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このセクションでは、ポピュラー・ミュージックやそれに関わる所謂〈ストリート・スタイル〉などについて考えてみたいと思います。しばらくは2トーンを・・・
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2トーン・ムーヴメント再考
  今後の公開予定
  • ディック・ヘブディッジ「スカの細胞――2トーンの興亡」、サイモン、デイヴィス編『レゲエ・インターナショナル』(1983年)の全訳・・・但しまだ原文は未見。現在手に入れるため奮闘中⋯まだ手に入りません


2トーンとは・・・
 現在は、第三次スカ・ブームだと言います。特に日本では、〈スカ・コア〉というスカとハードコア・パンクのミックスチュアが、大変流行っています。その源流とも云えるのが、1980年前後、イギリスの音楽シーンの徒花ともいうべきムーヴメントであった〈2トーン〉ブームでした(その後、マッドネスは、ホンダのCMに出演してムカデ・ダンスを披露していましたが・・・)。ただ、今から考えるとなかなかに興味深い現象が、この中にはたくさんあります。箇条書きしてみると・・・
1.ちょうど所謂サッチャリズムの始まりに当たり、政治的・経済的に非常に混乱していた時代であること →右翼と左翼の対立、階級対立、レイシズム
2.白人の音楽であったパンクの影響を受けながらも、ジャマイカ音楽――イギリスの旧植民地の文化所産――を音楽的なソースとして持っていたこと →音楽的奪用(アプロプリエーション)の問題、ポスト・コロニアル状況
3.支持母体として、モッド、スキンヘッドといった社会集団がいたということ →ストリート文化との関わり
4.後の〈UKブラック〉音楽との関わり →アメリカ文化との距離
このページでは、2トーンを振り返り、その音楽、ファッションなどを通じてイギリスのサブカルチャーについて考えてみたいと思います。


テッド・ポルヒームズ「 ルード・ボーイと2トーン」
   (Ted Polhemus, Streetstyle (London; Thames and Hudson, 1994)より)
 1962年にジャマイカは独立を達成した。ほぼ同じ頃、ジャマイカの文化的なアイデンティティもまた創出されだした――それはアフリカン=アメリカ文化の影響を大いに受けながらも、それを独特の仕方で「切り貼り」したものであった。1950年代には、キングストンのダンス・ホールでは、さまざまな移動式サウンド・システムが、アメリカの最新のリズム&ブルーズのレコードを、競って紹介していた。50年代後期から60年代にかけて、プリンス・バスターに代表されるDJたちは、ジャマイカ独自の音楽を創り出していった。それはもともとは「ルーディー・ブルーズ」と呼ばれていた。ためたオフ・ビートと、独特のラスタファリアン・ドラムの影響下に出来たこの音楽は、「ブルービート」「ロックステディ」とも呼ばれたが、特に「スカ」と呼ばれた。
 服装もまた変化した。アメリカやイタリアやイギリスと同様に、カミソリのようにシャープな細身の「モダン」なルック――元々は50年代前期のニュー・ヨークのクール派ジャズ・ミュージシャンが始めたスタイル――が、ジャマイカにおいても注目され始めたのであった。特に、悪名高い、恐ろしいキングストンの路上のならず者たちが、この新しいスタイルを身につけた。キャロル・テュロックは、黒人のスタイルに関する重要な論文において「ルード・ボーイは、ジャマイカにおいてはじめての本物のサブカルチャー的ストリート・スタイルであった」と評し、ルード・ボーイたちを以下のように描写する。「裾の短い細身のパンツ、皮やトニック・ジャケットを身にまとい、派手なサングラスを掛け、スキッフル?に髪を刈り、時にはポーク・パイ・ハットをかぶって、夜の街を制覇した」。
 こうしたルード・ボーイたちの服装は、50年代アメリカのモダン・ジャズ・ミュージシャンや、同時代的には、タムラ・モータウン・レーベルの黒人ソウル・ミュージシャンに多くを負っている。しかし、スカの場合と同じくルード・ボーイ・スタイルも、アメリカの影響は否定できないものの、やはりジャマイカ独特のものとして考えるべきであろう。
