横浜写真《木賀》
観光・写真・ピクチャレスク
  ――横浜写真における自然景観表象をめぐって――

以下の原稿は、
第十二回写真研究会〔二〇〇〇年六月三日、於同志社大学〕、
美学芸術学会第三回大会〔二〇〇〇年一〇月二八日、於同志社大学〕、
第十四回写真研究会〔二〇〇〇年十一月四日、於同志社大学〕において行った口頭発表に基づいている。
学会誌『美学芸術学』第十六号〔美学芸術学会、二〇〇一年四月〕に掲載予定
 

佐藤守弘    (c) SATOW Morihiro, 2001
*図版は省略しております。



  アメリカ人科学者グリフィス(William Elliot Grifis 一八四三〜一九二八年)が、越前福井藩のお雇い教師となるべく、彼の言う「ミカドの帝国」に到着したのは、一八七〇年のことであった。彼は横浜の港にて日本の土を踏む。当時、開港以来二十年を経た横浜の町は、日々発展していく東アジア有数の港湾都市として賑わいを見せていた。それはさまざまな文化が入り交じり、雑居するハイブリッドな都市の姿であった。彼の著作『明治日本体験記 (The Mikado's Empire)』には、当時の横浜の賑わいが活写されている。そのなかで彼は、一軒の店に目を惹かれた。彼は言う。「写真館は日本の衣装や風景の趣のあるアルバムを出してきて人の目とふところを誘惑する」と(1)。
 彼が目を留めたアルバムこそが、本稿において考察の対象として採りあげる〈横浜写真アルバム〉である。横浜写真とは主として欧米への土産として、一八六〇年代から一九〇〇年頃まで横浜で制作された彩色写真である。初期は西洋から来た写真師によって、後にはその技術、手法を受け継いだ日本人写真師によって制作された。ほとんど全ての写真は、精緻に手彩色され、豪奢な蒔絵等の表紙が付いた写真アルバム――平均して五十枚程度の写真が台紙に貼り付けられていた――に収められた。主要な撮影対象は、名所の自然景観、寺社仏閣などの歴史的建造物、人々の風俗等であり、そのどれもが凍り付いた時間のなかで、静かに佇んでいるかのようである。
 本稿の課題は二つある。まず第一の課題は、横浜写真の表象の特性を探ることにある。すなわち横浜写真が、どのような対象を選び、それをどのように表象したのかを明らかにすることである。さらに上記の考察の結果明らかになった視覚的特性を踏まえて、横浜写真の歴史的意義を探ることが第二の課題である。すなわち、横浜写真がなぜ十九世紀末という時代に日本で生産され、またどのように受容されたのかを解明する。本稿では紙幅の関係もあり、建造物や風俗を撮影したものは除外し、日本の自然を描く景観写真を主な考察対象としたい。 
 研究史を振り返ってみると、かつては「写真の買手である外国人に媚びた卑屈な撮影態度であった」と酷評されたこともあった(2)。しかしここ十五年ほど、多くの書籍や写真集が発行され、その価値は認められはじめてきたように見える。ところがそれらの価値評価は、多くは史料的価値の評価にとどまっている。こういった写真に「横浜写真」という名を付けた写真史家、小沢健志でさえ、横浜写真は「西欧人の求める東洋の神秘性、異国的興味に応える、商業性のつよい紹介写真で、絵葉書的効用の原型である」とした上で、「総じて現代からは貴重な、目でみる明治の資料となっている」といい、決して積極的に評価しているとは言えない(3)。横浜開港資料館の斎藤多喜夫は、数多くの史料を発掘し、横浜写真の全体像を明らかにしてきた功労者であるが、その彼にしても「そこには紛れもなく明治時代の日本の風景と人々の生活が映し出されているのである。それらは文字や絵とはまた異なる情報を与えてくれるし、歴史に対するイメージを豊かにしてくれる」と述べるに止まり、どのように「異なる情報」なのかについての解答はなされていない(4)。
 本稿においては、横浜写真をグローバルで普遍的なヴィジュアル・カルチャー――すなわち〈旅行写真〉――として捉えてみたい。そういった文脈に横浜写真を置き直すことによって、以下のような仮説が見えてくる。横浜写真の自然景観表象とは、〈ピクチャレスク(picturesque)〉というヨーロッパの美的規範――あるいは〈視〉の制度――を日本という他者の空間に適応した結果、生産されたものである。そのようにヨーロッパの人々の見慣れた規範を通して視られることによって、日本の景観は一瞥で認識できるものとなる。こうした特性を具えた横浜写真とは、観光者に日本の景観の〈見方〉を教示するものであった。観光者は横浜写真で見たような景観を求めて日本中を経巡る。さらにそれを本国に携え帰ることによって、その見方――すなわち〈観光のまなざし〉――が、ヴァナキュラーなかたちで再生産されるである。
 以上の仮説を立証するために、以下のような手続きを採る。第一章では、横浜写真の概略を示し、世界的な写真史の文脈に位置づける。第二章では、箱根の木賀村を撮影した写真を採り上げ、その対象を同定し、さらにその〈ピクチャレスク〉性を指摘する。そして第三章では、横浜写真の視覚を規定していた「観光のまなざし」について検討する。

