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Title Practices of Looking: An Introduction to Visual Culture
Author Marita Sturken and Lisa Cartwright
Publisher Oxford and New York: Oxford University Press
Year 2001
reviewer 佐藤守弘

 本書は、副題が示す通り、以前私たちが翻訳した『ヴィジュアル・カルチャー入門』(以下、前書)と同じく、視覚文化〔visual culture〕を研究しようとする人たちのための入門書です。実際、重なる記述も多くあります。では、なぜ本書をわざわざ紹介するのか——それには訳があります。なぜなら、本書と前書の間にはさまざまな差異があるからです。特に発行年度の差があります。前書は、出版年が1997年であり、ヴィジュアル・カルチャーという言葉を冠した比較的初期の書籍でした。それに対し、本書の出版年は2001年です。この4年の差は非常に大きいような気がします。この4年の間における視覚文化研究の広がりは、目を見張るものがあるからです。
 その間に、スチュワート・ホール御大が二冊もヴィジュアル・カルチャー関係の入門書を編纂したことでも分かるように(Visual Culture: the ReaderRepresentation: Cultural Representation and Signifying Process)。さらにその間に英米間の差が一気に縮まったように感じたこともあります。かつて、この両国における研究傾向には、結構な温度差があるのではないかと感じていました。前書のすぐ後(1998年)にアメリカ合州国で出版されたニコラス・ミルツォフによる入門書The Visual Culture Readerに見られるように、その頃は、イギリスにおける視覚文化研究が、階級やポストコロニアリズムの問題に重点を置いているのに対し、アメリカにおけるそれは、ジェンダーやセクシュアリティに重点を置いているように思えたのです。ところが、本書ではそのあたりのバランスが非常によくとれているのです。また、前書がデザイン史、建築史といった、いわば芸術学/芸術史の領域の研究者によって書かれていたのに対し、本書は社会学/コミュニケーション理論という領域の研究者によって書かれていることも、理論面での広がりをサポートしているのではないかと考えられます。
 以下に、とりあえず目次、序文用語解説の項目(←これがなかなか使える!)の粗訳を挙げます。なかなか興味深い内容だと思うのですが如何でしょうか?
 

佐藤守弘


目次

序文

1,視の実践——イメージ、権力、政治
表象/写真が真実を語るという神話/イメージとイデオロギー/イメージの意味をどのように読みとっているのか/イメージの価値/イメージ・イコン

2,観者の紡ぎだす意味

生産者の意図する意味/美学と趣味/イメージをイデオロギー的主題として読む/コード化と脱コード化/流用と反読解/再=流用と対抗的ブリコラージュ

3,観者性、権力、知

精神分析とイメージの観者/まなざし/まなざしの概念の変化/言説、まなざし、他者/権力=知とパノプティコン/まなざしとエキゾティックなもの

4,複製と視覚技術

リアリズムと遠近法の歴史/リアリズムと視覚技術/イメージの複製/政治としての複製イメージ/視覚技術と現象学/デジタル・イメージ/ヴァーチャル空間とインタラクティヴ・イメージ

5,マス・メディアと公共圏

マス・メディア批判/マス・メディアと民主的な潜在力/テレビとスポンサーの問題/メディアと公共圏/ニュー・メディア文化

6,消費文化と欲望の生産

消費社会/商品文化と商品に対するフェティシズム/消費者に語りかける/イメージとテクスト/羨望、欲望、魅惑/所有と差異/ブリコラージュと対抗的ブリコラージュ/ブランド/反広告的実践

7,ポストモダニズムとポピュラー文化

モダニズム/ポストモダニズム/自己参照性/コピー、パスティーシュ、制度批判/ポピュラー文化——パロディーと自己参照性/ポストモダンな消費者に語りかける

8,科学的な視と科学への視

証拠としてのイメージ/科学的な視/生医学におけるイメージ——超音波画像と胎児の個性/弁護と政治としての科学的イメージ/視覚と真実/遺伝学とデジタルな身体/ポピュラー・サイエンス

9,視覚文化のグローバルな流通

テレビの氾濫/文化帝国主義批判/第三世界の市場/オルタナティヴな流通——ハイブリッドでディアスポラ的なイメージ/インターネット——グローバル・ヴィレッジか多国籍企業の市場か/私的圏・公共圏としてのワールド・ワイド・ウェブ/インターネットによるプライヴァシー、検閲、言論の自由に対する挑戦/新たな千年期における視覚文化の位置

