江戸泥絵:近世日本に於ける都市空間への視線
佐藤守弘
(本稿はニューヨーク・コロンビア大学大学院東アジア研究科に一九九六年、文学修士(Master
of Arts)論文として提出し学位を認定されたものを、日本語訳し加筆・訂正したものである。)
ここに一葉の絵がある。厚紙の上に大名屋敷が極端に誇張された線遠近法によって描かれている。それ程、大きな絵でもない。横四十八センチメートル、縦三十二センチメートルといったところか。画面の上半分は鮮烈な蒼い空に覆われている。描かれた人物は余りにも小さく、顔の判別など出来そうにもない。線は繊細ではないが、豪放であり、彼方の消失点に向けて突き抜けていく。青い空と果てしない遠近法は、江戸の空間の広がりを感じさせる。この様なスタイルの絵は「泥絵」と呼ばれていた。
江戸の終わりのほんの一時期、泥絵は産まれ、そして間もなく消えていった。存在した期間も短く、そして浮世絵ほど流通したわけでもない。線や人物表現なども様式的、類型的であり、敢えて云えば、稚拙であるとも云える。その様なこともあり、泥絵は美術史に殆ど省みられなかった。「日本美術史」と云う網目からこぼれ落ちたものであったとも云える。然しそれは確かに存在した。短い期間ではあったが、ある一定の期間存在し、そして江戸の空気を伝えるものとして流通していた。またその様な絵が突然変異的に産まれるわけがない。その誕生の背景には数々の物語があり、それらが泥絵のプレテクストとして存在していた。江戸中期よりの西洋文化、技術、物産の日本への輸入と云う物語、また江戸が大都市となった時代の新しい「名所」の創設という物語、また商品として売り買いされた絵画という物語等。そうした背景が錯綜し、その中から泥絵が産まれてきた。本稿は「泥絵」と、夫れを産み出した様々な背景を語る物語の序説とでも云えるものである。
ヨーロッパのルネサンス期に完成をみた線遠近法の技法は、先ずは奥村政信らの浮世絵風俗画家によって受容された。江戸も中期になると、其の技法は、蘭学者達の手により研究され、司馬江漢、小田野直武、そして亜欧堂田善らに受け入れられることとなる。そのスタイルは徐々に浸透し、画家達により消化されていく。鏡とレンズを使い、人々が経験し得なかったであろう三次元の幻影を繰り広げる眼鏡絵もそのひとつである。鏡を使うが故、多くは水平方向に反転して描かれた。泥絵はこの眼鏡絵の影響下に産まれ、そして独自の方向へと進んでいったものと考えられる。
泥絵に関しては、種々の定義がなされてきた。本来「泥絵」とは、「泥絵の具」と云う画材を使用した絵全般の謂である。そういう立場に立つなら大津絵も芝居の書き割りも泥絵になって仕舞うが、「泥絵」と云う用語はある特定されたカテゴリーの絵を指す時に実際は用いられている。そのカテゴリーとは、広く云うなら、「幕末に多量に生産された『泥絵の具』を画材として使用した西洋画の影響を受けた日本絵画」と定義できる。一方、より厳密に云えば「主に江戸で生産され、線遠近法の技法と泥絵の具と云う画材を使用し、そして土産物として販売された風景画、或いは都市風景画」と定義されようか。主題は江戸名所、神社仏閣、大名屋敷、東海道の宿駅と広範囲に至る。小野忠重はその主題を下記のように分類し、列挙している。
一、江戸名所
日本橋、魚市、駿河町(越後屋呉服店)、神田明神、上野、不忍池、滝の川、王子稲荷、飛鳥山、浅草寺、仲見世、待乳山、猿若町芝居町、木母寺と水神社、向島三囲、大川橋(吾妻橋)、両国橋、亀戸天神、洲崎弁天、永代橋佃島、深川三十三間堂、お茶の水、筋違見附、目黒不動、荒神坂、愛宕山、高輪、品川追分、八ツ山、御殿山、大森鈴木新田、羽田弁天、池上本門寺、六郷と川崎
二、江戸城と大名屋敷
大手町, 大手前酒井邸、桜田門上杉邸と森邸、霞ヶ関浅野邸と黒田邸、虎ノ門内藤邸、幸橋柳沢邸、山下門松平邸、海賊橋牧野邸、本郷前田邸、市ヶ谷尾張徳川邸、小石川水戸徳川邸、三味線堀佐竹邸、大川端松平邸、汐留奥平邸、赤羽橋有馬邸
三、東北・東海道
松島、甲州猿橋、神奈川宿、横浜(お固めと開港図)、鎌倉鶴ケ丘、江ノ島七里ヶ浜、箱根、薩 峠、三保と富士、清見寺、富士川
四、近畿以南
二見浦、近江八景(堅田・石山寺)大坂天保山、淀城、和歌浦(蓬莱岩、紀三井寺、安芸宮島、周防錦帯橋、桜島
五、外国の風景
半分以上の主題は江戸とその周辺から採られている。近畿以南は少なく、東海道にしても駿河辺りが西限であり、夫れより西の地域について描かれたものは見られない。また、特に大量の大名屋敷図の存在を忘れてはならないであろう。泥絵において大名屋敷がその様に多く描かれていると云う事実は、泥絵を特徴づける第一の点であると云える。泥絵以外のどの様な風俗画、風景画も大名屋敷と云う主題は取り上げていないと云うことは、大名屋敷の江戸における占有面積を考えると奇妙と云うしかない。後にも述べる『江戸図屏風』や『江戸名所絵』等の巨視的な江戸一覧図には確かに大名屋敷は描かれてはいるが夫れも一部分であり、大々的に江戸の大名屋敷を描いた物としては、泥絵は唯一の物と云って良いだろう。然しながら、その泥絵にしても江戸城だけは描いていない。他の江戸図も勿論描いてはいない。夫れには何らかの禁忌からの自己規制が働いていたのであろうか。或いは何らかの政治的規制があったのであろうか。
泥絵が描いた屋敷の塀はそのまま「表長屋」と云われる家臣の居住地であった。その境界線は即ち一種の内部と外部を分ける緩衝地域であったとも云えよう。宮崎勝美は大名屋敷は一見外界に対して全く閉ざされているように見えるが、その境界線自体に人が棲んでいる、と云う。その上、出入り口の傍らに秘密の抜け道もあった模様である。であるから、その様な空間が外界との接点ともなっていた。
泥絵の描いたのはまさにその境界線であった。町人階級の人々はその境界線の向こうに入り込むことは出来なかった。然しながらその境界線を視ることは出来、更にその境界線そのものに棲む人間と多少の接触はあった。その壁は権力の象徴であった。それでも猶、同時に、その塀は武士階級との接点の象徴であった。大名屋敷の海鼠塀は、町人階級と武士の権力者階級との間に横たわる、或種マージナルな空間であった。その塀と門を描くことにより、泥絵の制作者達はその空間を彼等の都市の景観の中に取り込んだのだろう。
