ヴィジュアル・カルチャーを理解するためのブック・ガイド これは、京都造形芸術大学通信教育部芸術学コースの発行している冊子『季報芸術学』のために連載している文献紹介をまとめたものです。目次 【
視覚文化論】 【写真】
【マンガ】 【日本美術とその言説】
【日本の近代と視覚文化】
ジョン・A・ウォーカー、サラ・チャップリン 『ヴィジュアル・カルチャー入門 ――美術史を超えるための方法論』 岸文和、井面信行、前川修、青山勝、佐藤守弘共訳 晃洋書房、2001年 二一世紀の現在、私たちは美術、インターネット、広告、デザイン、写真、映画、テレビ、建築、コンサートなど、さまざまなヴィジュアル・カルチャーにさらされている。元来、視覚に関する文化を読み解く作業は、「美術史学」という学問が一手に引き受けてきた。その学問の成果を踏まえ、さらに学際的に研究を進めていこうという動向が、本書の紹介する〈ヴィジュアル・カルチャー・スタディーズ〉である。本書においては、「文化とは何か」「視覚的とはどういうことか」という根本的な問からはじまり、上記のようなヴィジュアル・カルチャーの制作物が、社会の中でどのように流通し、読解されているのか、そうしたものの「価値」はどのように定められているのか、といったような問題まで考察される。また、様式論のような古典的な理論からフェミニズムやポスト・コロニアル理論など最新の理論まで紹介され、それをどのように応用していくのかも解説される。絵画だけでなく、デザインや建築などを研究したいと思っている学生には恰好の入門書であろう。
ハル・フォスター編 『視覚論』 榑沼範久訳 平凡社、2000年 本書は、Vision and Visuality
という原題の、視覚文化論の基礎的テクストと呼んでもよい論集である。非常に単純化して言えば、〈視覚〉とは、生理的なメカニズムによって「見る」ことを意味し、〈視覚性〉とは社会的・歴史的に構築された「見る技法」のことを指す。ところが近代におけるさまざまな〈視の制度〉は、この二種類の〈見ること〉の差異を隠蔽し、自然化してきた。そうした制度――例えばルネサンス以降の「デカルト的」遠近法主義――を攪乱し、脱構築することが本書の目的である。この目的のもと、現代の批評を代表する五人の論客――M・ジェイ、J・クレーリー、R・クラウス、N・ブライソン、J・ローズ――が意見を交わす。なかなか手強いテクストではあるが、現代における視覚文化論の先端に触れてみるのもよいだろう。
中村興二、岸文和編 『日本美術を学ぶ人のために』 世界思想社、2001年 本書は、タイトルから連想されるような古代から現代に至る「日本美術の流れ」を記した通史ではない。編者たちはまず「美術作品」をコミュニケーション・メディア、すなわち〈注文→生産→流通→消費〉という一連の過程の中で、情報を伝達する媒体(メディア)として捉えて、そのコミュニケーションの全体像を明らかにする。日本のさまざまな時代に、どのような人々がどのようなかたちで「美術」に関わってきたか、「美術作品」はどのような場所でどのような時に使われてきたか、美術の価値を決めてきたのは誰か、など日本美術の姿をいきいきと描き出すのが本書の目的である。また、巻末にまとめられた、日本美術に関係する日記などの第一次資料三十五件を紹介する章は圧巻。
井上章一 『法隆寺への精神史』 弘文堂、1994年 「法隆寺の柱が膨らんでいるのは、ギリシアのエンタシスの影響だ」。この説を聞いたことのある人は少なくないだろう。しかし、建築史学の専門書には、どこを探してもこの説は見あたらない。どうしてだろう、という素朴な疑問から本書は始まる。明治時代に「日本美の至宝」として位置付けられた法隆寺の建築には、さまざまな言説――「法隆寺に投影されてきた夢」と著者は呼ぶ――が重層的に紡ぎ出されてきた。ある時は遠くギリシアの影響を受けた普遍美の現れとして、ある時は、日本独自の固有美を有するものとして。そうした評価は建築史のみに留まるものではなく、広くそれぞれの時代の思想潮流全体――あるいは「ファンタジー」――と深く結びついたものであった。作品の解釈とは決して無垢なものではない。常に様々な力学の変動に晒されているのだ、ということを著者は平易に解き明かす。本書に先立つ『つくられた桂離宮神話』(弘文堂、一九八六年)――もう一つの「至宝」に関する言説を通じて、日本におけるモダニズム受容を語る――も参照のこと。
佐藤道信 『〈日本美術〉誕生 ──近代日本の「ことば」と戦略』 講談社選書メチエ、1996年 明治維新の後、さまざまな概念が西洋から輸入された。「美術」という概念もまた、明治期に翻訳されたものの一つである。江戸期までは渾然一体としていたさまざまな視覚文化の制作/受容の現場に、「美術/工芸/工業」というヒエラルキーが導入され、また同時に「美術史」という学問領域も成立した。1880年代のことである。しかし、これは近代の国民国家として生まれ変わろうとしていた明治国家の政策と緊密に結びついたものであった。日本美術史とは、「一九世紀の国際情勢の中で生まれた、近代日本の国家思想による歴史の再編であり、作品というモノのヴィジュアルイメージによりながら、その実、ことばによって記された言説の体系」であると著者はいう。近年、日本美術史という言説を検証し直す作業が盛んになっているが、本書はその先駆けとなった研究である。北澤憲昭