マリタ・スターケン、リサ・カートライト『視の実践——視覚文化概論』

序文

 私たちが暮らしている世界は、視覚的なイメージに満ちあふれている。それらは、この世界のなかで、私たちがものごとを表象する仕方、意味を作り出す仕方、コミュニケートする方法の中心的な位置を占めている。さまざまな点で、私たちの文化はますます視覚的なものになってきている。過去二世紀にわたって、西洋文化は、音声的、テクスト的なものではなく、視覚的なものに支配されるようになってきた。印刷言語の最後の砦である新聞でさえ、読者を惹きつけ、記事の意味を増すために、イメージ——二〇世紀の終わりにはカラー・イメージ——に目を向けるようになってきた。イメージはもはや単なる図解ではない。それは、重要な内容を抱いているのである。例えば視覚と音を基としたメディアであるテレビは、日常生活の中心的な役割を演じている——それはかつて厳密に聴覚的なメディアであるラジオによって占められていた役割である。コンピュータは、元来はテクスト、数字、記号を作るために使われていたものであるが、より複雑な視覚的なデータを作り、交換するために広く使われている。聴覚と触覚は、経験とコミュニケーションにおけて重要な手段である。しかし、私たちの価値、意見、信条は、ますます、日常生活のなかで出会うさまざまな形態の視覚文化の強い力によって形成されるようになってきている。
 一方で、視覚的なものへシフトすることによって、イメージの魅力は増大する。ところが他方では、イメージの具える潜在的な力に対する不安をも呼び起こす——それはプラトンの昔から存在した不安である。二一世紀の最初にあたって、イメージの力に関する幻想の多くが技術の発展のおかげで実現した。私たちの前には、新しい問題が数々提示されている。イメージやその観者がどのように意味を作り上げているのかを理解すること。私たちの文化のなかでイメージはどのような役割を演じているのかを明らかにすること。私たちが日常生活のなかでこんなにも大量のイメージとどのように折り合いを付けているのかを考えること(1)
 本書『視の実践』においては、私たちがどのように多様な視覚的メディアを理解しているのか、どのようにイメージを用いて自分自身を表現し、コミュニケートし、快楽を経験し、学習しているのかを考えるためのさまざまな理論を概観する。「視覚文化」という用語は、美術からポピュラーな映画、テレビ、広告、さらには科学、司法、医学などの領域において用いられる視覚的なデータにいたるまでを包括する。本書では次のような問題を考えていきたい。これらの多岐に亘る視覚文化の諸形態をともに研究する意味は何なのか? これらの諸形態に共通する理解はどのようにして現れるのか? 視覚的なものは、聴覚的なもの、触覚的なものとどのように関わるのか? 私たちが重要であると考えるのは、視覚文化をある理由のために織り上げられた、複雑で豊かに多様な統一体として捉えることである。すなわち、私たちがある特定の視覚的メディアによる経験をする時、私たちは、他のメディアや視覚的イメージによって満たされた生活の他の領域と連関させるように仕向けられる。例えば、テレビのショーを見る時、そこから理解される意味や、感じられる快楽は、意識的であれ、無意識的であれ、私たちが映画、芸術作品、広告などで見たものとの連関から引き出されたものかもしれない。医学的な超音波イメージを見る経験は、写真やテレビ映像を見る経験と典型的に関係する感情や意味を呼び起こすかも知れない。私たちの視覚的な経験は、単独では起こり得ない。それは、私たちの生活のさまざまな局面からの記憶やイメージによって彩られているのである。
 視覚的な諸形態がこのように相互に豊かな刺激を与えている〔cross-fertilization〕にもかかわらず、私たちの文化においては、視覚文化のさまざまな領域を、根拠ない質や重要性のシステムに従って「ランク付け」をしがちである。長い年月、大学において、美術に関する科目は提供されていた一方で、映画やテレビなどのポピュラーなメディアに関しては、真面目な研究に値するものとは考えられてこなかった。それに対して今日では、美術史研究者も、写真、コンピュータ・グラフィック、ミックスト・メディア、インスタレーション、パフォーマンス・アートなどを研究対象に含めている。同時に他の研究領域——そのうちには新しいものもある——においても、さまざまな形態のメディアを採り上げている。一九五〇年代から、コミュニケーション研究者たちは、ラジオ、テレビ、印刷メディア、そして今ではインターネットに関する重要な著作を記してきた。