第一章 写真史における横浜写真
 

 まずは横浜写真アルバムの構成を紹介したい。ここで例として採り上げるのは、国際日本文化研究センター所蔵の横浜写真アルバムである。制作者は不詳ながらも、ファルサーリ商会のものが確認され、またさまざまな形式の表題が賦されていることから、複数の制作者のものを集めたものと推定できよう。蒔絵表紙――桜花小禽文――つきで、写真の点数は四十八点。まずはじめの三十九点は、日本各地――横浜、東京、日光、伊香保、箱根、修善寺、熱海、東海道と中仙道、京都、大阪、奈良、神戸、瀬戸内、長崎――の景観である。これらの景観写真は、自然景観を写したものと、神社仏閣などの古来の名所[図1]を写したものがある。その他に九点の風俗写真[図2]が含まれている。
 ここで、横浜写真の歴史を詳述したい。横浜写真の創始者と目されるのは、フェリックス・ベアト(Felix Beato 一八三四〜一九〇八年頃)である。彼はイタリア系イギリス人で、兄のアントニオ・ベアト(Antonio Beato ?〜一九〇三年頃)や義理の兄弟だったジェームス・ロバートソン(James Robertson 一八五二〜六五年頃活動)とともに写真を学んだ。戦争写真のパイオニア、ロジャー・フェントン(Roger Fenton 一八一九〜六九年)に代わって、ロバートソンがクリミア戦争の記録に赴いたとき、ベアトも助手として一緒に行くこととなった。その後、パレスティナを撮影旅行し、さらにインドでセポイの乱(一八五七〜五九年)を取材、そして中国では第二次アヘン戦争(一八五六〜六〇年)を取材する。イギリスの植民地政策の最前線を報道し続けた彼の辿り着いたのが、一八六三年頃の横浜であった。そこで一足先に来日していた画家チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman 一八三四〜九一年)と横浜居留地で店を開く。一八六八年頃から、撮り貯めた写真をアルバムのかたちに仕立て、旅行客相手に販売するようになる。ベアトの帰国後、その写真館を受け継いだのが、オーストリア人バロン・フォン・シュティルフリート(Baron Raimund von Stillfried-Ratenicz 一八三九〜一九一一年)であった。さらにアメリカ人実業家アドルフォ・ファルサーリ(Adolfo Farsari 一八四一〜九一年)が一八八五年、写真師、玉村康三郎(一八五六〜?年)をパートナーとして、日本写真社を受け継ぐ(5)。また臼井秀三郎(生没年不詳)、初代鈴木真一(一八三五〜一九一九年)、そして「金幣アルバム」で有名な日下部金兵衛(一八四一〜一九三四年)ら多くの日本人写真師も写真館を経営した。これらの写真館は完全に欧米型の会社組織を採り、写真輸出は確実に横浜の対外貿易産業の一端を担っていた。その証左として、『大日本外國貿易年表』に、輸出品の項目として二十年にもわたって「写真画(6)」があることが挙げられる。一八九六年には、アメリカの商人から、玉村写真店が写真百万枚の注文を受けたとの記録も残っている(7)。
 ここで横浜写真をグローバルな写真史の文脈において考えてみたい。十九世紀のヨーロッパにおいて〈旅行写真 (travel photography)〉といわれるジャンルが流行していた。そもそも写真は、その発明以来旅行と常に密接な関係にあった。はじめは考古学や地誌学、歴史学、さらには民族学といった諸科学が、その調査に際して写真を使っていた。程なく帝国主義的植民地観光の進展に伴って、各地の景観や風俗を記録した土産物として商業的に成功を収めることとなる。こうした旅行写真家たちの精力的な活動の結果、世界中のありとあらゆる地域の地誌的景観、歴史的遺跡、文化的習俗が写真に収められ、情報としてヨーロッパに流れ込み、そして蒐集、分類、目録化されることとなったのである。スーザン・ソンタグ(Susan Sontag)の言葉を借りれば「写真は世界をそっくり鑑定の対象に使えるようにし」たのであった(8)。横浜写真の創始者たるベアトの行動は、先輩の旅行写真家たち――マクシム・デュ・カン(Maxim Du Camp 一八二二〜九四年)やフランシス・フリス(Francis Frith 一八二〇〜九九年)など――の行動と多くの共通点が見られる。その上、自然景観、寺社などの歴史的建造物、人々の風俗という横浜写真のレパートリーから見ても、横浜写真とは旅行写真の系譜に位置付けられるのである(9)。


