診療日記(2001,6,24更新)





この日記は、医院での診療の様子をお伝えするものです。ホームページを見て、受診した患者さんから、日頃の診察の様子や、医者がどんなことを考えているかがわかると、受診する時の参考になるということで、このコーナーを開設しました。



6月X日
 読者から、掲示板のホームページに当院が載っていて、結構批判があるということで、早速探してみた。その内容の中で、気になったのは、医者が診察の時に目を見ない。診察が短い。薬物依存と疑われた。などの指摘だった。これらについて少し自己弁護をしたい。
 まず、診察の態度だけれど、私は精神科病院で統合失調症の患者の治療から仕事をはじめたので、どうしても相手を健康に近い人と考えるより、深い病気を持った人と考えることから出発してしまう。一般に、精神の病気の重い人は、目を見ると刺激になったり、負担になったりする人が多いので、なるべく見ないようにしている。対応もそっけなくしている。相手の健康度が高い人は、診察のたびに視線を合わせる方向にしている。そういうことで、最初から濃密な関係を期待される方は、がっかりされると思う。
 次に、診察の時間のことだが、現在の医療の状況をまずは理解していただきたい。
 京都の精神科診療所の先生と話したときに、診察の平均的な時間は一人7分ぐらいだと言うことだった。30分に4人ぐらいの診察である。平均時間がこれ以上になると、やや密な内容の診察と言うことになる。私も同じような意見である。初診の場合は20分から30分だろうか。それで、人によっては2〜3分という場合もある。患者さんの中には、待ち時間が長いのはかなわないということで、診察なしの投薬を希望される方もあるが、当院ではそれは行っていない。別に、すべての患者さんが長い診察を希望されているわけではない。そのため、その人に応じて、弾力的に診察時間を調整している。中には、期待はずれということもあるだろう。ただ、毎回15分〜20分の診察時間を期待されても困難な状況であることをご理解いただきたい。
 次に薬物のことだが、初診から特定の薬物を名指しで要求される方は、薬物依存ではないかなあと疑ってしまう。もちろん、前医の紹介状を持ってこられる方は別である。とりわけ、希望される薬物が依存性の強いものであると、その疑いが高まってしまう。ここで、別の薬物を提案してみて、「それならそれで最初はやってみましょう」などと話し合えると良いのだが、「私が嘘をついているとでも言うのですか」と論争が始まると、えらいことになってしまう。
 不愉快な思いをされた方があるのでしょうが、精神科医としては薬物依存に協力はしたくないし、そういうものを作りたくないとみんなが考えていると思います。ご理解下さい。





6月X日
 池田市の事件に関して、次のようなコメントをいくつかの新聞社へメールで送りました。いろいろな人が、自分の考えを直接、報道機関や政治家に送る時代になってきています。私もちょっと、自分の考えを述べてみました。ただし、新聞社などからは直接の反応はありません。それで、読者の感想がいただけると幸いです。