一九七〇年代に成立した映画、テレビ、メディア研究の領域における研究は、映画、テレビ番組、ワールド・ワイド・ウェブのようなメディアが、今世紀の文化の変化にどのように貢献したのかを考える上で参考となる。こうした研究は、ポピュラーな形態の視覚的なメディアを研究する価値を確立した。科学/技術研究の新領域においてさえ、視覚的技術に関する研究や、芸術やエンターテインメント以外の領域——科学、司法、医学——におけるイメージの使用に関する研究を推し進めている。一九七〇年代後期に起こった学際的な研究領域であるカルチュラル・スタディーズは、ポピュラー文化や日常生活における見た目は平凡なイメージの使用法に関する研究について考える上で多くの示唆を与えてくれている。カルチュラル・スタディーズの一つの目標は、観者、公民、消費者に、視覚的なメディアがこの社会を把握する上でどのように機能しているのかをよりよく理解するためのツールを与えようとするものである。さまざまな分野でイメージが研究されているという事実は、さまざまな視覚的メディア間で起こっている相互影響について考える上でも役立つであろう。本書を読み進むに連れて、読者の皆さんは、カルチュラル・スタディーズ、映画研究、メディア研究、コミュニケーション研究、美術史、社会学、人類学などの分野からの色々な考え方に出会うことであろう。
 視覚文化とは何か? 文化理論家レイモンド・ウィリアムズは、文化とは英語のなかでも最も複雑な単語の一つであるという有名な定義を述べた。この語は、練り上げられた単語であり、その意味は時代とともに変化しつづけている(2)。伝統的には、文化とは「芸術」——すなわち古典的な絵画、文学、音楽、思想——のことであると考えられていた。このような考え方における文化とは、思想家マシュー・アーノルドによれば、ある社会において「これまでに考えられ、語られた最善」のものであり、エリートの教養あるオーディエンスにのみ許されたもののことを指す(3)。このように文化という語を使うならば、ミケランジェロの名作やモーツアルトの曲のようなものが西洋文化の典型となるであろう。従って、「高級」文化〔ハイ・カルチャー〕という考え方が、文化の定義のなかに暗示されている——すなわち、文化を高級なもの(美術、古典絵画、文学)と低級なもの(テレビ、大衆小説、マンガ)という範疇に分けるものである。第二章で述べるように、高級対低級という構図は、多くの時代に繰りひろげられた伝統的な文化の枠組みに関する論議であった——そこでは高級文化が質の高いもので低級文化は質の低い対照物であると広範に受け止められていた。
 「人類学的な定義」として知られるものによれば、文化という語は、「生活様式全体」——すなわちある社会のなかでの幅広い諸活動——を意味する。ポピュラー音楽、印刷メディア、美術、文学は、「普通の人たち」の日常生活に寄与するものである。同じように、スポーツ、料理、ドライヴ、人間関係、血縁関係などもそうである。この定義は、いわゆる「文化」という言葉と、ポピュラー文化、大衆文化というものとが結びつける。しかしこうした定義は、文化として認められるものの数を増やすという点では重要であるものの、文化を特に意味生成=生産システムとして捉える現代の作品が狙うところを明らかにはしない。すなわち、文化の実践を前景化させなければならないのである。
 本書では、文化を以下のように定義する——文化とは、ある集団、共同体、社会によって共有される実践であり、視覚的、聴覚的、テクスト的な表象の世界を通じて、意味が生成されるプロセスのことである。ここで、私たちが多くを負っているのは、イギリスの文化理論家スチュワート・ホールによる研究である。彼によれば、文化とは、単なるモノ(例えばテレビ・ショー、絵画など)の集合ではなく、プロセスや実践——それを通じて個人や集団が上記のモノから意味を汲み取る——の集合である。文化は、生産であり、意味の交換——ある社会や集団の構成員間で意味を与え、受け取ること——でもある。ホールによれば、「ある文化の参加者こそが、人、モノ、出来事に意味を与えるものである。……私たちのモノの使い方、モノに関して私たちが言うこと、考えること、感じること——すなわちモノをどのように表象するかということ——こそが、私たちがモノに意味を与えるということなのである(4)」。
