季刊  シ ェ ス タ
No.2

2001、1、1、発行

      〒603ー8112 京都市北区小山元町22−1
      プルジュール北山 1F つかさき医院 
                    TEL (075)495-2346  FAX (075)495-2356
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教育ということの意味


つかさき医院 塚崎直樹(院長)

 精神科の治療を考えるとき、チーム医療が重要であることは、周知のことだろう。私もそういう前提でものを考えてきた。しかし、そのチームというものは、医療関係者、福祉関係者、家族などであって、患者をとりまく人々がチームを形成するという考え方だった。私が、精神科の病院に勤務していたときは、それが一つの方向性を示すものに思えた。何しろ、鍵と鉄格子に表されるような、精神病院の病棟というものが厳然と存在したからである。チーム医療は、それに命を吹き込むものとしてイメージされていた。しかし、地域の開業医となってみると、精神科病棟のように確固として存在するものはなく、チーム医療というものは、最初から前提であった。つまり、チーム医療というものは何の独自性もなく、それ自身で意味を持つものでもなかった。
 その後、私が考えるようになったのは、外のチーム医療ではなく、内なるチーム医療だった。つまり、チームが色々な人々の協力という形で、外に発見されるのではなく、自分の中にある、色々な要素のチームとして考えられるようになったのである。具体的には、自分が過去に経験した感情、思考、意志など、または、周囲の人々が示したそれらの記憶などを常に、比較、対照しながら行動しているということを意識するようになったのである。もっと言うと、ある時ある場所で、先輩の医者のとった態度、看護婦の示した表情、家族の述べた言葉、それらを参照枠として行動しているということである。それら諸々と共に、治療を行っているということである。
 私が誰かと面接をしていても、その背後には私の経験した無数の面接場面があり、その場面には実は、共に働いた同僚たちが、私の知らないところで行ってきた面接の場面がその裏打ちになっている。そういう個々の場面には、さらにその背後がある。そういった、無数の場面を背景にしながら、今、この場での面接が成り立っている。それらの場面というものは、私が意識するかしないかは別として、私の内部に降り積もっているものである。それらの体験をより深く耕そうと思うと、私は日頃接する同僚との関係を問い直さないわけにはいかない。また、かれらの体験に耳を傾けないわけにいかない。そういうことを強く意識するようになった。
 このことから私がその重要さを一層自覚するようになったのは、精神科医療における教育的側面と言うことである。つまり、精神科医療がチーム医療をその本質として重要視するのであれば、同時にそれは、常に教育的な性格を持つだろうと言うことである。新しいスタッフを教育する、すでに一人前となっているスタッフの再教育をする、それらを通じて、自分自身の自己教育をする。そういう多様な流れの中でしか、精神科の医療というものはありえないのではないか。治療者が常に自分自身の過去の経験を問い直す、その意味を再発見する、新しい課題に取り組んでいく。それらの全体的な流れの中にしか、生き生きした治療というものは生まれないのでないか。
 精神分析には教育分析ということが重要な作業として語られることがあるが、それは特殊な精神分析の分野のみではなく、精神医療全体にあてはまることではないだろうか。そういうことを感ずる。聞くところによると、どんな成功した教育分析も10年ぐらいしか有効性がないというし、どんな人に分析を受けたか、分析家との相性はどうだったか、そいうことも問題であるらしい。つまり、決定的な作業というものは、あるように見えてない。逆に言えば、いかなる作業も自分を知るための準備、手がかりであると言ってもよいのだろう。
 開業してから、医院を尋ねてきた人の面接を重ねていて、患者としてやってくる人の中に、医療・福祉関係者が思いの外に多いと言うことに気づく。また、治療を求めて来るというより、ちょっとした仕事上の助言を求めてくる人もある。一方でPSWの実習場所として、実習生を受け入れていて、それらの人々との関わりもある。純然たるスーパービジョンもある。それら色々な体験が、どこからどこまでが、治療で、相談で、教育でという風には分けられない。混然と一体化してしまう部分がある。もちろん狭義の区別はあるのだけれど。それでも、病院で入院治療を主に行っていたときとは、大きな違いがある。最初はその曖昧さに混乱してしまったが、今ではむしろその曖昧さの意味を考えた方がよいと感ずるようになった。
 今回の「季刊・シエスタ」は治療の場での教育ということを中心にしてまとめてみた。まだまだ論議は始まったばかりなのだが、出発点での医院関係者の考えとして、ご紹介したい。