 1940年代のカリビアン・スタイルの章でも書いたが、西インド諸島全般に、裏通りに地域に密着したテーラーがあって、それらは新しい独特なスタイルを生み出す上において常に影響を与え続けた。このことは、40年代、50年代と同じく60年代においてもそうであった。ジャマイカのルード・ボーイの場合、最も目立つ例は、彼らの短く――くるぶしの上――仕立てられたパンツの裾であった(イギリスのレコード会社が、ジャマイカのミュージシャン、デスモンド・デッカーを呼んだ時に、新しいスーツを支給した。その時、デッカーが初めにしたことは、パンツの裾を6インチ切ることであった、と伝えられている)。ジャマイカのルード・ボーイが、トニック(または2トーン[玉虫色]とも呼ばれる)の素材――コントラストの利いた2色の糸で織られ、光を反射する色――を好んだことも特徴的である。
 普通は両立しないと思われる二つの美的原理――派手であることと微妙であること――を完璧に組み合わせたところに、ルード・ボーイは成立した。アメリカのプログレッシヴ・ジャズやソウルにおいて、モダニスト的装いは、アイヴィー・ルックの影響下に、白っぽいカジュアルな柔らかさに向かいがちであった。ジャマイカのルード・ボーイ・スタイルは、それとは反対に攻撃的でハード・エッジな質を有していた。ディック・ヘブディッジはこう言う。「それはほとんど抽象的であり、ほとんど形而上的であり、一種のスタイリッシュなストイシズムを暗示する。すなわちサヴァイヴァル的であり、それ以上のものであった」。
 このことはもちろん、生き難い世界であるキングストンのダウンタウンで生きるルード・ボーイたちの生活に寄与するものであった。同じように、ルード・ボーイ・スタイルのハードでシャープなイメージは、イギリスにおける西インド諸島移民たち――雇用の機会も少なく、人種蔑視や人種差別の的であった――にとっても、適合するものであった。また同時に多くの若い白人たち――『アブソリュート・ビギナーズ』の子孫であるモッズたち――は、スカのクラブやコンサートに赴き、モダン・スタイルの西インド諸島的なるウルトラ・クールな解釈を崇拝したのである。
 [ジャマイカのルード・ボーイ・スタイルが]イギリスのストリート・スタイルに与えた影響は、甚大で、かつ継続的なものであった。白人のサブカルチャーとしては、モッズがまずルード・ボーイ・スタイルを取り入れた。しかし、最もルード・ボーイのイメージや音楽に影響を受けたのは、スキンヘッズであった――後にスキンヘッズの一部は、人種差別主義者的傾向を帯びるに至るのだが。
 70年代の終わりには、ルード・ボーイ・スタイルは、「2トーン」として大いにリヴァイヴァルした。2トーンは、モッズやスキンヘッズ(もちろん両者はすでにオリジナル・ルード・ボーイ・スタイルの影響を受けてもいたのだが)の影響と、パンクのエネルギーを併せ持ち、それは同時代の派手派手しいニュー・ロマンティックスとは全くもって対照的であった。2トーンは多くのレコードを売り、トニック・スーツを流行らせた。特に重要なのは、異なる人種間の調和を声高に言ったことであった――国民戦線(the National Front)などの存在によって、平和的な共存を楽観的に夢見ることが難しい時代であっただけに。しかし元々の西インド諸島のルード・ボーイたちにとっては、多くの白人のガキどもが、ルード・ボーイたちの創り上げたスタイルと音楽を「盗用」して儲けたにすぎない、と映っていたに違いない。
 それでもなお、そのような模倣の結果、もともとのルード・ボーイ・スタイルと音楽が再び注目を浴び、目の高い世界中の人々がそれに目を向けだしたということは否定できないであろう。ジャマイカとイギリス。この二つの離れた島国は、植民地的な搾取と、移民という歴史的情況下で結ばれ、世界中にインパクトを与えた――おそらく両者とも、自前のものだけではどうしようもできなかったのではないだろうか。かくしてスカとルード・ボーイ・スタイルは、ヨーロッパやアメリカの人々の注視を集めることとなったのである。
 60年代と80年代にイギリスは、一時的にではあるが、世界のポピュラー・カルチャーの中心となった。常にそれは「白人のイギリス」がその栄誉を独り占めしていた。しかしそうした創造的なエネルギーの本当の大元は、多人種的であり、多文化的であり、つまるところ紛れもなくルーディーなものであったのである。


ポール・ギルロイ『ユニオン・ジャックには黒が無い』(1987年)より
Paul Gilroy, 'There ain't no Black in the Union Jack': The Cultural Politics of Race and Nation, University of Chicago Press;1991, pp. 170-71.

