序 都市の細片
都市についてのディスクール、つまり都市を語る行為は、様々な形でなされてきた。地図や意識調査、文学作品の描く情景も、勿論絵の中の街も、須く都市についてのディスクールである。しかしこれらの言説が、完全なる客観性を具えること等あり得ない。地図のように「科学的」とされる記述においても、恒に記述者の都市概念が影響を及ぼしてしまう。記述するものが都市をどのようなものとして捉えているのか。これが都市についてのディスクールに含まれていることを見落としてはならない(註1)。更にいえば、観者、すなわち消費者抜きには、イメージは流通しない。従って「都市を語ること」とは、都市という客体と、記述者の都市概念、更には消費者の期待する都市概念を共に含む行為なのだ。様々な都市のイメージが存在するが、そのどれにリアリティを感じるかは、全くもって主観的である。ある特定の人々によって期待される、あり得べき都市像。これを何らかの形で定着させたものが、都市の視覚的表象というものなのだ。
世界でも一、二を争う大都市であった江戸においても、都市は盛んに視覚的に表象された。特に十八世紀、西洋の線遠近法の導入以降、江戸という大都市は分節化され、「細片」として視覚表象されるようになった。その分節の基本単位となったのが、「名所」といわれた場所群である。名所絵は様々な形を採って現れるが、その中で、本稿で中心的に取り上げていきたいジャンルは、「江戸泥絵」と呼ばれる作品群である。端的にいうと、江戸泥絵とは、江戸時代末期に江戸で生産・販売された景観イメージである。泥絵とは、泥絵具という画材、つまり胡粉を混ぜた廉価な不透明な絵具を使用した絵画のことを指す。特に江戸泥絵は、新しく海外より輸入され始めたプルシアン・ブルー(註2)という化学合成顔料を使い、江戸や諸国の様々な名所を、線遠近法と陰影法という西洋渡来の語法で描いた土産絵と定義されるものだ。殆どが無銘で、生産者の姿は明らかにはされていないが、多くは江戸芝神明前の「絵屋町」で作られたようだ。最大級のコレクションは、横浜の故渡辺紳一郎氏(現在は柴花江氏が受け継いで管理されている)のそれであり、三百点程所蔵されている(註3)。この絵画群を手懸かりとして、江戸末期において都市を語ることとは如何なることであったのかを問い、かつ都市研究の一環としての視覚文化研究の可能性を探るのが、本稿の主たる目標である。
本稿においては、先ずは江戸という都市についての幾つかの論を紹介し、更に規範力をもった景観としての「名所」を考察する。次に、泥絵の代表的画題である大名屋敷景を取り上げ、その描写内容を確認する。そして同時代の同一景観を扱った浮世絵との比較を通じて、泥絵の特性を探る。最後に、「風俗」と「景観」という二類型を示して、「都市を語る視覚的イメージ」の多様性を示唆し、筆を措く。
一 不連続都市の肖像
そのような都市イメージの描いた対象であった江戸の町とは、どのような構造を持ったものだったのであろうか。江戸の町は、近代都市とは異なり、不連続性がその特徴の一つであった。江戸の町には「身分地域性」と呼ぶべきものが厳格に適用されていた。つまり、武家地、寺社地、町人地と居住区域を厳格に定められることにより、凡ての都市民は、その身分、格式、職業によって都市全体の中に占める自分の位置を確実に決められていた。またそのような場所同士は、木戸や堀等によって交通を制御されることにより、さらに秩序だてられた。このような身分制に基づいた分節化と、交通の制御により、江戸の都市空間は不連続に組織されていたのだ。この都市構造は、身分制を用いて支配を円滑に進めていこうとした徳川幕府の政策に準拠している。江戸では、大名屋敷から裏長屋に至るまでの諸建築は、各々の「格」にしたがって、その意匠や記号が細かく定められ、また人々の衣服や所作も身分的な秩序にしたがって厳密に統制されていた。結果、都市は人々が身分制的な秩序を日々の日常的実践のなかで上演し、それによって社会的秩序を再生産し続ける、いわば「権力の舞台」であったとの指摘もある。つまり江戸においては、「身分的な記号の統制と差異化という文化的な操作」が行われていたのだ。江戸という都市は、巨大城下町という一言では括りきれないところがある。それはまた同時に港湾都市でもあり、門前町でもあり、宿場も内包し、要するにどうしようもなく重層的な町であったのだ。ここに、地方都市とは違う江戸という町の特殊性がある(註4)。このように多様性に富んだ町に産まれ、根付いた文化もまた、多様であり、雑多なものであった。様々なサブカルチャーがあり、様々なイデオロギーがそこにはある。そのような状況下で、江戸後期には非常に多くの都市名所が生み出されていくこととなる。
