この日記は、医院での診療の様子をお伝えするものです。ホームページを見て、受診した患者さんから、日頃の診察の様子や、医者がどんなことを考えているかがわかると、受診する時の参考になるということで、このコーナーを開設しました。
12月X日
今度医院で、臨床心理士を採用することにしました。
臨床心理士の仕事は、人物本位だと思っています。
そして、私の医院では、何よりチームワークをやれる人を求めています。
しかし、どうすれば、そういう人に来てもらえるのか、わからないです。
一つの方法として、インターネット上で募集してみることにしました。
果たして、結果はどうなるかわかりませんが、ともかく一つの試みです。
良い縁があればなあと、思っています。
12月X日
毎日、医院と家の間を行ったり来たり。
たまに寄るのは本屋とビデオ屋だけ。
あまり文化的とは言えません。
久しぶりに学会の用事で、東京へ行ったついでに、映画を見たり、博物館へ行ったりしました。
土曜の夜は、恵比須ガーデンパレスで映画「10ミニッツ・オールダー」を見ました。
10分映画の7本オムニバス形式でした。
ガーデンプレイスは、クリスマスのイルミネーションが整って、アベック連れがいっぱいでした。
私は、ひとり寂しく? すがすがしく? その間を歩いたのでした。
次の日曜日も恵比須の東京写真美術館ホールでのNHKアジア・フィルム・フェスティバルに参加しました。
アッバス・キアロスタミ監督の「5five 〜小津安二郎に捧げる〜」を見たのです。
観客はみんな2時間待ちなのに、キャンセル待ちの列に並んだら、即座に入場可能。
ラッキー!
作品は、15分ほどの5つの映像からなる映画です。
ストーリーなどなくて、最初は、砂浜の波打ち際を転がる木片を15分とり続けるというもの。
さらに、海岸の遊歩道を歩く人達の光景。
波打ち際で昼寝する犬の群れ。
砂浜を行進するアヒルの群れ。
最後が、池に映った満月の映像。
月が雲に隠れたり、現れたり。
雷鳴が轟き、豪雨が降る。
そのたびに、かえるが鳴いたり、静まったり。
まあ、そういう映画でした。
私は、映画全体に流れているものとして、大自然の中に、振動や響き、リズムが生まれる時、そこに生命が宿る。
それが生命である。
そういうメッセージを感じました。
それは、根源的なメッセージでした。
映画の後、キアロスタミ監督が観客の質問に答えました。
イラン映画の巨匠の肉声を聞けるということで、期待していました。
ペルシャ語を聞くのは初めてで、通訳を通さなければ、話の内容は全く分かりませんでした。
しかし、その言葉の響きは安定して、静かで、実質を伴っている印象がありました。
自分の映画作品に、揺るがない自信を持っていて、言葉はその補足に過ぎないと感じて居るようでした。
キアロスタミ監督はこの映画を小津安二郎に捧げるものとして作ったのです。
小津安二郎の映画には、正直さ、丁寧さ、優しさがあって、それは不滅のものだろうと、キアロスタミ監督は述べていました。
その言葉には、ハリウッド映画への批判が込められていました。
小津映画に感動するのは、我々が同質のものを持っているからで、それを大事にしていかないといけない。
それは東洋的なもの、タオだ。
そういう話でした。
私は、彼の言葉の響きがいいなあと思いました。
自信と落ち着き、そんな言葉を自分も語れるように、精進ですねえ。
その後、上野の博物館によりましたが、待ち時間2時間。
今度はラッキーとは無縁。
足が痛くなった割りには、心に残る作品はありませんでした。
帰宅は午後10時。
ちょっと疲れましたが、キアロスタミ監督に会えてよかった。
12月X日
かなり前ですが、風俗関係で働いている女性が受診したことがありました。
なんでもナンバーワンらしいです。
大変なストレスだということでしたが、一回受診しただけです。
その人は、まっすぐにこちらの目を見る人で、実に魅力的でした。
それこそ、本当のプロですね。
あれだけ、パワーをこめて人の目を見れば、ストレスになって当たり前です。
私なんぞは、診察の後に匿名のメールが来て、「先生は人の目を見ない。」などと書かれています。
そこまでのパワーがありませんね。
その道のトップを取る人はすごいです。