殆どの泥絵には落款や制作年月日などは記されていない。それ故、泥絵の制作の時期を正確に指摘することは難しいと云える。しかしながら、二種類の主題がその時期の謎を解く鍵となる。それは開国前後の港である。一つは浦賀へのアメリカ船団来航に備えた、旗本及び諸藩兵士による警護体制を描いたもの、即ち「お固めの図」であり、もう一つは一八五九年以降の横浜港である。それらのイメージから推測するに、泥絵の最盛期は一八五〇年代から六〇年代にかけてであろう。
泥絵が制作され始めたのは何時頃のことであったのだろうか。勿論、泥絵に関する資料の少なさ故、正確な年月を知る術とてないが、一八二六年のある文書は泥絵の江戸の於ける隆盛を記している。それは佐藤中陵の『中陵漫録』である。本来の西洋画の油絵について説いた後、斯う云う。
「近来江戸にても流行して画すれども、其画法を知らずして只奇として見るのみ。猶又の市家に鬻ぐものは、蛤粉にて地をし、青花にて『ペル』色をなす。是れかの油絵にあらず。画景は相似て蘭画に擬すのみ。此画は近来の売絵師の所為也。」
「蛤粉にて地をし、青花にて『ペル』色をなす」とはまさに泥絵を思わせる。この文から見る限り、一八二六年の段階では既に江戸に泥絵、或いはその原型となる物が流行っていたと推測しても良かろう。
泥絵の始まりが十九世紀のはじめでであるとするならば、その終焉は何時の事となるのであろうか。明治初期までは生き残っていた様子であるが、その後次第に衰退へと向かっていったようだ。明治期の文人、淡島寒月(1859-1916)は、子供のころ芝辺りの店で泥絵を描き売りしていた店があったことを回想している。洋画家、斎藤徳三郎もまた、東京に棲んでいた頃、一八九○年代までは芝に泥絵の店があったことを回顧している。
泥絵は主に「絵屋町」と云われた町で売られていた。そしてその主たる使用目的は旅人の国元への土産であったと云われている。特に泥絵の主題にもなっており、江戸名所の一つでもあった芝の神明神社前には沢山の本屋・絵屋が集まり、盛況であった。芝は増上寺を代表に、寺社の多い土地として知られており、伊勢神宮を勧請した神明神社もまた此処にあった。此の場所の名をとり、泥絵はまた「芝絵」とも称されたという。東海道の出発点、日本橋と第一の宿駅、品川の間に位置する芝は、旅行者にとって東錦絵や江戸土産絵と呼ばれる絵を手に入れるには最適の場所であったであろう。淡島寒月の回想によると、泥絵はその店で描かれ、その場で売られていた模様だ。
現在残っている泥絵の殆どは署名の無い、無銘の作品である。然し日本最大級の泥絵コレクションである渡辺紳一郎コレクションには僅かな例外として二種類の署名が見られる。一つには司馬口雲坡と書かれ、もう一つには北雪と書かれている。彼等が一体どのような経歴の絵師だったか、誰の弟子筋に当たるかなどは現在には全く伝わっていない。浮世絵師のドロップアウトであった可能性もあれば、あまり売れていなかった洋風画家であった可能性もある。筆名から推測されるのは、司馬口雲坡は司馬江漢の、北雪は葛飾北斎のそれぞれ弟子筋に当たるか、乃至はその名を真似て付けた画人であったと云うことだろう。またそのサインの下に書かれているローマ字によるサインにも注目したい。ローマ字でサインを絵に入れるというのは司馬江漢や佐竹曙山もよくしていたことでもあり、これは雲坡や北雪が自覚的に「洋風画家」であったことの一つの物証でもあろう。
泥絵と都市への視線
十八世紀から十九世紀初期にかけて、おびただしい量の博物誌や地誌や民俗誌が出版された。その視線は中心から周縁に、極大から極小に至り、そして事実と虚構を横断していた。全てを観察し、全てを記述しようとする姿勢が見える。此の時代を「観察の時代」と定義してみたい。十七世紀にはそのような博物誌や地誌や民俗誌はたったの四冊を数えるのみである。つまり一六五八年の『京童』、一六五九年の『鎌倉物語』、一六六二年の『江戸名所記』、そして一六八五年の『有馬山温泉小鑑』である。然し時代を下り、十九世紀前期ともなると膨大な数の地誌・民俗誌が江戸、大坂、京都の三都にて生産されるようになる。それは一八二九年の『江戸名所図会』の如き都市の図像表現から 一八二四年の『江戸買物独案内』の様な都市情報、さらには地方の独特の風俗、生活を描く一八三七年の『北越雪譜』に至るまで様々な形態を持つ。このような都市としての江戸を言説並びに視線の対象として描出する態度は十九世紀の初めに湧出してきたものだ。まさに此の時代に江戸泥絵は生産され始めた。本章は泥絵の制作者たちがどのように都市を観察していたかについて考察する。
江戸に棲む人間の意識の変革について櫻井進は斯う云う。
「こういった地誌・民俗誌の大量な生産がはじまった時期に、江戸の都市民は、みずからを江戸ッ子と呼ぶようになっていた。徳川家康による江戸開府以降、膨張を続けた江戸は、世界有数の百万都市にまで拡大していた。大坂や京都のような伝統的都市とは異なり、江戸は、武士階級の移住によって突然成立した強大な経済圏に吸引された大量の流入人口をかかえこんだ。十七世紀の江戸は文化的にも京都・大坂の圧倒的な影響下にあったが、十八世紀も半ばになると、江戸はみずからのアイデンティティーを形成しようとしていたのである。(中略)地誌・民俗誌が大量に生産されたことは、こういった江戸の都市下層民のアイデンティティーへの欲望とあきらかにつながっている。彼らは、江戸を『われわれの都市』として意識するようになり、それまではせいぜい紀行文学の対象でしかなかった江戸の都市空間を、言説と視線の対象として発見するようになり、他方で、江戸の都市下層民の無意識の内部に存在するかすかな記憶としての故郷、彼らが捨て去ってきたなつかしい空間としての故郷を地方の民俗の中に発見しようとしたのである。」