 今回の池田小学校児童殺傷事件の報道に関して、感ずることを二三述べさせてもらいたいと思います。
  当初、報道された内容に、容疑者が精神安定剤を服用して凶行に及んだという証言が紹介されていました。
その後、事実に反するという訂正の報道がなされましたが、最初の報道を見て、大きな危惧の念を持ちました。
というのは、本来精神的な安定を図るための薬物が場合によっては、精神的な興奮や錯乱を起こすかのような印象を与えたからです。
日頃、精神科の診療にあたる者には、安定剤を10回分服用して、そのような状態を引き起こすというようなことは考えられません。
むしろ、取るに足らない誤報として、一笑にふすところです。
しかし、精神疾患を病んでいる方、特に一度も治療を受けたことがなく、治療内容に不安や不審を感じている方にとっては、極めて影響が大きいものです。
精神疾患の中には、周囲の働きかけに対して、被害的な感情を持つ症状の出る場合があります。
そういう状態は、病識欠如と呼ばれ、治療の動機付けがむつかしく、場合によると治療的介入を遅らせる原因となっています。
本来治療のために使われる薬物も、毒薬の一種として拒否される場合もあるのです。精神科治療の難しさの1つは、そういう医療不信をどのように解消していくかにあります。
そのため、精神医療に関わるものは、いつも細心の注意を払っているものです。
ところが、今回のような不用意な報道がなされますと、その誤解を解消するために、どれくらい不必要な努力が払われるか、はかりしれません。
単に、容疑者の嘘であったとして処理するのではなく、このような機会をとらえて、精神安定剤の効果に対する誤解を解き、正しい事実を報道されるように切に希望します。
そのような情報提供は、精神医療への偏見を是正し、適切な治療を求める人を援助するものとなることと思います。
 もう一つは、措置入院の制度に対するとらえ方です。
報道されていますように、措置入院の中には、触法行為のあった患者の不起訴の後の処置として、措置入院制度が使われている場合があります。
しかし、措置入院のすべてが、そのような場合であるとは言えません。
医療保護入院とするためには、保護者からの要請が必要ですが、その形で入院させたのでは、退院後の家族内での対応が困難となる例にも措置入院制度が使われることがあります。
歴史的には、家族が医療費を払えない場合に、措置入院制度を利用して、経済措置という言葉を生むほど、便宜的な利用がされた事実もあります。制度は一度できてしまうと、法律の文言通りの使われ方がされているわけではありません。
そのあたりにもっと配慮を望みたいと思います。
私も、過去の病状や問題行為に絡んで、措置入院を経験した患者さんを受け持っていますが、治療的に一般の患者と全く変わりがない場合の方が多いです。
何かしら、措置入院は危険な患者であり、厳密な経過観察が必要であるかのような印象を与える報道がなされますと、制度の利用が硬直し、結果的に社会的な不利益をもたらしてしまうと思います。
 第三に、触法行為を起こした精神障害者への対応ですが、精神障害だから法的に罪に問われなかったとしても、それで問題が終わったわけではありません。
その障害者と、それからつきあっていく人間は、罪の償いに関わる問題と、病気の治療の両方を行っていかなければならないのですが、それらを両立させることはとても困難です。
かといって、どちらかに偏っても、十分な効果は上がらないでしょう。
単に、専門施設を作ればすむという問題でもありません。
非常に微妙な問題を含んでいます。
どういう対応がその人の社会復帰に、また治療上有効なのでしょうか。それらの後づけをもっとやってもらいたいと思います。
単に、再発予防というだけでなく、治療や対応にあたる者が、目標と見通しをもって関わっていけるようにする必要があると思います。
そうした具体的な事実が示されたら、触法障害者だから云々と言ったような粗雑な議論にはならないと思います。
 以上、思い付くことを書いてみましたが、今回の事件を巡る報道には、感情反応に近いような内容のものもあり、危惧の念を感じた次第です。実際の医療に携わる立場から見ますと、冷静で偏らず、具体的事実や経験に裏付けられた報道が強く望まれます。




6月X日
 池田市の小学校の事件では、色々とお便りをいただきました。一時は、私のぼやきを、このコーナーに載せたのですが、報道の内容が二転三転してしまったので、適切なコメントかどうかわからず、削除しました。後から考えると、削除する必要はなかったようなのですが、コピーを取っていなかったので、後の祭りです。
 今回の犯人が精神障害であるかどうかの議論はありますが、精神科医としては、自分の関わった患者が、加害者にも被害者にもなって欲しくないと言うのが正直な思いです。犯罪を起こした精神障害者がそのことを深く悔いている姿を、私は何度も見てきています。単なる治療でも、刑罰でも救われがたいものを感じます。ふところの深い治療によって、そういう行為が発生しないことを願います。その願いはすぐには、具体的な形にならないかも知れませんが、あるべきものは求めていきたいです。同時に、事件の被害者から、こころ病む人が出ることも、望むものでもありません。二つのことは矛盾するものではないと思います。それを原点にしていきたいです。
 神戸の震災の後、こころのケアということが言われて、今回の事件でもすぐに被害者のこころのケアが言われたことは、一つの進歩と思います。できる所から、努力がなされている様子なのは、救われます。
 今回の報道が、その内容を二転三転させていった中には、色々な人が報道機関に直接意見を述べている事実があると思います。皆さんも、お気づきの際は、マスコミに抗議なり、提案なりとどんどん出していただきますように、お願いします。
 