そういう人の診察をした後は、先生からこっぴどくしかられた気分がします。
12月X日
以前病院に勤務しているとき、ある患者さんが肺炎になりました。
色々抗生物質を使ったのですが、なかなか効果がなく、最新のものを使ったときです。
点滴の中に入れた抗生物質が、はじめの2〜3滴入った段階で、その人が、「こんどの薬は効きそうです。」と言った。
そんな馬鹿な、そんなことがわかるはずがない。と思ったのですが、あら不思議、一時間もしないうちに、体温が下がり出しました。
結局、一週間ほどの肺炎は治ったのですが、わずか2〜3滴身体に入っただけで、薬の効果がわかるなんて実に驚きです。
それから、患者さんは、薬をちょっと飲んでも、効果がわかるらしいと考えるようになりました。
それで、薬の処方は、なるべく患者さんの希望を取り入れるようにしています。
今では、処方をするとき、「薬はどうしますか。」などと聞いて、処方しています。
レストランのウエイターみたい感じです。
「何になさいますか。」という感じです。
ある時、欧米の患者さんがやって来て、例の通り、「薬はどうしますか?」と聞いたら、怒られてしまいました。
「患者は自分の症状を言うのが役割で、処方を考えるのは医者の役割でしょう。
患者に考えさせるなんておかしい。」というのです。
しかし、実際問題としては、患者さんの効き具合を聞くのが一番だと思っています。
ただ、はじめて薬を飲む人は別ですが。
11月X日
休日を利用して、ホームページを一部補強しました。
イラク情勢のホームページリンクも作ってみました。
今朝のニュースで報道されたのですが、イラクで日本大使館員が二人殺害されたそうです。
自衛隊の派兵はどうなるのでしょうか。
そういうことを考える上で、参考になればよいのですが。
11月X日
医院ではチーム医療を基本的考え方としています。
いろいろな問題があると、みんなで討議して、方針を決めています。
ところが、みんな黙っているので、しかたなく私が分析し、解決策を検討して、方針を決定することが多いです。
それで、スタッフも納得して行動しているようです。
しかし、厳密に検討してみると、私の強調したいことが、ほとんど理解されていないのです。
私が演説すると、スタッフはなるほどと思うらしいのですが、現実には、私の方針を鵜呑みにして、そのままやっていることが多い。
それで、その方針が間違っていると、ほとんど応用ができない。
唖然とすることもあります。
結局のところは、チーム医療と言っても、私が演説して、一人で盛り上がっていただけのようなのです。
とてもチームになっていない。
そんなことに気付くようになってきました。
そんなに簡単に、チームが作れるわけがないのですよね。
11月X日
もう一つ、研究会の感想を書きたい。
シンポジウムで、精神科の専門医を作る話があった。
いいかげんな精神科医を専門医として認定しては困るというのである。
そのための議論があったが、それを聞いて、自分がいいかげんでないという証拠はどこにあるのだろうかと考えた。
自分の知っている精神科医でも、これはどうかなあと思う人は少なくない。
一方、そういう精神科医の目から見ると、私自身がどう見られているか、極めて疑わしい。
とても、胸を張って、自分は大丈夫とは言えない。
診療所で仕事をしていて、明らかに失望して、来院を中断する患者さんもある。
能力を越えたことを期待されても実行できないのだけれど、それだけではない場合もあるだろう。
患者の立場から見たら、治してくれない医者は、誰であってもいいかげんな存在だろう。
医者同士が、お互いにあなたは専門家だと認め合っても、その場合は何の力にもならないだろう
11月X日
この前、精神科診療所協会の学術研究会が京都で開かれたので参加した。
そこで山折哲雄氏の講演を聞いた。
「聞く人、同伴する人、ひとり行く人」という題である。
その話の中で、河合隼雄さんとの対談際に、「カウンセラーは聞いて、聞いて、聞くことに徹する。」といわれて、宗教家はどうなのですかと尋ねられたらしい。
その時山折さんは「聞いて、聞いて、最後に方向性を示す。」と答えたらしいが、その後、やはり宗教家も聞くことに徹すると思ったらしい。
