『こ・こ・ろのケア』ボランティア情報 

           京都 VOL.13 1995.11.30

 4月から発行してきましたこの通信も、いよいよ今回をもって最終号となりました。

今回は、最終号にふさわしく実際にボランティアを行った3人の方々のインタビューを特集します。それぞれの方の体験から、読者の皆様に「心のケアって結局なんだったの?」ということを考えていただければ幸いです。

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          特集・心のケアって結局なんだったの?

           インタビューPART1・木村泰子氏の場合

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 木村泰子さんは、企業の社員研修(ビジネスマナー、コミュニケーション)の講師として6年のキャリアを持っておられます。現在は仕事の傍ら立命館大学大学院社会学研究科博士課程前期課程で生涯発達の視点から中年女性の発達心理学を研究しています。修士論文の調査で忙しい毎日ですが、以下の体験を語っていただきました。

 

 1月17日は、家にいた。3日目位から食べ物がないとか、被害が大きいということがわかって、何とかしたいと思った。大阪YWCAとか、豊中国際交流センター、神戸ボランティアセンターに電話しまくった。なのに、向こうは「そのうちあったら言います」という感じだった。国際交流センターには「何かしたい」と言って押し掛けて行ったが、職員の人が「どうせボランティアに責任は持たせられない」と話しているのを聞いた。いてもたってもいられない気持ちで、大阪YWCAのボランティアに登録して、電話口で「何かしたい!」とわめいたら、スタッフに「そういう人が個人で行って、逆に現地の人の感情を逆なでして困っている」と言われた。やっぱりちゃんとした組織からいかなくては、と思っていたところ、YWCAから電話があった。

 1月23日に、ミーティングがあって、現地では教会に最低2泊3日宿泊し、キャンプ用具持参、自炊、水持参、ゴミを現地に捨てないことなどの条件がだされ、自己満足のために行くのだったらこの場で辞めてください、とビシビシ言われ、100人位集まっていたのが最終的には50人位残った。あの夜は、熱気ムンムンでした。

 実際にボランティアに参加したのは1月27日から2泊3日、2月半ば、2月末、3月半ば、3月末のトータル15日位。グループに分かれて学校に設置されている避難所に入っていった。最初の頃は、日本人は知らない人に話すという習慣がないので、宗教の勧誘かと思われた。(実際に「Kの科学」とかはすぐ活動していた。)カウンセリングを勉強している人は、「カウンセリングを生かしたい」と思ってはいっていったが、1回行ってそういうことは奢り、高ぶりだということがわかった。カウンセリングではないんですよね。結局は「聞かせていただく」という気持ちで行かなければ、向こうには伝わらない。「治してあげよう」という感覚では、「心のケア」なんてできるわけなくって、最終的には、ただ話を聞かせてもらって、泣かせてもらう、という感じしかなかった。

 避難所に何回も入っていく内に、新しくボランティアに来た人に、マナーとかの指導をするようになった。避難所はコミュニティーなのだから、よその人が入ることにピリピリしている。まず責任者の許可を得ること、最低限度の挨拶とかはすること。初めての人は、体育館のフロアの、壁がないところで寝ている人達のところに入って行って、いきなり目と目があったから「どうですか」と歩み寄って、膝を毛布の上に乗り出して話を聞いてしまう。それぞれの家に壁があるのと一緒で、よその家に入るつもりでドアをノックし、「入っていいですか」と聞いてから話を聞くという気持ちを私は大切にしたかった。ずかずかと入っていくと向こうは逃げたくなる。ちゃんと壁やドアがあり、見えないドアをノックしていくつもりでないと―広場で寝ている人、という感覚で行ってはドアをあけてもらえないよ、と後から来た人にはよく言っていた。

 ボランティアを始めた頃は、キャッチセールスのように思われていて、話をしてくれる人は10人中1人位だった。愚痴を言うのは「ムラの恥」、自分たちのところの自治の恥を人に言う、という感覚が被災者側にあった。「心のケア」がマスコミで騒がれるようになってから、「ああこういうことを言ってもいいんだ」と思うようになったようだ。被災者は、たくさんの人のいるところでは、「自分たちのところはうまくいってますよ」と言うが、一人一人別々のところで声をかけると、意外と本音を言った。被災した最初の頃は、皆明るく、うまくいっていると言っていたが、2月中旬から3月頃にはかなり発言するようになり、3月入る頃、食べる物の配給が上手く行くようになったら、今度は住むところの問題になり、もう私たちのでる幕ではないな、と思った。

