Y・アーネスト・サトウ(Y. Ernest Satow)

私、佐藤守弘の父、写真家Y.アーネスト・サトウ(1927-90)は、アメリカ人を母に持ち、日本人を父として生を受けた。戦後、可能性を求めてアメリカに渡った彼は、そこで写真というメディアと出逢う。フォト・ジャーナリストとして、『ナショナル・ジオグラフィック』、『ライフ』、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』などで仕事をし、あるいは写真技術の評論において名を馳せた。また、日本に帰ってからの彼は、教育者としての色彩を強め、京都市立芸術大学において教鞭を執り、そのもとからは多くの芸術家が巣立った。その教えは、それまでの日本の教育には稀であった技法と、芸術全般に及ぶ理論の双方を兼ね備えたものであったという。その生涯を通じ、二つのアイデンティティーの間を揺れ動き、二つの文化を自らの中に併せ持った彼は、まさに様々なボーダーを乗り越え(あるいは乗り越えられず)、彷徨し続けたのだと云えよう。


Snowy Morining at Riverside Park
(c. 1957)

Three Birds
(c. 1957)
 
New York
(c. 1961)

Flying Birds
(c. 1957)

Flight of Birds against the Snow
(c. 1957)
Staten Island
(c. 1958)

Koto-in, Kyoto
(c. 1966)

Pablo Casals
(1960)

Eastside of New York City
(c. 1959)


高階秀爾
彼は人工的な近代都市のなかに自然の生み出すさわやかな詩の世界を発見し、のびやかな日本の田園風景のなかに人間の活動の軌跡を見出す。そこに見られる自然への愛情と洗練した秩序感覚、あるいは一瞬の鳥の飛翔に見られる静と動、光と陰の微妙なバランス、それらがひとつになってアーネストの映像世界をしっかりと支えているのである。
――「光と陰の写真」『Y・アーネスト・サトウ写真集』(講談社、1998年)8〜9頁
浅田彰
アーネスト・サトウは、写真におけるモダニズムの正統的な継承者だった。安易な感情移入を排して徹底的にものそのものを見つめ、絶妙のタイミングでフレームという形式のなかに切り取ること。そのために、最高の機材ともっとも合理的な現像システムを用意すること。写真家として、また教育者としての彼の足跡から浮かび上がってくるのは、そういうモダンな合理主義者の姿である。
――「アーネスト・サトウの逆説」『Y・アーネスト・サトウ写真集』(講談社、1998年)12〜13頁
森村泰昌
アーネスト・サトウの残した数々の木々や鳥や雪景色の写真を見るとき、それがニューヨークのリバーサイドパークで撮られた写真だったりするのに、その言い知れぬ繊細さと大胆な単純化の美が、日本の水墨画とそっくりであることへの感動的な驚き。それらは アーネスト・サトウが求めてやまなかった西洋と日本の二つの文化の理想的な融合のユートピアなのである。
――「アーネスト・サトウ/善きモダニズムの伝道師」『Y・アーネスト・サトウ写真集』(講談社、1998年)40〜41頁

畠山直哉
彼は素材との対話の中から、科学的とも言える美意識を作り出し、そこに音楽や文学で培った共通感覚的な象徴作用を加えていった。「モダニズム」とはそういうものだったし、彼はその王道を歩んでいたのだ。
――「アーネスト・サトウ写真館」『芸術新潮』(新潮社、1999年6月)43〜51頁

(c) SATOW, Morihiro 1997-2001