夢(Lucid Dream)」と呼ばれる現象なのだが、つまりこのことは、「これは夢だ」と自覚することで覚醒度の上がった「夢」すなわち「明晰夢」と、覚醒度が下がって夢の中にいるような感じの「体外離脱」とが、まったく同じ現象だということを表わしている。

事実、私は長時間の体外離脱中、覚醒度を下げすぎて、いつのまにか意識がハッキリしなくなり、意識が「夢」の中に埋もれて、そのまま眠りに就いてしまうことがよくあるし、またその反対に、「夢」をみている時に「これは夢だ」と自覚した「明晰夢」でも、覚醒度を上げることで、いつのまにかリアルな「幻視」で再現された寝室に「体外離脱」していることもある。

つまり、「夢」も「明晰夢」も「体外離脱」も、それぞれが別々の現象ではなく、覚醒度の違いによって生じる「幻覚」のリアリティーの違いを、それぞれ別の言葉で言い換えたにすぎないのだ。

ところで、私の何百回という体外離脱体験も、じつはその90%ぐらいが「夢」を見ている時に「これは夢だ」と自覚した「明晰夢」体験のことなのだが、その場合、金縛りを経た通常の体外離脱にはない大きな楽しみがある。

「夢」の中では、時として子供の姿になっていたり、見知らぬ他人になっていたりというように、自分以外の誰かを演じていることがあるが、その「夢」の世界のキャラクター設定のまま、「五感」を感じ、自由自在に行動することができるのだ。

たとえば、私は「夢」の中でたまたま女性になっていた時、「これは夢だ」と自覚したため、女性の姿のまま「五感」と自由を手に入れたことがある。場所はワンルームマンションの一室のようであったが、鏡に映った私の姿は黒く長い髪をした美しい少女で、醜い現実の私のカラダになんて戻りたくないと思ったぐらいである。

もちろん少女のカラダがどうなっているのかは興味のあるところなので、股間に手を触れてもみたが、いつもそこに存在するはずのモノはなく、代わりに小陰唇や陰核まで再現された女性のモノがあった。ただ残念なことに陰核に触れても膣の奥まで指を入れてみても、女性特有の快感、あるいは痛みなどはまったく感じられなかった。

しょせん「幻覚」は自分の記憶の再現なので、女性になったことのない私が女性独自の触覚を再現するのはやはり無理だったのだ。

ところで、通常の体外離脱でも、「どこそこに行きたい」「誰それに会いたい」「美女よ現れよ」というようなイメージに反応して、その通りの「幻覚」が現れることがあるが、さすがに性転換までは無理である。

幻覚のリアリティーという点なら、金縛りを経て覚醒度をできるだけ下げないようにした体外離脱の方が上だが、幻覚のおもしろさという点では「夢」を自覚した体外離脱(明晰夢)の方が圧倒的に上だ。

「夢」というのは、「これが自分のイマジネーションの産物だとは到底思えない」というような突拍子もないモノも多く、突拍子もない「夢」であればあるほど「夢」を自覚した時の楽しみも大きくなる。

 
★★エピローグ★★

結局、「体外離脱現象は夢と同質の幻覚現象である」というのが私の結論であるが、私が本で読んだり、人に聞いたりした体外離脱体験の中には、体外離脱中に第三者と接触して、見たり聞いたりした内容が事実とピッタリ一致していたという話も少なくはない。

そういう話がある以上、第三者との接触で事実が一致したことのない私は、じつは体外離脱体験者としては未熟者なのかもしれないし、私が「体外離脱」と呼んでいる体験も、じつは体外離脱とはまったく関係のない、タダの「幻覚」である可能性も否定できない。

私は科学で証明できないからと言って、なんでも「ウソ」や「よまい言」で片付けてしまうのは好きではない。人類の歴史においては、地動説を唱えた者がキチガイ扱いされた時代もあったのである。

したがって、今後科学的見地から体外離脱現象のメカニズムの解明がなされ、もしかしたら驚くべき発見があるかもしれないと思うこともある。

しかし、少なくとも私の体外離脱体験においては、それが「幻覚」であることは疑いのない事実であり、このホームページを作ったのも、体外離脱が不可思議でオカルト的な現象としてではなく、こういう見方もあるのだと示したかったからだ。

そしてなによりその体験の楽しさは、映画やTVゲームを遥かに超えるモノであり、その素晴らしさをどうしても伝えたかったのだ。

このホームページを読んだ人に、「そっか体外離脱って楽しいモンなんだ」と思ってもらえれば幸いである。
 

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