第二章 ピクチャレスクという規範
 

 ここで先述のアルバムより《木賀》と題された写真[図3]を採り上げて、分析していきたい。
 この写真の撮影対象は箱根七湯の一つである木賀温泉である。その起源は十二世紀に遡ると言われており、宮ノ下から宮城野へ抜ける木賀街道沿いの由緒ある温泉郷であった。画面右下を流れる激流は、早川の流れである。その上方、山肌沿いに立ち並んでいるのが旅館であり、当時あった亀屋、松坂屋、仙石屋であろう。写真中に見える道路は亀屋の主人であった宮内林太郎が一八七三年に宮ノ下、宮城野を結ぶために開いた新道である(10)。このことから、この写真の景観年代を一八七三年以降に想定することができよう。
 当時の木賀の姿を探るために、外国人向けの旅行ガイドを参照してみたい。参照するのは、外交官であったアーネスト・M・サトウ(Sir Ernest Mason Satow 一八四三〜一九二九年)とA・G・S・ホウズ A. G. S. Hawes (生没年不詳)による『日本中部及北部旅行案内(A Handbook for Travellers in Central & Northern Japan, London:John Murray, 1881)』で、この種のガイドとしては一番古いものである。さて、この本では、「ルート」と呼ばれる模範的旅程が紹介される。それは「この路を辿って何里進むと、ここに出て、そこからしかるべき方向を観ると、この様な風景が見られる」といったような懇切丁寧なものである。ここでは、第五のルート「箱根、宮ノ下及びその近郊」という章にある、木賀に関しての描写を引用したい。
 

[宮ノ下周辺を]散歩する際に、最も素晴らしいのは木賀への道である。・・・ここより道は昇り坂となり、早川の流れの左岸を歩むこととなる。木立を抜けると見晴茶屋に着く。ここからは早川の渓谷と小さな木賀村を視野に入れるピクチャレスクな光景が見渡せる(11)。[下線は筆者]  
 