 3月中ごろから、プロのCPが各地区の保健所に入り、プロのネットワークができた。行政に管理する余裕ができたということなのか、保健所に登録したCPが動くようになった。ボランティアの役割は、行政が動いた時に終わった。専門家が動くまでに動いたことがボランティアの良さだったと自分を納得させている。「ボランティアの体験談をまとめようか」という話もあるが、自分を含めて震災後すぐに活動に参加した人達は、「震災はまだ終わっていない」と考えている。今でも気になる人には個人的に手紙のやりとりをして、情報を伝えている。娘さんを亡くした人など、「あの時を知っている人」ということで、大事にしてくれている。でも、それも自己満足で、結局最終的には、「生かされている自分」―ボランティアをした自分が嬉しい、ということを感じる。それがやはりボランティアの醍醐味のような気がする。

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           インタビューPART2・河崎佳子氏の場合

            ―ニュースレターの発行に徹して―

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 河崎佳子さん(臨床心理士)は、佛教大学の専任講師として、大学附属の心理クリニックに携わる傍ら、今回の震災にあたっては「臨床心理士の被災地での活動を考える会」を結成し、2月から現在まで「臨床心理士の被災地での活動を考える」というニュースレターを発行されました。この情報誌とも情報交換をお願いしていましたが、お目にかかるのはこのインタビューが初めてでした。以下に、ニュースレター発行の総括を語っていただきました。

 

 私の場合、神戸の震災に関する活動のほとんどは、「臨床心理士の被災地での活動について考える会」のニュースレターの発行に費やされました。2月6日に第1号を発行し、今回の20号を発行して、一応終結の予定です。この通信の編集は、ほとんど私一人でやっていました。もちろん、原稿のワープロへの打ち込みとか、コピー、発送作業などは「会」や職場の仲間に手伝ってもらいましたが、割付や校正は1人でやりました。大体200部を全国の臨床心理士会の事務局と、希望された個人に送っています。

 最初は持ち出しでしたが、やがてカンパが集まるようになり、日本臨床心理士会からのまとまった支援もいただいて、3月頃からは安定して活動できるようになりました。最初は、自分達の活動がどう受け入れられるか不安でしたが、沢山の人の支援を受けられ、

また反響も多かったのが思いがけなかったことでした。反響が出てくるのと並行して、原稿を寄せてくれる人が増えました。また、「会」のメンバーや、活動を共にした方々の中からも、自発的に原稿を書く人が出てきました。反響は、好意的なものがほとんどでした。

 「考える会」は、京都大学教育学部臨床心理学教室、天理大学人間学部臨床心理学教室、佛教大学心理クリニックセンターの支援を受けて、京都を中心に、奈良、神戸のメンバーを集めて1月30日に発足しました。発足当初は15名でした。メンバーは、人のつながりで増えたり、減ったりで、閉鎖的な固定メンバーではありませんでした。会そのものの独自の活動はしていません。ニュースレターの発行が活動の中心になっています。最初は、被災地で何が起こっているのかわからず、どんな情報でもよいから知りたい、みんなに知らせたいということで活動していました。

 「考える会」では、なんでも言えるようにということを大事にしましたから、例会を頻繁に開きました。最初の2〜3カ月は、毎週例会を行っていました。特に議題がなくても集まって議論していました。

 私は、「考える会」の事務局を守る役割に徹したので、神戸の現地には2回行っただけです。最初、ボランティアの始まりだした頃、1月29日に東灘の避難所を尋ねました。

31日に「考える会」が発足し、後はそれにつききりになってしまいました。4月頃、絵画グループの手伝いに一度参加しました。子ども達は校庭を奪われ、思いきり遊べない状況でした。ストレスがたまっているようでした。もっとも、遊び始めるとみんな生き生きとしてきましたが―。それに、先生達が疲れはてていましたね。

 現地には余り行っていませんが、情報を一番耳に入れる場所にいたと思います。現地に行っている人は、逆に全体の流れが見えにくいところがあったように思います。いろいろな報告を聞いて、感動したり、興奮したりしていました。それがないと、活動を続けることはできなかったでしょう。時には現地にいけないためにおいてけぼりの気持ちも味わいました。2〜3月頃は、毎日午後11時頃まで活動をしていました。その頃は、積極的に動かないとニュースは集まりませんでした。今から、もう一度同じことをやれ、と言われてもとてもやれませんね。どうしても出したい、という思いでした。それももう随分昔のような気がします。