以下は、イギリスにおけるカルチュラル・スタディーズの旗手、ポール・ギルロイが1987年に著した『ユニオン・ジャックには黒はない』の一部――2トーン・ムーヴメントに関係のある「ダンス・フロアの黒人と白人」という節の最後の部分――を訳出したものである。ちなみにこの節の前半は、毛利嘉孝氏により既に抄訳があるので参照のこと(毛利嘉孝「たとえば、本来のクラブ・カルチャー――ポール・ギルロイの『ユニオン・ジャックには黒はない』を読む」、『STUDIO VOICE』vol. 249(特集:「Loud Minority――やられたらやりかえせ!」、INFAS、1996年9月、32〜33頁)。
特に注目すべきは、スペシャルズやビートなどのイギリス中部の人種混成バンドと、マッドネスやバッド・マナーズなどのロンドンの白人バンドの温度差を強調している点である――この点は見過ごされてきたように思う(とはいえ、この書き方では少しマッドネスに酷だとも思うが)。
(〔〕内は訳註。)
 ボブ・マーリーは、レゲエとリズム&ブルーズが有機的ではあるものの、時期としては遅すぎた出会いの場に差し掛かろうとした丁度その頃に没した。彼の作品は、新たなポップ・マーケットであるラテン・アメリカやアフリカで大いなる支持を集めていた。彼はアフリカのジンバブエの独立記念祭でコンサートを開き、それは新世界[アメリカやカリブ]における黒人たちがアフリカを取り戻したことを象徴し、またアフリカが新世界におけるディアスポラ[故郷喪失者]を取り戻したことを象徴していた。マーリーの音楽やプレゼンテーションの仕方は曖昧なものであったものの、彼は国際的なレゲエの大きな市場の中心として、ヒーロー役を演じることとなったのである。1977年から78年に掛けて、彼のアルバム《エクソダス》は、イギリスのポップ・チャートに56週連続でランク・インしていた。1977年には、「パンキー・レゲエ・パーティ」のリリースにより、新しい白人のリスナーに認知された。しかしそれは、二つの対立する「党派」――すなわちラスタとパンク――の合流を意味するというよりは、ポップ音楽のしたたかさや多様で矛盾を孕んだ要素を抱き込む包容力を意味していたのである。さて、当時、イギリスの若者たちは〔それまで彼らが拠り所としていた〕アメリカ的なイメージや意味作用から脱しようとしていた。まさにそのような時、若者たちが重要なサブカルチャー的資源〔アメリカに変わる新たな準拠枠〕となっていったのが、カリブ系住民であった(ディック・ヘブディッジ)。マーリーは、レゲエを単に新奇なものとしてではなく、チャート内に確固たる地位を築き、彼自身がスターとなることで、ポップ・ミュージックの中にある新しい空間を切り開いた。この時から彼の死までの間、その空間は主に〈2トーン〉という流行によって占められた。このムーヴメントにおいて、かつてのカリブの音楽形態、特にスカが採り入れられ、さらには特にイギリス的なスタイルや関心に合うように変形された。スカとは、それが明らかに妥協の産物であったマーリーの音楽の背後にあるものを探し出そうとした真剣なレゲエ・ファンによって選択されたものであったのである。しかしながら、〔レゲエとイギリス的なものの〕融合はいくつかの対照的な道筋を辿った。マッドネスやバッド・マナーズのようなロンドンのバンドによる断定的な〔力強い?〕〈白人の〉レゲエは、若き人種差別主義者たちの支持を得た――彼らの愛国的移民排斥主義〔nativism〕は、スキンヘッド・スタイルの復興とともに再生したものであった。それと特に対照的なのは、イングランド中部からやって来た異人種混成バンドによる作品であった。マッドネスが、単にスカをハイジャックし、白人のものとして宣言したのに対し、ザ・ビートやザ・スペシャルズやその追随者たちは、その作品のなかで、〈人種〉間の矛盾するポリティックスを顕わにしようと努めた。その最も優れた成果は、人種差別の持つ破壊的な力を知らしめるところにあり、同時に聴衆とともに差別を克服しようとした点――黒人と白人が協力して音楽を制作することによって現実のものとなった可能性――にあった。