彼はこの時代における地誌・民俗誌の大量の生産を「都市下層民」のアイデンティティーへの希求と関連づけているが、私はそれには懐疑的である。『江戸名所図会』の斎藤月岑は代々江戸の神田雉子町の名主の家系の出であり、明らかに富裕な上級町人の出身である。また北越雪譜の鈴木牧之も江戸に棲む都市民とは云い難いにせよ、越後の富裕な商人である。であるからむしろこの「視線と言説」が下層民によって行われたと云う証拠は無いと云って良かろう。それでも猶、彼の発言は江戸が「視線と言説の対象」になって来たと云う点は有効であろう。江戸の人々のアイデンティティー形成の過程において江戸を観察し、記述すると云う行為が大きな働きをしたと云うことは否めまい。泥絵が描いたのは間違いなく「われわれの都市」江戸であり、「視線と言説」の結果であろう。
事物を観察し、それを記述する。或いは世界を視線と言説の対象とする。このような知の姿勢の原形は徳川時代においては当時の博物学である本草学に遡ることができる。「本草」と云う言葉はそもそも薬の原料となる植物と云ったような意味であり、本草学とはつまり薬とその原料についての学問であった。江戸における本草学の始まりは李時珍(Li
Shih-chen: c. 1523-c. 1596)の著作、『本草綱目(Pen-ts'ao Kang-mu)』の日本への紹介をもってその嚆矢となす。中国においては『本草綱目』は一五九六年に刊行され、その内容は実に一千八百九十種類にも及ぶ薬とその原料(植物に限らず鉱物や動物までも含む)を図版入りで扱っていた。その影響下に貝原益軒(1630
- 1714)は『大和本草』を一七○八年に出版した。本草学は薬とその原料を記述するだけでなく、どのような動物・植物・鉱物が使われるか、どのように加工すれば使えるのか、それらはどこで見つけられるかなどを包括的に記述していた。そして此のような記述はそのまま世界全体を記述することに繋がっていく。世界を観察し、整理し、記述する。此のような態度が本草学によりうちたてられた。
自然を記述する学問であった本草学は、その自然より産み出された商品や製品を研究する物産学へと変貌していく。そして時はまさに物産の時代でもあった。各地方、各藩が特産品を生産し、それが物品の流通を刺激し、商品経済が産み出されていく、そのような時代であった。一七三六年、徳川幕府は様々な物産の原料、鉱物、植物、動物の大々的な調査を指令する。数多の本草学者が幕府に狩り出され、丹羽正伯(1691-1756)がその代表として一七三九年に『産物帳』を編纂した。また産業製品、医薬品や天然物産を展示する「薬品会」や「物産会」と呼ばれる催しが江戸にてしばしば開かれた。このような天然自然への興味が図像表現において西洋の技法の移入に果たした影響もまた看過できない。当時の本草学の挿画を見れば、その西洋的リアリズムの影響が如実に現われているのが分かる。
そのような学問領域だけではなく、観察すると云う行為は徐々に人々の日常のなかに浸透していった。そうして人々の視線は彼等の棲む町、江戸へと向けられていく。江戸を表徴した最も初期の図像表現は、出光美術館に所蔵される一六三三年頃に制作された『江戸名所図屏風』である。それは基本的に『洛中洛外図屏風』に使用された俯瞰の視線を採用し、江戸の町を描写している図である。浅草から芝増上寺まで、佃島から後楽園に至るまで、その図は広域を取り込み描写している。この種の図像は新興都市としての江戸を、百科全書的に提示する。芳賀徹によると、これらの図は様々な都市機能が相互に、そして緩やかに作用し、発展していく様を提示していると云う。新興の大都市、江戸の景観と人々の行為を描写しているが、それは統治者と被統治者といったヒエラルキーに則ってではなく、季節や名所を並べているわけではない。むしろそれは身体的な都市機能と、市民生活のリズムに則して構成されたものである。此のような俯瞰の手法は、一八○三年に『江戸名所絵』(三井文庫所蔵)
を描いた鍬形惠斎に受け継がれるが、彼はそれに線遠近法を導入し江戸図の世界に独自の表現を確立した。
十八世紀に確立したものは新しい名所の再構成と創設である。日本美術や文学の世界において、名所は伝統的な文学の、特に歌の伝統のなかの何らかの断片を差し示すシニフィエとして機能していた。名所や四季折々の文物は日本の美術が古くから描いてきた主題であった。吉野の桜や八つ橋、松島など歌に詠まれた歌枕は、幾多の画家により描かれ続けた。名所には数々の歌が作り出した詩的想像力が積み重ねられ、その重層的なイメージに触発されて、新しい歌が生まれる。絵に表徴された名所は、その裏に膨大な詩的情報を含んでいるのだ。「名所」や「季節」は、集合的な記憶、つまり「文化的記憶」の膨大なライブラリーから適合するものを呼び出す鍵となる。名所とは平安以来の文学的イメージの蓄積であるが、江戸の人々、特に上級町人層を背景として出来て行った文化は新しい名所を作り上げた。此のような新しい名所は斎藤月岑の
『江戸名所図会 』や歌川広重の『名所江戸百景』そして泥絵に表徴されるようになっていく。鍬形惠斎に受け継がれた江戸図の百科全書的な手法ではなく、名所一つ一つを独立した構図のなかに収めて行くようになるのだ。「視線と言説」のモードの変化であるとも云えよう。先に挙げた江戸名所、つまり駿河町や日本橋、亀戸の梅屋敷などは、泥絵だけではなく色々な名所の図像表現〜司馬江漢の名所を描いた銅版画や歌川広重の『名所江戸百景』、斎藤月岑の『江戸名所図会』等〜に繰り返し出現した。この事についてはまた後に述べるが、その多くは構図を共有していた。種々の図像表現が重なり合い、その中から幾つかの図柄が定着していったと考えても良いだろう。おそらく実際に名所その場に行く人は、その人の見た名所図の構図と重ね合わせその名所を視たことであろう。江戸の文化の中で新しく作られた新名所は図像表現の中で成熟していき、定着していったのではあるまいか。例えば例図として挙げた神田駿河町の越後屋を描いた図を見ればよく分かるように、泥絵は『江戸名所図会』とほぼ同じ視線を採用している。道を挟んで三井呉服店の大店が続く様子を描き、その屋根の消え去る果てに富士を望む。この様な構図は三井呉服店と富士を見る為の一種の定式として定着していた構図だったのではあるまいか。そしてその様に色々なメディアで函養された名所の構図が泥絵の中に発現していったのだろう。