『眼の神殿』 (美術出版社、1988年)とともに読むと、理解が深まるであろう。
柳宗悦 『民藝四十年』 岩波文庫、1984年 大正時代、民衆による、民衆のための芸術──日常に使われた陶磁器、漆器、布、さらには大津絵などの絵画──に美を見出す運動が興った。いわゆる「民芸運動」である。雑誌『白樺』の同人であった柳宗悦が中心となって、それまで顧みられることのなかったさまざまな制作物に光を当てた運動であった。民芸によってはじめて世に出たモノは多い。「無名」の工人に対する過剰なまでのロマンティシズムに裏打ちされた柳の情熱の成果である。本書は、民芸運動の理論的支柱となった柳による諸論文を収めたものである。しかし、今からみると随分批判するべき点も多い。彼の同志の作る、新しい「民芸」作品という矛盾した存在に口をつぐんでいること。また、「無名の工人」を賛美するが故に思考停止におちいること。そして「近代の超克」にも通じる本質主義。さらには、柳自身が一種の教祖的存在となってしまうこと。本書を読む際にも、そういった点に気を付けて読むべきであろう。
ヴォルフガング・シヴェルブシュ 『鉄道旅行の歴史 ──19世紀における空間と時間の工業化』 加藤二郎訳 法政大学出版局、1982年 タイトルだけを見ると、芸術学とはまったく関係がなさそうに思えるが、実は本書は視覚文化論の必読書とされているものである。著者は、19世紀ヨーロッパに網目のごとく張り巡らされた鉄道が、人々の知覚──特に視覚──にどのような影響を与えたのかを綿密に検証する。鉄道の窓からの眺めは、それ以前の移動において経験されたどんな景観とも違う。高速で移動するため、前景は矢のごとく過ぎ去り、知覚されない。はるか遠方の景観のみが、「パノラマ」的な「奥行きを失った」景観として感知されるのである。ここにおいて、観るものと観られる景観のあいだには、「実体なき境目」が挿入された。この知覚は、鉄道だけではなく、総ガラス張りの建築(ロンドン万博における水晶宮)や、百貨店の発達、さらには印象派以降の近代絵画にも通底するものであった、と著者は説く。近代芸術研究を志す人には、特に一読をお薦めしたい。
ジル・モラ 『写真のキーワード ──技術・表現・歴史』 前川修、小林美香、佐藤守弘、青山勝監訳 昭和堂、2001年 1839年、写真術が発表されて160年余が経った。本書は、その間に登場したさまざまな技法や思想を多角的に説明するキーワード集である。挙げられた項目は125。それぞれの項目は、有機的にリンクしている。例えば「バウハウス」を調べると、「ニュー・ヴィジョン」や「ストレート写真」という運動と関係していることが判り、「建築写真」というジャンルとの関係、「フォトグラム」という技法との関連も出てくる。こうして写真の歴史に多角的に理解することができる。本書では、写真発明の最初期からデジタル画像処理に至る諸技法、風景写真やポートレート写真などのさまざまなジャンル、ピクトリアリズム、モダニズムからポストモダニズムへといたる写真制作理論、未来派やポップ・アートなどの美術との関わり、さらには、記号学などの批評理論と、写真のハードからソフトまで網羅している。写真史、写真批評に興味を持っている人には必携のナヴィゲーション・ツールである。
吉見俊哉 『博覧会の政治学 ――まなざしの近代』 中公新書、1992年 一八七三年、日本政府ははじめて公式に万国博覧会(於ウィーン)に参加した。その時の総責任者であった佐野常民は、報告書に言う。博覧会とは「眼目の教」――すなわち視覚的情報によって人々を教化する装置――であると。まさしくその通りで、博覧会の伝えたメッセージとは、時には国威の発揚であり、帝国主義イデオロギーであり、また時には消費文化の振興でもあった。一八世紀以来の博物学の伝統の上に成り立つ博覧会とは、近代における美術館、博物館の定型を作ったのみならず、百貨店や遊園地などさまざまな視覚文化を生みだした。社会学の見地から著者は、博覧会の起源からはじまり、日本への移入、都市への影響、帝国主義や消費文化との関わりなどを丁寧に跡づけていく。近代における最大の視覚文化の仲介者を知る上での必読書。