 この文に記されている見晴茶屋からの景観こそが、まさにこの写真に忠実に再現されているものである。  さて、画面右下を見ると、アルファベットで撮影対象が書かれ、数字が付いている。ここでは「984 KIGA」とある。横浜写真を制作していた写真館には、長年撮り貯めた写真がカタログ化されており、数字はそのカタログ整理用であったとされている。購買者は、そのカタログから好きな写真を自由に選び、発注してアルバムに仕立てさせ、後日受け取りにいったものと考えられている(12)。すなわち一種のカスタム・メイドであった。  画面の構成に目を向けたとき、まず第一に気づくことは、まなざしの対象となる景観の広さであろう。この景観を撮影した他の写真を見ても、近接して家々を撮影する例はきわめて少なく、このように大観的、巨視的なアプローチが大部分を占める。左側の山はそびえ立ち非対称構図を形作り、見る者の視線は川に沿って曲がりながら奥へと誘い込まれる。
 ここで、サミュエル・ボーン(Samuel Bourne 一八三四〜一九一二年)によるインドの景観写真と比較してみたい[図4]。巨視的な視角、非対称構図、視線を奥に誘い込む仕掛けなど、横浜写真に共通する要素が多く見られる。こういった構図は、同時代のヨーロッパの風景画にしばしば見られるもの、すなわちピクチャレスクな構図である。  ここでサトウが木賀の景観を「ピクチャレスクな光景」と評したことをここで思い起こしたい。ピクチャレスクとは、一八世紀末から一九世紀のヨーロッパ、特にイギリスを席巻していた美的規範であった。それは端的に言えば、視覚的イメージによって世界を分節化する行為である。つまり、彼らは世界を絵画として観たのである。「この風景が美しいのは、誰々の絵のようだからだ」とピクチャレスクの信奉者は主張する。この風景の見方について、高山宏は次のように述べる。「言わば見られるべき無数の面の束である自然から、あらかじめ定められたひとつの面だけを選択的に見るのだ。要するに風景『画』であり、近代における『風景』の概念のこのうえない象徴であるだろう」(13)。 

 ピクチャレスクの主唱者であったウィリアム・ギルピン(Rev. William Gilpin 一七二四〜一八〇四年)による水彩風景画[図5]の構図法と比較すると判るように、横浜写真の自然景観表象は、まさしくピクチャレスクの系譜に繋がるものであったといえよう。十九世紀におけるヨーロッパ帝国主義の世界制圧によって、世界中の風景はピクチャレスクに視られるようになったのである。言い換えれば、ヨーロッパ人の目の届く世界の景観は全て、静かに凍り付いたタブローの束として再編されていったのであった。安西信一の指摘にもあるように、ピクチャレスクは「西欧中心的イデオロギーと幾重にも共犯関係」を取り結んでいたのである(14)。
 ただしピクチャレスクにおいて重要であった〈ごつごつした感じ(ruggedness)〉が木賀の風景には、激流中の岩々を除いて、ほとんど見られないことには注意が必要であろう。したがって正統的ピクチャレスクが、世界中にひとしなみに拡がっていったと考えるのは早計に過ぎるであろう。まず、ヨーロッパ内部でも、十八世紀の理論的なピクチャレスク美学は喪われ、すでに俗化していたと考えられる。さらにアラブ、パレスティナ、インド、中国、日本とそれぞれの国でピクチャレスクに何らかの変容が起こっていた。すなわち、ピクチャレスクのヴァナキュラー化が起こっていたのである。〈ヴァナキュラー(vernacular)〉とは、本来は「話し言葉の」や「方言の」といった意味の形容詞である。この言葉は、一九八〇年代より、主として建築批評の領域で使われはじめた。ただし〈ヴァナキュラー〉なものは、〈民俗的(folk)〉なものとは異なる。〈民俗的〉という言葉は、しばしば自律的な伝統に根ざした不変の、非歴史的な、純粋な性質を示唆する。それとは異なり、〈ヴァナキュラー〉は「社会環境のもたらす無数の変異を受け入れるきわめて流動的で可変的な特質を持っている」のである(15)。すなわち、ピクチャレスクというあくまでもヨーロッパ中心主義的な普遍言語が、さまざまな国に伝えられることによって、方言化されたのではないかと考えたい(16)。
 


 
 
 
 

 