6月X日
 今日は、夜の診療の帰り道、疎水縁を自転車で走っていると、沢山の人が、疎水の闇を覗いている。私も覗いてみると、闇の中を飛んでいる蛍の光が、点滅して見えた。
 今から10年以上前になるが、夜のインドの田舎道をバスで走ったことがある。道沿いの小川に、蛍が乱れ飛んで、行けども行けども、その光が続く。2時間も3時間も、その光を見続けた。休憩地点にバスが止まると、窓から蛍が入り込んで、乗客の頭上を飛んでいった。
 おそらく、数十年の間に、日本が失ってしまった闇と光が、ここには残っているのだろうと思った。
 今夜は、わずか1〜2匹の蛍を見ただけだが、遠くインドの闇を思い出した。
  


6月X日
 今日やって来た患者さんは、とても奇麗な顔をしていた。長年の悩みの原因がついにわかったので、うれしくてしょうがないというお話しだった。私はそれを聞いて良かったなあと思った。しかし、しばらくして心配になってきた。ちょっと、あなたは美しすぎる。本当に病気が治ったら、普通の生活に入るから、もっと日常性が顔に出て来て当然じゃないかなあ。まだ、治療が終わっていないのじゃないかなあ。そんな話をした。よく考えて、患者さんの方も了解された。「言われてみると、ちょっとうきうきして、危なっかしい気もします」
 治療というのは、感動が表に出て終わってはいけない。退屈になって、飽きが来て、枯れ葉が落ちるように用なしになって終わるのが本当ではないかなあと思う。




5月X日

 ある患者さんが、豆腐やさんでアルバイトをしていると言ったので、「こういう言葉がありますよ。『ほんにあの子は豆腐屋の娘。色は白いが水くさい』知ってますか。」と言ったら、「知りませんよ。あはは」との返事だったのに、数日して電話がかかってきて、「私は冷たくありません。豆腐でもちゃんと暖めれば、冷たくなんかないです。おいしく味を付ければ良いのです。料理人次第です」と強く強く、抗議されてしまった。
 これはまことに軽率なことでと、平謝り。
 本当に、素敵な料理人さんがあらわれると良いですね。


5月X日

 最近は、このホームページを見てから、来院されるかたも多くなってきたようです。診察室に入ってすぐに、「先生の呼び出しがあると書いてあったのに、今日はありませんでしたね」と突っ込まれたり、診察が終わると、私の後ろに回り込んで、「そんなにはげてませんよ」と言われたり、診察の最初に「似顔絵似てますね」とか、ありゃ、あんなことをホームページに書くんじゃなかったと思うこともあります。
 最近、ホームページを見てやって来た患者さんに、「ホームページのどこを見て、この医院の受診を決めましたか」と聞きましたら、「カエルの絵がよかったから」との返事でした。いろいろ考えちゃいますね。


5月X日

 色々な人を見ていると、少年時代に光る人もいれば、晩年に光る人もある。青年期に光る人が多いのだろうけれど、中年になって光る人もいる。
 私たちはどうもいつでも光っているのが健康だという考えに陥りやすい。それにむけて治療しようとするので、時々息苦しくなってしまう。
 一生光らない人がいて、振り返って見ると、その人の人生全体がぼんやりと燐光を発するとうい人もあるかもしれない。
 そういうことを考えていると、ある患者さんから「先生。何だか後頭部から光が出ているようですよ。」と言われた。一瞬考えていることがばれているのかと思ったが、「やっぱり、年ですね。」と付け加えられて、髪の毛が薄くなっている話であることに気づいた。



5月X日

 ある時の診察で、患者さんの家族から「今日、私たち家族があるのは、先生のおかげです」と言われた。一瞬驚いたが、よく考えると、その患者が私と出会わなかったら、どうなっていたかを想像すると、本当にその通りだなあと思った。
 精神科医というものは、自分がいないと生きていけないという人を作らないように努力するのが一般的で、人と関わっても、常に一歩か二歩引いていることが多い。患者から慕われても、なるべく本人にその感情を返すようにして、引き受けないようにしている。それは依存的になられると、双方にとって良くないことが起き、結果的に治療を阻害するからである。そのため、「先生のおかげです」等と言われると、思わず引いてしまう。ところが人間というものは、不自然に謙虚になると、どこかで歪みが出てきて、認めてもらいたい気分が残って、ストレスになってしまう。しかし、自分から認めて下さいと身を乗り出すのもおかしなことである。
 考えてみれば、自分が偉い人間だと思うのも不自然なら、自分がつまらない人間であるふりをしようとするのも、不自然なことだろう。「先生のおかげです」と言われて、素直にそうだなあと思えることもきっと大事なことだろう。



