第三章 観光のまなざし
以下では、横浜写真の受容者であった欧米からの観光客が、どのようなまなざしを日本に向けて投げかけていたのかについて考えてみたい。
横浜写真が登場した一九世紀後半には、ヨーロッパでは〈第一次観光革命〉と呼ばれるものが起こっていた。巡礼に代表される従来の〈旅〉、すなわちトラヴェルは常に困難と辛苦を伴うものであった。ところが産業革命の進展やブルジョワ社会の成立に伴い、新しい旅行形態が生まれた。それが〈観光〉、すなわちトゥーリズムであった(17)。この革命はイギリスを中心に起こった。はじめはイギリス国内旅行が主であったが、次にヨーロッパ全域、さらには欧米列強による世界的な植民地化が進むにつれ、観光産業の網目は地球全体を包み込むようになったのだ。一八七〇年代には世界一周旅行ブームが訪れることになる(18)。ここにテクノロジーによって安全に囲い込まれた危険のない旅――すなわち〈観光〉――が姿を現す。観光者は、あらかじめガイドブックや旅行社によって推薦された旅程を辿り、場所から場所へと経巡る。明治初期に横浜に降り立ち、横浜写真を手に本国へ帰っていった人々とはまさにそのような〈観光者〉たちであった。
観光と旅の一番の違いは、その重点が視覚に置かれるところにある。ヴォルフガング・シヴェルブシュ(Wolfgang Schivelbusch)が看破したように、一九世紀後半の鉄道の発達の結果、ヨーロッパ人の知覚は劇的に変化した。産業革命以前の旅において、旅行者は自らがそのなかに含まれる前景を仲介として、常に景観と同一空間に属していた。ところが、高速で移動する鉄道の車窓から、飛び去るように過ぎていく前景を捉えることは不可能に近い。ここにおいて、車上の人と景観のあいだには「ほとんど実体なき境目」が挿入されることとなった。この前景なき空間認識を、シヴェルブシュは〈パノラマ的視覚〉――刹那的、印象派的とも言い換えられる視覚体験――と呼ぶ。「パノラマ的にものを見る目は、知覚される対象ともはや同一空間に属していない」とシヴェルブシュは言う(19)。鉄道とは単に革新的な技術であるだけでなく、それを利用するブルジョワたちの知覚そのものを変容させる文化装置であった。十九世紀後半に観光旅行に赴いた人々は、すでにこの知覚の変容を体験していたと想定できよう。観光者たちは、自らと同一空間にある景観ではなく、あくまでも離れた、奥行きのない平面として景観を視る。その光景は、主体の移動に伴って、次々と過ぎ去っていくものであった。
ジョン・アーリ(John Urry)が〈観光のまなざし〉と呼ぶものも、そういった「実体なき境目」を介して投げかけられるものである。すなわち「[観光という]体験の一部は、日常から離れた異なる景色、風景、町並みなどにたいしてまなざしもしくは視線を投げかけることなの」である(20)。ここでまなざしを投げかけられる対象である観光地の景観は、切り取られ、一枚の絵として見られたのである。ここにおいて見る/見られるという一方的な関係が成立する。すなわち、このまなざしのもと、観光地は徹底的に客体化されたのである。観光者が対象に対して取る態度は、どこか当時の民族学者の調査法に似ている。民族学者は、異文化を観察し、計測し、記述する。しかし決してその文化のなかに入り込むことはしない。
この観光という文化行為のなかで、視覚的表象はどういった機能を果たすのであろうか。観光イメージとは、観光者のまなざしを明確に規定し、観光者をそれに従属させる装置と規定できる。平たく言うと、観光者は写真のような景観を観光地において探し、それにまなざしを向けることによって旅の目的を達成するのである。観光者は、何らかの言説――すなわち写真のようなイメージやガイドのようなテクスト――を書き込まれて目的地に赴く。言い換えると、先入主たる言説によってはじめて、観光する主体が形成されるともいえるのである。アーリは次のように言う。「旅行とは、出かける前に、原型としてすでに見ているイメージの、自分用に焼直したものを、現地で指差して、そこに確かに来たということを証明する作業に結局なっているのだ。写真は、したがって、観光のまなざしと親密に結びついている」(21)。
ただし〈観光のまなざし〉の見方は一様ではなく、対象によってその見方は変わっていたと考えられよう。例えば寺社などの建造物を写すときには、モニュメンタルな威容を捉える建築写真の形式を採り、人物や風俗を写すときにはその民族・文化を一目で表す類型――すなわち〈タイプ〉――を示す民族学写真の形式を採るといったように。いわば撮影対象によって、写真家が望遠や広角などレンズを交換するように、〈観光のまなざし〉もその形式を交換するのである。そして自然景観を写すときに使われた形式的規範こそが、ピクチャレスクであった。