細馬宏通 『浅草十二階 ――塔の眺めと〈近代〉のまなざし』 青土社、2001年 時は明治、一八九〇年、東京きっての盛り場、浅草に(当時としては)とてつもない高塔が建設された。凌雲閣と名付けられたその塔は十二階建てであり、即物的に〈浅草十二階〉として親しまれ、さまざまな文学にも描かれた。当然、それほど高い場所は東京にはなかったので、見物客はひきもきらず、一九二三年、関東大震災により倒壊するまで、まさに東京一の名所といってもおかしくはないランドマークとなった。塔からの眺めは、田山花袋により「天然の大パノラマ」と評せられた。近代的視覚装置であるパノラマと、高塔からの眺めはどのような関係にあるのか? 著者は、当時の文学、文献、視覚資料を駆使して、その疑問に挑む。
今和次郎 『考現学入門』 藤森照信編 ちくま文庫、1987年 昭和初期、妙な集団が東京の路上に現れた。建築史家、今和次郎に率いられたこの集団は、自らを〈考現学者〉と名乗っていた。ノートを持ち、道を歩く人の姿をスケッチし、その服装や行動の統計を取る。あるいは、茶碗がどのように欠けるか、割れたガラス窓はどのように修理されるか。彼らの眼は、あてどもなく、都市の表層をくまなく走査しつづける。考現学、あるいは〈モデルノロヂオ〉とは、考古学をもじって造語された言葉であった。「考古学と同じくそれは方法の学であり、そして対象とされるものは、現在われわれが眼前に見るものであり、そして窮めたいと思うものは人類の現在である」と今は語る。この不思議な視覚的採集の概略をつかめる一冊である。
赤瀬川原平、藤森照信、南伸坊編 『路上観察学入門』 ちくま文庫、一九九三年 上記の考現学は、一九八〇年代、唐突に復活する。名を〈路上観察学〉と変えて。その中心人物であった赤瀬川原平による〈超芸術トマソン〉――上がって降りるだけの階段、すなわち〈純粋階段〉など、都市のあらゆるところに発見される無用の〈物件〉――は、都市が無意識的に作り上げてしまった〈芸術〉として路上観察の対象となった。それは、今和次郎の考現学と、デュシャンのダダをつきまぜ、読み替えたものともいえよう。その他、〈建築探偵〉藤森照信や、イラストライター南伸坊、マンホールを撮り続ける林丈二など、異才が集結し、路上観察学会が結成された。本書は、彼らのマニフェストである。上記と併せて読むことをお奨めする。
ウィリアム・アイヴィンス 『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』 白石和也訳 晶文社、1984年 メトロポリタン美術館の版画部門の部長を長く務めた著者による本書は、木版画から写真術に至るまでの西洋における〈印刷画〉の歴史――プリント・カルチャーといってもよいだろう――を考察したものである。イメージとは、美的な機能だけでなく、さまざまな情報を伝達する機能をも具えている。著者は、イメージを、言葉によらない視覚的なコミュニケーションの媒体であると捉え、ヨーロッパにおける知識の流布において、複製技術の果たした役割を論議する。自然科学的、技術的な知識の普及のみならず、美術史や芸術学という学問の成立においても、複製技術の果たした役割は多い。そういった意味において、本書は版画史やデザイン史に興味ある人のためだけのものではない。1953年に書かれた本であるが、いまだに学ぶところは多い。ただし問題は日本語版が絶版であること。一刻も早い復刊を心より願う。
ジョン・バージャー 『イメージ Ways of Seeing ――視覚とメディア』 伊藤俊治訳 PARCO出版、1986年 「ものを見ることとはどういうことか?」本書はこのような疑問から出発する。『ものの見方』という原題を持つ本書は、4つの章――「複製技術」「女性ヌードとフェミニズム」「所有形式としての絵画」「広告」を扱ったもの――からなる。すなわち、私たちのものの見方とは、先験的なものでは全くなく、社会的に構築されたものである、ということをさまざまな事例を通して明らかにしていくのが、この書の目的である。言い換えると、本書は視覚性の構造を腑分けしてくれるのである。書かれたのは1972年。この書の発表から、ヴィジュアル・カルチャー・スタディーズが始まったといっても過言ではないほど、はかりしれない影響力を持ったものである。
多木浩二 『天皇の肖像』 岩波新書、1988年 本書は、明治天皇の肖像写真を手掛かりに、近代天皇制の為した〈視線の政治学〉を読み解いたものである。〈御真影〉とは、間違いなく戦前の日本で最も有名であった写真(明治天皇の場合、正確に言うと手描きの肖像画を写真で複製したもの)であり、「これほどの政治性を発揮した写真は世界にも類を見ない」のである。そのイメージが、どのように「天皇制国家」を作り上げていったかを語るのがこの書の主眼であるが、「写真論」としても面白い視点を持っている。まず写真の流通と受容という問題を正面切って扱っている点。彼が着目するのは、その流通のシステムである。それは、つねに下からの願いにより政府から下付されるというシステムを採っていた。それにより「下からの天皇制」が実現し、同時に天皇を頂点としたヒエラルキーを具現させたという。次に大量に複製された写真が、天皇との同一性を獲得する過程に注目する。写真が被写体と同一視される呪物性をしばしば持つことを前提とした論理から、個人の心性が儀礼をともにすることにより集団共有のものとなるという議論の展開はスリリングである。