 ニュースレターが充実するようになって、現地に行かないのも一つのあり方だなあ、と思えるようになりました。自分自身の体験としては、そういうストレスを抱えての活動が良い勉強になりました。自分のストレスをどうするか、ですね。「考える会」の最終例会の時に、それぞれの活動を振り返って、それぞれが自分の宝を得た、と思いました。他人のために活動したと思っていたけれど、結局は自分のためだったと思いました。活動から途中で抜けていった人に対するこだわりもなくなって、気分的に本当に楽になりました。自分の勝手でやっていたのだと、納得がいったのですね。

 ニュースレターの中では、いろいろな議論がありました。印象に残っているのは、メンバーからボランティアに参加しないことへの後ろめたさ、罪悪感のテーマが出されたことですね。とても良かったと思います。反響がとてもありました。そういうことが自由に言えるのか、それなら自分も言ってみたい、という声が出てきました。メンバーの間の信頼関係があるからこそ、そういう感じ方も自由に出せた、と思います。

 外部の人達から、話題にされたのは、避難所の相談室に入った臨床心理士が最初にやったことは便所掃除だったという話しです。その是非をめぐって、いろいろなところで議論になったようです。それについての私の考えは、自分はどういう方法でやるかということをはっきりと知っているかどうかの問題だと思っています。医者だと、聴診器や白衣で自分を表現したり、位置づけることができますが、臨床心理士はそうではありません。日頃から、じぶんはどういうふうにやっているのかということではないでしょうか。面接室で乗ってこない子どもに対して、関わり方は人それぞれです。熱心に話しかける人、そばで黙っている人、横で何かやりだす人などそれぞれです。「あれか、これか」という選択ではなく、自分は日頃からどういうふうにやっているのか、一市民として、そういう状況ではどう行動するかということでしょうね。

 ニュースを出していて、傷つけられるような批判を受けたこともありました。そういう時、「考える会」の中で話し合えたことがとてもよかったと思います。ニュースを作っている最中は、感激したり、本当に共感できたり、校正をのめりこんで読んでいました。こんなことは、めったにないことで、とても嬉しかったです。臨床心理士会から支援をもらいましたが、なんの注文もありませんでした。そのことも、とても気持ちが良かったです。

 NOVA(全米被害者援助機構)の講習会に出席した仲間が、「記録を残して初めて活動が終わる」と言われたそうです。英語にして残すべきだ、と言われました。そこまではできないけど、ニュースレターに載せたことは、すべて体験の裏付けがあります。専門用語を使わず、みんなにわかることばで語り、縦書きを貫いた。だから、最後まで楽しくやれた。それは、最初から学級新聞のイメージでした。小学校の時の「誰もがメディアを作り、誰もが自由に意見を述べられる」という体験が基礎にあったのかもしれません。それが民主主義の基本だと思います。その基準からいえば、今回のニュース発行は合格点だと思っています。

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           インタビューPART3.青山哲也氏の場合

              足湯による癒しの体験

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 青山哲也氏(京都市在住・現在24歳)は、学生時代からFIWC(Friend International Work Camp)というボランティア団体に所属し、韓国のハンセン氏病の人の村でのワークキャンプや、雲仙普賢岳のボランティア活動に参加してこられました。今回は、被災地で展開されたFIWCの多様な活動の中から特に「足湯」に焦点を当てて、氏のお話をまとめてみました。

 

 地震が起こったときは、関東でおきたのかと思って部屋で寝ていた。8時頃のニュースを見て、事実を知った。本当はすぐに現地へ行きたかったのだが、アルバイトもあってそういうわけにもいかず、その日は1日中FMの情報をきいていた。「すぐに行きたい」と思ったのには、学生時代の雲仙でのボランティアの経験が内的な動機にある。雲仙へ行ったとき、僕には具体的な技術がなかったが、荷物運びや引っ越しの手伝い、火砕流の掃除等ができるか、と考えていた。しかし、実際にやったのは現地ボランティアの事務的な手伝いと情報収集だったので、僕の持っていたビジョンと実際の活動とをつなげることができなかった。京都でのアルバイトの都合もあり、1週間位で引き上げざるを得なくなったとき、ある先輩から「どうしてずっと現地に留まらなかったのか」と言われた。その先輩がいうことに、現地にとにかく自分がいることで、被災地とのつながりができる、自分を尋ねて人がやってくる、仕事をたのまれることによって、ボランティア活動の輪が広がる。とにかく現地に居続けることが大切なのだ、と言われたことが心に残っていた。そこで1月18、19日と原チャリで神戸に通った。