 マーリーのポップへの遠征が2トーンの種を撒くことにあったとするなら、それに続くこの時期は
 彼が栄光の頂点に立ったことの残り火は、若者のサブカルチャーにおけるけばけばしい過激派たち――イギリス的なるものに対して反対、批判をするラスタファリによる主題や関心事を、パンクは再加工していた――によって支持されたものではなく、むしろ主流の若者文化によって支持されたものであった。ここにおいて、ドレッドロックスを振り乱すマーリーのポスター――アイランド・レーベルにおける彼の融和的なレコードに添えられていた――は、無数のイギリスの若者の寝室にイコン〔聖像〕のように祀られた。そのような若者たちは、マーリーの言う平等主義、エティオピア主義〔ブラック・シオニズム〕、反帝国主義、法律や商業主義的な音楽に対する批判に、もはや帝国ではなくなったイギリスにおいて彼ら自身が生きていく意味を見出したのである。2トーンのバンドはこの状況を認識した上で、マーリーの訴えのなかから、80年代のはじまりを迎える都市部の若いイギリス人の経験に則したものだけを抽出した。マーリーの企図の内にある論理から、カリブに根ざしたポップ音楽とポピュリズム的な政治性を融合させるという結論を導き出したのである。〔続く⋯〕




2トーンの終わりに:ザ・スペシャルズ《モア・スペシャルズ》
 『モア・スペシャルズ』は、1980年リリースされたザ・スペシャルズの二枚目の、そして最後のアルバムである。このアルバムは、2トーン系で出されたものの中でも、私の最も好きなアルバムである。とはいえ、これをリアル・タイムで聴いたわけではない(聴いていてもおかしくない年代ではあるが)。私が、スカをはじめて聴いたのは、いわゆる第三次ブームのジ・アンタッチャブルズやフィッシュボーンであった。その後、それらを通じて遡り、やがてはザ・スカタライツやトゥーツ&ザ・メイタルズにまで至ることとなる。その遡行途上で出逢ったのが、このアルバムである。ファースト・アルバム『ザ・スペシャルズ』と比べると、曲調のヴァラエティも多く、随分とリラックスした印象を与える。以下、このアルバムを通して、ポスト・コロニアル情況におけるポピュラー・ミュージックの在り方について考えてみたい。(以下現在執筆中)
The Specials, More Specials (Chrysalis / 2 Tone, 1980)
1. Enjoy Yourself 
2. Rat Race 
3. Man At C&A 
4. Hey, Little Rich Girl 
5. Do Nothing 
6. Pearl's Cafe 
7. Sock It To 'Em J.B. 
8. Stereotypes / Stereotypes Part 2 
9. Holiday Fortnight 
10. I Can't Stand It 
11. International Jet Set 
12. Enjoy Yourself (Reprise)

The Specials: Terry Hall (vocals); Neville Staples (vocals, percussion); Lynval Golding (guitar, background vocals); Roddy Radiation (guitar); Jerry Dammers (piano, organ); Sir Horace Gentleman (bass); John Bradbury (drums). 
Additional personnel: Rhoda Dakar (vocals); Kik Thompson, Paul Heskatt (saxophones); Dick Cuthell (flugelhorn, cornet); Rico Rodriguez (trombone); The Go-Go's (background vocals). 
Recorded at Horizon Studios, Coventry, England.