セルジュ・ティスロン 『明るい部屋の謎 ――写真と無意識』 青山勝訳 人文書院、2001年 〈映像作品〉としてではなく、〈行為〉として写真を読み解く。フランスの精神分析家によって書かれた本書は、そういった新しい試みに挑戦したものである。人は、様々な経験を自らの心的な必要を充たすものに加工することによって、いわば経験を〈消化〉している。このプロセスが、心理学でいう〈象徴化〉の過程である。ところが、さまざまな理由によって象徴化されえないものが残る。これがいわゆる〈トラウマ〉と呼ばれるものである。現代社会に生きる私たちは、不断に膨大な情報に晒されつづけ、その量に象徴化が追いつかない。そうして残存していくトラウマを解消する心的プロセスを稼働させるもの。それが写真を撮る/観るという行為であるとティスロンは説くのである。タイトルからも推察できるように、本書は写真論の古典であるロラン・バルトの『明るい部屋』(花輪光訳、みすず書房、1985年)――多くの人が引用するが、無批判に使用することが多い――を批判的に継承したものである。 ↑目次へ 【特集:〈日本美術〉の創造】 北澤憲昭 『眼の神殿 ──「美術」受容史ノート』 美術出版社、1989年 木下直之 『美術という見世物 ――油絵茶屋の時代』 ちくま学芸文庫、1999年 東京国立文化財研究所編 『語る現在、語られる過去 ──日本の美術史学100年』 平凡社、1999年 北澤憲昭、木下長宏、イザベル・シャリエ、山梨俊夫編 『美術のゆくえ、美術史の現在 ──日本・近代・美術』 平凡社、1999年 近代を根底から支えていたさまざまな制度が問われ直すようになって久しい。いわゆる「国民国家」──ネーション・ステート──の概念はその代表である。国民国家とは『広辞苑』によると「主として国民の単位にまとめられた民族を基礎として、近代、特に一八〜一九世紀のヨーロッパに典型的に成立した統一国家。市民革命を経て国民的一体性の自覚の上に完成」したものである。明治維新を経て成立した〈日本〉もその一つである。国民国家は、「国民的一体性」というフィクションを成り立たせるためにさまざまな装置──ルイ・アルチュセールは「国家のイデオロギー装置」と呼ぶ──を必要とする。国旗・国歌がその代表であるが、国民の共有財産としての「美術」や共通の記憶としての「美術史」もまた人々を「日本人」──臣民であれ、国民であれ──として主体化させる装置であった。明治期に「美術」という概念がどのように輸入=翻訳されたのか、それはどのように制度化されたのか、本書はそういった言説の問題を、美術史研究者に突きつけたものであり、「美術」とは何だろうという疑問に一つの解答を与えてくれる。同じ著者による続編とでもいうべき『境界の美術史──「美術」形成史ノート』(ブリュッケ、2000年)を併せて読むと理解が深まるであろう。 一方、『美術という見世物』は、よりゲリラ的戦略を採る。すなわち「美術」から排除されていった視覚文化の数々を採り上げるのである。油絵を並べた茶屋、掛け軸に表装された写真、見世物になった木彫のリアルな人形、そして日清戦争のパノラマ画。これらは、明治初期の混沌の時代に種々現れ、「美術」が確立していく過程のなかで消えていった。「何を排除したか」という問いは、「何が排除されなかったか」――すなわち「何が美術なのか」という問いを外側から検証することになる。現在の美術書や展覧会では決して見ることのできない奇天烈な作品群は、しかし私たちに根元的な問いを投げかけるであろう。 こうした北澤、木下らによる提言は新しい流れを生みだす。さらに、80年代からの欧米における〈ニュー・アート・ヒストリー〉の潮流、フェミニズム理論、ポストコロニアル理論などによる問題提起は、美術史、特に日本美術史という研究領域に根本的な見直しを迫った。それを引き嗣いで、1990年代にはさまざまな研究者が論考を深め、あるいは反論を繰り広げた。それらを総決算するかたちで、90年代終わりに二つのシンポジウムが行われた。それらをまとめた報告が以下の二冊である。 『語る現在、語られる過去』は、1997年に東京国立文化財研究所の主催で行われたシンポジウムをまとめたものである。東京国立文化財研究所とは、〈美術〉を制度化した張本人といっても良い存在である。その研究所がこのようなシンポジウムを主催したということ自体、革新的なことであり、問題の重要さを示すものであろう。題の示すとおり、この本に収められたさまざまな論文は、「語り」に焦点を合わせている。すなわち、明治以来、どのように日本において美術という概念が創出され、その起源が語られ、その歴史が紡ぎ出されてきたのか、それらの語りを問い直そうとした試みである。