第三章 観光のまなざし
 

 以下では、横浜写真の受容者であった欧米からの観光客が、どのようなまなざしを日本に向けて投げかけていたのかについて考えてみたい。
 横浜写真が登場した一九世紀後半には、ヨーロッパでは〈第一次観光革命〉と呼ばれるものが起こっていた。巡礼に代表される従来の〈旅〉、すなわちトラヴェルは常に困難と辛苦を伴うものであった。ところが産業革命の進展やブルジョワ社会の成立に伴い、新しい旅行形態が生まれた。それが〈観光〉、すなわちトゥーリズムであった(17)。この革命はイギリスを中心に起こった。はじめはイギリス国内旅行が主であったが、次にヨーロッパ全域、さらには欧米列強による世界的な植民地化が進むにつれ、観光産業の網目は地球全体を包み込むようになったのだ。一八七〇年代には世界一周旅行ブームが訪れることになる(18)。ここにテクノロジーによって安全に囲い込まれた危険のない旅――すなわち〈観光〉――が姿を現す。観光者は、あらかじめガイドブックや旅行社によって推薦された旅程を辿り、場所から場所へと経巡る。明治初期に横浜に降り立ち、横浜写真を手に本国へ帰っていった人々とはまさにそのような〈観光者〉たちであった。  観光と旅の一番の違いは、その重点が視覚に置かれるところにある。ヴォルフガング・シヴェルブシュ(Wolfgang Schivelbusch)が看破したように、一九世紀後半の鉄道の発達の結果、ヨーロッパ人の知覚は劇的に変化した。産業革命以前の旅において、旅行者は自らがそのなかに含まれる前景を仲介として、常に景観と同一空間に属していた。ところが、高速で移動する鉄道の車窓から、飛び去るように過ぎていく前景を捉えることは不可能に近い。ここにおいて、車上の人と景観のあいだには「ほとんど実体なき境目」が挿入されることとなった。この前景なき空間認識を、シヴェルブシュは〈パノラマ的視覚〉――刹那的、印象派的とも言い換えられる視覚体験――と呼ぶ。「パノラマ的にものを見る目は、知覚される対象ともはや同一空間に属していない」とシヴェルブシュは言う(19)。鉄道とは単に革新的な技術であるだけでなく、それを利用するブルジョワたちの知覚そのものを変容させる文化装置であった。十九世紀後半に観光旅行に赴いた人々は、すでにこの知覚の変容を体験していたと想定できよう。観光者たちは、自らと同一空間にある景観ではなく、あくまでも離れた、奥行きのない平面として景観を視る。その光景は、主体の移動に伴って、次々と過ぎ去っていくものであった。
 ジョン・アーリ(John Urry)が〈観光のまなざし〉と呼ぶものも、そういった「実体なき境目」を介して投げかけられるものである。すなわち「[観光という]体験の一部は、日常から離れた異なる景色、風景、町並みなどにたいしてまなざしもしくは視線を投げかけることなの」である(20)。ここでまなざしを投げかけられる対象である観光地の景観は、切り取られ、一枚の絵として見られたのである。ここにおいて見る/見られるという一方的な関係が成立する。すなわち、このまなざしのもと、観光地は徹底的に客体化されたのである。観光者が対象に対して取る態度は、どこか当時の民族学者の調査法に似ている。民族学者は、異文化を観察し、計測し、記述する。しかし決してその文化のなかに入り込むことはしない。
 この観光という文化行為のなかで、視覚的表象はどういった機能を果たすのであろうか。観光イメージとは、観光者のまなざしを明確に規定し、観光者をそれに従属させる装置と規定できる。平たく言うと、観光者は写真のような景観を観光地において探し、それにまなざしを向けることによって旅の目的を達成するのである。観光者は、何らかの言説――すなわち写真のようなイメージやガイドのようなテクスト――を書き込まれて目的地に赴く。言い換えると、先入主たる言説によってはじめて、観光する主体が形成されるともいえるのである。アーリは次のように言う。「旅行とは、出かける前に、原型としてすでに見ているイメージの、自分用に焼直したものを、現地で指差して、そこに確かに来たということを証明する作業に結局なっているのだ。写真は、したがって、観光のまなざしと親密に結びついている」(21)。
 ただし〈観光のまなざし〉の見方は一様ではなく、対象によってその見方は変わっていたと考えられよう。例えば寺社などの建造物を写すときには、モニュメンタルな威容を捉える建築写真の形式を採り、人物や風俗を写すときにはその民族・文化を一目で表す類型――すなわち〈タイプ〉――を示す民族学写真の形式を採るといったように。いわば撮影対象によって、写真家が望遠や広角などレンズを交換するように、〈観光のまなざし〉もその形式を交換するのである。そして自然景観を写すときに使われた形式的規範こそが、ピクチャレスクであった。
 横浜写真において日本のさまざまな表象は次々と過ぎ去り、決して凝視されることはない。見る者は次々にアルバムの頁をめくり、そこに表象された景観に一瞥を投げかけるのである。それは観光者が観光地において行う身体的行為とよく似ている。観光者は、旅程に従って次々に観光地を経巡り、それぞれの景観に一瞥を投げかける。この身体の移動の過程において、最も効率よく異国を体験する方法こそが、〈観光のまなざし〉を採用することであった。次々に過ぎ去っていく光景と、次々にめくられていくアルバムの頁。両者は全くパラレルな関係にあったのである。 