 その時のことで、今でも自分の中で何度も思い出すシーンがある。1月19日に、ボランティア仲間で、現在韓国で語学学校の教師をしている友人(女性)から「JR灘駅南に住んでいる家族の安否を尋ねてほしい」とたのまれた。その友達の家には1回だけ行ったことがあるので、大体の場所はわかっていたが、行ってみると家自体が存在していなかった。外にいた近所の人に「Mさんの家はどのへんですか」と聞くと、「娘さんの死んだ家や」と言って避難所の場所を教えてくれた。遺体安置所を尋ねて行くと、友達の妹の遺体が毛布にくるまっていた。丁度母親は席を外していたので、線香をあげて待っていた。母親が戻ってくると、僕の顔を見てすごく驚き、また喜んでくれた。見舞いに来たのは僕が最初だということ、外国にいる長女が家族の安否を気遣ってくれたということが嬉しかったらしい。その時、原チャリに積んで行ったわずかな食糧・物資を渡したら、その母親は「わあ、水や」と声をあげた。その一言が、その人が今まで置かれてきた状況を僕に伝えた。母親は、「今まで3日間いろんな人に食べ物をもらってばかりやったし、お世話になった人にあげていいか」と僕に聞いた。「おばちゃん にあげるもんやし、好きにして」と言ったら周囲の人に配った。2度目に一緒に行った友達が、奈良から持ってきた毛布も、「毛布に包まれていない遺体にかけるのにあげていいか」と言われ、持って行かれた。このことは、今でもその友達と会ったらその時のことを必ず思い出話に話す程印象的な出来事だった。

 20日にFIWCのミーティングがあった。学生時代の雲仙でのボランティアでやり残した「とにかく現地に残ること」を実践しよう、と思った。コネクションのできたJR灘駅近くの養護学校に拠点を構えて活動するイメージができた。活動の目標としては、災害時の避難所としてベストな状況を作ろうと思った。その場しのぎの活動ではなく、例えば10年後、20年後にこの地域は他の地域に比べてボランティア活動に参加する人が多い、といったような、後に地域に何かが残るような活動をしよう、と思った。

 具体的には、物資の仕分け・配給・管理、被災者の名簿作り、同時に各部屋を回って病人や障害者の安否のチェック、また病人を病院へ連れて行くことや、トイレ掃除等を行った。その中の一つに、「足湯」があった。

 足湯を取り入れた理由は、その時障害者や老人の風呂をどうするかという切実な問題があったから。もちろん障害者を車に乗せて風呂に連れて行ったりはしていたが、その程度の活動では限界があった。避難所が設置されていたのが養護学校ということもあり、生活訓練室の風呂を使おうか、とも考えたが、高齢者が風邪をひいたら困る。すると、ボランティアのメンバーの一人の友達に鍼灸士がいて、「足湯をやってみたらどうや、実践してくれ」と言われて、ボランティアのメンバーたちで講習を受けた。そこで、足湯を実行に移すために自治会と交渉を始めたが、自治会は、対象が高齢者、障害者ということで難色を示した。自治会の人達は、自分達の避難所から死者や病人が出て外部から非難されることを恐れていた。担当者と個別に話をしていても、全員に足湯は「アカン」と言われた。自治会側も短気になり、いらだっており、交渉はあまり論理的には進まなかったが、最終的にはボランティアの責任者である自分が、「アカンアカンといわんと、こういうやり方だったらやってもいいということを自治会から提示してください。」と言ったことでOKが出た。

 初めて被災者に足湯を行った時、自分は全体の責任者だったので、他の仕事をしようと思って、すぐにその場を立ち去るつもりでいたが、結局2時間足湯の場所に居続け、ずっと見てしまった。どう表現したらいいのか―その場の雰囲気がすごくやさしく、暖かく、その場を離れがたかった。とにかく、足をさすっているという行為自体に打たれるものがあった。足をさすることで、相手も癒されるかも知れないが、こちらも癒されるという面があった。足湯の参加者の中には、自分が経験したことを「今まで誰にもいわへんかったけど」と話し始める人や、泣き出す人もいた。

