戦争は精神「障害者」に何をしたのか。


                            2002.8.15  宇都宮市での講演


 みなさん、こんにちは。暑い中をどうもご苦労さまです。
私は、この講演の材料となりました『声なき虐殺・戦争は精神「障害者」に何をしたのか』という本(*戦争中の精神障害者の処遇を、患者本人、患者の家族、看護者らから証言を取ってまとめた本)を1983年に発行したんですけれども、この課題での講演依頼は、初めてです。
今日は、本を出して20年目にして初めての講演依頼でした。

「精神障害者にとって戦争とは何だったのか」ということを考えようとする人が、ま、少ないということですね。
実際、私が書いた後、類書というかね、似たようなテーマで書いた本というのはほとんどありません。
私が証言を集めた人の中にも亡くなった方がたくさんおられますから、現在この本をもう一度まとめようとしても、もう作ることができないわけですね。
それ位、注目されないテーマということになるんじゃないかと思います。

 今日は、私が、その本をまとめていく過程で考えたこと、気づいたことについてお話しして、皆さんの活動、もしくはいろんなことを考えて頂く材料になればと思ってお話しようと思っています。


▲戦争とは何か?

 まず、最初に、精神障害者にとって戦争とは何だのかと言う前に、「戦争とは一体なんだろう?」ということをね、まず、もう一度考え直して欲しいという風に思います。
というのも、今言われている「有事法制」ですけれども、私が、精神障害者の戦争体験を本にしようと思った理由の一つに、当時1983年頃にも有事法制の議論があったということがあるのですね。
それで、私は国民の一人として、そういう問題について発言するべきじゃないかということで、自分の専門分野の中で、どういうことがもんだいなのかなということをまとめてみたいと思ったわけなんです。

こういう戦争の動きの中で、何かやっぱり、自分の場所なりでね、発言していく必要があるんじゃないかと思っています。
 とりあえず、「戦争とは一体何なのか?」ということを振り返っていきたいと思います。 
私は今、クリニックで仕事をしています。
患者さんの診療をしているんですけれども、その他にいくつかのことを診療を離れてやっています。その一つは、月に一回、神戸へ行っているということですね。

 1995年に阪神大震災があって、震災後、一週間ぐらいして私は神戸へ行ったんですわ。
そしたら、神戸の街がもう本当の廃墟と化している。
ビルというビルは全部傾いている。街を歩いてみると電信柱が全部傾いている。それから地面は亀裂がはいっている。
木造のちっちゃなお家はですねえ、もう本当にゴミの塊になっているんですね。
で、そこで5000人以上の方が亡くなっている。
道を歩いていきますと、いろんな人がね、話しかけてくれたりするんだけど、「ここの家で二人死にました。」とかね、「こっちの家では逃げ遅れてつぶれてしまいました。」とかね。

そういう話をいろんな方がされるわけですわ。私は共同作業所というのをちょっとやっているんですけれども、神戸の共同作業所、どうなっているかなということで、激励の意味もあって行ったのですが、共同作業所のあった場所へ行ってもゴミの山ですね。
何も分からない。
通りすがりの人に場所を聞いたんですけれども、全然どこがどこだかわからない。
で、よく聞いてみたらその人、共同作業所のある同じアパートにすんでいる人だったんですけどねえ。
自分の住んでたところがわからない。それぐらい、もうゴミの山です。

 で、5000人以上の人が一度に亡くなるということは本当に大変なことで、まず火葬場が役に立たないですね。
火葬できても、数がものすごいから、流れ作業でやるのでね、いちいち遺族に連絡なんかしてられない。
ですから、お別れもできない。
もちろん棺桶を用意することもできない。

 それから、被災者の生活。それがまあ、本当にねえ、何とも言えない状況ですね。
その当時、各小学校、中学校が避難所となっていて、地域のおうちがもうつぶれてしまった人たちが全員入ってきました。
ほとんど持ち物なんかないですね。
そして、一人一人の方に渡された物というのは、段ボールですね。
段ボールを床に広げて、そして、その上に布団をひいて毛布を二枚ひいて、掛け布団ですね。
それだけしか渡されない。

真冬ですね。
一月ですからね。
非常に寒いです。
ですけれども、火気厳禁です。
暖房は全然ない。
なぜ暖房がないかといったらねえ、電気のつくところもあるから、電気ストーブなんか付けようと思ったら、つけられるんだけど、「(火事などの)危険性がある」ということで出来ない。
それから、一部の人に電気ストーブなんか認めると、不公平になるから使っちゃいけないということで、暖房が一つもないんです。
もう、寒いことこの上なしですね。

 それから、小学校に行きますとね、廊下に寝てる人がいる。
教室に入らないで廊下に寝ている。ひどい人は玄関で寝ている。
扉が開くたびに風が入ってくるというところで寝ている。
なぜ、教室に入らないかというと人間関係がうまくいかない。
けんかしてしまう。
人とやれない。
ちょっと変わった人がおってねえ、教室に入れないから、廊下で寝てる。
でも廊下でも追い出されてしまって階段で寝てる人がいました。
階段っていっても、踊り場じゃないですよ、ギザギザってなっている、もろ階段のところ。
どうやって寝てるのかなあと、そういう人がいました。
それは、人とうまくやれないからですね。