江戸期における名所に対するオブセッションとは、いい換えれば「場所」に関する情報の集積に対する関心から始まるものであるといえよう。まさしく「トポフィリア(場所愛)」である。以下、名所絵とはどういうものであるのかを考察していきたい(註5)。いう迄もなく「名所絵」とは、「有名」な「場所」を描いた「絵」だ。「有名」、すなわち「名の有ること」とは、ある共同体の中で、その構成員の多くがその「固有名」を知っていることである。場所の固有名が知られているということは、何らかの理由があろう。名所の場合は、その理由と場所の結びつきが非常に強固であるので、場所の名前を聴く、あるいは場所を描写したイメージを視ることは、その理由を思い起こすことに繋がる。要するに場所の名前が隠喩的に、その理由を指示するのだ。あるいは、名所とはその理由という「情報」を受容者に伝える媒体であるともいえよう。勿論、伝えられる情報とは、その場所が知られ始めた理由だけではない。その後に様々な情報が付加されることも往々にしてある。その場合、オリジナルな情報が忘れられ、新しい情報がすり替わることもあろうし、二つ以上の情報が共存することもあり得る。中古文学のにおける「名所」(この場合は多く「ナドコロ」と訓ぜられる)の場合は、その情報とは和歌、あるいは物語というテクストである。例えば歌枕としての「隅田川」は伊勢物語第九段の歌「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思う人はありやなしやと」という情報を思い起こさせる記号であったが、更に室町期には謡曲『隅田川』が作られることにより、前述の歌に併せて梅若丸伝説という情報も付け加わえられた。かくの如く名所は様々な情報を配送する記号なのである。古くは、名所の伝える情報はテクスト的なものに限定されていた。しかし中世頃から、その概念は拡張し始め、詩や散文を参照しないものも名所に数えられるようになった。寺社等の宗教的な意味を持つところや、その場に出かけていく遊興を伴った行楽地等々。江戸も末になると、木版印刷メディアの発達と共に、名所の概念は甚だしく拡張することとなる。『江戸名所図会』〔一八三六年〕では、単純に項目を数え挙げただけでも、九百三十二箇所にも及ぶ江戸の名所が網羅されていることとなる。「隅田川」という名所にも、江戸期になると「墨堤の桜」や「両国の川開」等が人為的に創り出されることにより、様々な情報が更に付加された。
もう一つ注目したい点は、その場所と関係のある場所が有名性を持っている場合、その記号同士は相互連関を起こすし、その関係は隣接性を軸とする換喩的なものであるということだ。つまり「隅田川」であれ、「日本橋」であれ、そうした名所は、それを含む大きな場所、つまり「江戸」を指示する記号でもあったということである。特にその名所が、「江戸名所」として定義付けられ提示される場合、それは顕著なものになるだろう。これが「都市名所」の特徴である。そもそも巨大都市は、それだけで広い意味での名所である。それは《洛中洛外図》を観れば理解できるように、名所の集合体として表象された。無論、『江戸名所図会』もその試みの一つである。この場合、江戸はメタレヴェルにある名所であると捉えられよう。そのようにして都市の名所は互いに連関しながら増殖していく。前述の「隅田川」を再び例に採ってみたい。例えば、隅田川は『江戸鹿子』〔一六八七年〕に江戸八景の一として記載された(註6)が、この場合、「隅田川」は換喩的に「江戸」というメタ名所を指示する名所である。また佃島永代橋からはじまり上流の鐘ヶ淵に至るまで、大量の名所が周囲に生まれることにより、隅田川はそれらの名所群を統括するメタ名所となり、葛飾北斎原画になる狂歌絵本『絵本隅田川両岸一覧』〔一八〇一年〕まで出板されることとなった。