 以下のことを心に留めておかなければならない。ある文化(つまり、意味を生成するプロセスの集合体)を共有する集団において、意味や解釈には——いわば、ある時に、ある問題やモノに関しては——常にある程度の「浮遊する」幅がある。文化はプロセスである。固定した実践や解釈の集合体ではない。例えば、同じ広告を見る三人の人が、同じ世界観を持っていても、その意味を、各自の経験や知識に従って、違うように解釈する可能性もある。この人たちは、同じ文化を共有しているかも知れない。しかし、そのイメージに違う解釈のプロセスを適用したのである。さらに、そうした観者たちは、それにどのように反応したかをお互い喋るかもしれない。そうして、お互いのその後の見方に影響を与えあう。他の人より断定的に話す人もいれば、他の人より権威があると思われている人もいるであろう。結局のところ、意味は観者の頭の中だけで生成されるのではなく、特定の文化に属する個々人の間で、そして個々人と、自身や他人の作る制作物、イメージ、テクストの間で摺り合わされるプロセスを通じて生成されるものである。さらに解釈は、ある文化やある集団に共有される世界観に影響を与えるという点では、その元となる視覚的な制作物(広告や映画など)と同じくらいの影響力がある。本書を通じて私たちが「文化」という語を使うことによって、上記のように文化を流動的で相互作用的なプロセス——イメージ、テクスト、解釈に単独に基づくのではなく、社会的な実践に基づいたプロセス——として理解するという点が強調されるであろう。
 本書『視の実践』は、特に〈視覚的〉な文化に注目する。すなわち、視覚的な形態——絵画、版画、写真、映画、テレビ、ヴィデオ、広告、ニュース画像、科学画像——を取って現れる文化の諸側面のことである。何が視覚文化と書記言語や音声言語を分かつのであろうか? 二〇世紀におけるパラドックスとは、視覚的イメージがますます私たちの文化を支配していっているのに、伝統的に大学は視覚的なメディアを比較的軽視しているということである。前述の諸分野はあるものの、高等教育のほとんどはテクストや記号に基礎を置いたカリキュラムである。私たちは、視覚文化を分析的な仕方で理解するべきであると考える——美術史研究者やその他の「イメージの専門家」だけではなく、日常生活のなかで驚くべき量のイメージにますます出会っている私たち全てが。同時に、視覚文化の理論家の多くが論ずるところによれば、視覚文化において視覚的なものを前景化することは、イメージと、筆記、会話、言語などの他のモードの表象や経験とを切り離すことと同じではない。イメージが言葉と組み合わされることはよくある——多くの現代美術や広告の歴史のなかでは。私たちの目標は、イメージがどのように広い文化圏で機能しているのかを理解する上で役立つ諸理論を紹介し、イメージそれ自体を知覚することを超えて、見るという実践が私たちの生活にどのように情報を与えているのかを示すところにある。
 一九九〇年代から、いくつかの研究領域で、視覚文化の研究に焦点を合わせる動きが研究者たちの間から現れてきた。これが起こった理由は、一つには美術史が美術を越えて社会的な領域に踏み込んだことがあり、一つにはカルチュラル・スタディーズの出現によりコミュニケーション研究、映画=テレビ研究、科学研究などとの相互刺激がある。また、さまざまな分野における、ニュー・メディア——ワールド・ワイド・ウェブやデジタル・イメージング——に関する研究による刺激もある。視覚文化に関する学際的研究の多くにとって重要なことは、研究分野間の領域横断を行うところにある。それゆえ、例えば商業的なイメージから借りてきたイメージを美術が使うこと、あるいは広告が美術を通して製品を売ることが何を意味するのかを考えることが大切である。
 ヴィジュアル・カルチャーが研究領域として出現したということは、論議と論争の的になってもいる——特に美術史研究との関係において(5)。本書では、イメージによって、またイメージを通して、それ自身の歴史的なコンテクストのなかで、意味がどのように生みだされるのか幅広い理論的な戦略を検討する。私たちのアプローチは、芸術の特異性を強調するものではなく、むしろ視覚文化のほかの側面との相互作用を強調する。従って、本書の意図の一つは、美術史がどのようにその他のメディアを有益な比較対照として扱うことができるかという点を論証するところにある。同時に『視の実践』がマス・メディアに興味を持っている人たちに対して、メディア・イメージと美術がどのような関わりを持っているのかを理解する一助になればとも思う。本書において、絵画史上の多くのイメージを考察してはいる。とはいえ、本書が特に重きを置くのは、一九世紀中頃からカメラを用いて作られてきたさまざまなイメージ、すなわち写真、映画、テレビ映像——美術、商業、司法、科学といった諸領域で意味を生成し、流通してきたもの——である。