つまり、そういう大災害が起きると、世の中にはいろんな人がいるわけだけれども、人とうまくやれる人、やれない人、お金のある人、ない人。
その中で、人とうまくやれない人、お金のない人、そういう人はね、階段で斜めになって寝ている。
寝ざるを得ない・・・・

 ある時、「ついこの前、ここで寝ていた人が肺炎になって救急車で運ばれました。病院で亡くなりました。」そういう話ですね。
その人の寝ていた場所を見ていたら、こんなところにいたら、死んでしまうなあという状況ですね。

日本の国が豊かだと言ってもね、人が死ぬかもわからんという時に、どうしてほったらかしにされているのだろうと思いました。
 それで、その避難所の責任のあるような人に、ちょっとこう思わず、「大変ですねえ。」と言ったら、その人、目が三角になってねえ、「みんな、一生懸命頑張っているんですよう!」と言われて、びびってしまって、何か出来ることはないかなと思いましたけど、そんなこと言い出せる雰囲気じゃなくて、私も後ろに下がって、後ずさりしてしまいました。

その避難所の状況というのはね、ある角度から見たら、いろんな人が関わって、頑張っているわけですけど、別の角度から見たら、発言できない人、弱い人はね、もうひっそりと死んでしまっている状況ですね。
もちろんお金のある人は、そんな避難所なんか来ないでね、大阪のホテルに泊まっているわけだし、親戚のある人はそこに避難している。
だけど、何の助けもなかった時、どういう目に遭うかという・・・・。

今の日本が豊かだというけれども、ちょっと間違うとそういう目に我々がいつ追いやられてしまうかわからない状況だということを感じました。
外へ出てみますと、しっかりした造りのお家は何も壊れてないですね。
同じ神戸でもね、それはものすごく貧富の差が現れている。
目の前にそれが突きつけられる気がしました。
それは豊かさの中のものすごい落差だと思います。

 あの阪神大震災で5000人以上の人が亡くなった。
そういう破壊が起こったとき、その亡くなった人の周囲にどれぐらいの問題が生じるのかということを考えさせる一つのヒントが、あの震災の被害の中にあるんじゃないかと思います。

 私は、その頃は毎週のように神戸へ行って、保健所で被災者の心の問題の相談の応援をしていました。
でも、五年経ったら問題が解決したということで、機械的に「心のケアセンター」は廃止にされちゃったんですね。
ですけど、心の問題に援助を求めている人たちがいるんじゃないかということで、有志が集まって「心のケアステーション」を作りました。
そこに私は月に一回行っているんですけれどもねえ。
ま、ずっと関わっていますと、制度にしても、法律にしても、焦点になっていることについては、みんなで積極的に関わってもらえるけれども、それが話題から外れてしまうと、もう、潮が引くように関心を受けなくなっちゃう。で、本当に弱い人とかね、発言する力のない人ね。
お金のない人、権力がない人、そういった人たちは、そういう潮が引いてしまう時に本当に取り残されてしまって放置されてしまうということですね。
そういうことをとても感じました。

 で、それがさっき言ったけれども、5000人以上の人が亡くなる破壊が起こったとき、どれくらいたくさんの問題がそこに現れてくるか、そこで物語っているんだと思うんですね。
ですけど、「戦争」というものは、それと比較にならないぐらいの恐ろしい破壊を人間にもたらすものですね。

 蘆溝橋事件から、敗戦の1945年8月までの8年あまりで日本の死者は310万人と言われています。
軍人が230万人、民間人が80万人、これだけの人が亡くなった。
この310万人の死者というのはね、皆さん、阪神大震災時に直接その場に行かれた方、ここにどれくらいいらっしゃるかわかりませんけれども、想像を絶するぐらいの破壊だと思う必要があります。

ですけど、日本の死者というのは、世界全体で見ると、まだごく一部であるということですね。
日本よりはるかにたくさんの死者が出た、アジア、それからその当時のソ連、そこの死者はもう桁が違うわけですねえ。
中国の死者というのは計算できないぐらい。どのぐらいの人がなくなったのかわからない。
少なくとも1000万人以上だと。
フィリピン、インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)、インドネシアなどあわせて、アジア全体で2000万人にのぼる人たちが亡くなっている。
しかもそのほとんどが民間人であるということですね。

ヨーロッパもあわせて第二次大戦の全体の死者というのは、4000万人〜5000万人といわれています。
 最初に言ったけれども、阪神大震災の5000人以上の死者が出た街の破壊を見て、そしてその破壊の後に起こった出来事を見た目から見ると、この死者の数は恐るべきものですね。
戦争がいいとか悪いとかね、有事法制がどうのこうのとかね、議論している人たちも、そういう現場にもしさらされたとしたら、みんな顔色を失ってしまうような破壊ですね。
とてつもない破壊ですね。