今迄は「名所」について述べたが、更に「名所絵」についても語らねばならないだろう。特定の場所の名が知られるためには、何らかのメディアに載る必要がある。小さな共同体の場合は、口承で知られ得ようが、大きな共同体の場合はマスメディアを必要とするだろう。先程の「隅田川」でも判るように、引用/参照の連続がなされて、はじめて名所は名所たり得るのだ。これは名所が歌枕として成り立つために、数多の本歌取りを必要としたことからも推測できよう。歌の場合は言葉であるが、名所絵の場合は視覚的イメージである。イメージにおいては、テクストの様には言語化出来ないため、イメージと実際の場所の同一性を保証するに足るだけのモティーフを揃える必要がある。そのモティーフ群は引用を重ねられる度に整理されていき、ある一定の組み合わせを形成するようになる。これが名所絵の定型化である。このような相互テクスト的な引用と再生産の連綿の果てに名所が成立していく。このようにして、景観は選別され、同語反復的に再確認され続けるのだ。こうして成立した名所は、強い規範力をもって受容者に働きかける。つまり名所とは景観の観方を受容者に教えるのである。ここに景観の規範としての名所が立ち現れ、その規範を生産する文化装置としての名所絵があるのだ。
三 大名屋敷図のイコノグラフィー
前章の冒頭に何気なく述べた「共同体」という言葉に立ち戻りたい。社会的共同体とは自然発生的に産まれるものではない。社会の生産形態とイデオロギーの織りなす綾の中に現出するものだ。つまりその所属する/させられる階級、身分、ジェンダー、セクシュアリティー等の諸要因によって規定された社会集団こそが前述の共同体なのである。それぞれの共同体がせめぎ合う内に、江戸という都市の複数の文化体系があった。同じ「江戸」という都市を対象としても、社会集団が違えば全く違う名所群がリスト・アップされるはずであるし、同じ名所でも違う情報を指示する可能性もある。それは名所選択と名所の情報の差異として顕れるであろう。実際、泥絵に見られる名所と葛飾北斎〔一七六〇〜一八四九年〕、歌川広重〔一七九七〜一八五八年〕らの描いた、世にいう「風景版画」に見られる名所の選択には、差異が見出される。泥絵に見られ、浮世絵に殆ど見られないもの。それは、大名屋敷図である。先述の渡辺コレクションには、江戸泥絵と確認されるものが、二百九十一点あるが、その内大名屋敷を画題とするものは、その三十パーセントにも及ぶ。この数字は、大名屋敷を江戸泥絵の代表的画題とするに充分であろうかと思われる。
ここで江戸泥絵の描いた大名屋敷図を詳細に見ていきたい。その素材とするのは、泥絵においてポピュラーな主題であった《虎ノ門内藤能登守屋敷》である(図1)。他の泥絵と同じく、この絵においても、プルシアン・ブルーに彩られた空が、大きく、画面のほぼ三分の二を占めている。地平線は、画面の中央線より低く、観者は空を仰ぎ視る形となる。西洋画法の影響から、道や空、堀には陰影が付けられている。誇張された遠近法の消失点あたりの空を、薄い色で彩ることにより、画面の奥行き感を増している。
図1(左) 江戸泥絵《虎ノ門内藤能登守屋敷》(芝花江氏蔵) 図2(右) 須原屋茂兵衛版、『分間江戸大絵図』(一八五九年)、部分
では当時の江戸の地図(図2)と比較することにより、景観を細かく観ていくことにしたい。右手、堀の向こうに見えるのが日向延岡七万石の藩主、三河以来の譜代大名、内藤能登守(右近)の上屋敷である。画面には表されていないが、手前に走る道に沿って右方向へ歩めば、「虎之御門」が見えてくるはずだ。橋を渡り門を抜けて再び左に歩いてくると、画面右中央にある内藤屋敷の表門にたどりつく。
この表門は、前にも触れた「身分的な記号の統制と差異化」に則って造られている。つまり延岡藩は、五万石以上十万石以下で、国持大名ではないので、当時の資料にもあるように、「五萬石以上、表門兩番所、石垣疊出し、屋根庇作之」という規制に則った門造りをするわけだ(註7)。