〜 デイケアでの教育的な関わりとは〜

つかさき医院・看護婦 北川 美津子
当デイケアは、心の病を持つ人のリハビリテーションの場である。
言い換えれば、心の病を抱えながらも、その人らしく、地域で生活していける様に、いろんな生活体験を学ぶ場である。
ここで云う生活体験には、あらゆるものが含まれる。つまり、それは、プログラムの中だけの作業や言動だけではなく、自然に交わす挨拶や、何気ない普段の会話や行動など、デイケアで過ごす全てである。生活を共有することにより、感情や思考を表現する方法を学んだり、人との付き合い方を学んだりしていくのである。
そしてそれはまた、体力や作業能力の向上にもつながっていき、生活リズムも整う様になっていく。
プログラムは、これらのことが、より効果的に体験学習できるようにと考えている。
いくつかのプログラムの中から今回は、料理に焦点を絞って、その教育的な要素や関わりについて纏めてみる。

料理プログラムは、隔週の土曜日に取り入れ、その日は、その料理の賞味会として、昼食に食事会を取り入れている。
当デイケアでは、プログラム参加への強制はしていないが、料理プログラムについては
全員が何らかの形でどれかの作業には参加するということにしている。(ここに到るまで幾つかの経過を要したが此処ではその説明は省く)

料理プログラムには
・集団で作業をしていく上で必要な協調性やルール。
・火や包丁などを使い、仕上げていく為に必要な集中力。
・洗う,切る,焼く,煮る,盛りつけ等など、幾つもの作業があり、時としてそれらの
作業を複雑に絡み合わせていく為に必要な判断力。そして安全に円滑に進めていく為に 必要な自発性や責任感。
・仕上がりを味わえる事による楽しみや達成感。
などの「ねらい」が含まれており、これらを体験学習していく中で社会性や生活能力も養われていくものと考えている。

また、学習には、認知領域、情意領域、行動領域の3領域が必要になる。それを、料理に当てはめると、献立や作り方(その材料に関する知識もある程度は必要)がわかり、作りたい、と思え、その行動がとれる。ということになる。
これらの教育的な要素を実際の場でどの様に実践しているのか、教育的な関わりの場面を中心に述べていく。

当デイケアでは、献立を前日に話し合いで決めている。
献立を決める時の司会は、メンバーさん(デイケアに通所する患者のこと)がされている。司会をすることにより人前で話しができる為の練習にもなり、自分達が主体であるという意識づけにもなる。また集団で話し合うという体験を通して、協調性やルールを学習することが出来ると考えているからである。
司会についても、初めの頃は、スタッフの方でしていたが、進め方がある程度メンバーさんに判ってきたと思われた頃から、少しづつメンバーさんに移行していった。移行時は躊躇う人があったり緊張から軽い拒否もあったが、一人、また一人と司会をされるようになってから、次第に自主的に司会をする人も増え、今ではほぼ定着している。
当日の料理の進め方としては、作業全体の説明を簡単にした後(しんどくなったら何時でも交代出来る事を約束した上で)参加したい作業はどれかを確認している。
この様に、参加したい作業を確認しているのは、その人の取り組みやすいものを自分で判断することにもなり、責任感も持ちやすくなると考えているからである。その一方では「容易」なものから徐々に「難しいもの」へとすすめていくことで学習に無理がなく自信もつくようになると云われているからでもある。
下記に述べている、分かりやすい切り方についても同じことを考えている。
料理の経験がほとんど無いため自主的な希望が出来ない人もある。また、不調により動きづらい為、自主的な発言が出来ない人もある。その辺の様子も観察しながら、なるべくなんらかの形でどれかの作業には参加出来るようにサポートしている。
例えば、料理の経験が無い人には、レタスを剥がしていく作業や、もやしの袋あけや、食器の準備やテーブル拭きなど、その人に出来そうなことを考えて促すようにしている。 このように、なんらかの作業に参加できるようにしているのは、賞味会の時、「自分は何も出来なかった」などの虚無感を防ぐためである。
材料を洗ったり、切ったりするときに説明をしながら実際にして見せるようにしている。普段、包丁を使う機械が無い人も多い為、成るべく分かりやすい切り方を説明するようにしている。(料理の内容にもよるが、例えば、短冊切りや拍子切りよりは、銀杏切りの方が分かりやすく誰でもほぼ同じ切り方が出来やすい等)
また、経験は全くないが本人がしてみたいといわれたなら、出来る様にしている。
しかし、スタッフ2名、ボランテイアさん1名(以前は、スタッフ2名だけ)で全てのことをしている為、包丁をもったことも無い人がその実践をされるときは、1人のスタッフがつきっきりになるため(他にも側でサポートしないと出来ない人も多いため)大変なことも多い。しかし、やってみたい!という感情は、前向きな意欲であり、その時に行動の機会が得られることは、その人の可能性を発見したり伸ばす機会にもなるため、大切にしている。
本人から希望がなくても、その人の可能性を導く為に、様子をみながら、初めての体験を促すこともある。
その他、いろんな作業の前には必要に応じて見本を見せるようにしている。
それは、「学ぶ」ことは、「真似る」こと「模倣する」ことから始まるといわれていることから、見本を見せることにより、模倣からその作業に取り組め、より取り組みやすい様にするためである。
もちろん、メンバーさんの中には、健康度の高い人もおられ、そうした学習段階を必要としない人も居られる。しかし、元気な時は出来ていても、病気の為、自信を喪失している人が多く、無理のないペースでその人にあった方法で進めていくことが大切と考えている。 以上、現在、実践している流れの中から、教育的な要素を考えた関わりをしていると思われる所にのみ焦点を当ててまとめた。
これらの教育的な関わりの考え方は、看護教育の場で得たものが多い。
看護教育の現場で8年間勤めたことがある。看護の仕事から教育の仕事に変わった当初、戸惑うことの連続だった。焦りも多くずっと心身を張り詰めている毎日だった。
そんな時、幾つかの本に触れた。その中で最も印象に残り、その後の看護教育の姿勢の糧となったのは、見藤隆子著の『人を育てる看護教育』という本であった。
見藤氏は、「−人間は己の中にその人なりの成長・変化する力を持っており、ある場が与えられれば、自ら芽を出し花を咲かせるのだ−」「人は育てられるのではなく、育つのである」と述べられている。これを私の言葉に置き換えると、その人自身の中にあるその人の力を発揮する場や環境があれば、その人自身の力で育っていくものであり、その人の力が発揮できるような場や環境を的確に与えることが重要であると云われているのだと思っている。
これを看護の場、今ならデイケアの場に置き換えて考えると、その人の治そうとする力や健康なところがより良く発揮できるような環境や場面を的確に提供していくことにあると考えている。それは、物質的なことだけではなく時間や空間のようなもの、そして人的環境などであると思う。
料理プログラムであれば、その人の可能性が発見できたり、可能性を導けたりする機会をもっと増やし、いろんなことが体験出来るようにすることであると思っている。
そして、少しづつメンバー自身が主体で動ける場面も増やせるようにしていきたい。
教育の最終目標は、自己教育であると考えているが現状はそこまでいっていないので今後も研鑽を重ねていきたい。
(引用文献)
見藤隆子著 人を育てる看護教育 医学書院 1991年3月1日発行