これを言葉で説明するということはほとんど出来ないぐらいのことだと思います。
第二次世界大戦の死者を全部並べたら、世界を一周半から二周する。
一人の死者に五人の人がすがって泣いているとすると、その泣き声は世界中に聞こえてしまうような声ですね。
 で、今恐るべきことに戦争をしたい人が現れてきている。
それは、戦争時代のいろんな人たちの悲しみや嘆きを想像出来なくなってしまった人たちだと思うんですね。

この死者の数だけでいくとね、阪神大震災級の破壊が日本の各都道府県に10カ所ずつ起こっているというぐらいにならないと、これぐらいの人が亡くならないですね。
阪神大震災の時に神戸へ行って、そこの街の破壊状況を見た人がね、その想像の延長上で、日本の戦争による破壊というものを考えたとき、「戦争というものは決してしてはならない」ということをね、断言できると思います。


▲戦時の精神病院の状況とは?

 で、そういう戦争状況の中で、精神病院って一体どうだったんかなあっていうことを、次はお話したいと思います。
 先ほど、神戸のお話をしましたけれども、神戸の避難所の状況というのは、ある人の着方をすれば非常に整然と被災者が避難をしていて、行政の指示のもとに整然と復興作業に取り組んでいる姿のように見えます。
ですけれど、別の角度から見たらそれは、弱い人から順番に抵抗することなく殺されていっているという姿ですね。

実は殺されたんじゃなくてたまたま風邪をひいて風邪をこじらせて死んだだけじゃないかと言ったらしそれはそうなのかもしれません。
ですけど、それがやっぱり殺されていっているだといった風に思わないと、精神障害者が戦争の状況の中で、実は殺されていったんだという視点も出てこないんじゃないかと思います。

 アジア太平洋戦争が始まった年、そのとき日本の精神病院のベット数は2万4000床あった。
その四年後戦争が終わったときには、4000床になっている。
じゃ、2万人の精神障害者は一体どうなったのかと、・・・・戦争になって人手が足りなくなったからみんな社会復帰したのかということになりますけれども、決してそうではないですね。

東京都立松沢病院でベッドの数は大体1000床ぐらいで、そこで2000人の人が亡くなった。
2000人の人が亡くなったということは、一つのベッドに二人の人が死んでいるということですね。
ですから、戦後2万床のベッドがなくなっているとして、松沢病院と同じことが起こっていたとしたら、4万人の人が餓死しているということですね。
それだけの人が精神病院で餓死している。

その当時日本の食糧事情は悲惨なもので、配給だけではもう生きていけない状況であったわけですよね。
裁判官の人で、ヤミ取引を取り締まっているから、自分がヤミ米を食べるわけにはいかないと言って、食べなかったために餓死してしまった人がいました。
それはもう有名な話ですけど、法律守っていたら死んでしまうわけですね。
法律通りのごはんを食べていたら死んでしまう。
ということは、生きていたら法律違反ということやね。
で、精神病院の中の人というのは、法律通りのご飯しかもらえないわけですね。

精神科でない他科の入院患者の場合ですとね、精をつけて元気になって欲しいなと思って、家族の人が見舞いの品と称していろんな物を持ってくるから、それを食べて健康を維持することができた。
けれども、精神病院の患者さんというのは、家族からも見捨てられている人が多いです。
誰もそんな物持ってこないですね。
ですから、合法的な法律で決まった物を食べているだけだから、死んでしまう。
そういう法律を守って死んだ人が数万人もいるということですね。
これはもう恐ろしいことだと思います。

その当時日本にいた重症の精神障害者、これ全員死んでしまったということですね。
これは、神戸の避難所で、みんな平等でもたまたま出入り口に布団敷いた人は肺炎で死んでしまったけど、奥の方にいた人は寒い風がこなkったから生き延びました、お金のある人はホテルに泊まったから自由でしたというのと同じですね。
 私は自分が精神医療に携わっていますからね、精神障害者の人たちと接していますからね、そういった人たちが戦争の時、一体どうなっていたんかなあということを見て行く必要があるし、そこから何が見えてくるかなということを皆さんにお伝えする責任があるんじゃないかなと思っています。
悲惨であったかなかったかということよりも、そこから何が見えてくるかということ方が私は大事じゃないかと思っています。


▲ナチスドイツとの比較。

 当時ドイツでは、精神病患者一万人に対して、26、5床のベッド数。日本は1万人あたり、2、2床。それで、ナチスに殺された精神障害者は27万5000人。ベッド数で言ったら亡くなっている人の数は日本と同じです。つまり、「収容された」精神障害者が、ナチスドイツでも、日本でも、戦争中にみんな殺されてしまっているのですね。

意図的、組織的に殺されたか、自然消滅、自然に死に至ってしまったかという違いはあるけれども、死んでいった人の数は同じなんですね。
社会の中での位置というのは同じですね。
日本では、その死に対して誰も抵抗して暴れた人はいない。
それから「殺せ」と命令されるということもなかった。
ドイツとの違いで、そういうところから、私の書いた本は「声なき虐殺」という題になっています。