5月X日

精神科医として仕事をしてきて、患者のためになっていると思えるのはどんなときですか、という質問をされることがある。これまで、色々と考えてきて、結局、障害年金の診断書をうまく書いて、年金が下りたときかなあと思う。それ以外のときは、その時点では良くても、やがて後悔することもあるし、逆に批判されていても、感謝に変わることもある。患者本人は批判していても、家族から感謝されることもある。しかし、長い検証に耐え、誰からも認められる行為というものは、そんなにないように思う。
 障害年金をもらって、親に気を遣いながら暮らしていたのが、幾分楽になったという言葉を患者さんから聞くと、とりあえずはよかったかなあと思う。他のことは、良いのか悪いのかわからない。専門家として、こうするのが一般だろうと思うことをやっているだけである。
 精神科医としてのストレスもよく聞かれる。ストレスがたまったらどうするのですかという質問である。それなりに工夫して最近は、あまりストレスをため込まないようにしている。そのための一番の方法は、自分のやっていることが優れていると思わないことである。やむを得なくやるとか、誰でもこうするだろうという受け止め方で仕事をしていれば、非難や批判を受けてもあまり衝撃は受けない。自分は大したものだと思うから、批判されると傷つくのである。それと精神科医が他の人より、人の心がよくわかるということでもない。精神科医は普通の人より、精神的な病気の人の心がわかるだけで、正常な人の心はわからない。また、病気の人の心がわかると言っても、治療的な見方でわかるだけで、痛みや辛さを共感できるわけではない。そう考えるのが事実に近いと思う。
 




4月X日
 今日は、受診した患者さんを見ていると、なんだかおかしいな雰囲気がするので、よく患者さんの顔を見ると、鼻の穴が真っ白だった。どうも、鼻の穴に綿かちり紙を詰めているらしい。「花粉症ですか」と尋ねると、「そうなんですよ。いちいち鼻をかんでいる暇がありません」ということ。私の鼻のアレルギーでは苦しんでいるので、同情いたしました。でも、鼻の穴が白いのには、びっくりですね。


4月X日
 今日は、2人の患者さんから、「現在他の先生のかかっているけれど、つかさき医院で主治医を引き受けてほしい」という電話があった。だいたい、こういう電話は、医療の現実を知らずに、主治医さえ変わればなんとかなると考えている人からの場合が多い。
 私が病院に勤めているころ、主治医を変わってほしいという希望がを、時々患者さんから述べられことがあった。そういう時は、まじめな顔をして、「主治医がハンサムになったら、病気が治るというわけではありませんよ。」と言うと、これは大変な人に眼をつけたものだと、反省するのか、半分ぐらいの人は、そのひとことで「ああ、やめときます」と言ったものだ。
 電話では、そうは行かない。本当にハンサムかもしれないと考えかねない。声だけが伝わるというのも、時には不便なものだ。


4月X日
 本日から、大谷大学の講義が始まった。大学の中に入っても、どこに何があるのかさっぱりわからない。地図を書いた看板もないし、掲示もない。講義をする教室のありかもわからない。1時間も前に行って、ウロウロしていた。
 大体、講義の教室はH001というだけの指示なので、なれない人には、何のことかわからないのでした。
 それで開始時間に教室に着くことが出来て、それだけでやれやれと思ってしまった。
 講義内容は、ほとんど受けない感じ、冗談を言っても笑う人もいないし。でも、超まじめにノートを取っている人もいる。なんだかよくわからない。これでは先がおもいやられるなあ。
 でも、講義が終わって街へ出ると、いくぶん大学生に戻ったような感じがして、若返ったようです。気分だけね。