19世紀の西洋の眼から日本美術がいかに見出されたか、あるいは明治期の日本の研究者は中国や韓国の美術をどのように語ったのか、あるいは現在でも日本美術を語る際に常套句となる言葉――「みやび」や「装飾性」――はどのような歴史を経て使われるようになったのか。これらの問いを真摯に考えることから、研究者たちは自らの研究対象、研究方法を批判的に読み直していく。 『美術のゆくえ、美術史の現在』は、日仏会館において1996年から3年間かけて行われた連続シンポジウムをまとめたものである。前のシンポジウムよりも扱う時代は広い――戦前のアヴァンギャルド運動を経て戦後美術に至るまで。特に西洋との関係や、理論的な問題が討議される。 これら90年代を席巻した「語り=ナラティヴ」を問い直す試みは、一旦休息状態に入っているかのようにも見える。しかし、これらの考えに触れてしまった以上、最早「美術史」が無垢な、高踏的な学問であるとは誰にもいえないであろう。 ↑目次へ 山藤章二 『似顔絵』 岩波新書、2000年 山藤章二『似顔絵』は、現代随一の似顔絵師の著者が語る〈似顔絵論〉。似顔絵とは、単に対象に肖似した絵ではなく、批判の手段である――すなわち、実物そっくりのものではなく、制作者にとって対象がどのように見えるかを写すものである。〈批判〉という表出的な機能を持っているものだと著者は語るのである。もちろんいわゆるアカデミックな著作ではないが、古今のさまざまな肖像画やカリカチュア(戯画)を考える上で、本書は一つの出発点になるのではないかと思われる。 ↑目次へ 菅谷明子 『メディア・リテラシー ──世界の現場から』 岩波新書、2000年 〈リテラシー〉という言葉は、「読み書き能力」を意味する。したがって〈メディア・リテラシー〉とは、メディアを読み解く能力のことである。印刷メディア、テレビ、インターネット。私たちは現在、とてつもない量の情報の洪水に曝されている。欧米の教育現場では、それらを批判的に解読する能力を身につけさせるプログラムがさまざまに行われている。ジャーナリストである著者は、それらの現場における情況、あるいは問題をレポートする。これは、美術史/芸術学が培ってきた、視覚的なものを解読する能力の涵養とは、決して無関係ではないはずだ。 ↑目次へ ディック・ヘブディッジ 『サブカルチャー ──スタイルの意味するもの』 未来社、1986年 イギリスの若者文化には、モッズ、スキンヘッズ、パンクスなど、さまざまな〈トライブ〉が存在した。それらの多くは、特定の音楽を聴き、特定の決まり事を持ち、非常に細かく決められた服装の規則を遵守していた。記号論、ヘゲモニー論などの方法論をもって、本書においてはそれらのスタイルの意味や機能が、精密に分析される。それは、階級やエスニシティと分かち難く関わった記号であった。イギリスにおけるカルチュラル・スタディーズの黎明期に書かれた好著である(翻訳には問題が少々見受けられるが)。 ↑目次へ ミシェル・フーコー 『監獄の誕生 ──監視と処罰』 新潮社、1977年 イギリスの思想家、ジェレミー・ベンサムは〈パノプティコン〉と呼ばれる画期的な監獄を考案した。それは「一望監視装置」と訳されるもので、独房は円形に配置され、看守はその中心にいて全てを見渡すことができる。独房は明るくされ、看守の部屋は暗いので、看守は一方的に囚人を監視し、反対に囚人からは看守の姿は見えない。したがって、看守がいようといまいと、囚人はつねに「監視されている」と感ずる。すなわち、まなざしの内面化である。この監獄をてがかりに、フーコーは近代国家において、規律=訓練が国土の全てにはりめぐらされていくメカニズムを解読する。近代における〈まなざし〉の問題を考える上で避けては通れない視覚文化論の基礎テクストである。 ↑目次へ 【特集:マンガを語る】 夏目房之介 『夏目房之介の漫画学──マンガでマンガを読む』 ちくま文庫、1992年 『マンガの読み方(別冊宝島EX)』 宝島社、1995年 四方田犬彦 『漫画原論』 ちくま学芸文庫、1999年 手塚治虫 『マンガの描き方――似顔絵から長編まで』 光文社文庫、1996年 清水勲 『日本近代漫画の誕生』 山川出版、2001年 『木野評論』臨時増刊(文学はなぜマンガに負けたか!?) 京都精華大学情報館、1998年10月 現代日本の視覚文化を考える上で、マンガ(漫画/コミックス)を無視することはできない。マンガについて書かれた書籍/雑誌も多く出版され、「大学生がマンガを読むなんて」と嘆かれたのが遠い昔のことにように思われる。数年前には、美術史学会の全国大会でシンポジウムのテーマに選ばれ、昨年には、日本マンガ学会が発足した。また、いわゆるアートの世界にも、〈マンガ的なもの〉をモティーフとして、あるいは手法として用いる作家が増えている。 