 ドイツではワイツゼッカー大統領が戦後40年の区切りの時に演説をしてナチスドイツのしたことに対して反省の言葉を述べましたが、その中に精神障害者を殺したということは、ドイツの恥ずべき歴史であるということをちゃんと言明しています。
ところが日本ではそういうことを言った人はいません。
もちろん総理大臣が戦争中の精神病院のことを反省するなんてことは全然ないし、そんなことがあったことを知っているかどうかもわかりません。
果たして精神病院に入院中の精神障害者がほとんど亡くなってしまったということを日本でどれだけの人が知っているでしょうか・・・。


▲医師・看護者の対応。

 日本の精神病院では、要するにベッド数の倍の人が死んだわけです。
敗戦間近の夏などは毎日葬式があるというわけです。
そういう状況です。
ですけれども、その精神障害者を世話してた医者や看護者で餓死した人はいない。
恐ろしいことですね。
自分が見ている患者が亡くなって行く。
そのことに対して何もできない。
自分たちだけ生き延びた。
それでそこから、反省が起こってこない。
どうすべきだったかという反省が起こってきていない。
それをまあ、怖いと思うか思わないかですね。

 精神障害者がなぜ死んじゃったかというと、自主調整ができないからですね。
社会変動に合わせて生き延びていく力がないわけですね。
だからそれを社会が助けてあげなきゃいけない。
応援しないと生きていけない。
応援してはじめてみんなと平等になるんですね。
そういう自主調整能力を奪っていたその当時の精神医療の状況ですね。

松沢病院の死者を見ますと太平洋戦争の始まった年にその数が、勢いよく伸びている。
いろんな理由が考えられると思いますが、社会が変化する時に精神障害者はなかなか順応できないということを表しているんじゃないかと思いますね。
日本の戦後の精神医療というのが、そういうことをどういうふうに教訓化したのかということになるわけですけれども・・・。

 戦争中、フランスでは、地域精神医療というのを非常に重視して、それが十分に行われていたところでは、精神病院の死者が少ない。
イギリスでは、空襲の時、病院の鍵を開けて、もうどこなと逃げなさい言って、逃げた人が、医者や看護婦の考えていたよりも、はるかにたくましく生きていた。そんな人がたくさんいた。
その事実を受けて、「別に入院させておかなくたっていいんじゃないの。それぞれの人が持っている力というものはあるんじゃないの。もっと病院を開放的にしてもいいんじゃないの。」そういうような反省が起こって、そこから地域精神医療活動というものが始まっていったと言われています。
ですけど、日本はそういうふうになっていないですね。

日本の精神医療は戦後、民主化されたと言われているんですけども、患者さんの自治会とかいろんなものが出来ましたが、その当時のことを知っている人によると、それはもう重症の人が全部死んじゃったからだと。
新しく入ってきた人を中心にいろいろな運営がされたから、そういう活動が出来たんだというふうなことが言われています。


▲平和を作り出す力

 で、戦争中に餓死者が出てしまう。
これは戦争と補給のバランスが崩れてしまうからですね。
そのために食糧が行き渡らなくて餓死してしまうんですね。
ガダルカナルとか、インパールで日本の兵士たちがたくさん餓死しました。
ベトナムでは100万人の農民が亡くなっている。
戦災孤児たちも大勢死んでしまった。

 そういう、食べるものがなくて死んでいった人たち、戦争の影響によって生活を破壊された人たち、みな共通していると思います。
精神病院で亡くなった人、戦場で食べるものがなく、ガダルカナルやインパールで骨と皮になって死んでいった兵士、ベトナムで米を作っていたはずなのに、それを奪われて死んでいった農民、また、上野駅や東京駅の地下道で餓死していった戦災孤児の子供・・・。
そういった人たちは全部つながったものだと思いますね。
そのつながった人が現在もどこか、私たちの生活のどこかに存在し続けていると思うんですね。
それが、我々には見えないんじゃないか。

 戦争の時代、大勢の人たちが亡くなった。
それは過去の話なのか。
そういうことはもう起こらないのか。
起こらないと言ってしまうと、きっと何か、我々には見えないものが出てきてしまうんじゃないかと思いますね。そういう存在を見抜いて行く力、発見して行く力、それが平和を作り出す力なんだと、私は思います。

 平和というものは戦争がないってことじゃないと思いますね。
我々の生活の中に生じてくるような、対立であるとか、破壊であるとか、そういったものをいかに生産的な形で解消していくかということを実践している人、そういう人たちが生み出すものが平和だと思います。

戦争がなければいいか、そういうことではないと思いますね。
戦争というものはそういった我々の中にある破壊的なものが、目に見える形で、目の前に広がってきた状況だと思うんですね。
 では、現在どういうことが起こっているかということですけれども。

日本で不況のためにリストラなどで、自殺者が毎年3万人以上出ている。
この数字をとても心に留めなきゃいけないと思います。
3万人以上の人が亡くなっていますけれども、これは私なんかの立場から見ると、3分の2ぐらいの人は鬱病ですね。
精神障害ですね。
精神病という状態に陥っている。
そして、自分で命を断っているんです。
弱い人から順番に死に追いやられている状態ですね。