4月X日
 この4月から、大谷大学の医学一般という講義を受け持つことになった。非常勤講師ということになる。
 医学一般といっても、精神科専門で20年もやってきて、今さら身体疾患を講義するなんて、やれるのかなあと思っている。大学の先生に聞いてみたら、こんな安い講師料で講義をしてくれる人は、精神科医以外にはいませんよと言われた。他の科の先生は、もっとお金持ちです。
それを聞いて、うなってしまった。そうか、私は貧乏なのか。とね。



3月X日
 私は髪の毛が天然パーマなので、おかしな具合に髪の毛がはねたりすることもある。患者さんの中には、診察のたびに、「髪がはねています」と指摘するひともある。今日は、髪の毛がふくらんで犬みたいだと言う人がいて、面接中、笑ってばかりいた。日頃あまり笑う人ではないので、こんなことで笑ってもらえるのなら、毎日髪型を変えようかなと考えたりした。(実行はしないだろうけれど)
 私の奥さんは、長い髪の男が好きらしく、あまり散髪をするとご機嫌がよくない。そのため、どうしても髪が長くなって、はねてしまうことになる。まあ、このごろは自然現象の一環として、髪が長くならなくなっているので、私のはねた髪を見られるのも、今の内かも。


3月X日
 日常生活では、姓名を呼び捨てにされることはあまりないだろう。ところが、デイケアをしていると、「つかさき医院のデイケア」を省略して「つかさき」と呼ばれることがある。最初は、「え!どうして呼び捨てなの」と思っていたが、何度も聞いている内に、「つかさき」というのは、自分の名前ではなく、デイケアで演じられている人間関係の網の目の名前なのだなあと思うようになった。そう考えるようになってから、「つかさき」と呼び捨てにされても、あれ!と思うことも少なくなった。考えてみると、名前というものも、本当は何のことを呼んでいるのかわからないこともある。


3月X日
 今年の1〜2月の相談メールを数えたら、45通でした。3日に2通ぐらいの相談があります。今はまだ対応可能なので、返事を書いていますが、これ以上増えると書ききれないかも知れません。それでも切実な相談があったりするので、時には役にたっていることもあるだろうと考えています。最初、メールでの相談を考えたときの想像では、匿名の相談なので、無責任な相談やイタズラも多いのではないかと考えていましたが、実際にはほとんどそういうことはありません。インターネットに対する印象もそれでかなり変わりました。



3月X日
 朝のミーティングでまず一番に、「おはようございます」と唱和することにしました。開院して3年目に、そういうことを思いつきました。これまでは、何となくミーティングを始めていました。はっきり言葉に出すことで、職員相互の尊敬の思いを確認したいなあと思ったしだいです。つまらないことかも知れないけれど、少しでも気づいたことは試みていきたいと思います。



2月X日

「こんにちは。愚問ですが、デイケア室は公園?私庭?入合地?何ですか。公園は僕の゛幻想゛?」というメールをいただいたので、「デイケアは共園です。
」という返事を出しました。すると「先生の御熟考、感涙し、反省します。」という返事が来ました。何のことかわかりますか。わかったような、わからないような。ま、いいか。



2月X日

 私は外来の診察室に患者さんが入ってもらう案内を、自分でやっている。それも一度診察室を出て、直接患者さんの顔を見て呼びかけることが多い。その一瞬でも、待合室の様子が見られるし、待ちくたびれている人とか、イライラしている状態とかがわかるからだ。それらの状態をモニターしながら、面接の時間を調整したりしている。
 デイケアを利用している人を呼ぶ場合は、「○○さん」とか「××さん」というだけでは能がないので、ニックネームを使ったり、「ビューティ○○さん」「ゴージャス××さん」と呼んだりしている。その日の気分で、もっと別の呼び方をしてみることもある。たとえば名前を英語直訳で呼んだり。それを結構楽しみにしている人もある。「診察です」ではなく、「お席の準備が整いました」などという場合もある。
 先日は待合室に一人の患者さんしかいなかったので、「○○さん!」と言った勢いで、ついつい「当選です!」と言ってしまった。○○さんは急に立ち上がった。それを見ていた、受付のM嬢が大笑い。



