草の根13号

 【田島志一と審美書院】      山崎純夫

 誠に筆舌しがたし美術本を造った人がおります。原画が絹本の場合は絹本に、金箔の場合は同じく金箔に着色木版で摺る。さらに色の深みを出すため八十度より二百度摺りに及ぶ。精巧緻密な技術により複製した図版は数百頁に及び表紙は絹地に古画を摺り出し本となる。独立完成した美術品とも思われます。  田島志一は明治三十二年真美大観の一册を刊行した。そして二十冊が完結するのが明治四十一年である。光琳派画集五冊は、明治三十九年に完成している。浮世絵派画集五册も明治三十九年に完成している。これらに共通していることは、英文版が在るということである。(真美大観は和英両文であるが)  審美書院の代表的な図書には全て英文版があるということになる。同書院の定期刊行物「美術之日本」によると田島志一は博覧会によって海外進出を意識していたようだ。真美大観が巴里博覧会で一等賞を受賞した事にもよると思うが、特に日英博覧会に向けて驚くべき情熱で仕事をしたようである。東洋美術大観の一冊の刊行が明治四十一年の七月から刊行が始まり九冊の刊行が明治四十三年五月となっている。当然日本画の部は出来上がっていたわけだ。他の刊行物もあるわけだからなんとも凄い。  古画縷々記は、田島志一の古社寺の国宝や個人の蔵品を展観して材料蒐集の旅の記録であるが、その(六)に「目下出版中の東洋美術大観は来年の日英博覧会に出品して大いに東洋美術の為に気焔を吐こうというので其の全部出版を急速力で進めて居る」 参考までに国内での価格を記録しておく  価格改正の緊急敬告  「東洋美術大観は弊院最大出版なるが故に其編纂印刷材料の蒐集などに全力を傾注しつつありて既に第四冊を発行せり 册一冊発行の進歩するに随ひ其内容は層一層完美を極め其結果出版費は殆ど予定の二倍の達し収支全く相償はざるに至れり 最上製 金五百拾貳円 上製 金四百拾五円 普通製 三百貳拾円」  このような図書が出品された日英博覧会は、「美術之日本」によると「倫敦に於ける審美書院の大成功」とあり 名誉大賞を受賞したようだ。 自営出品の売店の浮世絵葉書、カレンダー、一枚絵は売りつくしたとある。 同行の編集員の相見繁一は、追加を送るべく帰朝している。   このように海外進出は大成功をおさめたようだ。 ところが田島志一は翌年の帰朝後「美術之日本」に「田島主幹の帰朝」「田島主幹歓迎会」と記録があるだけで博覧会の報告などなにも見ることはできずそのまま全てを相見繁一任し突然やめてしまう。  その後は左記の記録しか知りえなかった。    明治三十一年始めて真美協会を起こして、真美大観を発行し次いで、審美書院を設立して以て美術書刊行に従事す、余昨秋故ありて審美書院を去り専ら工業方面に鞅掌しつつあり 本務の傍ら芸海社を起こしその最初の事業として茲に本書を刊行す。 (郡芳清玩第一册 序)田島志一    因にこれは余談に渉るが、田島氏はその後審美書院を去り日本紙器会社を設立して一時実業界立志傳中の人と唱はれたが不幸にしてその晩年は余り掉はず、大正九年に易簀されたさうである。(近世風俗畫史の後に書す 大村文夫)  最後に、真美大観に序文を記したフェノロサは一九〇八年(明治四十一年)九月日英博覧会を見ることなくロンドンで亡くなっている。五十六才である。この年は真美大観の完結年でもあるが、田島志一が審美書院をやめたこと等からフェノロサとの関係が非常に気になる所だがどうだろう。  驚くべき情熱でわずか八年余間に刊行された美術品のような図書の数々は、今後だれも辿り着くことのできない一つの頂点だと思う。そしてそれらの本には田島志一の心がある、是非ご覧いただきたい。