シエスタ考

つかさき医院  上野 みな子

 こころの病のために傷つき、休息する必要があったり、再出発のためにリハビリをしていく必要のある人たちが集まるのがデイケアという場です。いろいろなリハビリ機能が必要とされますが、その中でもここでは人とのつき合い方に焦点をあて、そこでのスタッフの役割、課題について考えてみたいと思います。
 デイケアという場が果たす目的の一つとして「人とのつき合い方を学ぶこと」があります。しかしながら、「人とのうまいつき合い方」はこんなことですという答えがあるわけではありません。それは個々によって違ってくるでしょうが、共通するのは、「他者とコミュニケーションを円滑にはかることができて、人との関わりの中で、ある程度満足のいく社会生活を送れること。」であるのかなと思います。これは、別に病気の人に限ったことではなく、誰もが課題とするところでしょう。人との関わりといっても、少なくとも2つの場面があります。1つは、集団場面での関わり、もう1つは1対1の関わりです。集団場面での関わりとしては、SSTや、座談会、話し合いなどを通して練習しています。1対1の関わりはあらゆる場面が、練習といえば練習の機会となるだけに、介入の仕方が難しいなあと感じます。
 集団場面での関わりとしてのSSTに関してですが、病棟で行われるSSTでは実際に生活上必要となってくる生活技能を取り上げることも多いと聞きましたが(たとえば、電車にのるときの切符の買い方等)当デイケアでの SSTでは、地域生活をすでにされている方ばかりなので、主に話し方教室のようなことをしています。
 目的は、自分の考えや感情をうまく相手に伝えることで、自分に自信をつけ、生活しやすくすること。大切なのは、良い点をのばしていくということです。 SSTの進め方を簡単にいいますと、ある人が課題に合わせたロールプレイをして、見ていたメンバーがそれに対し良い点を言います。そのあと、こうしたらもっと良くなるよ、というところを伝え、もう一度ロールプレイをする、そして実践に生かすというものです。
 これまで、いろいろな個々の課題に取り組んできました。新聞の勧誘の断り方、うるさい隣人への注意の仕方等、SSTの基本的ルールに沿いながら、「シエスタ」にあった方法をいろいろと模索中です。テーマになりやすいのは、断り方や、頼み方等、どちらかというと、相手に嫌な印象を与えてしまうであろう事柄に関することです。これを苦手とする人は、デイケアメンバーに限らず、一般的にも多いのではないかと思います。
 今のところどこまで実践に生かされてるかはわかりませんが、意見や、アドバイスが活発に飛び出すようになり、集団の中で、教え合っていくことの必要性を再確認させられます。
 また、座談会を2ヶ月に1回のペースで入れています。一つテーマを決めて、そのテーマを巡ってみんなで輪になって自由に話す場です。ただ、自由に話せる場ですよ、と設定したところで、すぐに全員がすぐに活発に意見を出し合い、実りのあるものになるのは難しいと感じます。集団の場面になるとなかなか意見を出しにくいという人もいて、自分の考えをすんなりとはなせる人の意見に押されがちです。そこをカバーしていくのは司会をしているスタッフの役割なのでしょうが、私もまだまだだなあと、自分の力量不足を感じます。
 話し合いは、デイケアの中で、何か問題が起こったときには適宜しています。そうすることで、デイケアでの主役は自分たちなんだという意識も湧きますし、その場に属しているというアイデンティティも保証されると思うのです。そしてそのたびに、みんなで決めていくことの大切さを確認しています。ただ、自由な動きばかりを強調しすぎると、混乱が起きかねないので、スタッフがまとめて調整していくことは必要とされます。
1対1の関係に関してですが、雑談の中にも、一緒にプログラムをしているときにも、個人と個人の関わりがある中でいろんなことを学ぶと思います。この人はこんなことを言うといやがるんだなあとか、この人ちょっと苦手だけど、こういうふうにしてつきあっていけばいいのかとか、人に対する言葉のかけ方、距離の取り方意識するしないに関わらず学んでいくものです。基本的には個人個人の関係にスタッフは関与しませんが、何かトラブルが起こったときには調整を求められることもあります。たとえば、「○○さんが、夜中電話をかけてくることに困っているが自分では言えないので、代わりに言って欲しい。」と言われたときに、自分で言えるようにすることが一番よいのでしょうが、それが彼もしくは彼女にとって、重すぎる負担となるときもあります。どこまで関与するのかその見極めはいつも難しいと感じます。
 また、自分自身が感情的に巻き込まれてしまうこともあります。人間関係そのものを取り扱う仕事としての難しさのひとつはそこにあると思います。スタッフといえど、生身の人間なので、いろんな感情が湧いてきます。その感情をきちんと観察し、それをいかに治療の中に生かすかということは大きな課題です。
 いろんな要素が混ざり合い、お互いが影響しあって、このデイケアが存在しています。
そこにはもちろんメンバー間の人間関係もありますが、スタッフ同士、またスタッフとメンバー間の関係も大きく作用しているはずです。スタッフ同士が自由に言い合える風通しのよさがないことにはデイケアも十分に機能しないでしょう。それはスタッフとメンバー間にも言えることです。
 人とうまくつきあえるというのは、一つの成長の指標となると思います。ただそれは、定義できるものでもなく、目で見えるものではないので、評価しにくいところです。
また、それは、人として生まれてきた以上、終わることなく続いていくプロセスです。いろんな人のそのプロセスに関わることができるのは、喜びである反面、プレッシャーでもあります。自分自身が成長しなきゃ、自分のこの部分を変えなければという気持ちで焦ってしまうこともよくあります。けれども、塚崎ドクターによく言われることは、「自分を変えようとおもってすぐ変わるものではない。こうなることが本当に正しいと思えたら自然になるもんだよ。」ということです。これからも、その言葉を信じつつ、ひとつひとつの課題に取り組み、よりよいデイケアをみんなで作り上げていきたいと思っています。


実習の感想

                 楽々堂 橋本史人

診察室での実習と、神田橋先生の本とが、同時進行でいろんなことを自分に投げかけてきた3ヶ月でした。今まで、作業所の業務の中で基本的な考え方等を、みっちり文字で追うことは少なく、予測・実習・反省のような繰り返しで、何となく日々過ごしていた気がします。
実習で私が感じたことの一つに「病気には重い・軽い、あって身体疾患も精神疾患もその点では変わりないんだ」ということです。実習中に、自分の中に分裂病は重いというイメージが勝手に出来ていたことに気づき、うつや妄想の重い人、長い人を見て自分の中にまた別の作られたイメージがあることに気づきました。
また本の中で繰り返し述べられていて、実習中改めて強く再認したのはヒトが持っている自助機能です。自助機能を考える上でも内科外科と精神科と違いはないと思いました。自分が今やっている仕事は医療ではないのですが、患者さんを支援する点では同じかと思います。
何と無しに仕事をやっていた自分に、患者さんの自助機能を支援する仕事だという考えがしっかりして、何かもやもやしたものがふっとんですっきりしました。
今年に入りTさん、Nさん、Oさん、Jさんと続けて永眠されました。その間仕事に自信がないというか、怖くなっている面があったのですが、5月からの実習で自分の気持ちの整理を支援してもらっているようで助かった面がありました。
終わってみて、予診をとった新患さんの診察を続けてみたかったなということが心残りで、できたら1年後とかにもう一度実習をしてみたいと思います。
当面自分に必要なことは、いろんな年齢の人と喋れるようになること、いろんな場でいろんな人としゃべること。そのうち、塚崎先生のように駄洒落のひとつも言えるようになります。
3ヶ月間ありがとうございました。