 ボランティアに参加したメンバーの中にも足湯は浸透していった。今までの僕らの生活の中に、仲間同士でこのように触れあった経験はなかったので、僕らの中の何かが動かされたようだった。2月半ばまではボランティアも被災者と同じ避難所に泊まり込んで、靴をはいたまま寝るような生活をしていた訳だが、僕自身の経験でいうと、例えば、活動の中に「福祉班」といって、1日2回、避難所の各部屋を回って話を聞くグループがあった。家族が死んだ、とかいろんな話を聞くし、それを聞いて「自分は何もできない」という思いを持ってくる。また、ボランティア同士で「あの人は話を聞いたり、友達を作ることが上手だけど、私はあんなに上手く話しを聞いてあげられない」と考えたりして、悩んでしまう。そんな状況に置かれたボランティアの女の子に足湯をした。(注:足湯は、陰陽の関係から男性と女性のペアで行う。)「とにかくゆっくり、相手のペースに合わせてやってみてください」と言われていたので、相手の呼吸に合わせて肌をさする。そのことで、相手も癒されるかもしれないが、こっちも癒されることを感じた。あれだけ恋愛感情でなく人の肌をさすったのは初めてで、恋愛では ない―慈しみというか、愛情を感じた。

 足湯が自分達の活動に与えた影響は大きい。ボランティアのメンバーたちに、「足湯をやりたい」という思いが強くなり、活動を避難所だけでなく灘駅周辺にまで広げていこうということで、足湯券を作り、ポット、入浴剤、洗面器を持って情報収集がてら地域をまわったこともある。現在でも、神戸には「足湯を中心に活動したい」と言うボランティアのメンバーがいる。

 なぜ足湯がこのように僕たちボランティアの心を捉えたのか。やってみてわかたが、人の肌に触れるという実感・触感がある。人間に触れている確かさ―やっている人も癒されるし、やってもらっている人も癒される。穏やかだと思う。相手に敵意を持っていてはできない。緊張していてもできない。リラックスして、相手もボランティアを受け入れることが必要だし、決して自分のペースではなく、ゆっくり相手の息づかいに合わせる。皆が堰を切ったように足湯をやりたがったのは、無意識の内にそのような形で人と接することを皆が渇望していたのではないか。日常生活で今まで体験したことがなかった、人に触れあうきっかけを作るといった、コミュニケーションの手段としての足湯に内在する普遍的な意味や、価値が、被災地のあの極限状況だから受け入れられたのではないだろうか。

 3月に僕達のグループは避難所を引き上げた。その後仮設住宅でも数回足湯を行ったが、仮設に入ると参加する人は少なくなった。僕自身は、3月一杯まで神戸に留まったが、現在関わる回数はだんだん減ってきている。でも、できれば長く神戸に関わっていきたいと考えている。僕の今の気持ちとしては、神戸に住みたい。どんな偶然が重なったか知らないが、震災で死んだ人たちのことを、どうして死ななければならなかったかということを亡くなった人の視点で書き残せないかと考えている。死んだ人のことをそのように記録していくのが、ひょっとしたら僕の役割かもしれない。

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         第38回日本病院地域精神医学会総会・特別報告

          阪神淡路大震災の精神医療・保健をめぐって

         麻生克郎(兵庫県精神保健福祉センター・医師

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 私は、大体4点について話したいと思います。まず、震災によってもたらされた精神保健システムの被害について話したいと思います。

 皆さんの中にも神戸へ救援に来ていただいた方もたくさんあると思います。改めて、ここで御礼を申し上げます。ありがとうございました。今回の震災では、精神科救護所だけで30名。その他の場での活動を含めると、50名の精神科医にボランティアで活動して頂きました。その他のスタッフを含めると、100名以上の方に活動して頂いたことになります。

(スライドを使った震災の被害の説明の部分は省略)

 神戸の精神科病院は、西区や北区にありまして、ほとんど被害をうけませんでした。それに比べ、精神科のクリニックは、大きな被害を受けました。当日に診療できたのは10%、1週間後にやっと半分になりました。最終的に3月の半ばになって、全体が再開しています。再開したと言っても患者も減りますし、スタッフも困難があって、なかなか十分な診療を行えません。総合病院の精神科外来もありましたが、一般外来に救急患者が殺到する。また、スタッフも被災にあって出て来れない、特にパートのDRは出て来れないので、しばらくは機能しておりません。神戸大学の外来は、震災後1週間してやっと外来を行えるようになりました。

 2月時点では、灘区・東灘区などは公共の交通機関が止まって、外来受診がしばらく不可能でした。自分の患者を郊外のクリニックに紹介するためにファックスを流し続けておりました。医療機関のダメージの他に、保健所などのデイケア、作業所、断酒会などの自助グループ活動も、被災地ではしばらく完全にストップしていました。

 多くの精神障害者の住居としておりました、木造の文化住宅、アパートというものがほとんど倒壊しまして、生活保護ではいれる程度の家賃のところがほとんどなくなっております。そういうところは、精神障害者の社会復帰のための貴重な社会資源であったと、今から思えます。こういう形で、精神障害者の地域におけるサポートシステムは、完全につぶれました。