横浜写真において日本のさまざまな表象は次々と過ぎ去り、決して凝視されることはない。見る者は次々にアルバムの頁をめくり、そこに表象された景観に一瞥を投げかけるのである。それは観光者が観光地において行う身体的行為とよく似ている。観光者は、旅程に従って次々に観光地を経巡り、それぞれの景観に一瞥を投げかける。この身体の移動の過程において、最も効率よく異国を体験する方法こそが、〈観光のまなざし〉を採用することであった。次々に過ぎ去っていく光景と、次々にめくられていくアルバムの頁。両者は全くパラレルな関係にあったのである。
結
本稿では、横浜写真を〈ピクチャレスク〉と〈観光のまなざし〉というキーワードのもとに検証してきた。ここで導き出された結論を繰り返すと、次のようになる。横浜写真の自然景観表象とは、〈ピクチャレスク〉というヨーロッパの美的規範を日本に適応され、ヴァナキュラー化した結果、生産されたものである。そのようにヨーロッパの人々の見慣れた規範を通して視られることによって、日本の景観は一瞥で認識できるものとなった。さらにピクチャレスクな日本の表象とは、観光者に日本の景観の〈見方〉を教示するものであった。観光者は横浜写真で見たような景観を求めて日本中を経巡る。さらにそれを本国に持ち帰ることによって、その〈観光のまなざし〉は再生産される。
写真という視覚のシステム、表象の形式を決定するピクチャレスクという美的規範、そして高度に産業化された観光という文化的実践。この三者が出会ったときに、横浜写真は生まれた。この現象は、何も日本だけで起こっていた訳ではない。上海、香港はもとより、中南米やアフリカ、オーストラリアまで、西洋人の赴きうるところではどこでも起こっていた現象であった。対象の内容はさまざまに変化しようが、それを表象する観光・写真・ピクチャレスクという要因は変わらない。世界はまさに一定の視覚のもと、同一条件で比較対照しうるものとなったのである。これはまさに〈近代〉が世界を覆っていく過程とパラレルに考えることが出来よう。
したがって、横浜写真を〈日本写真史〉という言説のもとに押し込めることは、それを矮小化してしまう危険性がある。横浜写真を地球規模のヴィジュアル・カルチャーの一つの現れとして解釈することは、文化を硬直した静態的なものとして捉えるのではなく、相互に影響しあい、混じり合って、日々変化していく動態的なものとして捉えることにつながると私は考える。
本稿においては、横浜写真と他の旅行写真の差違をあえて強調はしなかった。その理由は、横浜写真を一旦世界的なコンテクストのなかに置きなおし、そのヴァナキュラー性を際立たせることが、日本の初期写真史に新たな光を当てるのに不可欠であると考えたからである。しかしながら、横浜写真を異種混淆的なものと言う以上、普遍的なものからどのように変容=転訛したのかを明らかにしなければならないであろう。その為にも、今後は、本稿の結論を踏まえながら、横浜写真における都市の表象を、名所の変容と関連づけながら、読解していくことを課題としたい。
【註】
(1) グリフィス『明治日本体験記』、山下英一訳、平凡社、一九八四年、一七頁。
(2) 内藤正敏「開化期」、日本写真家協会編『日本写真史 1840〜1945』、平凡社、一九七一年、三六二頁。
(3) 小沢健志『幕末・明治の写真』、ちくま学芸文庫、一九九七年、一九九頁。
(4) 横浜開港資料館編『彩色アルバム 明治の日本――《横浜写真》の世界』、有隣堂、一九九〇年、VIII頁。
(5) ただしファルサーリはあくまでも社主であり、実際に写真を撮っていたのは日本人の写真師であった。一八九一年のThe
Japan Directoryによれば、ファルサーリ商会には五人の写真師、三人の焼付師、十九人の絵付師、その他支配人、庶務係、植字工、製本師、大工がそれぞれ一人ずつ働いていた。前掲『彩色アルバム
明治の日本』(二三〇頁)を参照のこと。
(6) 木下直之は〈写真画〉という概念を写真と絵画の要素を共に含む両義的なカテゴリー全体に拡げて使用している(木下直之『写真画論』、岩波書店、一九九六年)が、ここでは横浜写真のような彩色写真が特に〈写真画〉と呼ばれていた可能性を示唆する史料を提示したい。一八七七年に発行された番付《東京写真見立競》には〈諸寫眞繪問屋所〉というカテゴリーが見られる。また、一八七八年の原田與三郎編『京都賣買ひとり案内』(清文堂)にも「寫眞師」と別に項目を立てて「寫眞繪類」がある。すなわち、肖像中心の写真師たちとは区別される「寫眞繪」というものがあったと推測される。
(7) 『毎日新聞』一八九六年七月十九日付の記事より。前掲『彩色アルバム
明治の日本』(二二九頁)を参照のこと。
(8) スーザン・ソンタグ『写真論』、近藤耕人訳、晶文社、一九七九年、一一六頁。