 本書に時代を隔てて影響を与えたのは、一九七二年に刊行されたジョン・バージャーの有名な書物『イメージ Ways of Seeing——視覚とメディア』である。『イメージ』は、イメージとその意味を、メディア研究、美術史などの境界を越えて考察したモデルである。バージャーの本は、ヴァルター・ベンヤミンによる複製技術論からマルクス主義理論までをともに持ち出して、美術の歴史から広告に至るまでのさまざまな図像を分析した画期的なものであった。『イメージ』の用いたさまざまな理論的戦略を現代における理論的コンテクスト、メディアのコンテクストにおける視覚文化へのアプローチへとアップデートすることによって敬意を表するのが本書の目指すところである。バージャーがその著作を書いた時代と比べると、イメージの領域とその流通の軌道は、ずいぶんと複雑なものになってきている。技術的な変化のおかげで、地球全体を、イメージがより速いスピードで移動することになった。脱産業化資本主義という経済上のコンテクストによって、かつて了解されていた文化的な領域と社会的な領域——芸術、ニュース、商品文化——を分かつ境界線がぼやかされてきた。ポストモダニズムにおける様式の混淆は、イメージの流通と相互参照というコンテクスト——この種の学際的アプローチを刺激したもの——を作り出すことに役だった。
 従って、『視の実践』の採るアプローチは、さまざまに理解することができるであろう。一つのアプローチは、理論を利用して、イメージそれ自体とそのテクスト的な意味を研究することである。これは、見ることの力学を理解する上で、基礎的であるが、唯一ではないアプローチである。これによって、私たちは、イメージが私たちに、それが生みだされた文化について、何を語っているのかを考察することができる。第二のアプローチは、視覚性〔visuality〕に反応するモードを観察することであり、それは観者〔spectator〕やオーディエンス、そしてそれらの心理的、社会的な視のパターンに関する研究に代表されるものである。このアプローチにおいて、イメージとその意味から観者による視の実践へと、さらに人々がイメージを見、使い、解釈するさまざまな仕方へと重点は移る。こうしたアプローチには、理想化された観者——映画の観客など——を理論化するものもあれば、ポピュラー文化のテクストと関わる現実の観者を考察するものもある。第三のアプローチは、メディア上のイメージ、テクスト、番組がある社会的な領域から違う所へとどのように動き、文化のなかで、あるいは文化を越えて——これは、二〇世紀中盤からの急激なグローバリゼーションの拡大と特に関係がある——どのように流通するのかを考えるものである。このアプローチは、イメージの流通を規制し、時には制限さえする制度的枠組みを注目し、イメージが違う文化的なコンテクストにおいてその意味を変化させる仕方にも視線が向けられる。これらのアプローチにおいて、本書は、視覚的なメディアを解読するために役立つさまざまなツールを紹介するとともに、私たちが生活のあらゆる領域において、意味を生成するために、なぜ、またどのように、これほどまでに視覚的な諸形態に依存するようになってきたのかを分析する手段を紹介する。
 『視の実践』は九つの章からなり、それらは視覚文化に関する諸問題を、さまざまな視覚的メディアや、さまざまな文化的領域をまたいで提示していく。第一章「視の実践——イメージ、権力、政治」では、本書を通じて出てくるテーマの多く——表象という概念、写真の役割、イメージとイデオロギーの関係、イメージから意味を汲み取る仕方、イメージに価値を付与する仕方——を紹介する。ここでは、記号論、すなわち記号の研究の基礎を紹介し、イメージの生産と消費の諸相——後の章で詳細に扱う——を論ずる。これは本書の中心的なテーマの一つであり、その意味は、イメージの内部には属さないものの、イメージが消費され流通する時点で生成されるのである。従って第二章「観者の紡ぎだす意味」では、観者がイメージから意味を汲みとる仕方に焦点を合わせ、またイデオロギーの概念についてより深く議論する。第二章においては、特定の観者やオーディエンスがどのようにイメージから意味を読みとるかを分析するものの、第三章「観者性、権力、知」では、理想化された観者——映画や静止画像などの観者——を考察するための理論を吟味する。また、精神分析理論と権力の概念の両方におけるまなざしの概念について分析する。ここでは、観者がイメージをどのように同一化〔identify〕するのか、イメージが言説、制度的権力、カテゴリー化の要素として使用されうるのかを考察する。