 次に、精神科医療ニーズの推移についてお話ししたいと思います。まず、入院数の推移というものがございます。これは、大体3日目頃から急増しまして、数日ないし1週間ぐらいがピークでした。大体入院数は、平常時の数倍でして、平常時に戻ったのは、3月に入ってからでした。同じ時期の老人の施設入所は3月までに2000人以上に達しています。この人達は、精神障害者以上に社会復帰が困難でして、大体6〜7割がそのまま留まっております。

 この時期、総合病院の救急では、精神科のリエゾンの需要が高まっておりました。そのため、通常精神科医のいない病院で、幾人かの精神科医の先生がボランティアで大活躍していたという話しがあります。たとえば、東灘区の東神戸病院で、たくさんの精神科の先生が活躍していたそうです。また、看護婦さんが家族ぐるみで病院に避難していて、そういう方のカウンセリングをやった、という報告もあります。

 こういうニーズの上昇と、医療システムの崩壊の中で、急遽精神科救護所が作られる、ということになった訳です。この救護所の患者さんということになりますと、まず旧来精神科治療を受けていた患者さん、ということになるわけです。こういう方は、一般に精神科というと抵抗がある中で、精神科の先生が来てくれるということで、安心してもらえるいうことになりました。ただ、こういう方は、交通機関が回復するとともに、元のクリニックに戻っていきましたので、急速に減少していきました。その後の人というと、震災後の急性のストレス障害ですね。錯乱状態や躁状態になった人がたくさんでてきました。その他に、再発する人が出てきました。こういう人の中には、10年以上治療を受けず、社会生活をしていた方もあります。こういう急性の障害が収まった後で、分裂病の方が避難所のなかで不適応を起こすケースが起こってまいります。避難所の新しい生活に慣れず、問題となってきたわけです。アルコール関連の問題が多くなってきましたのは、1カ月位してからですね。色々な救護所で同じ様なデータが出ています。アルコールにつきましては、当初救援物資の中にアルコールが届けられ まして、それが好意的に報道されまして、非常に大変な状況が起こりました。毎晩、避難所で酒盛りが行われるという状況が2〜3週間続きました。ただ、それは一時的なもので、その後はアルコールは否定されて、アルコール依存者が避難所から排除されるという傾向になりました。それで、一時は落ちついたのですが、今度は仮設住宅に沢山移住しまして、その後大量飲酒者の問題として最近顕在化してきています。

 さて、災害時のメンタルヘルスとしまして、救援者自身の問題が非常に大きな課題になっています。今回も例外ではありませんでした。被災地で活動しておりますボランティアの方でありますとか、住民のリーダー、公務員の方達、こういう方は、実は大半の方が、ある種の自責感を持っております。どんなにがんばった方でも、実は自分はまだまだやれなかったということで、自責感をもっております。この自責感にせき立てられて、必死になってやっている。非常なオーバーワークになっておりまして、そのまま躁状態になったりした方が、たくさんでております。

 それから、最後に救急医療ということが一つのテーマになっております。通常の救急システムというのが、精神科の場合にはありませんでしたから、それに加え、震災の後の日常の医療システムがありませんから、せっぱつまって受診をするということが多くなって、兵庫県の夜間の入院というのが震災後急増しました。通常の入院に戻ったのが5月になってからです。このために、現地では診療所や病院、行政が頻繁に連絡会をもちまして、病床の確保に勤めました。民間病院の中に、夜間受付病院をもうけまして、そこには全国の民間病院から支援の人が来てくれまして、夜間の受付をしてもらいました。また、夜間の避難所からの往診依頼が多いということで、2月中旬から4月中旬にかけまして、精神保健センター、光風病院に拠点を作りまして、夜間の往診のチームを作りました。これが大体、80日の間に20数回の往診をしております。この内、5人ほどそのまま、入院ということになっております。これは、支援の医師とPSW、地域のPSWが組み合わせております。