屋敷の左に見える滝は、そのさらに奥の溜池から流れ落ちてきているものだ。『江戸名所図会』に、「赤坂御門の外より山王の宮の麓を東南へ繞る。(中略)また蓮を多く植ゑられしゆゑに、夏月花の盛りには奇観たり(註8)。」とあるように、溜池に浮かぶ蓮の葉も描かれている。その左、線遠近法の消失点を遮る様に立つ巨木は、「印の榎」と呼ばれた木だった。再び『江戸名所図会』を引用する。「また、池の堤に榎の古木二、三株あり、これを印の榎と名づく。昔浅野左京太夫幸長、鈞命を奉じてこのところの水を築き止めらる。その臣矢島長雲これを司り、堤成就の後、その功を後世に伝へんため印にとて栽ゑけるとなり。この堤より麻布谷町の方へ下る坂を榎坂といへるも、前に述ぶるところの榎あるゆゑとぞ。」
榎の下と堀の曲がり角に見える小建築は、武家地の警備を行う辻番所だ。『江戸名所図会』は、「また同所堤の北の方、辻番所の脇、堰の傍らに葵を植ゑたる地あり。土俗、葵が岡と呼びならはせり。このところより東に向かひて下る坂を葵坂と号く」と伝えている。また溜池の向こう岸にかすかに見える建築物と緑の山は、山王権現神社である。この図では見えないが、画面右下の手前には、讃岐丸亀城主京極家の屋敷があり、その邸内には金比羅宮が勧請されていて、毎月十日の縁日には一般に公開されたため、この辺りは大変賑わったという。
四 泥絵のヴィジュアリティー
広重も北斎もこの景観を描いているが、泥絵の視覚は、両者とはまた違う。この社会的実践としての視覚 visuality(註9)の差異を読み解くことが、泥絵の特質を理解する上において重要だと思われる。
「諸國瀧廻」という揃物の一つ、《東都葵ヶ岡の滝》〔一八三三年頃〕(図3)において、北斎は、曲線を多用した有機的な描線を用いて、この景観を表象している。視点は対象に近づき、視角も狭まり、また坂の傾斜は甚だしく誇張されている。蓮の浮く静かな溜池の水面と対照的に、滝は激しく流れ落ち、波立つ外堀の水面はまるで大河のようだ。坂と滝を、縦長の画面を利用して誇張することが、この揃物の趣向に合った描写法であったのだ。つまり、この作品の指示するものは、外題からも推測できるように、「江戸」ではなく、「諸国の名滝」という名所群であろう。
広重描く「名所江戸百景」の中の《虎の門外あふひ坂》〔一八五七年〕(図4)では、坂の上端が画面上から三分の一辺りに置かれることによって、坂の勾配が強調される。極寒の季節なので、榎は冬枯れ、三日月に掛かる雁は寒空を飛んでいる。しかしこの絵の中心は、何といっても人事風俗であろう。広重得意の大きく描かれた近景には、寒空にもかかわらず裸で歩く二人の男が見られる。彼らは、職人の弟子だと思われ、腕の上達を願うため、寒三十日の間行う金比羅宮への裸参り(註10)の帰りなのだ。建物や坂、滝はあくまでも「背景」であり、近景に描かれる裸参りや蕎麦の屋台等の「江戸の市民生活」を描写したイメージと見るべきであろう。
これらの二点と、先述の泥絵は基本的なモティーフを共有している。坂、榎の巨木、滝、山王権現である。これがこの名所を描く定型であり、これだけあれば観者はこの場所を同定できたのであろう。しかしその描き方は違う。泥絵においては、より広角にこの景観は捉えらているのだ。似たような場所から同じ景を描いた広重の「東都名所坂つくし之内」《葵阪之圖》〔一八三九〜四二年〕や「江戸名所之内」《金比羅宮葵坂風景》〔一八五三年〕と比べても、視角はほぼ二倍になる。そして仰ぎ見、大きく青空を描くことにより、この場所を「広々とした見通しのきく空間」として捉えたのだろう(註11)。
景観要素に関しても、大きな違いがある。この「虎ノ門外葵坂」という江戸の名所を写すにおいて、浮世絵では葵坂と溜池の滝、そして手前の金比羅宮の祭礼、あるいは人々の行動といったものが、クローズ・アップされる。ところが泥絵においては、金比羅宮は描かれず、人の姿は点景化され、坂や滝は画面の一部を占めるに過ぎない。泥絵における主景観要素となるのは大名屋敷なのだ。この景観要素選択は、冒頭で述べた都市に対する概念の差異に関連するものである。つまり、江戸を「大名屋敷のある都市」として捉えたいと思う消費者層があったということだ。また浮世絵においては、季節や時間といったものが、人事風俗行事と並んで、重点的に描写されるが、泥絵にそういったものは殆ど見られない(註12)。むしろその様なものを排除することにより、時間の流れを凍結させた、無言の町の佇まいを写し取ったものなのだ。