では、その聞くことにどう違いがあるのかという話になって、次の話題に移った。
私は、その問題に、聞くことは同じだが、聞いている主体、聞き手が違うという考えを持った。
カウンセラーは聞いて、聞くのだが、その主体は、カウンセラーの魂の深いところにあるものだと思う。
一方、宗教者の場合は、聞いて、聞く主体は、神や仏であって、たまたまその宗教者が、神や仏の道具となって、それらの耳となって聞くのだと思う。
その二つは、似ているが微妙に違う。
10月X日
外来を初診で受診する人は、重なる事が多いです。
患者が多い日は、何故か重なるし、患者が少ないときは、初診ゼロです。
そして、同じような症状の患者さんが重なるのです。
強迫症状の人が重なる。
引きこもりの大学生が重なる。
夫婦関係のこじれの人が重なる。
何故、そうなるのでしょうか。
不思議だなあと思います。
特定の人が、動きやすい日というのがあるのでしょうか。
10月X日
精神科医というのは、本当に患者さんの役に立っているのかなあと思うことが良くあります。
今日は、私が胆石の手術の後、入院しているころのことを思い出しました。
私は、自分の勤務している病院に入院したのですが、
毎朝、午前7時になると患者さんが病室にやってくるのです。
朝、一番に病棟の鍵が開くと、その患者さんは自動販売機のジュースを買いに外へ出るのです。
そして、ジュースを買うと、私の病室にやって来て、まず、「先生、お早う」と言ってから、プシュと缶を開けて、それを飲むのです。
それから、吐息をついて、「さようなら。」と言って、部屋を出ていきます。
私は、「お早う。」と「さようなら。」と言うばかりです。
それが、2週間ほど続いて、私は退院しました。
患者さんは、ただ私の病室にジュースを飲みに来ただけです。
今になって思うと、あの時間だけは、私が患者さんの役に立っていたなあと思います。
10月X日
今日は、医院からの帰りに北の空に虹を見ました。
西日を受けて、実に鮮やかな虹でした。
完全に欠けることがない虹を見たのは初めてかも知れません。
それも、二重虹です。
二つ目の虹が、一つの目の虹と色が逆転することも明らかでした。
こんな時、カメラを持っていないことが残念でした。
しばらくすると、虹は薄くなっていきました。
見ていると、虹の向こうに雲が無くなっていくと、虹が消えていくのです。
背景に雲がないと、虹は見えないのでしょうか。
知っている人、教えてください。
10月X日
私も自分の医療実践の一部を、本に書いて発表していますが、その本を一番熱心に読んでくれているのは、私の受け持っている患者さんです。
毎晩読んでいるという人もあります。
疑問の点を質問する人もいます。
診察の時の私の話がわからなくて、本を読んだらわかるのではないかと、参考書代わりにしている人もいます。
それくらいの熱心さで、自分の医院のスタッフが読んでくれたら、医院の様子も変わるのになあと思ったりもします。
しかし、考えてみれば、患者さんが病気から治りたいという熱意は、スタッフが自分の資質向上を願う熱意と比べようがないくらい、切実なものなのだと思います。
随分昔ですが、東京大学の出版会が精神分裂病の精神病理というシリーズを出していることがありました。
私はあまり熱心な読者ではありませんでしたが、患者さんの家族の中に、すべてを読破している人があって、驚いたことがあります。
何とかして、家族を治したい、新しい治療法はないだろうかと探る熱意が、そうさせていたのです。
医療の質や流れを本当のところで動かしているのは、そういう人たちの熱意であることを、そのとき感じました。
10月X日
医院を開設して、地域の精神医療の一翼を担ってはいるものの、精神医療の本当の困難は精神病院の中にあると感じています。
診療所の役割を否定するわけではないが、精神病院の医療水準が上がらない限り、精神医療全体の向上はないと思います。
診療所から見ると、病院にいた頃とはまた違った感想を持ちます。
ただ、診療所にいては、その感想をいかす方法がありません。
この前、見た夢の中で、以前勤めた精神病院の入院患者さんが、私の出勤が遅いなあと噂している光景が現れました。