2月X日

2月8日の朝日新聞に、教師のメンタルヘルスに関する記事が載った。昨年の12月に「公立校教員のわいせつ処分」という記事が載り、教師のわいせつ行為と教師の精神疾患が関連するかのような表現がなされていた。そのことに対して、批判するメールを朝日新聞に送った。朝日新聞からは何の反応もなかったが、少なくとも教師のメンタルヘルスに関する続報が載ったことになる。教師の心の病による休職者が増加しているという指摘は、前回同様だったが、わいせつ行為に関するコメントはなかった。
このホームページの読者から、今回の記事は昨年の批判メールに答える修正記事ではないかという指摘をいただいた。読んでみて、そう受け取れる部分もあった。真偽のほどは明らかにならないが、気づいたことには発言していくべきだということを改めて感じたしだいです。



2月X日

地域で診療所を開設して、病院で働いていた時とは違うことがいろいろと起こっている。そのひとつに、厳密には病気とは言えない人たちとの関係がある。それも警察沙汰になるような事態も多い。精神病院で仕事していたときは、警察に患者が保護されるということも多かった。無断で病院を抜け出して、保護されるということもあるし、無銭飲食や夜中に大声を出したというような迷惑行為による場合もある。パトカーで病院に到着するや、「つかまりましたわ」などと笑い出す患者もいた。「ともかく、しばらくは入院しましょう」などと説得して、一件落着というようなことがほとんどだった。
 ところが、診療所では、問題行為で入院というケースはほとんどない。それよりも、厳密には精神的な病気とは言えないが、言動がおかしく、周囲に暴力を振るったり、軽微な犯罪行為を続ける人たちがいる。家族から相談を受けても、有効な助言もできず、手をこまねいていて、そのうち警察沙汰となり、鑑別所や少年院のお世話になることも多い。
 現在の精神科治療では、それらのケースに適切に対応することは困難に思われる。なすすべもなく、それらの人々に関わっているだけというのもストレスになる。それ以上に感ずるのは、家族の人々の苦しみだ。


2月X日

最近、色々な本を読んで、自分が異常ではないか、一度診察を受けた方がよいでしょうかという相談がメールで寄せられることがある。そう言う相談に、次のようなご返事を出したことがある。
同じような疑問を感じておられる方には、参考になるのではないでしょうか。念のためにご紹介します。

『メール拝見しました。病院というのは、どうしても行かなければならないから行くもので、喫茶店みたいにちょっと暇だから行ってみようという人はいないでしょう。時間もかかるし、お金もかかるし、時にはしゃべりたくないこともしゃべらなければならない。おまけに、場合によっては、どうしてそんなことをほったらかしておいたのですか。と怒られることもありうる。まあ、ほめられるなんてことは期待しにくいですね。お金を出した上で、怒られるかもしれないわけですから、踏んだり蹴ったりです。
というわけで、どうしても行かなければという状態にならない限り、普通の人は
受診はされないわけです。これは、妥当な態度でしょう。つまり、無理する必要はないということです。
まあ、迷うことはしないほうがよいと私は思います。』




1月X日

引きこもりや不登校の家族が相談に来られるときに、しばしば本当に相談したいことが何なのかわからないことがある。「どうしたらよいのでしょうか」と質問されるのだけれど、こちらが何かを提案すると、「そんなことは不可能です」とか「それは家族の手でやってだめでした」という返事のどちらかが述べられる。具体的な提案は、すべて排除される。では、何のために来られたのですかと聞くと、「先生は家族の苦しみがわかっていない」と怒られてしまう。ああでもない、こうでもないとやりとりが続くのだけど、結論めいたものは出てこない。その内、意味もなく時間が流れて行く。30分、1時間と時間が経つ。結論をつけて、相談を終えようと思うのだが、そう思ったとたん、これまでとは違う角度から話題が出される。それにつきあっていると、疲れること甚だしい。とうとう今日の相談はこれにておしまいにしましょうと言う。すると、「先生の言っていることはわけがわからない。相談に来たのは無駄でした。」と言われてしまう。
 こういうケースが月に1〜2回なら、対応もできるけれど、一日に2人でも現れたら、お手上げである。
皆さん、相談に来られるときは、何を相談したいのかよくまとめてから、ご来院ください。