つかさき医院で実習をして

花園大学 社会福祉学部    今中美穂

 9月8日から14日までの1週間、つかさき医院のデイケア、シエスタで実習させていただきました。
 実習が始まって3日目位までは、緊張してメンバーの方と何を話したら良いかわからず、また、実習で何かを学んで帰らなければ、と気負っていたため少ししんどいときもありました。
 しかし、つかさき先生から「ここは美男美女養成所です」というお話しを聞いて、実習中、笑っていても本当に心から楽しんでいただろうかとふと疑問に思いました。私も無理をせず楽しんでみよう、と肩の力を抜いてみると、シエスタに行くのが楽しみになりました。
 実習の一番の思い出というと、卓球のプログラムです。シエスタはすごく個性あふれる人達が集まっておられ、最終日の卓球はその個性がぶつかり合うすごい戦いでした。みんな笑っているのに目は真剣で、卓球初心者の私にも容赦のないスマッシュ。私は精一杯の力で頑張りましたが一回戦で敗れてしまいました。笑っているのに真剣で、真剣なのにおもしろくて、とてもさわやかな一日でした。
 実習は終わりましたが、その後ボランティアとしてシエスタに通わせていただいています。つかさき医院で実習をして一番良かったことは、この皆さんとお付き合いしていける関係が出来たことだと思います。月に一回の養成所通いですが、いつか素敵な美女になれるよう、笑顔を大切にしていきたいと思います。


    つかさき医院の実習を終えて

          花園大学 社会福祉学部  古川 仁子

 私はつかさき医院で1週間、実習生としてお世話になりました。実習中は書道やストレッチ、詩の朗読会などのプログラムに参加させていただき、その中でメンバーさん達から声をかけていただけることがとてもうれしかったことを覚えています。
 11月にデイケア祭がありましたが、私の実習中(9月)はデイケア祭へ向けた準備が進んでいた時期でした。メンバーさん達で作る映画をどんな内容にするのか、という話し合いがあり、提案される内容がどれも楽しいものばかりだったことが印象に残っています。どうしたら楽しんでもらえるのか、と方法にこだわるのではなく、まず自分たちが楽しんで作るということ。実習中「私は何をしたらいいのか」とオロオロすることの多かった私には「私自身がしたいこと」が見えなくなっていました。メンバーさん達の姿勢から学んだことの1つだと思っています。
 話し合い以外の場面でも「これはデイケア祭で使える!」という声を何度も聞きました。これだけメンバーさんやスタッフの方が前向きに取り組んでおられるデイケア祭は、きっと楽しいに違いない!そう期待して、出席させていただいたデイケア祭は、出されるお茶もお菓子も展示物もすべて手作りで、とてもあたたかさを感じました。映画も本当に楽しくて、見終えた後、笑いすぎて疲れていました。みなさんに癒されたような一日だったと思います。
 そんなつかさき医院に、私は現在ボランティアとしてお世話になっています。実習が終わってしまったらそれまでだと思っていた私が、今でもつかさき医院のプログラムに参加させていただいているのは不思議な気がします。それにオロオロしていた実習中より、多くのものを得ているような気もするのです。まだオロオロしていることも多いけど・・・
 メンバーさん・スタッフのみなさん、これからもよろしくお願いします。