J. B. ジャクソンは風景を「我々の集合的存在の下部構造、或いは背景として働く人工の、或いは人の手により修正された空間の構図」であると定義する。この言葉の中で重要な部分は「人工の、或いは人の手により修正された」と云う一節だろう。風景とは飽くまでも人の手の加わったものであると云うことだ。そして「集合的存在」と云う言葉が示すように、風景とは何らかの集団によって共有されてはじめて成立するものなのだ。風景は「私」によって作られるのではない。「我々」によって作られるのだ。中村はこれを「風景の集団的表徴」と呼ぶ。つまり風景は〜自然であれ、都市風景であれ〜惟それだけで存在するものではないのだ。夫れを見る人々の視線があってはじめて存在するのだ。換言すれば風景はその時代の人々の心性の中に在るものだと云っても良かろう。サイモン・シャーマはレネ・マグリットのこんな言葉を引用している。「我々は世界を我々の外に在るものかのように観るが、その実、夫れは我々が心の中で経験していることの心的表徴に過ぎない。」前掲の駿河町の構図でも分かるように、それはまさに江戸の人々の背景として作られた視線であったのだろう。
泥絵に関する言説史
「泥絵」と云う用語は、元来江戸期にはその種の絵画を指す為に使われていたものではなく、近代の美術史用語として創造されたものである。吉田小五郎は「泥絵」と云う言葉は一九一〇年頃から使われ始めたのではないかと述べている。洋画家、岸田隆生(1891-1921)は一九二四年の絵日記の中で絵を添え、新門前で「昨日購った泥絵」(「霞ヶ関」の図か?)について書き留めている。また『初期肉筆浮世繪』で斯うも書いている。「安政前後に造られた職人絵の覗き眼鏡用の土呂絵の中、江戸風景を描いたものは、ちょっと浮世絵らしい審美を持ったいい味を持つ。下手[げて]のものではあるが。」この時点でその種の絵画を「泥絵(乃至は土呂絵)」と呼ぶことが定着していたのが分かる。
明治以降、泥絵が美術史或いは美術評論の文脈の中で語られた端緒と云われているのが、一九〇三年の国文学者、藤岡作太郎
(1870 - 1910)による『近世繪畫史』である。「明治維新以前の洋風画」と題された一章の中で、「また泥絵具を以て芝居の道具立の遠見の書割を作り、覗き眼鏡の景色をかくものあり。(中略)これは画意を応用せるものにして、また江漢らが鼓吹の功なり」と泥絵に触れている。
泥絵の大々的な評価と云えば、民芸運動の創始者、柳宗悦を忘れてはいけない。大津絵や硝子絵と共に、彼は泥絵を民画の一ジャンルとして定義づけている。彼自身の主宰していた定期刊行物「工藝」に書いた一九三四年の文、「繪畫論」において、泥絵は威厳が無く、個人的なものではないが故に過小評価を受けていると云う。彼による泥絵の特徴とは、一、無名の画工による作であり、二、個人性の欠如と数多くの画工の伝統の上に立ち、三、様式化された空、人物、建物の描写であると云う。更に「偉大なる」個人による作品のみを珍重する近代の性向を批判した上で、斯う云う。
「絵画を個人の絵画だとする概念は余り狭隘すぎる。個人的な仕事もあっていゝ。併し個人のみいゝ仕事が出来ると思ふのは画家達の自惚れである。協力が立派な仕事を生むことを絵画の領域でも証明したい。否、協力でなくば出て来ない美しさが存在する。(中略)個人の絵画より組織の絵画へ、是が将来に於ける絵画の方向でなければならぬ。」
続けて彼は泥絵の他の特徴である、価格の安さと大量生産性を賞賛する。同時に彼が言及するのは「絵画の社会性」についてである。将来の絵画は、泥絵の如く、個人の絵画ではなく、社会的な絵画でなければならない、と云う。「社会的」であるためには、絵画は複写可能であらなければならない。広告の図版等を無視してはいけない。もっと発展するためには、絵画は「多量」であり、「公共の」ものにならなければいけないと彼は説く。『繪畫論』は彼の美学についての激烈なるマニフェストであり、泥絵はその為の恰好の素材であったのだろう。
彼の論は非常に激烈であり、また泥絵に関する特徴であると考えられる諸点を見落とす、或いは無視している。つまり浮世絵、眼鏡絵、他の先行する洋風画との密接な関連や、都市生活との関わり、そして大津絵のように完全に「無銘」ではない事実、等である。実際、「民画」と云うカテゴリー自体が「民芸」を補完する役割、つまり民芸が総合芸術であるためには、図像表現も必要である、といった理由のために創造されたジャンルではなかろうか。それ故、どうしても他の民芸、焼き物や民具に比べると柳の民画に関する論理展開に甘さが見られるのも仕方がないのかも知れない。その為、上記の如く、激越な論調になるのだろう。然しながら泥絵の存在を、只の洋風画の亜流と云ったものではない評価をしたという点で、猶彼の功績を無視することは出来まい。
プルシアン・ブルー・スカイ
泥絵において最も特筆すべき特徴と思われるのはその画材である。泥絵を制作するとき、先ず胡粉を下地として塗る。そしてその上に泥絵の具で彩色して行くのである。泥絵の具の辞書による定義とは、「胡粉などを含む廉価な粉状の顔料。厚塗りで不透明な効果があり、水に溶いて使用する」といったものである。これはほぼ西洋におけるグアッシュに似たものである。グアッシュとは不透明な水性絵の具であり、「樹脂を固定材とし、何らかの形で白色顔料(土や重晶石等)が混合剤(filler)としている。これにより暗い色調においてもチョークのような効果がある。」泥絵の具は胡粉をfillerとして使っている。胡粉とは「牡蛎などの貝殻をすり潰して作る白色顔料」であり、室町時代から現在に至るまで日本の絵画に使われ続けてきたものである。此のような画材が何故使われていたかを理解するために、先ずはその顔料そのものの輸入を歴史的に検証していきたい。
多摩美術大学材料学研究室は化学的に泥絵の顔料を分析して報告している。そのレポートによると、そのなかからは胡粉、鉛白、酸化鉄から作られた茶色の顔料、硫化砒素を含む黄色の石黄、そしてプルシアン・ブルーが定量分析により検出されたという。これにより泥絵が、白、茶、黄、青だけの単純な色彩で全てを表現していたことがよく分かる。この中でも最も興味深いのが青色の顔料である。