この自殺者数は、朝鮮戦争の時のアメリカ兵の死者の数と同じですが、この死者たちが当時のアメリカ社会にもたらしたインパクトと、日本の自殺者たちのそれとを比べると、かなり違いますね。
我々は、今、リストラとかで自殺した人、それを、それはあんたが悪いんだというふうに責任を転嫁してしまうことをやりがちですね。
そういう手法によって、本当は社会が考えるべきことを考えずに済ませてしまっているんではないか。

 精神障害というものは、対人関係の病です。
対人関係の病はどうしたらいいのか、どうした治るのか。
それは、とても良い人間関係を提供することによってしか改善していかないんですね。
つまりこれはね、人間というものを、より良い人間というものを提供する、そういう人間関係というものを提供する、それを社会が保障するということによってしか解決されないんです。
ところが現在社会のものの考え方の中には、問題を起こした人がいけないのだと、その人の責任なんだと、そういう発想になりがちです。


▲精神障害者の現在

 人口の数%の人は、必ず統合失調症を発症させるけれども、現在の医学ではこれを止めることは出来ないですね。
そして、その中のどれくらいかの割合の人は、やはり社会的な問題を起こしてしまうというふうに思われます。
ですけれど、それをその人の問題であるというふうに考えるんでは、問題を解決することはできない。
いかにしてそれを、社会が引き受けて、その問題を解決するために援助のシステムを作って行くかということが、問題だろうと思います。
ところがそれが十分できていない。

それにはいろんな原因が考えられるんですけれども、一つは、精神障害者というものを人々が自分の問題として考えていない点ですね。
交通事故に遭うかもしれないということを考える人は多いと思いますけれど、自分が精神障害になるだろうと考えることの出来る人は少ないと思います。
まして、精神障害になった時に、自分がどういう処遇を求めるのかということまで考えるられる人はいないですね。
さらに、精神障害に自分がなって、犯罪と言われるような行動を起こした時、一体自分はどういうふうに扱われることを求めるのかということを想定できるひとなんてほとんどいないと思うのです。
で、そういうほとんどいないことを基礎に今の社会の対策というものは作られている。
自分がそういう立場に立った時に手も足も出ない状態ですね。

 で、精神障害者に戦争は何をしたかっていうテーマのひとつとして、もし日本でもう一度戦争が起こった時に精神障害者はどう扱われるかという問題があるだろうと思いますね。
 で、戦争とはどういうものかっていうことですけれども、職業軍人というものは何故発生しているのか、何故兵隊は若い人が多いのか、何故兵隊は自分たちだけでかたまっているのか。
そういうことを考えると、戦争・軍隊というものは、一般の生活とは相いれないものだということに行き当たりますね。
で、昔、軍隊は普通の人の生活のことを「娑婆」と言っていた。軍隊は別の社会だった。
別の社会が一般の社会と違う論理で動いてしまう、それが軍隊の恐ろしいところですね。
ですから、軍隊が強くなると必ず、日常生活が破壊されてしまう。
そこが、軍隊を持つことに対して、我々が警戒しなければいけないところですね。

我々の生活と軍隊をというものは相反するものです。
バランスを取るということは非常に難しい。
我々の警戒を、身体の反射運動のようにしていかないと生活というのは守られなくなってしまう。
 で、精神障害者という人たちは、社会が能率良く、効率よく、利益追求で動いて、命令一下組織的に安定して動いて行くという、そういうような社会であるとなじまない人たちですね。
ですから、軍隊とは一番なじまないです。
軍隊にいて発症した精神障害者は、生きる場を失う。
特に戦闘なんかが起こったら、精神障害者というのは、もう本当に生存がまず第一に脅かされてしまうと思いますね。


▲戦争があぶり出す人生のテーマ

 戦争というものを考える時、やはり切り口というものが必要ですからね。
その切り口の一つとして精神障害者というものを考えることは意味があると思います。
私は、「声なき虐殺」という本を書いて、もう20年経つんですけれども、20年間、証言した人とお付き合いしてきました。
その中には、亡くなられた人もあります。

特に3人の方とかなり親しくお付き合いをして、そして20年間経ってわかったことは、その人が生きているテーマですね。
その証言者の人が生きているテーマと、その人の抱えている問題と、自分の身内が戦争中精神病院の中で亡くなった問題とが、同じだということですね。

精神障害者が戦争中の病院で餓死して死んでしまったということを問題にする人は、その人の生き方の中にそのテーマがずっと持続しているということですね。
だからそういうテーマを持っていない人は、精神障害者の餓死の事実が身近に起こってもそれを問題だと感じない。
そういうことが現実の中からわかってきました。

つまり、戦争が起こったからといって、普段全く考えもしなかったことが、その人の頭の中を横切るということはないって事ですね。
つまり、その人が考えている深いテーマ、その人の考えている人生のテーマというものが戦争によって浮かび上がってくる、そういうことなんです。
 これは阪神大震災の時、経験しましたけども、震災という困難を前に、仲のいい夫婦はますます仲良くなる。仲の悪い夫婦は離婚しちゃった。
震災で何が起こったかというと、その夫婦が持っているテーマが鮮明になったということですね。
もともと仲悪かったけど、震災で仲良くなりましたと、そんなのはないんですね。
もともと仲良くなる可能性を秘めていた。
それで、きっかけになったというのはありますけれどね。