精神疾患と福祉援助について

つかさき医院  富永 智江

精神疾患を持つ人々への援助は、長い間、医療援助の充実を中心に行われてきました。しかし、近年、医療援助だけでなく病気により生じる社会生活での困難さ(法律上は障害と呼ばれる)への福祉援助の必要性が少しずつ注目され始めています。そこで福祉援助を含む精神疾患を持つ人々への援助について考えてみたいと思います。
一つ目に、精神疾患を持つ人々のための法律についての経過について振り返りたいと思います。第二次世界大戦後、精神疾患者への援助は、治療と保護を目的とした精神衛生法(昭和25年に制定)上での精神病院の設置等医療援助が中心となり開始されました。その後、退院後の通院治療や社会生活への援助のための改正等医療援助の枠内での改正が行われてきました。しかし、昭和62年に精神保健法が施行され、初めて精神疾患を持つ人々への福祉援助について法律の中に盛り込まれ、社会復帰施設(生活訓練施設、授産施設、福祉ホームなど)が法定化されました。さらに、精神保健法が平成7年に精神保健福祉法と改正され、法律の目的に‘…精神障害者等の医療及び保護を行い、その社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進のために必要な援助を行い、…精神障害者等の福祉の増進及び…。’と医療援助だけでなく、福祉援助も精神疾を持つ人々への援助に加えられました。福祉政策として、障害者基本法(平成7年)の中で精神障害者のための社会復帰施設の数値目標が示され、社会の中での生活に目が向けられ始めました。そして、新たな人的資源として、平成10年4月か ら精神保健福祉士法が施行されました。
二つ目に、福祉援助のなかで、生活保護制度から、精神疾患を持つ人々との関わりを見てみたいと思います。全医療扶助人員の入院、入院外の疾患別の統計より、平成10年度の、医療扶助人員の全入院患者の49.7%(64,743人)が精神疾患で占められている。平成10年6月30日現在、精神疾患での総入院患者数は、336万人であり、精神疾患での入院の約5人に1人が医療扶助を受けていることになります。人数推移では平成2年度の精神疾患が全入院患者の52.6%(70,032人)と比べ、減少傾向にはある。他方、入院外では、平成10年度の医療扶助人員の12.4%(77,055人)が精神疾患であり、平成2年度の医療扶助人員の6.0%(49,588人)が精神疾患者と比べ、医療扶助での構成割合が約2倍に伸びてきています。
その他、精神障害者保健福祉手帳制度が平成7年に始まり、通院公費負担医療の申請時の認定不要や税制優遇の利点以外に、市などの地域レベルでの障害者福祉対策に加えられる所も出てき始めいる。例えば、手帳を持つ人を対象に公立の交通機関の無料化(京都市、東京都など)や公共施設利用の半額減免、民間の交通機関運賃半額などが増え始めています。
最後に、精神疾患を持つ人々への援助が長い間、医療援助中心であったが、福祉援助のニーズが高まり、法律の改正も行われ、援助の枠が広くなってきている。これからも、精神疾患を持つ人々のニーズに応じた、社会政策や制度、社会資源が築き上がられることで、疾患に伴う社会での障害を緩和し、Well Beingへとつながる援助の拡大が展開されるのではないだろうか。
Reference:
財団法人厚生統計協会編、‘国民の福祉の動向・厚生の指標’、2000年。
山下 格著、‘精神医学ハンドブック’、1997年、日本評論社。


(寄稿)