都市を描写するには、大きく分けて二通りの方法があるように思われる。一つの極には、都市特有の人々の行動や祭り等の年中行事を描くことにより都市を指示する、浮世絵に代表される風俗イメージがある。そしてもう一つの極には、都市を構成する建築物や道路、水路等や、あるいは地勢的、自然的要素を描く泥絵のような景観イメージがある。これは、都市において人間が暮らす環境そのものを描いたものであり、その果てには地図というメディアが想定できよう。風俗イメージが都市を「象徴」するものであれば、景観イメージは都市を「記述」するもの、つまりトポグラフィア(ラテン語で場所を記述することの意)であるといえる。この二つの極の間の振幅に都市の肖像があるといっても過言ではなかろう。
町人たちにとって大名屋敷とは暴力的抑圧装置の象徴であり、忌避すべき、あるいは敬遠すべきものであったろう。これが浮世絵に大名屋敷が殆ど描写されていない理由の一つではなかろうか。しかし「江戸絵」と呼ばれたイメージ群は、何も町人たちだけに消費されるものではなかった。江戸と諸藩を始終往復する下層武士たちも、購買者であった(註13)。彼らは浮世絵をも購入しただろうが、それ以外にもより彼らに近しい存在、大名屋敷を描いた絵画を欲したというのも想像に難くはあるまい。江戸に寓居する勤番侍にとって、大名屋敷こそが、出身を同じくするものの集まるコミュニティーであり、勤務地であり、生活の場であった。彼らにとって大名屋敷が威圧的なものであろうはずがない。むしろ自らの権威を正当化する象徴であり、まさしく彼らの見た、そして国元の人々に見せたかった江戸の名所であったのだろう。つまり泥絵は、権力の場としての江戸を明示した希有なイメージなのだ。大名屋敷の視覚的な現前のしかたは、非常にアンビヴァレントであるといえよう。それは天守閣のように可視的なもの、そして監視的な建造物を持たない。天守閣は、まさにファルスのように立ち上がるものであり、監視の視線を送るとともに、権力を可視化するものである。しかし大名屋敷においては、そのような建築はない。権力を誇示するのは、その中心的な主体ではなく、それを守る壁なのである。ここには、天守閣に見られたような視る/視られるという関係はない。この不思議な権力の佇まいは、中心たるべき江戸城が、明暦の大火以来天守を再建しなかったこととも関係があろう。おそらくここに視られるのは、複雑に錯綜した権力関係ではないか。権力主体は見えず、見えるのは地平線まで続く海鼠塀位のものである。ところがその塀とは、家臣団の棲む表長屋の塀であるのだ。間違いなくそこにありながらも不可視な権力。可視的なものはそれを護る表長屋であるのだ。そしてそれを扱ったのが泥絵なのである。
結 都市の視覚文化研究へ
本稿では、名所絵とは、ある場所に関する何らかの情報を伝達するメディアであるという前提の下に、同時代の都市表象のヴァリエーションを提示した。そしてその差異は受容者層の差異から来るという仮説を提示したが、浅学故に充分に論証は出来なかった。より深い図像の解読、描かれ方の分析と共に、より多くの史料の調査を今後の課題としたい。
あれ程過熱していた「江戸東京ブーム」も一段落した様である。しかし「都市」は未だ語り尽くされてはいない。イギリスのカルチュラル・スタディーズが提示した「都市とは重層的な複数の体系が衝突する場所である」という認識は、都市という問題領域を益々重要なものにしている。都市の読まれ方は多様であり、一般的構造に還元できるものではない。「都市を読むことは、都市の差異を読むこと」であるのだ(註14)。都市の表象の多様性と差異の中に重層的な体系の存在を嗅ぎ取り、そして複数の声を聴き取ることに、都市の視覚的表象を総合的に研究する鍵が隠されているのではないかと私は考えるのである。
(本稿は第一回美学芸術学会〔一九九八年一〇月二四日・於同志社大学〕における口頭発表に加筆訂正を加えたものである)
3 葛飾北斎「諸國瀧廻」《東都葵ヶ岡の滝》(一八三三年頃)
4 歌川広重「名所江戸百景」《虎の門外あふひ坂》(一八五七年)
(c) SATOW, Morihiro, 1999