殆どの泥絵の上半分以上が鮮やかな青色で厚塗りされている。佐々木静一によるとこの青空には江戸の人々の「広い空間」への憧憬が見られると謂う。氏はこの青と線遠近法にこの憧憬の証拠を見出す。この青は「プルシアン・ブルー」或いは「ベルリン・ブルー」と呼ばれる化学顔料によって作られたものである。当時はこの顔料は「ヘロリン」、「ペル」或いは「ベロ藍」と呼ばれていたが、全てオランダ語の「ベルレーン・ブラーウBerlyns
Blaauw」の転訛したものである。この鮮やかな〜インディゴ藍より更に鮮やかで明るい〜化学顔料は十八世紀後期より日本の洋風画に使われては居たが、幕末期になって浮世絵によく使われるようになった。
この顔料はフェロシアン化鉄から出来ており、一七〇五年(或いは一七一〇年)にドイツで発見され、一七三〇年代には広く生産されるようになっていた。一七五〇年代にはヨーロッパ全土で使われるようになった。一七六三年に平賀源内は本草学の書、
『物類品隲』を著し、その中でプルシアン・ブルーに触れている。と云うことはその時点では既に日本に輸入され始めていたと云うことであろう。然しながらその時にはまだまだ高価な顔料であったことも事実だ。秋田藩藩主で洋風画家の佐竹曙山曰く、「阿蘭陀人ノ持チ来ルモノニシテ甚ダ得ガタシ。」また、ある版元が書いた『真佐喜のかつら』に見られるように、「唐藍は蘭名をヘロリンといふ。此絵の具摺り物に用ひはじめしは文政十二年よりなり、(中略)聊心得て摺り物に用ひるに藍紙の色など光沢の能きこと格物なる故、狂歌俳諧の摺物は悉く是を用ひぬ。されど錦絵には用ひざりしが、翌年堀江町弐丁目団扇問屋伊勢屋惣兵衛にて画師渓斎英泉画たる唐土山水、うちは隅田川の図をヘロリン一色をもって濃き薄きに摺立、うり出しける、地本問屋にては馬喰町永寿堂西村与八方にて前北斎のゑがきたる富士三十六景をヘロリン摺りになし出版す、是又大流行団扇に倍す。其ころ外にしき絵にも皆ヘロリンを用る様になりぬ。」
この青色顔料が頻繁に錦絵などに用いられるようになった端緒は一八三〇年に伊勢屋が売り出した渓斎栄泉の錦絵の扇絵であった。其れに続くように出版された葛飾北斎描く『富嶽三十六景』においてこの人気は決定的となり、他の錦絵にも使われるようになる。この後、プルシアン・ブルーの使用量は飛躍的に増大し、一八三〇年代初期には価格は一八二〇年代のそれと比べ十分の一に下落したと云う。この大人気となった鮮やかな青は北斎や広重の風景版画を特徴づけるものとなっていくのである。
小林忠の鈴木春信の描く青空に関しての考察を踏まえた上で、ヘンリー・スミスはこう言う。「渓斎栄泉の鮮やかなる青の使用は『唐』への憧憬、つまりアジア的なるものへの憧憬を顕している。風景版画はある種の窓として進化していた。常により広き世界と云う概念を包含していたのである。江戸の人々にとって青と云う色は、広い空、果てしなき海洋、エキゾティックな異国、と云ったものと繋がりがあった。そしてこの繋がりは肥前焼きに見られる中国趣味によって励まされ、持続していったのである。」この仮説はおそらく泥絵の青にも当てはまるものであろう。イメージの半分以上を占める強調された青い空は、海外から輸入された線遠近法と共に、江戸の人々のエキゾティックなものへの憧れを示していたのであろう。
線遠近法の導入
洋風画の日本への導入は大航海時代へと遡る。一五四三年、ポルトガル人達が種子島に漂着し、日本に火器を紹介した。そして一五四九年にはスペインの宣教師、フランシスコ・ザビエルが来日しキリスト教を伝え、彼にまたポルトガル人やイタリア人も続いた。彼等が日本に紹介したものはキリスト教や西洋の最新テクノロジーだけではなく、西洋風の絵の技法も共に日本に伝えた。日本の洋風画の歴史の第一章がひもとかれたのである。絵画技法も含めた西洋文化との接触は、南蛮趣味と云われたものの流行を産み出すこととなる。宣教師達、特にイェズス会の宣教師達はキリスト教のイコンを持ち込んだ。イェズス会はジョバンニ・ニコラオと云う画僧を日本に送り込み、かれは日本人信者達に西洋風の技法を教えた。一五九〇年代には九州に少なくとも二つの画家・職人グループがあったようである。イェズス会系の記録にはレオナルド木村、ヤコブ丹羽等が挙げられ、日本側の記録には山田右衛門、生島三郎左等の名が見られるが、その作品は現在には全く伝わっていない。今日唯一見られる作品は「信方」と云う署名の入った作品である。この時期の洋風画は遠近法や陰影法などの技法を取り入れてはいるものの、まだまだ人物の描法は様式的なものに留まっていた。
所謂鎖国政策が一六三九年に施行され、それから百年間というもの日本の絵画に対する西洋の影響は殆ど見られなかった。然し八代将軍
徳川吉宗 (1684 - 1752)のもと、西洋の書物(西洋の書物の中国語訳も含む)の輸入に対する禁制が緩和された。勿論キリスト教関係の書物の輸入は禁止されたままであったが。この禁制の緩和により日本の洋風画の歴史は再び始まることとなる。西洋の技法に対する反応は先ず奥村政信、西村重信、鳥居清忠等の浮世絵師達によってなされた。このような線遠近法を取り入れた作品群は「浮絵」と呼ばれた。最初の浮絵は一七四二年頃に描かれたと思われる。その無署名の最初の絵から見ても分かるように殆どの浮絵は劇場内部や吉原遊郭の景観を題材としていた。然しその西洋風技法は直截西洋から伝わったのではなく、中国の蘇州版画から伝わったものだと考えられている。
泥絵について考察するとき、忘れてはならないことは西洋の技法の受容は当初民衆画家によってなされたと云うことである。山口泰弘の指摘にあるように、通常洋風画は実証主義の流行と蘭学の発展の影響下に発達したと思われがちである。が、広く西洋風表現そのものを見る場合、浮絵や司馬江漢の熱心な大衆への啓蒙活動に見られるように、それは二重構造を持っていた。蘭学者などのエリートだけでなく、一般大衆もまた洋風画の出現と発展に力を貸したのである。エリート画家が西洋風の写実主義を取り入れる前に、徳川期の民衆画家達はその表現の持つ幻惑的な感覚に注目していたのである。