1月X日

今週は、一週間の間に三回も講演やらシンポジウムやらに呼ばれて、大忙しでした。中でも印象深いのは、神戸で「大切な人を亡くしたあとで」というシンポジウムに参加したことでした。阪神大震災の被災者の心のケアを行っている「こころのケアステーション」の主催によるものです。私も、精神科医の立場から、発言を行いました。
それぞれの発言者のお話は感銘深いものでしたが、特に被災者遺族の方の発言は、心に残るものでした。心の傷は、時間が経ってもそれで消えるものではないことを感じさせられました。
精神科医というものは、ともすると診察室の中でしか、人の悩みや苦しみを聞かないものです。そんな場面を離れて、切々と話す人の言葉を聞いていると、反省させられたり、考えさせられたりすることに気づきます。


1月X日

風邪気味で、ダンリッチを飲んで、メールに返事を書いていたら、発作的に眠くなってキーボードを叩きながら、うつらうつらしていた。ここで眠ってたまるかと、力を入れていたが、頭をディスプレーにぶつけて目を覚ますしまつ。いやはや、風邪クスリは眠くなりますね。それで、メールの内容を見たら、これが全く理解できない言葉の羅列。よく考えると、言葉の断片の中に、うつらうつらしていたときに見ていた夢の内容が入っている。どうも、夢を見ながらキーボードを叩いていたらしい。
その言葉を見ていると、自分が耄碌したら、こんなことを考えたり、書いたりするのかなあと思った。いや恥ずかしいことだと、文面を削除してしまった。
そういえば、斎藤茂吉の晩年の歌に、意味のわからない歌があったけれど、あれもぼけの現れなんだろうなと思う。
後から考えると、支離滅裂の文章を保存して、自分の痴呆症状を事前に診断してもよかったかなあとも思う。



1月X日

精神科の病院に勤めていてから開業して驚いたことの一つに、お医者さんの受診が多いことがある。そのほとんどがうつ病である。そんなお医者さんの病気になるまでの職場の話などを聞いていると、身につまされることが多い。やはり、同業者だからだろう。
お医者さんはあまり保険証を使いたがらない。病名がわかってしまうと、周囲の評価が低下すると考えているらしい。それとあまりクスリを信用しない。自分でクスリを手に入れる機会が多いので、受診するまでに、色々と試しているからだろう。使ってみたけど効果がないので受診しましたと言われる。それで、こちらが処方しても、内容を見て、「それは効きませんよ」と言われてしまう。「まあ、効くかも知れませんから」と処方だけはしてみる。結局、飲みませんでしたという人もあるし、飲んでも効きませんでしたという人もある。ところが、劇的に効きましたという人もある。そういう人の話によると、「同じクスリを自分で出しても効かないのに、お医者さんから出してもらうと効きますねえ」ということらしい。やはり、クスリは医者と患者の信頼関係で効くものらしい。(もちろんそうでないこともたくさんあるが・・)
そして、「クスリというものは、効くんですね」と言われる。お医者さんが、クスリが効くことで感心するというものおかしいのだけれど、医者というものはどこかで自分の治療を信じていないところがあるのだろう。自分が患者になってみると、やはり治療というものには効果があるのだと、再認識するのだろう。そういう風になると、初診の段階では、「おれは医者だ」と肩肘を張っていた人が、急に普通のおじさんになってしまったりする。患者になることに納得するからなのだろう。一度そうなると、その後は、どんどん改善していく。その過程を見ていると、こちらはほっとすると同時に少しがっかりもする。たまには、肩肘はったままで良くなる人に出会ってみたい気もする。私も、医者のプライドにこだわっているのかしらん。



1月X日


新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしく。
 この年末年始は、南国で年を越してきました。ゆっくり休んだつもりですが、なかなか貧乏性は抜けません。家に帰ったら、早速、パソコンを叩いています。
 年末に、朝日新聞に少し苦情を書いてみましたが、新聞社からは何の音沙汰もありません。まあ、そうしたものかも知れませんが。考えてみると、マスコミは一方的に書くだけなのですから乱暴なものですねえ。
 気づいたことには、そのたびに反応していきたいものと思います。皆さんもよろしく。



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