地震が起こった時に、奥さんがダンナをほっぽいて自分だけ逃げたとかね、食料が配布された時に、自分だけ食べちゃったとかね、そういうことで、夫婦喧嘩が起こって離婚になっちゃったとかね、地震が起こった時に自分の身を顧みず助けてくれたから、ご主人の値打ちがぐんと上がってね、地震の後、暮らす場所もなく、食べる物もないのに夫婦がだんだん仲良くなったという人はたちもあるんですね。
それはあの災害が起こって、それぞれの人の持っているテーマが浮かび上がってきたんですね。
 戦争も同じですね。

戦争というものに触れて、我々の中の何が動き出すか、何を大事だと思うか、それが問題ですね。
また、そういうテーマに触れてものを考えていくというのかな、それを考えていく必要がある。
それをやっぱりこだわっていくということが、ある意味では、平和を作り出していくということにつながるんじゃないかなと思います。


▲証言集が持つもう一つの意義

 私は本を作る時に、どうやって証言者を捜し出すかということ、これがなかなか大変でして、うまくいかなかった。
この本には書いてありませんけれどね、沖縄にも行ったんですね。
沖縄では、精神障害者がそれこそ、殺されたっていう事実があるんです。
それは、米軍が上陸するという時に、精神障害の人が殺されてしまった。

皆さんはご存知かどうかわかりませんけれども、沖縄に行って、普通の人がしゃべって、標準語でしゃべったら全部わかりますね。
みんなテレビ見てますからね。
ですけど、現地の方言でしゃべったら、全然名に言っているかわかりませんよ。
それぐらい、沖縄の方言というのはわかりません。
で、米軍が上陸してくる時に、日本軍というのは内地から行っていますからね、沖縄の人が、沖縄の方言でしゃべったらね、何を言っているかわからないですよ。
それで、日本軍は、沖縄の人たちが上陸してくる米軍の手引きをするんじゃないかと疑いを持ったわけですね。

沖縄で軍隊は住民を守ったりはしなかった。
軍隊は軍隊を守るということですね。
住民はもう犠牲になっちゃう。それでその時に、住民に「沖縄方言はしゃべっちゃいけない」という命令を出すわけですね。
ところが、精神障害の人は、そういう命令を聞いてもそういうのを無視して、興奮したりすると、沖縄の方言でペラペラしゃべるわけですね。
そして、お前はスパイだということで、殺されちゃう。
そういった事実がいくつもあるんですね。

 で、私は、そういう事実もぜひ本の中に取り入れたいと思って、沖縄に行って、過去に証言した人を探したんですけれども、証言した人は、「あんなことをしゃべるんじゃなかった。一度証言したために、地域からつまはじきにされて非常にひどいめにあった」ということで、「二度と再び証言なんかしません」と言われてしまい、玄関から追い出されてしまった。
その人は、証言をしたために、しゃべらない人になっちゃった。

このことは、そういう証言が記録に残ったという点では意味があるけれども、その人が生き証人として自分の証言を大事にして、ずっと死ぬまでそれを語り続ける人にならなかったという点では、その人の証言をとったということが間違いではなかったかなというふうに思いました。

我々が、そういう記録を残す意味というのは、もちろん本にして、いろんな人に読んでもらうということはあります。
けれども、もう一つには、やっぱり語った人自身が、自分の証言の重大さに気づいて、より多くの人にその証言を知ってもらおうと、もっと多く関わろうと、考えてもらえる、そういう人を生み出していくということも、一つ、証言集を作る意義だと思うんですね。

 そして、証言を快くしてくれる人がどんな人なのかというと、そのほとんどの人が、戦後、日本の精神病院の現実を変えるために努力して、それで成果を生んだ人たちですね。
過去を克服した人、そういった人たちだけが、戦争中の精神病院がこうだったということを語ることが出来た。過去を克服していない人は沈黙しています。

南京大虐殺ってありますが、証言者がなかなか出てこない。
最近はもう死ぬ前にこれだけは言っておきたいという人も出てきておりますけれども、証言者が出てこない。
従軍慰安婦の問題でもなかなか証言者が出てこない。
それは、そういう事実がなかったんじゃなくて、そういう事実を克服するようなことをその人たちがしていないからですね。
自分の過去を語れない。
つまり過去を克服していない。
過去に呪われている、ということですね。

口をつぐんでしまうのは、その事実の重さにつぶされていってるからではないかと思います。
 私はこの「声なき虐殺」という本を作る前は、記録を残す必要があるから作るというふうに思っていました。
それで、生きている人、こういう経験のある人にお話をお聞きして、一つでも二つでも文章に残せればいいんじゃないかというふうに思っていたんですけれども、この作業をしていく中で感じたのは、そういう事実の問題じゃなくて、認識する主体の問題、人間、要するに過去を克服していける人間をどうやったら作れるのか、そこで生み出された問題を本当の意味で乗り越えていく人間をどうやって作っていくのか。
ということが大切な問題なんだと気づきました。
そして、周りにいる私たちはそういう人たちが過去を克服していけるように、サポートしてあげることが大切なんですね。
でないと証言も出てこない。
記録も現れてこないということなんですね。