 今回のこの震災では、いわゆる「心のケア」運動というのがいろいろと話題になりまして、さまざまな人が活動に参加しております。その内容について紹介します。一つ特徴的だったのは、電話回線が比較的早く回復したことによりまして、電話相談というのが沢山行われました。最盛期には80カ所ぐらいで行われました。その電話相談が、精神科救護所を利用した人とはまた異なった人達に、大きな援助を行ったといえます。相談件数というのは、窓口で非常にばらつきがございます。例えば、24時間相談窓口をされましたところで、1日10件ぐらいの相談がずっと続いてきました。ところが、淡路島で開設された電話相談はほとんど空振りに終わっています。雲仙普賢岳の災害の時に、長崎で電話相談が開設されましたが、ほとんど利用されなかったそうです。地域的な問題として、電話相談が有効な時と、もともと地元のコミュニティが機能している時は、電話相談は無効である。電話相談は対象を絞れば、都市型の災害では十分役割を果たす。精神科救護所以外に、精神科ではカウンセラーという人達が色々な形で仕事をしている。そういう人達が、子どもたちに絵を描かすという形で子どものケアを する。学校の先生と協力して子どものケアをする。あるいは老人の話し相手という活動。あるいは、個人的に週に何日か、避難所に泊まり込んでボランティアの人達と話しをする。色々な人達がいた。

 私は、6月頃から、いろいろな集まりに参加してお話しを聞かせていただいているのですが、こういう人達が共通して指摘している点が2つある。一つは継続性を評価するという点です。どのような援助者でありましても、被災地のニーズを把握するのには時間がかかる。活動がうまくいけばいくほど、また来てくださいというふうに求められる。最初は避難所の巡回等をしている内に、1カ月位は定点的な活動ですね。避難所を定期的に巡回するという、そういうものに活動を切り替えております。精神科救護所の場合は、救急的な介入ですね。それ以上の活動をやろうとすると、継続的な活動が問題になる。救護所の場合ですと、コーディネイトにすぐれた人材が、意志統一とかその後の継承についてチームとしての継続性が保たれていたと思います。

 もう一つは、メンタルヘルスの活動というものが、一般の支援活動から決して切り離すことができない、ということです。救援活動にあたった臨床心理士のニュースレターなどに、避難所に入った臨床心理士の真っ先にやったことは便所掃除であったということが出ていて、それが議論になっております。少なくとも、メンタルサポートのために場所を確保するまでに非常な努力が必要であったと言われております。この点では、救護所も変わりません。事態が落ちついた段階で、心の相談という形で看板を掲げても、利用されません。むしろ、一般の医療チームの一員として活動する中で、メンタルヘルスの活動ができた、と言われております。

 それから、最後に、新しくどういうことが問題になっているかをお話しします。一つは、仮設住宅の問題です。特に、神戸市では、仮設住宅が市街地を遠く離れました郊外に沢山作られまして、コミュニティーが失われた中で、障害者や老人がたくさんいる住宅ができております。その中で、年寄りの方が孤立化しているとか、抑欝傾向が広がっているとか、朝からアルコールを飲んでいるとか、そういった問題が沢山指摘されています。沢山のボランティアの方が取り組んでおりますが、住宅政策から、福祉、医療すべてを含む大きな問題でして、とても抱えきれない。それからもう一つ、震災後、休みなく働いていた、警察、消防、医療機関、建築関係の人達に、精神科的な問題が出ていると言われるようになっています。これは、先ほどの救援者のメンタルヘルスとして指摘されたことと重なってきます。

 最後に、今回災害時にメンタルヘルスが大事だ、ということが言われまして、それを内容的にちゃんとしていかないといけない。一つは、精神科のチームは災害からできるだけ早く行動すべきである。災害直後の身体的救急の時点でも、精神科のニーズは十分あるということです。本を読みましても、災害後の死体の確認でも、精神科医の立ち会いが非常に有効であるということがオーストラリアの方で言われている。災害直後に避難所が作られた。その避難所のルールというのが、今回聞くところによると、最初の3日間で決まってしまった。お酒を飲んでもいい、とかですね。その3日間で決まったことがその後100日間続く。だから、最初の段階から精神科医が介入するということが十分意味を持つ。今回は、救護所中心でしたが、一般の精神病院を中心にした活動もありうると思います。多様な精神科ニーズに答えなければならない。PTSDというものが話題になりましたが、決して精神科ニーズはPTSD対策にくくることはできない程多様です。既存の医療機関のルートを尊重し、最低限の介入をするということがいつの場合でも原則だと思います。様々なオーバーワークを止めるためのルール作りが避難 所では必要でしょう。老人へのケアをするスタッフを確保するとか、そういうことも必要です。そのようなことをする人達は、あらかじめ災害時にはどういうことが起こり、どういうことをしなければならないかを教育を受け、トレーニングを受けるということが不可欠です。今回の災害に際しては、沢山の専門家が現地に入りまして、熱心に活動しましたが、それだけでは十分ではない。むしろ、専門家を災害対策の中でどういうふうに活動してもらうのかを考えていくことが必要だろうと思います。