****** 地域交流センターの理念 *******
******* 地域生活における相互支援の「像」*******



日本ヒューマンサポートネットワークすずしろメンタルヘルスサービス
                   川上 高弘

(1)理念と基本的視点:(医学的リハビリテーションの視点からコミュニケーションの視点への転換)
いわゆるリハビリテーションが、何らかの障害を抱えた人の生活全体に着眼し、全人間的な復権、回復をその理念とするのに対して、コミュニケーションに基礎を置く活動においては、人と人との関係性の創造や、それを可能とする場、空間、社会を新たに形成していくことをその理念とします。
*リハビリテーション
いわゆるリハビリテーションにおいては、障害者そのものを援助対象とし、障害の部分への着目とその改善を図ることを目的とする。そして直接的な援助効果を考えて、計画的科学的な方法による援助をする専門家の活躍を期待する。つまり生活上のさまざまな問題点を障害者自身の課題としてとらえ、段階的な目標設定などにより、専門家が予測する結果や期待される望ましい目標を示して、繰り返し指導するという方法を取る。
*コミュニケーション
一方、コミュニケーションに基礎を置くコミュニティ活動においては、いわゆる非専門家の意図的ではない間接的な自然な関わりにより、障害や弱さなどを人間のひとつの要素として、ありのままに受け止め、健康的な部分に、より着目することで、生きることそのものにおける力をつけながら、人と人との関係性そのものを形成することを目的と考える。従って深い意味において、援助の対象者は、いわゆる障害者だけではなく、関係性を構成するすべての人、その場において、一番援助が必要な人であると表現することができる。
*関係性の視点から
狭義のリハビリテーションにおける関係性は、公私の区別、専門家と患者の区別、障害者の対象化など二元的に分けて考えられる。そして、障害者に対して、自立を促すような関わりを考え、就労の支援などにおいても、本人の能力を高めることに重点が置かれたり、障害や病気を持つ人のための地域における資源の充実や親代わりを期待する制度の充実などを求めたりする。
それに対して、コミュニティ活動におけるコミュニケーションの関係性は、公私を乗り越え、多様な機能分化を乗り越え、専門的なものを自分たちの身近なものにし、関わる人、一人ひとりが、お互いのコミュニケーション(人間関係、交流)の能力を高め、相互に尊厳をもって、自律をもたらす関わりを大切にすることから、自分のできる地域社会への貢献、障害や病気を持つ人も含めて、相互サービスの充実を求めることとなる。
(2)多様な具体的展開:(ニーズに応じて創り出す福祉サービスの具体的なイメージ)
生活とは、実に多様で、色々な側面を持つものです。一人ひとりの生活はさらに個性的で異なります。またひとりの人の人生を見ても、色々な時期や段階によって必要なことは大いに異ります。従って専門家や自分自身による「生活」の決めつけは、人の自由な尊厳を狭めてしまうと思われます。私たちの活動の本質は、誰もがのびのびと自分らしく暮らせるということであり、それを可能とする社会(人間関係)を創ることです。地域活動そのもの、地域に暮らすすべての人への関わりの一つひとつが、その関わり方によっては、お互いの関係性を癒し、互いに生活しやすい地域を創っていくことを可能にもするのです。
そのようなことから、コミュニティ活動ではコミュニケーションのさまざまな道具を活用することによって、関係性を再創造するために、以下のような多様に見えるさまざまな側面からサービスが考えらます。一人ひとりに応じて自由自在に創り出している活動であることから、色々なサービスの像、形が生まれるのであり、さらに一人ひとりの出会いが、コミュニケーションのさまざまな道具の活用によって、新たな自分と生活を切り開く可能性を秘めていると考えられるのです。
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生活の基本的な事柄に関して、さまざまな生活のしづらさを和らげ、地域における生活が、より豊かにできるようにする為に、さまざまないわゆる<作業>や諸活動、グループワーク活動などをコミュニケーションの道具として用い、個別的、具体的で、本人が望む必要なサポートを行うこと。そこからさらに、より深いニーズが現れた本人に添った、深いレベルでのサポートを行うことなどが「生活支援サービス」としてある。