▲真実を知るということ

 私たちはマスコミの新聞とかテレビとかを見て、ニュースというものは、どっかからやってくるものだと思っていますね。
求めれば真実が分かると思っています。
だけどそういうことはありません。
我々が見る目を持って、聞く耳を持たない限り、真実というものは、向こうからやってくるということはあり得ない。

戦争中に精神障害者がどんな目にあったかということも、もし私たち一人一人の人が本当に見る目を持って、聞く耳を持って今の社会を見たら、戦争中はこうだっただろうと、自然に想像できるようになる。そういう想像力を自然に身につけることが出来るようになると思います。
 過去というものは過ぎ去ったものだと私たちは思いがちですが、現在が見えている人は必ず過去も見えているはずです。
現在の問題が見えない人は過去も見えない。
ですけど、じゃ、どうしたらいいか。
見る目はどこから出てくるのか。
ということになるわけです。

そのためには、何か真実がどこかに凝縮して固まっていて石炭を掘り出すみたいに、ダイヤモンド掘り出すみたいに、どこか穴を掘っていくと、そこにから、どこからか出てくるというようなイメージは捨てていかないといけないんじゃないかというふうに思いますね。
「事実」から何かを着手する、それが大事なことだろうと思います。

 私が戦争中の精神障害者の記録を作りたいと思った一番のきっかけは、自分自身の問題からだった。
自分が仕事していて何もうまくいかない。
周りの人もみんな自分の邪魔をしているような気がして自分が孤立してしまった。
そういうふうに思ったときがあるんですね。
で、その時に自分が働いている病院で自分と同じように無念な気持ちになった人がいるんじゃないかというふうに思ったときに、戦争中の精神障害者の無念な思いというのがわかってですね、そして調べようと思ったわけです。
だから、皆さんも、そういう自分の核になるようなものに触れたときに、過去というものがまざまざと見えてくるんじゃないかなというふうに思います。


▲証言を集めて教えられたこと

 で、最後になるますけれども、私は戦争中の精神障害者の話を聞くために、東京の松沢病院の看護婦さんに質問しました。
「戦争中、あなたが体験した一番悲惨な体験は何でしたか?」私は、看護婦さんが精神病院で戦争中に亡くなっていった人たちのことを言ってくれるんじゃないかと思って聞いていたんですが、その人が言ったのはそれではなかった。
 「空襲の時に、焼夷弾で焼けただれた人たちを病院に収容して、やけどの処置をして、で、全身やけどですね。全身やけどというのは今の医学でも治らないですね。
一週間とか一ヶ月の間に必ず死んでしまう。
そういった人たちがたくさん出た。
そこにまた最後の空襲が起きて、全身やけどの人を空襲の起こっている病院から遠いところに運ぶんですけど、それをトラックで運ぶ。
えー、空襲が起こっているわけですから、そんな悠長なことはしていられないんで、全身やけどの人を、みんな丸太ん棒みたいに投げあげるようにしてトラックに乗せて運ぶんです。
そのやけどをした患者さんは痛くてしょうがないでしょうねえ。
風が吹いて空気が触れても痛いですから、全身やけどというのは。そういう人たちを丸太ん棒のようにトラックに投げてガタガタ揺らして次の病院に運ぶわけですね。
その阿鼻叫喚!もううめき声、さけび声ね。
運んでも死んでしまうし、運ばなくても空襲にあって燃えてしまってもかわいそうだし。
その無力感ね。それが一番悲惨でした。」
 と、その看護婦さんは話されました。

で、次に私はその看護婦さんに「戦争中働いていて、一番苦しかったことは何ですか?」と聞きました。
戦争中の病院の中で手をこまねいて、餓死して亡くなっていく人を見ていた、それが仕事をしていく人間としての苦しみというふうに言ってもらえるんじゃないかと思って聞いてみたんですが、その時その看護婦さんが言ったことも別のことでした。
 「戦後、民主化運動、これが起こって、職場の管理職っていうのは、みんな悪者であるということで、ささいなことで追及され、つるしあげられる。何を目的にしているかわからない。
ただ非難・攻撃される。
その前は一致団結してた。
戦争の時なんか、社会から精神病院が無視されて軽視されて非常に悲惨な状況に置かれていたけれども、働いている人間はみんな団結していた。
劣悪な状況の中で患者さんを守るためにともかく一生懸命努力してました。
民主化が起こってそういう団結というものは、全部なくなってしまった。
やがて民主化運動もちゃんと労働組合として組織されて、そういう問題はおきなくなってきたんだけれども、だけど、出発点というのは、非常にひどいことがありました。
これは私が働いてきた中で一番つらいことでした。」
 と、彼女は言われたんですね。