(9) 最近の欧米の写真史概説書においては、ベアトらの横浜写真は旅行写真の文脈で語られている。ナオミ・ローゼンブラム『写真の歴史』(大日方欣一他訳、美術出版社、一九九八年)、およびMichel
Frizot, ed., A New History of Photography (Koln; Konemann, 1998)を参照のこと。
(10) 神奈川県温泉地学研究所、箱根町企画課編『箱根温泉誌――箱根温泉総合調査報告』、箱根町、一九八一年、一二六頁。
(11) 原文は以下の通りである。"[Route 5. --Hakone, Miya-no-shita,
and Neighbourhood] Of quite close walks the prettiest is that to Kiga...
From this point the path ascends the slope on the l. bank of the stream,
and after passing through a wood, reaches the Miharashi cha-ya (Prospect
tea-house), which commands a picturesque view of the valley of the Haya-kawa
and of the litle village of Kiga... This place consists almost entirely
of bathing establishments, and its waters are the most celebrated of those
in the neighbourhood." Ernest Mason Satow. Collected Works of Ernest
Mason Satow Part 1, Vol. 4; A Guide Book to Nikko / A Handbook for Travellers
in Central and Northern Japan (Bristol: Ganesha and Tokyo: Edition
Synapse, 1998)より引用。
(12) 木下直之「描かれた〈明治の日本〉」、吉田喜重、山口昌男、木下直之編『映画伝来』、岩波書店、一九九五年、一六三頁。
(13) 高山宏『庭の綺想学――近代西欧とピクチャレスク美学』、ありな書房、一九九五年、二二〇頁
(14) 安西信一「ピクチャレスクの『移植』――英国式庭園から現代へ」、金田晉編『芸術学の100年――日本と世界の間』、勁草書房、二〇〇〇年、一六二頁。
(15) 今福龍太『クレオール主義――The Heterology of Culture』、青土社、一九九四年、一五五頁。
(16) 飯沢耕太郎もまた横浜写真に、ピクチャレスクを破れさせる異物として、ヴァナキュラーな要素を見る。それは「遠近法を欠いた書割じみた町並、凍りついたようにたたずむ人物たち、とめどなく画面にあふれだしてくる奇妙なもの等」である。それらこそが「リゾーム状にからみあった土着(ヴァナキュラー)の風景」であると彼は言うのである。飯沢耕太郎「旅の眼・旅のテクスト――『横浜写真』をめぐって」(『写真の力[増補新版]』、白水社、一九九五年、一一九〜二五頁)を参照。ただし、彼はヴァナキュラー性が撮影対象である日本の風景に内在する属性である、と見ている。すなわち対象が、形式的規範を裏切っているとするのである。しかし、私は意見を少なからず異にする。つまり、私がここで主張しているのは、形式的規範こそがヴァナキュラー化したということなのである。
(17) tourism という単語が、英語の語彙に登場したのは、一八一一年頃であったという。
(18) 石森秀三「観光革命と二〇世紀」、同編『観光の二〇世紀』、ドメス出版、一九九六年、一五〜一七頁。ちなみに、旅行代理店トーマス・クック社
Thomas Cook が世界一周旅行パックを売り出すのが一八七二年、ジュール・ヴェルヌ
Jules Verne の『八〇日間世界一周 Le Tour du monde en quatre-vingts jours』が刊行されるのが一八七三年である。
(19) ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』(加藤二郎訳、法政大学出版局、一九八二年、六九〜八八頁)を参照のこと。
(20) ジョン・アーリ『観光のまなざし――現代社会におけるレジャーと旅行』加太宏邦訳、法政大学出版局、一九九五年、二頁。
(21) アーリ前掲書、二四九頁。
(c) SATOW, Morihiro, 2001
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