 
 

 本稿では、横浜写真を〈ピクチャレスク〉と〈観光のまなざし〉というキーワードのもとに検証してきた。ここで導き出された結論を繰り返すと、次のようになる。横浜写真の自然景観表象とは、〈ピクチャレスク〉というヨーロッパの美的規範を日本に適応され、ヴァナキュラー化した結果、生産されたものである。そのようにヨーロッパの人々の見慣れた規範を通して視られることによって、日本の景観は一瞥で認識できるものとなった。さらにピクチャレスクな日本の表象とは、観光者に日本の景観の〈見方〉を教示するものであった。観光者は横浜写真で見たような景観を求めて日本中を経巡る。さらにそれを本国に持ち帰ることによって、その〈観光のまなざし〉は再生産される。
 写真という視覚のシステム、表象の形式を決定するピクチャレスクという美的規範、そして高度に産業化された観光という文化的実践。この三者が出会ったときに、横浜写真は生まれた。この現象は、何も日本だけで起こっていた訳ではない。上海、香港はもとより、中南米やアフリカ、オーストラリアまで、西洋人の赴きうるところではどこでも起こっていた現象であった。対象の内容はさまざまに変化しようが、それを表象する観光・写真・ピクチャレスクという要因は変わらない。世界はまさに一定の視覚のもと、同一条件で比較対照しうるものとなったのである。これはまさに〈近代〉が世界を覆っていく過程とパラレルに考えることが出来よう。  したがって、横浜写真を〈日本写真史〉という言説のもとに押し込めることは、それを矮小化してしまう危険性がある。横浜写真を地球規模のヴィジュアル・カルチャーの一つの現れとして解釈することは、文化を硬直した静態的なものとして捉えるのではなく、相互に影響しあい、混じり合って、日々変化していく動態的なものとして捉えることにつながると私は考える。 
 本稿においては、横浜写真と他の旅行写真の差違をあえて強調はしなかった。その理由は、横浜写真を一旦世界的なコンテクストのなかに置きなおし、そのヴァナキュラー性を際立たせることが、日本の初期写真史に新たな光を当てるのに不可欠であると考えたからである。しかしながら、横浜写真を異種混淆的なものと言う以上、普遍的なものからどのように変容=転訛したのかを明らかにしなければならないであろう。その為にも、今後は、本稿の結論を踏まえながら、横浜写真における都市の表象を、名所の変容と関連づけながら、読解していくことを課題としたい。