岸文和の指摘によると、浮絵とは二つの眼差しの対立と合同の物語であると云う。つまり西洋の眼差しと日本の眼差しとの対立と合同である。線遠近法を採用した浮絵の眼差しは第二世代の浮世絵師達〜歌川豊春や北尾政美〜によって受け継がれ、完成に向かっていくのである。そして葛飾北斎や歌川広重等に手渡される。浮絵から風景版画への変貌である。
浮絵の発現とほぼ同時代になるが、京都において別種の遠近法絵画が産まれた。「眼鏡絵」と呼称されるもので、所謂覗き眼鏡(optical
diagonal machine)で視る為に制作されたものである。一七六〇年代から七〇年代にかけて、それらの絵は京都で活躍していた画家達(幾つかは円山応挙作と云われている)によって制作された。明治期の円山・四条派の流れを汲む画家、久保田米僊(1852-1906)は応挙が眼鏡絵を描いたと証言している。これはおそらく円山派に口伝として伝わっていたものであろう。この様な眼鏡絵で泥絵の具を使ったものは、しばしば「上方泥絵」と呼ばれている。
眼鏡絵に最初に注目した学者は黒田源次である。『西洋の影響を受けたる日本畫』と云う評論集において、彼は「圓山應擧の眼鏡繪について」と題された一章を設けている。その中で彼は、眼鏡絵を応挙の自然主義への志向の証としている。これらの作品群は歌川豊春の浮絵に影響を与え、そして間接的にではあるが広重にその影響をおよぼすこととなる。応挙が題材としたのは日本の名所と中国の風景である。中国を主題にしたものは、遠近法が中国経由で伝わったことの証左となるであろう。
眼鏡絵を見る為の覗き眼鏡には二つの種類がある。一種類目は箱形の構造でレンズが一枚だけ付いている。そして観る者はそのレンズで拡大されたイメージを楽しむのだ。これは「直視式覗き眼鏡」と呼ばれる。「反射式覗き眼鏡(optical
diagonal machine)」と呼ばれる、もう一つの種類はレンズと鏡を併用したものである。観る者は鏡に映ったイメージをレンズで拡大して観る。当然鏡に映して観るのであるから、映像は逆転する。であるから、まともな映像を観るためには、絵は左右逆転して描かれなければならない。フランスから輸入された反射式覗き眼鏡の使用例は、鈴木春信の浮世絵版画、『六玉川の内、高野の玉川』に見られる。長崎の出島にその様な覗き眼鏡が輸入されたのは一七五五年に迄遡ることが出来る、と記録にはある。泥絵が眼鏡絵をその祖先とする一つの理由は、泥絵にも左右逆転して描かれた作品が数多く見られるからである。
眼鏡絵や浮絵は個人的に前掲のようなからくりによって楽しまれるだけではなく、公共の場で見世物として興行されることもあった。平賀源内が戯作者、福内鬼外の名で記した浄瑠璃『実生源氏金王桜』に見世物の覗きからくりの口上の一節がある。
「サアサアサア来たり覗いたり。サアサア是は日本一の御覧物、先最初にお目に懸けまするは、お江戸本所五百羅漢の体でござります。次は武蔵下総の国境、ソレ、長いは長いは、両国橋は長い長い、おかごでやろか、お馬でやろか、十六七に手を引かれ渡りまする体にござりまする。ソレ向ふに見えまするは、あは雪の見世、数多群集致しまする体、是も夜分の景色と御覧に入れますれば、ソレ辺りの茶店、屋形船、数多の小船迄、残らず火を点じまする。何と御らふじませ、よい細工ではござりませふがな。あなたには玉屋が花火ぽんぽんと燈じまする。此義お目にとまりますれば先ツせん方はおかわりでござりまする。」
全く覗きからくりの実演の場が眼に浮かぶような描写である。ただ遠近法を用いた図像を覗かせて楽しますだけではなく、「辺りの茶店、屋形船、数多の小船迄、残らず火を点じ」させるための何らかの工夫が成されていたことであろう。実際渡辺コレクションには、吉原の大見世を描き、その窓の部分を切り抜き、半紙をあてがい、或いはその空の其処此処に細かい穴を開けた細工を施した泥絵がある。普通に見れば昼の吉原の情景であるが、裏から光を当てると、夫れが一転して夜の吉原雪景色に変わり、窓から光が漏れると云う趣向である。
この様に「趣向」として取り入れられた線遠近法であったが、その後夫れや陰影法等の他の西洋技法等を組み合わせることにより、独自の西洋画派を形成していく画家達がいた。鈴木春重と呼ばれた人物がいた。彼は春信死後、版元の依頼で春信の贋作を沢山制作していた。後に彼はその筆名を司馬江漢(1738-1818)に変える。元々沈南蘋風の花鳥画をよくしていた彼は、蘭学者、戯作者、鉱山師、本草学者、そしてビジネスマンでもあった平賀源内(1729-1779)の影響下に西洋風の画法を会得した。これを専門の洋風画家の誕生〜洋風表現をとりいれた浮世絵師等ではなく〜と見てもよいだろう。江漢に先立ち、また一部の武士階級の画家達もアカデミックに洋風画を学びだした。秋田藩士、小田野直武(1749-80)もまた源内に西洋画の手ほどきを受けた一人である。直武とその藩主、佐竹曙山(1748-85)等が中心となり、秋田の地に時ならぬ洋風画の華が咲いた。これが秋田蘭画と云われる一派である。蘭学・洋学の強い影響下に彼等は絵を描いた。然し彼等の死後、その一派は途絶えてしまった。江漢や秋田蘭画一派の画業を伝えたのは亜欧堂田善(1748-1822)らであった。
画論、「西洋画談」で江漢はこの様に述べている。
「世の人西洋画を惟浮画と覚へたる輩多し。捧腹にたへざる事と云べし。如何となれば、画は毎々云ふ如く、写真に非ざれば妙と為るにたらず、又画とするにたらず。其写真と云は、山水・花鳥・牛羊・木石・昆虫の類を画くに、毎見に新にして、画中の品物悉く飛動するが如し。これは西洋風に非ざれば能はざる事なり。故に写真を為者より彼の和漢の画を視れば、誠に小児の戯れに幾ふして、画と為るにたらず。世の人其画と為にたらざるものを平常眼に触る故、忽超然たる西洋の妙画を見て、却て一種の画となし、別に浮画など云は、言を解さざるの甚きと謂べし。」