第四章「複製と視覚技術」では、視覚的な技術がものの見方にどのように影響を与えてきたのかの歴史を探究する。まず、遠近法の発達と、それに伴うリアリズムの概念を考察する。次に歴史を通じて、イメージの複製がそイメージの意味をどのように変化させてきたかを、これらの概念がインターネットやデジタル・イメージという現代のコンテクストにおいてどのような意味があるのかを問う。これらの概念を歴史的にたどることは、第五章「マス・メディアと公共圏」にも続く。そこでは、マス・メディアと公共圏——その起源にまで遡る——に関するさまざまな理論が紹介し、プロパガンダから民主制を推進する手段としてのメディア概念にいたるまで幅広くさまざまなメディアのモデルを分析する。この章は、マルチメディアやクロス=メディア的文化生産物などの現在のメディアのコンテクストにおいて、マス・メディアが何を意味するのかという疑問を問いかけるものである。第六章「消費文化と欲望の生産」では、広告イメージの意味を、芸術や消費文化との関係から見ていく。ここでは、広告イメージにおいて、消費者のための製品に意味を付加し、消費者に欲望と欲求の言葉で語りかけるために使われる戦略を理解するために、イデオロギーと記号論の諸理論を論ずる。第七章「ポストモダニズムとポピュラー文化」では、モダニズムとポストモダニズムという文脈において定義される現代美術、ポピュラー文化、広告などにおける幅広いさまざまな様式を見ていく。ここで議論するのは、近代性の経験とモダニズムの教義との関係であり、モダニズムとポストモダニズムの思想上の概念と画像作成の様式の両方における関係である。第八章「科学的な視と科学への視」では、本書の前半で扱われた多くの概念——証拠としてのイメージの関係を考える上での写真的真実や、科学におけるイメージの役割——に立ち戻る。ここに含まれるものは、法的なコンテクストにおけるイメージの意味、身体と胎児のイメージの政治性、新しい医学的映像技術によって創造される意味、ポピュラー文化における科学の描かれ方である。最終章「視覚文化のグローバルな流通」では、グローバリゼーションと多様なメディアの収束という現代のコンテクストにおいてイメージが旅をする仕方に注目する。本章では、文化間を移動するときにイメージがどのようにその意味を変化させるか、ローカルとグローバルという問題を考える上でのモデル、インターネットやニュー・メディアがグローバルな視覚的イメージの流通を変える上で果たした役割が考察される。本書を締めくくるのは、本書において使われた多くの用語に関する広範な用語解説である。ここで説明されている用語は、本文内のそれぞれの章ではじめに使われるときに、イタリック体で示される。『視の実践』の目指すところは、イメージが多くの文化的領域——芸術から商業、科学、司法に至るまで——においてどのように意味を獲得するのか、イメージが異なる文化的領域や異なる文化間をどのように旅するのか、そしてイメージが私たちの生活のなかでどれほど不可欠で重要な側面を占めているのかといったことを考えることによって、視覚文化のさまざまな問題を結びつけることである。
 


(1)このような「画像的転回〔pictorial turn〕」については、W. J. T. Mitchell, Picture Theory (Chicago and London: University of Chicago Press, 1994)の第一章を参照のこと。本文へ戻る↑
(2)レイモンド・ウィリアムズ『完訳キーワード事典』、椎名美智他訳、平凡社、二〇〇二年。本文へ戻る↑
(3)マシュー・アーノルド『教養と無秩序』、多田英次訳、岩波文庫、一九四六年。本文へ戻る↑
(4)Sutuart Hall, "Introduction," in Representation: Cultural Representations and Signifying Practices, edited bu Stuart Hall (Thousand Oaks, Calif. and London: Sage, 1997)  本文へ戻る↑
(5)特にOctober, 77 (Summer, 1996)におけるさまざまな意見や、ダグラス・クリンプによるそれらに対する反応である"Getting the Warhol We Deserve," Social Text, 59 (summer, 1999)を参照のこと。本文へ戻る↑



用語解説項目一覧

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