私は、戦争中の精神障害者の話を聞いたのに、それじゃない話になってしまってねえ、ちょっとまあ、がっかりしたっていうかねえ、
したんですけれども、考えてみると、何だか、今の社会の中の一番の問題はここにあるんだ!というね、自分の思いこみというものは、ちょっとおかしいんだという気がしました。
「その人の言っている意味っていうのは一体何だろう?」ということを、その後ずっと考えています。

私は今もその答えが出たわけじゃないんですけれども、戦争中の精神障害者の証言を集めていて、違うことを教えられたというかね、突きつけられたんですね。
多分皆さんも、いろいろな問題を自分で掘り下げていくと、もっと違った問題がそこから発生してくることがあるんじゃないでしょうか。
それは最初のことと違うかもわからん。
そういう違う方向に物事は行っているかもしれないけれど、そこをやっぱり放さずに追及していく必要があるのではないかと思います。


▲戦争が残した傷を大事にして

 宮沢賢治の法華経ってありますけど、最近、宮沢賢治という人が非常にこう、もてはやされるっていうかね、エコロジー運動の考え方を持っているとか、自然を大事にしたということで、評価されています。
宮沢賢治の文学というのも大変高く評価されていますね。
私は花巻の宮沢賢治記念館に行ったことがあります。
非常に立派な建物が出来ていますね。
たくさんの観光客の人たちがそこを訪れています。

私は、宮沢賢治という人は、戦前の日本の一つの豊かなものを表した人だなと思っています。
そういう人がいるということは、日本の宝だとおもいますね。
で、宮沢賢治が亡くなるときに、「1000部の法華経を印刷して、もらえる人に配ってください」という遺言を残しました。
お父さんと弟さんは、1000部の法華経を作って、配布を始めました。
ですけれども、戦争が始まってその作業は中断させられてしまった。

その法華経には、宮沢賢治による「私の一生の仕事はこの法華経をあなたの手元にお送りすることです。」という言葉が印刷されているらしいですが、宮沢賢治はその法華経を配ることを自分の仕事の一生の締めくくりにしたんですね。
自分の文学の締めくくりにした。
死を前にして、それを一つの答えにしたんですね。
で、その1000部の法華経は全部が配布される前に米軍の空襲によって燃えてしまった。
ですから、1000部の法華経は配布されないで終わっているんですね。
黒こげになってどこかに消えてしまった。

私はそれを宮沢清六さんという宮沢賢治さんの弟さんから直接伺ったんですが、私はその話を聞いたときに、宮沢賢治の仕事は未完である、戦争によって中断させられてしまった、または、宮沢賢治の仕事は戦争によって、最後、破壊されてしまったというふうに感じました。

 これは、戦前の日本が持っていたいろいろな豊かなもの、可能性のあるもの、そういったものはやっぱり、あの戦争によって全部破壊されているということの一つの表現ではないかと思います。
私たちは今、その戦争ってものをもうなかったかのように思ってしまう。
そういう時代に生きていますけれども、それはとても大きな嘘だと思いますね。

 それから私は月に一回、神戸へ行っていますが、神戸の街は復興してしまって,地震の跡が残っていません。
初めて神戸へ行く人は、どこに地震があったのかなと感ずるんじゃないかと思います。
もし、色々細かく説明されたら、不自然な形で空き地がのこっていたりとか、同じ形の家ばかりあるとか、なるほどなあと思うこともあるかもしれません。
けど、地震の跡はほとんど消えてなくなっていると思います。
でも、人々の心の中に傷が残っている人がいます。
また、その震災のために亡くなってしまった人、そういった人たちは語る言葉がありません。
沈黙している。我々はそれに対して、聞く耳を持つ必要があるんじゃないかなというふうに思います。

私は、神戸の震災の時にいろんな住民の人と、話をしたんですけど、その悲惨な状況の中で、多くの人が、第二次世界大戦の神戸の空襲の話をしていました。
ものすごい恐ろしい災害が起こったときに、大変なことが起こったときに、人々の心の中に癒されないまま残っているものが、あふれ出てくるということですね。
我々はそれを軽く見るべきではない。

だから、皆さん、戦争を直接経験された方は少ないかも知れないけれども、我々は知らないうちにその傷を負っているんだと思うんですね。
それは例えば、宮沢賢治の文学がどこかで傷つけられているように、日本という国も傷ついているはずですね。
その傷は大事にしていかないといけないと、我々は、非常に重要なものを見失ってしまう、というふうに思います。

 戦争が、精神障害者に何をしたのかということですけど、それは、一人一人の人が、現在というものを本当に大事にしたときに見えてくるものだと思うし、それが見えてきた人は、現実の社会の中で起こったことの中に、どんなに悲惨なことが横たわっているのかと言うことを、発見できるんじゃないかなと思います。
過去というものは、過ぎ去ったものではなくて、我々の中に日々、蓄積されているものですね。
我々は、それを見る目、聞く耳を持たないと、とても大きな損失を被ってしまう。
それは、「生きている」ということが、夢まぼろしの世界になってしまうということではないかと思います。
 皆さん、ご静聴ありがとうございました。     (完)




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