【註】
(1) グリフィス『明治日本体験記』、山下英一訳、平凡社、一九八四年、一七頁。
(2) 内藤正敏「開化期」、日本写真家協会編『日本写真史 1840〜1945』、平凡社、一九七一年、三六二頁。
(3) 小沢健志『幕末・明治の写真』、ちくま学芸文庫、一九九七年、一九九頁。 
(4) 横浜開港資料館編『彩色アルバム 明治の日本――《横浜写真》の世界』、有隣堂、一九九〇年、VIII頁。
(5) ただしファルサーリはあくまでも社主であり、実際に写真を撮っていたのは日本人の写真師であった。一八九一年のThe Japan Directoryによれば、ファルサーリ商会には五人の写真師、三人の焼付師、十九人の絵付師、その他支配人、庶務係、植字工、製本師、大工がそれぞれ一人ずつ働いていた。前掲『彩色アルバム 明治の日本』(二三〇頁)を参照のこと。
(6) 木下直之は〈写真画〉という概念を写真と絵画の要素を共に含む両義的なカテゴリー全体に拡げて使用している(木下直之『写真画論』、岩波書店、一九九六年)が、ここでは横浜写真のような彩色写真が特に〈写真画〉と呼ばれていた可能性を示唆する史料を提示したい。一八七七年に発行された番付《東京写真見立競》には〈諸寫眞繪問屋所〉というカテゴリーが見られる。また、一八七八年の原田與三郎編『京都賣買ひとり案内』(清文堂)にも「寫眞師」と別に項目を立てて「寫眞繪類」がある。すなわち、肖像中心の写真師たちとは区別される「寫眞繪」というものがあったと推測される。
(7) 『毎日新聞』一八九六年七月十九日付の記事より。前掲『彩色アルバム 明治の日本』(二二九頁)を参照のこと。 
(8) スーザン・ソンタグ『写真論』、近藤耕人訳、晶文社、一九七九年、一一六頁。
(9) 最近の欧米の写真史概説書においては、ベアトらの横浜写真は旅行写真の文脈で語られている。ナオミ・ローゼンブラム『写真の歴史』(大日方欣一他訳、美術出版社、一九九八年)、およびMichel Frizot, ed., A New History of Photography (Koln; Konemann, 1998)を参照のこと。
(10) 神奈川県温泉地学研究所、箱根町企画課編『箱根温泉誌――箱根温泉総合調査報告』、箱根町、一九八一年、一二六頁。 
(11) 原文は以下の通りである。"[Route 5. --Hakone, Miya-no-shita, and Neighbourhood] Of quite close walks the prettiest is that to Kiga... From this point the path ascends the slope on the l. bank of the stream, and after passing through a wood, reaches the Miharashi cha-ya (Prospect tea-house), which commands a picturesque view of the valley of the Haya-kawa and of the litle village of Kiga... This place consists almost entirely of bathing establishments, and its waters are the most celebrated of those in the neighbourhood." Ernest Mason Satow. Collected Works of Ernest Mason Satow Part 1, Vol. 4; A Guide Book to Nikko / A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan (Bristol: Ganesha and Tokyo: Edition Synapse, 1998)より引用。
(12) 木下直之「描かれた〈明治の日本〉」、吉田喜重、山口昌男、木下直之編『映画伝来』、岩波書店、一九九五年、一六三頁。
(13) 高山宏『庭の綺想学――近代西欧とピクチャレスク美学』、ありな書房、一九九五年、二二〇頁
(14) 安西信一「ピクチャレスクの『移植』――英国式庭園から現代へ」、金田晉編『芸術学の100年――日本と世界の間』、勁草書房、二〇〇〇年、一六二頁。 
(15) 今福龍太『クレオール主義――The Heterology of Culture』、青土社、一九九四年、一五五頁。
(16) 飯沢耕太郎もまた横浜写真に、ピクチャレスクを破れさせる異物として、ヴァナキュラーな要素を見る。それは「遠近法を欠いた書割じみた町並、凍りついたようにたたずむ人物たち、とめどなく画面にあふれだしてくる奇妙なもの等」である。それらこそが「リゾーム状にからみあった土着(ヴァナキュラー)の風景」であると彼は言うのである。飯沢耕太郎「旅の眼・旅のテクスト――『横浜写真』をめぐって」(『写真の力[増補新版]』、白水社、一九九五年、一一九〜二五頁)を参照。ただし、彼はヴァナキュラー性が撮影対象である日本の風景に内在する属性である、と見ている。すなわち対象が、形式的規範を裏切っているとするのである。しかし、私は意見を少なからず異にする。つまり、私がここで主張しているのは、形式的規範こそがヴァナキュラー化したということなのである。
(17) tourism という単語が、英語の語彙に登場したのは、一八一一年頃であったという。
(18) 石森秀三「観光革命と二〇世紀」、同編『観光の二〇世紀』、ドメス出版、一九九六年、一五〜一七頁。ちなみに、旅行代理店トーマス・クック社 Thomas Cook が世界一周旅行パックを売り出すのが一八七二年、ジュール・ヴェルヌ Jules Verne の『八〇日間世界一周 Le Tour du monde en quatre-vingts jours』が刊行されるのが一八七三年である。 
(19) ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』(加藤二郎訳、法政大学出版局、一九八二年、六九〜八八頁)を参照のこと。 
(20) ジョン・アーリ『観光のまなざし――現代社会におけるレジャーと旅行』加太宏邦訳、法政大学出版局、一九九五年、二頁。 
(21) アーリ前掲書、二四九頁。

(c) SATOW, Morihiro, 2001