とはいえ、まだまだ研究対象としては若く、方法論も確立されていないため、マンガをどのように語ればよいのか、悩む向きも多いだろう。今回は、マンガのストーリー面──すなわち〈何を描いているのか──の分析はさておき、その視覚的な側面──すなわち〈どのように描いているのか〉──を分析の対象とする批評を中心として、研究の指針となるであろう基礎文献を紹介したい マンガの視覚的側面に注目した批評──マンガ批評の世界では〈表現論〉といわれる──の草分けが夏目房之介である。もともとマンガ家である夏目は、模写を通じて、さまざまなマンガ家の描線を解析することから、批評をはじめた。それは『夏目房之介の漫画学』に見られるように、「作者になりきる」ことによって、マンガの制作の意図に迫るものである。そうした試みの集大成が、夏目やマンガの原作者である竹熊健太郎を中心とした人々による『マンガの読み方』である(ムックであるため手に入りにくい憾みはあるが)。この本では、マンガを、構成要素──線、記号、コマ、吹き出し、言葉など──に分解して考察する。いわばマンガの成り立たせるシステムを分析する試みである。 マンガ読みが、当たり前のことと思って見逃していることが、必ずしも所与のこととは限らない。例えば、夏目のいう「形喩」――「形態による比喩」という意味だろう――がそうである。額に描かれた水滴が、汗を意味し、さらには〈焦り〉を意味するというようなこと。あるいは、同じく額に描かれた十字型の線が、血管を意味し、さらには〈怒り〉を意味するというようなこと。これらは、マンガを読み慣れた人間には、当たり前に理解されるのだが、すべての人類がそれを理解するわけではない。それらの視覚的記号がそれぞれの感情を意味することを、マンガの書き手と読み手が共通に了解していなければならないのである。すなわちヴィジュアル・リテラシー(視覚的読み書き能力)の問題である。夏目らの試みは、マンガのリテラシーのシステムを明らかにする点にある。 振り返ってみれば、手塚治虫は、マンガをシステムとして捉えていた先駆者と考えることができる。1972年に書かれた『マンガの描き方』は、基本的にはハウ・トゥーものである。手塚はマンガの制作過程を、「絵を作る」=視覚的側面、「アイデアを作る」=ストーリーの面、そして、それらを統合した「マンガを作る」という三過程に分け、分析する。夏目のように系統だってはいないものの、〈表現論〉的読みの先駆者といってよいであろう。 よりアカデミックなアプローチは、『漫画原論』に見られる。著者は、比較文学理論、映画理論を専門とする研究者である。本書の目的は、マンガという表象システムを成り立たせている「内的法則」を検討することにある。そのため著者は、マンガの描く〈内容〉はさておき、〈形式〉にのみ注目する。記号論をはじめとする現代思想の成果を応用した共時的分析は、微に入り細に至るものである――コマ、運動の表象、画面、科白、オノマトペ等々。そうしたマンガの文法やコードが明らかにされ、さらにはそれらからの逸脱は、〈修辞法〉として読まれる。もちろんタイトルにあるように、これは〈原論〉であり、個々の作品を読み解くためには、社会的、歴史的なコンテクストという変数を代入しなければならない。 今まで紹介した夏目、四方田以降の新世代の研究者たちも出てきている。ジャクリーヌ・ベルントやマット・ソーンらを中心として、刺激的な論考がさまざまに発表されている。先述の日本マンガ学会の母体でもある京都精華大学の発行する雑誌『木野評論』の臨時増刊――「文学はなぜマンガに負けたか!?」という挑戦的な副題を持つ――を見れば、現在進行形の研究動向が垣間見られるであろう。 もう一冊、毛色の変わった研究を紹介しておきたい。清水勲の『日本近代漫画の誕生』は、歴史的なアプローチを採る。幕末の風刺画から始まり、明治に西洋の影響を受けて、さらには大正期の柳瀬正夢に至る〈カートゥーン〉、すなわち一枚絵マンガの系譜をコンパクトにまとめている。このような作業もまた、マンガ研究の土台作りには欠かせない基礎作業として評価するべきであろう。 とはいえ、田河水泡以降、あるいは手塚以降のストーリー・マンガとカートゥーンは、根本的に異なるメディアと考えた方が良い。最近でも、《鳥獣戯画》をマンガの源流としたり、あるいは絵巻物をストーリー・マンガの源流としたりして、「日本文化には昔からマンガ的なるものがあった」とするような言説があるが、これらは安易な比較であるように私には思える。絵巻、戦前のカートゥーン、戦後のストーリー・マンガ、あるいは現代のコミック・マーケットで流通するもの。それぞれがどのように作られ、読まれたかという状況を踏まえずに結びつけることは、〈日本人論〉などの本質論につながる危険性がある。マンガの受容における歴史的、社会的状況の差異を鑑みながら、分析していくべきであろう。 ↑目次へ 文化を読む――カルチュラル・スタディーズの試み 上野俊也、毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』、ちくま新書、2000年、ISBN4-480-05861-2、600円(税別) ロラン・バルト『神話作用』、篠沢秀夫訳、現代思潮社、1967年、ISBN4-329-00059-8、2200円(税別) ジョン・フィスク、ジョン・ハートレー『テレビを〈読む〉』、池村六郎訳、未来社、1991年、ISBN4-624-01105-8、2500円(税別) ジュディス・ウィリアムソン『広告の記号論――記号生成過程とイデオロギー』全2巻、つげ書房新社、1985年、ISBN4-8068-0294-8、2000円(税別) 人が「文化」という単語を口にするとき、そこには往々にして、絵画や音楽など「教養のある一部のエリートによって作られ、理解されてきたもの」という意味が包含されることが多い。「文化人」や「文化講座」などの用例がそれに当たるだろう。この使い方に従えば、この世の中には「文化的なもの」と「文化とは呼べないもの」が存在することになる。一方、そのような用法ではなく、文化の範囲をもっと広げる人たちもいる。この場合、文化とは「生活のすべての仕方(whole ways of life)」となる。人類学者や社会学者たちは、この定義のもと、さまざまな「無文字文化」や「若者文化」を研究してきた。ただ、美術史や芸術学などの人文諸学においては、何となく前者の使われ方が多かったように思われる。 1970年代頃から、イギリスではカルチュラル・スタディーズという超領域的な研究が起こってきた。それは大衆文化やサブカルチャーなど広い意味での「文化」を批判的に研究するための方法論であった。「文化研究」と訳すと、何となく文化の本質を語る〈日本人論〉のようなものと混同されかねないが、実は全く逆である。大衆文化の研究に、フランクフルト学派、記号学、構造主義、そしてマルクス主義などの方法論を取り入れたイギリスの研究者たちによって、バーミンガム大学の現代文化研究センターなど周縁の大学――オックスフォードやケンブリッジなど中心の権威あるアカデミーではなく――で始められたののがカルチュラル・スタディーズなのである(比較的独立独歩であったイギリスの思想界において、このような大陸系の言説を移入すること自体、ラディカルであったといわれる)。さまざまな入門書が近年発刊されているが、ここではコンパクトにまとめられている新書版の『カルチュラル・スタディーズ入門』を挙げておきたい。 カルチュラル・スタディーズは、文化的な制作物に政治の力学を読みとるが、そのようなアプローチの源泉のひとつに、記号学を応用したロラン・バルトによる『神話学』(日本語訳は『神話作用』)がある。彼のいう神話とは、神々が登場する物語のことではない。既存の権力構造を正当化する作用のことである。イデオロギーと言っても良いだろう。彼の分析を一例紹介したい。『パリ・マッチ』という雑誌の表紙に、黒人の少年兵士が国旗に敬礼している写真が載っていた。バルトはそこに「フランスは偉大な国家で、その民草は肌色の区別なく、その国旗に忠誠に仕えるのであり、いわゆる植民地主義などと中傷する連中に対しては、いわゆる圧制者に奉仕するこの黒人の熱意こそ最良の返事なのだ」というメッセージを読みとる。これが彼の言う「今日の神話」である。すなわち、この写真入り週刊誌の表紙は、フランスの植民地主義を正当化する神話であったのである。 カルチュラル・スタディーズもまた、文化の政治性に敏感に反応する。以前、紹介したヘブディッジの『サブカルチャー』も若者のファッションを記号として分析して、サブカルチャーの果たす体制への象徴的抵抗を読みとった。今回、挙げたフィスク/ハートレーによるテレビ番組の研究も、ウィリアムソンによる広告の分析も、記号学的分析を基盤としてイデオロギー批判を試みた力作である。カルチュラル・スタディーズ自体まだまだ若かった時期の著作であるせいか、記号学の考え方については両書とも丁寧に解説されており、そちらの入門書にもなるくらいである。 カルチュラル・スタディーズもいまや全世界に浸透し、また同時にそれに対する反発、反動も多く見られる。しかし、この時代だからこそ、その初期の著作を再確認しておくことが必要ではないだろうか。 ↑目次へ 山下裕二編『雪舟はどう語られてきたか』、平凡社ライブラリー424、平凡社、2002 年、ISBN: 458276424X、1400円(税別) 雪舟等楊の没後五〇〇年を記念して、さまざまなイヴェントや書籍が目白押しである。特に京都の国立博物館での特別展は、異様な人気(数時間待ち!)を呼び、また近く始まる東京国立博物館での特別展もまた大入りになることは今からでも予想できる。しかし、さまざまな取り組みにもかかわらず、そうしたものの多くは、雪舟の「画聖」伝説を追認、再生産に終始しているように感じてならない。そのなかでも意欲的な取り組みが、ここで紹介する一冊である。