また電話、面談、訪問などを通して、不安、孤独、対人関係などといった精神的な事柄から、具体的な生活のしづらさのサポート、社会資源の活用方法をともに見つけたり、助言したりすること、これによってますます、賢い生活者として、知恵と力をもつようになり、のびのびと、自信を持って日常生活ができるようになることを目指すといった「生活相談サービス」もある。
さらに利用者や家族の自主的な活動を促進させたり、また地域住民との自然な交流を図るためのたまり場を提供したり、サービスを一方的に受けるだけではなく、必要なサービスを受けつつ、自分ができるサービスを提供するなどといった「憩い交流サービス」がある。こいった憩い交流サービスは、安心感ややすらぎのなかで、利用者の生活力を十分に育んでいくもととなる。また人と人との交流をはかることで、福祉サービスや生活情報も含めた、さまざまな情報交換の場を提供するだけでなく、関係性の豊かさを創り出すことになり、地域での暮らしが、その人なりにますます豊かに広がっていくようになると考えられる。
就労を希望するユーザーに対しては、具体的かつ効果的なサポートを行い、自分を知り、仕事を知り、自分の生活の見通しを持ちつつ、仕事に向けての意欲をもつなど、基本的な自律支援を元にして、職業リハビリテーションをはじめ、就業能力を高めるためのプログラムを、一人ひとりのニーズに応じて実施するといった「就労支援サービス」もある。
また地域の実情に即して必要に応じたさまざまなサービスや諸活動、つまり、情報サービス、啓発、研修サービス、相談サービスなどといった「地域支援サービス」も行われている。この地域サービスは、利用者、障害者自身の地域生活のサポートに、そのまま直結していると考えられ、誰もがのびのびと暮らせる社会、人間関係を形成していくために、地域への支援活動そのものに、生きる苦しさにおける当事者すべてが参加し、援助を必要とする人に対して、サポートを相互にし合うという新たな関係が生まれてくるのである。
以上のように表現された多様なサービスの形の中味は、一人ひとりが自分らしく生活する力を成長させ、関係性を形成することに働きかけるものである。
(3)今後のひとつの道:(サービスの中味の充実を盛る器「コミュニティ」(システム)の工夫 )
*精神障害の体験
「精神障害」はその人の人格の一部にしかすぎない。それは、精神障害者という人がいるのではなく、○○さんがまずいて、その人の一部として、現時点での何らかの障害や病気があるということを意味している。生活全体として関わろうとしている私たちは、何よりも一人ひとりの個性や思いを大切にして、必要なサービスの調整をするコーディネートの役割を、自然に果たしてきた。
*多様性と一致の原点
目に見える活動の形としては、それぞれがニーズに応じて非常に異なっている。しかし、一人ひとりの必要に合わせ、人として関わり、あたりまえに社会参加し自己決定をできるようなシステムや環境、つきあい方の保証や、グループによる相互支援を大切にしたいこと、就労支援の多様性に応えるために表面的ではない深いところの支援をしたいこと、失敗は成功の元となる得難い経験であり成長の過程と考え、症状が出る出ないというだけでいろいろなことを決め付けないことなどの考え方は共通の基盤である。
*相互支援と自分らしい生き方を求めて生きるコツ
関わる人それぞれの夢や希望を実現するために、リスクを持ちながらも、あらゆる地域資源を柔軟に使いこなせるように、お互いに賢い生活者として成長できるように相互支援しあう活動、このような地域での活動は、社会参加そのものと呼べるものであり、同時に自分の個性を生かした、地域のすべての人へのサービスにつなげることができる。その結果、のびのびとゆとりある地域の人々の生活が少しずつ実現し、結果的には、病気や障害を持つ誰もが安心して暮らせる社会となるという相互支援関係が、ありのままに成立する。
弱さを武器にして、強さに変えるようなコツ、われわれみんなが社会貢献し、地域に暮らす人々の支援をするとき、かえって、精神障害を持つ方も生きやすい社会となるというような発想の転換を大切にするコツ、誰もが共通に持つ、どのように生きるのかというような人生の土台からの発想を持つコツ。つまり目先のことではない新たな視点を持つとき、結果的には精神障害を体験する人にとっても、誰にとっても生き生きとした人生を創造できる、これが全国の民間地域活動実践から、私たちが学び体験してきた中味である。