 以上、今回の阪神淡路大震災の中で、どういうメンタルヘルスの援助が行われたか、また、今後の災害対策の中でどう生かしていったら良いのかを報告させてもらいました。

                                (1995年10月6日)

編集後記・その1

 今回のボランティア通信の発行にあたっては、多数の人々のご支援をいただきました。心から感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

 資金援助をいただいた方、情報をよせていただいた方、熱心に読んでいただいた方、それぞれにありがとうございました。

 通信を発行した時点では、直接現地とかかわる動きの方が大事だ、という考えもありましたが、時間をおいてみると、現地で必要とされる活動の形がめぐるましく変わるため、バックアップの体制が弱いと、どの程度のことがやれたか、むしろ疑問になっています。結果的に、通信を継続発行して、自分達にやれることとしては、適当な活動の形であったと思います。そして、ボランティア活動の中身を制限しても、息長く活動を続けることが必要だと、改めて感じました。

 通信を発行して、一番印象に残っているのは、多数の心ある人々が、ボランティアとして活動する姿です。仕事を辞めてまでも、ボランティアに全力をこめている人々。それぞれ全く無名で、表舞台に出ることもなく、それを求めてもいない人々。そういう人々によって、今回の支援活動が支えられていたことは、強調してもよいことと思います。そういう人々と出会い、お話しをうかがえたことも、発行に関わってよかった、と思う体験になっています。

 現地での活動は、今後も必要とされていくとも思いますが、我々に可能な今後の活動として、今回行われた多数のボランティア活動の中で、記録として残しておくべき活動を選んで、まとまった記録をのこすことだろうと思っています。もし、お気付きの点や、ご提案がありましたら是非およせください。(1995.12.4 編集部N.T)

編集後記・その2

 はっきり申し上げますが、私、精神科医療も臨床心理も素人です。1月17日は、1月31日提出の修士論文の修羅場でして、余震の恐怖に落ちつかない思いをしながら日がな1日パソコンに向かっていました。でも、現地の情報が耳にはいるにつれ、TVで被災地の状況が映し出されるのにつれ、「なにかしたい!」という思いが募っていました。しかし卒業・就職という人生の大事を抱えた身では、被災地のことより自分のことの方が大切と、すっかりボランティアに出遅れてしまいました。その後、思いがけなく精神科医療の現場に就職し、上記N.T氏から「ボランティアの情報誌を出さないか」と声をかけられたときは、「ああやっと私もボランティア活動ができる」と一も二もなく飛びつきました。しかし、2週間に1回通信を発行するというのは、予想外に大変な作業でして、情報収集のために日常的にあちこちにアンテナを張り巡らせなければならないし、時には関係各団体に「ボランティアの情報はありませんか」とご用聞きもしなければならない。入力・編集に月2回日曜日はつぶれるし。今回、河崎先生のインタビューにうかがって、先生も「現地へ行ったのは2回だけなんですよ。」とおっしゃってい たので、「そうですよねー」とおもいっきり共感したりして。でも、最後は「こんなボランティアもあったんだ」と納得しています。なにより、通信を発行することで、旧知のネットワークが発展し、新しい出会いがあり、結局は人の輪なのだなあと思っています。ご愛読・ご支援くださいました皆様、ありがとうございました。さあ、やっと神戸にボランティアにいけるぞお!                     (1995.12.4 編集部M.O)

Special Thanks to;

Tomoki Takeda,Tadako Taima,Prof.Hirosi Yamane,Meguru Mikami,Dr.Mituho Ueno,

Norihiko Nijyou,Hitosi Nisimura,Katuhiko Yamamoto,Kumiko Nisimura,Natuko Ko

-bayashi,Hironobu Hasita,Misae Azuma,Hujiko Sakaguti,Dr.Kazu Kobayashi,

Mieko Hosomi,Taniguchi PHN,Rieko Aoki,Tomie Harada,Keiko Takaishi,Kimiko

Toishi,Dr.Yoshiko Miyata,Dr.Akio Tahara,Yasuko Kimura,Yoshiko Kawasaki,

Tetsuya Aoyama,Suehiro Ohnishi,Maki Masuda,Stuffs of YOUYOU-Kan,and PC-9801NSL.

 

This newsletter has edited and published by Dr.Naoki Tukasaki,Mariko Ozaki

(Kyoto Hakuiakai Hospital)and Maki Masuda(YOUYOU-Kan). 

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