フェノロサから橋本治まで、美術史に限らずエッセイ、フィクションに至るまで、数々の言説が並び、それらを検証することができる。それはそのまま、近代的な美術史の歴史ともなっており、近代における「芸術家」像が言説レヴェルでどのように成立してきたかという思想史でもある。ここに描かれているのは、五〇〇年前に生きたある一人の画僧ではない。近代性そのものであるのだ。 ↑目次へ 岩城見一編『芸術/葛藤の現場――近代日本芸術思想のコンテクスト』、シリーズ「近代日本の知」第4巻、晃洋書房、2002年、ISBN: 4771013020、3900円(税別) 明治期に西洋から移入された「美」や「芸術」という概念が、どのような摩擦を引き起こしながら、定着し、制度化されてきたのか。美学/芸術学/美術史の研究者たちのあいだで――さらには現場の制作者までも巻き込んで――この問題が活発に討議されるようになってから随分経つ。多くの研究者が、この問題を自覚し、さまざまな「神話」の解体に取り組んできた。本書においても、美学/美術史の制度化、美術史講義、美術館や批評などの現場、近代における芸術意識、アジアのなかの日本芸術、そして「京都学派」と芸術という五部にわたって、十五人の研究者が真摯な議論を繰り広げている。これまで比較的検討されてこなかった「美学」という研究領域の成立や、日本とアジアの関係が大きく扱われているのは注目に値する。特に帝国主義日本が植民地に、美術制度を移植していく過程――それぞれ韓国、台湾、中国の研究者によって分析される――は、文化政策/統治システムとしての「美術」の姿を明らかにするものである。 ↑目次へ 朝倉無声『見世物研究』、ちくま学芸文庫ア19、筑摩書房、2002年、ISBN: 4480086811、1500円(税別) 明治後期から大正時代には、現在の視覚文化研究の先駆ともいえる研究がさまざま行なわれていた。宮武外骨の浮世絵/絵葉書研究、権田保之助の民衆娯楽研究、柳宗悦の民芸運動、今和次郎の考現学など。柳田国男の民俗学も含めていいかもしれない。近世/近代のさまざまなポピュラー文化を見据えた研究である。もちろん現在の視覚文化研究とは、特に理論面において大いなる断絶があることは強調しておかなければならない。しかし、昨今、これらの研究を批判的に検証しようという動きが盛んである。そんな中、ついに見世物研究の基礎文献と言うべき本書(1928年刊)が文庫形式で手に入るようになった。著者の朝倉無声は明治大正期の文学/風俗研究者。本書は三部に分けられている。まず手品、曲芸などの「伎術篇」、珍獣、猿回しなどの「天然奇物篇」、そして人形やからくりなどを扱った「細工篇」。帝国図書館の司書であった著者は、丁寧に史料にあたり、今には伝わっていない見世物の数々をいきいきと描き出す。近世には民衆の視覚文化体験の重要な位置を占めていた――そして近代の美術の制度化によって無視された――見世物の姿を伝える名著である。 ↑目次へ 高山宏『殺す・集める・読む ――推理小説特殊講義』、創元ライブラリー070-47 、東京創元社、二〇〇二年、ISBN: 4488070477、1000円(税別) 最近、久しぶりに大好きなアーロン・エルキンズのスケルトン探偵シリーズを読み返した。主人公は形質人類学者。古い骨を観察し、触るだけで、その人間の性別、年齢はおろか、生きていた時の職業や性向まで当ててしまう。いうまでもなく、これはシャーロック・ホームズ以来の伝統を継いだ探偵像である。探偵小説/推理小説とは、一九世紀後半に生まれた新しい文芸ジャンルである。そこには、ヨーロッパ近代を形作ってきたさまざまな文化装置――博物学、視覚装置、データベース、資本主義など――が埋め込まれている。これまで、ウンベルト・エーコ、トーマス・シービオク、カルロ・ギンズブルグ、富山太佳夫、内田隆三などそうそうたる面々が推理小説という問題に取り組んできたが、博覧強記で知られる著者もついに手を染めた。本書の中でも、推理小説と顕微鏡を扱った章がおそらく芸術学を専攻する人の興味を惹くだろう。シャーロック・ホームズといえば、鹿打帽、パイプとならんで拡大鏡が付き物だ。著者はミクロの世界に対するホームズの執着を通じて、ヴィクトリア朝における視覚文化を紹介する。それは、目に見える世界をなんらかの痕跡として読み、テクストとして再構成する行為であった。ホームズの行為は、同時期に成立していく「美術史」の方法論と通底する。芸術学を考える上でさまざまなヒントを与えてくれる本である。美術史(モレッリ)と精神分析(フロイト)と推理小説(ドイル)の関係について語った「徴候」という論文の収載されている次書も推奬しておきたい。 カルロ・ギンズブルグ『神話・寓意・徴候』、竹山博英訳、せりか書房、1988年、ISBN: 4796701567、3500円(税別) ↑目次へ (c) SATOW, Morihiro, 2001 |