*コミュニケーションによる新しい社会の形成
このような考え方においては、「再発」も人の成長にとって必要なプロセスととらえることもでき、また、精神障害を体験した方たちの存在は、新しい社会や人間関係を築いていく上で貴重なのだと考えることもできる。まさに「精神障害者の地域生活支援する」というニュアンスから、精神障害を体験した人や関係者たちによる「地域に暮らす人の生活への貢献」という活動、真のコミュニケーション(関係性の創出)に基づく、一人ひとりとの出会いを大切にした新しい社会形成が、市民による地域コミュニティ活動の中味となってくる。実際、このように関わってくると、自然にみんなが生き生きとし、生きる知恵を持ち、力を持つようにもなる。このような発想こそ、私たちの活動の真髄だと思う。
*地域交流センターの中味と器
民間の地域活動の拠点(いわゆる作業所と呼ばれたりグループホームなどと呼ばれてきた活動)は、いわば会員制クラブの地域社会活動センター、地域交流センターである。ここでいう会員、メンバー、当事者とは、関わるという意味において、またともに生きるという意味においては、関わるすべての人を指すと考えられる。自分自身の成長を「求める人」すべてを、包み込める、懐の広い活動となることもできる。なぜなら、生活者として、生きることの大変さは誰でも同じなのだからである。そのような意味において私たちの活動は、新たな関係性を創造し、新しい社会を形成するような生活・福祉協同組合のようなものでもある。誰もが自分自身を取り戻し、のびのびとした生活ができるようにするために、それを具体的に実現するためのシステムや器をさえ、中味に合わせて、自由自在に創り出していく活動なのである。
*新しいシステムの特徴
「器」と「中味」は、ハードとソフト、組織と実体、言葉と心、体と心、また社会と人などにもたとえられる。しばしば、入れ物に中味の方を合わせてしまいがちで、特に中身のパワーがなくなってくると、入れ物に依存的になってしまう。しかし、古くなってきた入れ物は、生き生きとした新しい中味にふさわしくはないものとなりかねない。これらのことから類推するに、専門職というものをハード化する動きと、ソフト化する動きの特徴が見えてくる。一方は不安になればなるほど、より科学的に、より対象化し、マニュアル化し、技術化し、普遍化しようとする。もう一方は「道」や「ソフト」の様相を呈してくる。つまりそれが、コミュニケーションシステムともいうべき新しいソフトシステムの工夫なのである。
*創造性を育てる方法
地域交流センターと呼ぶこれらの活動は、自発性や創造性をとても大切にしたものである。従っていろいろな、現存する枠組みに過剰に依存したり、表面的な意味での拘束として捉える必要はない。一般的にはマニュアルどおりすれば、一通りのサービスができると考えられている。確かに、まったくの初心者には、基本的攻略本になっても、あくまでも見習いのうちに使うもの。パソコンやゲームなども、初心者にとって、マニュアルは必要であっても、次第に要らなくなる。いや邪魔になってくる。マニュアルどおりでは面白くなくなるし、むしろ必要なのは、考え方や方向性、そもそもの意味を問うなどが重要になってくるからだ。それはたとえば、さまざまな芸術や○○道の世界でも同じで、「形から入って形から出る」と。型にはまると自由な自分の感性が発揮できなくなる。個性が出るほど、それぞれの違いが出るほど、かえってグループとしての豊かさやハーモニーの厚みが増すのである。これがコミュニティ活動におけるソフトシステムの面白さにつながる。
* 関係性よって変幻自在に育てあう
このようなコミュニティに身を置くスタッフは、常に自らを丁寧に育て、関係性において、個性を存分に提供しながら、意識された自分の存在をありのままに巻き込まれながらも、お互いの関わりの変化を、変幻自在に相互援助しつつ、お互いの成長や生きる苦しさからの解放、こころの癒しといったケアの本質を追求することとなる。

このコミュニケーションに基礎を置く活動「コミュニティ」システムが目指すことは、人と人との関係性の創造や、それを可能とする場、空間、社会を、変幻自在に新たに形成していくことである。そのことが、援助を必要とする人一人ひとりが大切にされ、一人ひとりが自分らしく、のびのびと生きることをもたらすものとなると考える。これが中味を生かす新しい器に関する一つの提案である。

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