このマニフェストと云うべき文は、浮絵への批判に多くの部分を割いているが、その批判は浮絵などにおける線遠近法の表面的な摂取に対するものである。彼自身、浮絵を含む浮世絵の作家であり、その「表面的な摂取」から産まれた画家ではあるのだが。此の文は彼が西洋の科学的に正確な技法を、彼の絵画を創作する上での必要不可欠な「思想」として受け取っていたことの物証に他ならない。彼の文の主たる主張は、所謂「写真」つまり写実主義の強調にある。「毎見に新にして、画中の品物悉く飛動するが如」き絵を描くための観察作業と技法の重要性。其れ等を重視しているのだ。
江漢等の西洋技法の習得は、後の浮世絵師、葛飾北斎(1760-1849)や歌川広重(1797-1858)に受け継がれていく。彼等、所謂「風景版画」の制作者達が単に浮絵を発展させただけではなく、江漢や秋田蘭画の強い影響下にあったことは疑いなかろう。広重の『東海道五十三次』シリーズの多くの構図が江漢の署名の入った『東海道五十三次画帖』(伊豆高原美術館)に負っているとの指摘もある。
江漢、直武や田善等は多くの風景画や風景銅版画を制作した。その多くは江戸名所と呼ばれたものであり、泥絵の主題と共通する。先に述べたように、これらは江戸期において新しく認定された名所群であった。例えば江漢が最初に制作する事を成功させた銅版画の主題は三囲稲荷神社であり(興味深いことに其れは逆描きの眼鏡絵であるが)、其れは泥絵の重要な主題のひとつであった。
また直武描く所の鎌倉の江ノ島(大和文華館)もまた泥絵の好んで描いたものである。しかもこの構図は後に明治洋画の開祖と称せられる高橋由一に受け継がれる。由一は油絵にてその風景を描写した(琴平宮博物館)。よって泥絵の構図の元と風景版画の其れの元は同じく江漢等のの洋風画派から来ていると見ても妥当であろう。換言すれば、直武や江漢や田善の作品は後の泥絵や浮世絵のプロトタイプであったとも云えよう。
今まで描写してきた洋風画の歴史の中で、泥絵は何処に位置づけられるであろうか。先ずは其れは眼鏡絵の直系の子孫であると思われる。この系譜を裏付けるものとして、泥絵において、同じ風景が正像と逆像の絵の両方にて描かれていることを指摘したい。ここに三種の三囲稲荷社の図がある。三囲稲荷は向島にあり、俳人其角の「夕立や田を見めぐりの神ならば」と云う句で知られていた。二つは墨田川を右に描き、前掲の俳諧にも詠まれた水田を左に置いている。そしてもう一つの作品、司馬口雲坡の署名入りの三囲稲荷の雪景色は川を左に、水田を右に置いている。その署名が在るが故にこの絵は正像の絵であると判定出来る。もし逆像の眼鏡絵ならば、無記名乃至は逆像でサインされている筈であるから。さらにこれらの絵は明らかに江漢の銅版画(前述)と同じ構図を持っている。江漢の其れは反射式覗き眼鏡の為に作られたと考えられるので、これもまた二つの泥絵が逆像眼鏡絵であることの証拠にもなろう。然し反射式眼鏡絵は矢張り高価なものであり、皆が持てるようなものではなかった。泥絵は確かに眼鏡絵の子孫として産まれたものであるが、一般化の過程で眼鏡絵に拘泥せず、独自のものとなっていったのであろう。
また看過してはいけないことは、泥絵と浮世絵の密接な関わりであろう。幾つかの泥絵の図柄は、特に徳川期に新しくオーソライズされていった新名所を描いた浮世絵の風景版画と共通している。ただその中で泥絵にだけ特徴的に見られる主題は大名屋敷である。勿論、技法的及び様式的な側面から見ると、泥絵と浮世絵の間には随分隔たりはあるが、江戸期の新名所を描く浮世絵風景版画と泥絵が徳川の治世の最後の一時期に噴き出してきたと云うことは、その名所〜江戸府内であれ東海道であれ〜が確立したのはその時期であったとは考えられないだろうか。
泥絵の取り入れた遠近法は、勿論江漢や曙山、或いは広重や北斎などに比べても完全なものではない。むしろ不正確であるとも云える。泥絵「赤羽有馬邸」の部分写真の奥へ向かう線を強調してみた。右側の海鼠塀と左側の家並の頂点をなぞる線は一致しているものの、その下辺は違う消失点に向かって伸びている。更にその手前の橋に至っては遥か手前に消失点が来すぎたため、妙に遠近感が出てしまい、向こう岸の橋幅が随分と狭くなってしまっている。
ではこの線遠近法の不正確さから読み取り得ることは何であろうか。線遠近法を使うこと、そして洋風であることは泥絵の画家達にとって「趣向」の一つだったのであろう。此処で云う「趣向」とは例えば中村仲蔵が「仮名手本忠臣蔵」の斧定九郎の演出を換骨奪胎し、作り上げたような、或いは『南総里見八犬伝』にて曲亭馬琴が『水滸伝』をメタ・ストラクチュアとして借用したような、江戸期の町民文化にしばしば見られる物事を面白くさせるための「仕掛け」を指す。泥絵における線遠近法の採用とは、物事を「写実」的に写さんが為の線遠近法の使用と云うよりは、むしろ絵の面白味を引き出すが為の装置として線遠近法を使ったと云うことなのだろう。二次元の紙の上に三次元の幻影を作り出し、夫れによって人を驚かし、楽しましむる。その目的のためには正確な遠近法や、泥絵が採用しなかった空気遠近法や陰影法等の西洋技法は必要な物では無かったのだろう。
山口泰弘は秋田蘭画の生真面目な外光処理と江漢のより自由な光線操作を比較した上でこう言う。「司馬江漢は(中略)当初から市民層を視野に置いていた。秋田蘭画から江漢にいたる過程で外光の扱いに変化が起ったとしたら、それは、市民層への感覚の擦り合わせを図る必要性の有無から生じた、外光そのものの機能の変化に起因しているのではないだろうか。つまり、目新しさ、おもしろみを追求してやまない江戸市民の嗜好が、秋田蘭画の科学的なものとしての外光から、趣向としての外光へと変質を促したのではないだろうか。」この論考は、より民衆に寄り添った形の洋風画、泥絵にも当てはまる。否、泥絵には江漢には見られる遠近法の正確ささえ見られない。泥絵に使われている遠近法とは、即ち純粋に視覚的な驚異を与えるためだけの使用目的で採用された趣向なのでは無かろうか。秋田蘭画や江漢において、線遠近法はあくまでも「科学」であり、即ち絵画の創作の基盤となる「思想」であったと云えよう。ところがそれが泥絵に至っては純粋なる趣向に収斂されている。大名屋敷が飛び出る驚異、海鼠塀が延々と続き地の果てに消え去るような幻覚。その様な感覚を呼び起こす装置として線遠近法は泥絵において使用された。それは江戸の諧謔精神や遊戯精神に一脈通じる「趣向」ではなかったろうか。泥絵を手にした人はおそらく江戸の空の広がりとその都市の大きさ、また大名屋敷の壮大さに思いを馳せたに違いない。その驚異の感覚〜センス・オブ・ワンダー〜を喚起するためにのみ、泥絵はその西洋風技法を取り入れた。佐藤中陵が記す如く、泥絵は西洋の「画法を知らずして」まさに「只奇として見るのみ」であった。「奇」こそが即ち趣向であり、泥絵が驚異の感覚を追求する上で西洋画より選択的に受容したものであったのだろう。そう云った意味で、彼の言は正鵠を射ていたと云えよう。
然しこの様な、ある種無邪気とも云える、趣向としての西洋風絵画技法の摂取は明治の世を迎えるとともに徐々に衰退していく。西洋風技法を用いた図像表現はまさに「開化」の表徴であり、進化の象徴たる洋風表現をもつ洋風画は「洋画」にその姿を変えていく。洋風表現の科学的な正確さは絵画を創出する際の「思想」的バックボーンにならざるを得ない。その様にして「洋画」は文明論的な意味を与えられ、価値観が付随してくる。また同時にその洋風技法を取り入れないこともまた一つの「思想」となり、洋画に対する「日本画」と云うカテゴリーが此処に産み出される。勿論、明治も中頃となると横山大観や竹内栖鳳等の様に西洋表現を取り入れる運動も「日本画」内に起こってくるが、夫れはもはや真摯なる思想であり、泥絵の如き無邪気な遊戯は許されない。
此処で私は泥絵の「無邪気な西洋表現の摂取」を称揚し、明治の「真摯なる洋風表現」を貶めている訳ではない。私の設定する問題領域が那辺にあるかと云えば、むしろ泥絵が如何にして「日本美術史」の枠組みからこぼれ落ちていったかにある。その言説の中では秋田蘭画や司馬江漢は、しばしば近代的実証主義の先駆者として描かれ、それがそのまま高橋由一や五姓田芳柳を経て近代洋画に繋がるかのように記述される。その中に泥絵を置いてみるとまさにそれは司馬江漢の予感した「近代」を遡行させる後ろ向きの表現に見えるかもしれない。泥絵の悲劇はその様な二者の間にあり、近代の進化論的な言説から云えば、単なる退化にしか見えなかったことにあるのでは無かろうか。浮絵から始まり、眼鏡絵、秋田蘭画、司馬江漢一派、そして泥絵へと続く江戸「洋風画」の流れと、高橋由一、五姓田芳柳・義松等に始まる近代「洋画」の流れは「日本美術史」においては分断されて記述される。然し実際両者は一八六八年によって分断されるのではなく、或る確かな連続性を持っている。「江戸」から「明治」へ、「近世」から「近代」への変わり目として一八六八年の持つ役割は確かに大きい。そして夫れ以前の絵画とそれ以降の絵画の間には確かに大きなギャップが存在する。夫れでも猶、その両者は分断して語られるものではない。その連続性とギャップを双方見つめて語るべきであろう。
近代の国民国家が産声をあげ、夫れまで存在しなかった、虚構としての国民、「日本人」を存在さしむる為に、その「日本人」と云う集団が全て持つ共有財産が必要であった。そうして創設されたのが「国史」であり、「国文学」でああり「日本美術」であった。そして「美術」と云う言葉の導入は様々な視覚的表現を「美術」と「非・美術」に分け、階級を付けていった。その様な波の中で泥絵はその手から漏れ、省みるものも殆ど無い侭、衰退していくこととなる。斯くして泥絵は消え去り、「思想」を持たない、「趣向」としての洋風表現は「日本美術史」と云う、これもまた近代の制度により黙殺されていく。趣向として線遠近法を取り入れた泥絵はその様に忘れ去られていったのではないだろうか。
跋語
私が泥絵をはじめて観たのはニューヨークのジャパン・ソサエティー・ギャラリーにおいてであった。その時はミネアポリスの大津絵コレクションの展示であって、その当時大津絵に興味を持って調べていた私には非常に有益な展覧会であった。その会場の一角に設けられた硝子ケースにその泥絵はあった。
そのケースに収められた物品は非常に数奇なる運命を辿ったものたちであった。戦前に柳宗悦がジャパン・ソサエティーで民芸展を企画した。ところが十五年戦争の激化と日米の開戦に伴い、その企画はお蔵入りとなった。展示物は全て運び込まれた後で、今さら日本に送り返す訳にもいかず、ジャパン・ソサエティーの収蔵庫に納められた。それは戦後何十年と眠り続け、陽の目を見たのは最近である(その後、私もその整理に携わることとなるのだが)。
その中に一点の泥絵があった。
それは大川端辺の雪景色であった。典型的な泥絵と違い、サイズも小さく、泥絵の特徴の一つであるプルシアン・ブルーの青い空もなかった。しかしその奇妙な遠近法の使用と厚塗りの不透明な絵の具はは私の目を捉えてはなさなかった。その時から私は泥絵のことを調査し始めた。
私もはじめは御多分に漏れず民芸の一部として捉えていた。ところが調べを進めるうちに大津絵との違いが目に付いてきた。一方は街道沿いの産物であり、一方は都市のものである。一方は仏教版画等をベースにしているもので、一方はあくまでも洋風画である。その中から都市への視線の発露としての泥絵、そして洋風表現の趣向としての受容と云う本稿のとった態度が産まれてきた。
浮世絵と同様に、泥絵は江戸の町人階級の文化が産み出したものだった。三次元の幻覚を醸し出す装置としての線遠近法の技法は、空間の広がりを描出するために趣向として採用された。そして新しい輸入顔料、プルシアン・ブルーを獲得したとき、江戸の泥絵は産まれた。空と海の鮮やかなる青は、その顔料そのものが持っていたエキゾティズムを顕している。青一色に塗られた空の過大なまでの広がりは、江戸の人々の空間への執着を示している。泥絵は江戸土産としてその大都市の周縁の絵屋で売られ、他の地方にその都市の姿を知らせた。この廉価な、そして奇妙なイメージはその大都市が「東京」と名を変えるその前夜に、江戸へのセンティメントを込めてその都市を描いていたのだろう。
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