「これはいけない。早く行かなければ」と思ったところで、目が覚めて、ああ、もう病院はやめたのになあと思いました。
診療所の医療実践が、精神病院に入院している患者さんにも、何かの力になれるような意味を持ちたいものだと、その後で考えました。
9月X日
医院を開設してから、多忙のため、学会にもなかなか出られません。
今回京都で、心理臨床学会が行われたので、久しぶりに参加してみました。
いつもは、事例研究の会に参加するのだが、今回はシンポジウムばかりに参加しました。
数年ぶりに参加して、いつもだと立派な事例の報告に、感心したり、羨ましく思ったり、ライバル意識を持ったりするのだが、あまりそんな気分になりませんでした。
臨床をしている者にとって、一番スリリングなケースというのは、自分の受け持っているケースなのだなあと感じました。
事例報告を素材にして話し合うというシンポジウムもありました。
事例の報告を聞いて、もう一つ物足りないなあと思ったのは、報告者が「自分はケースの周りをぐるぐる回っていただけだった。そのことがケースに寄り添うということなのではないか。」と述べていた部分だった。
ケースが「セラピストは私の周りをぐるぐる回っていただけだった。セラピストにはそれだけしかできないのだなあとわかった。セラピストは私に寄り添ってくれたのですね。」とクライエントに言われたというのなら良かったのだけど。
セラピストがそう言ってしまってはね。
シンポジウムでは、シンポジストから面接経過が食い足りないという意見が出されていて、
それはそうだなあと思ったが、その指摘だけでは何ともおもしろくない気がした。
持ち込み原稿に対して、この原稿はだめだと言える編集者は多いけれど、どうすれば良くなるかを言える編集者は少ないとのことです。
このセラピストはどうすれば良かったのか。
それがでないと、クライエントが可哀想だと思う。
学会の発表の材料になるだけではね。
食い足りない治療と言われても、治療が終わってしまったクライエントは、いまさらどうしようもない。
ケース検討が最終的にクライエント自身に利益をもたらさないとしたら、方法的に間違っているのではないか。
私も何度か学会発表を行ったことがあるが、発表前後にケースが動く場合が多かった。
終わったはずの面接が再開することもありました。
治療は面接が終わっても続いています。
学術的な目的で行われる集まりでも、そのことを尊重する必要があると思う。
そこのところに届く言葉が欲しかった。
治療というのは、セラピストが死んでも続く。
クライエントが死んでも続く。
そういう死後にまで届く言葉が出せなければ、治療に生命はこもってこない。
8月X日
医院のスタッフが出産のために退職されるので、事務の非常勤スタッフを募集することになりました。
いつもは、新聞の折り込み広告を利用して、募集していますが、今回はホームページにも掲載してみることにしました。
遠方からの通勤は無理でしょうし、なるべく近距離にお住まいの方がよいと思っています。
インターネットがどれくらい、利用されているか、知る機会になるかなと思っています。
うまく、仕事を探しておられる方と出会えたらなあと思います。
医院の基本姿勢は、チーム医療ですので、打ち合わせにも時間をかけています。
ご関心のある方の応募をお待ちします。
8月X日
診療日記を書いていると、以前書いたエピソードかどうかわからなくなってしまうことも多いです。
今日の話もくりかえしになるかもしれません。
一人の精神科医が力を込めて診られる患者はせいぜい40人までです。
特に集中できる患者となると、一時には3人ぐらいです。
病院に勤めているときには、そういう患者が外来に来たりすると、医局にいても、今、玄関を入ってきたぞ、と気配でわかったりしました。
そういう関係になると、医者・患者関係も真剣勝負みたいなものです。
そういう患者は、せいぜい一時には3人です。
一生の内に合計50人ぐらいしかそういう患者は診れないでしょう。
それは、経験のあるなし、力のあるなしで関係ないのはないでしょうか。
世の中には、名医というものがあって、ベルトコンベア式に患者を治すというイメージがありますが、精神科ではありえません。
治せる患者数には限りがあります。
統合失調症の治療だったら、40代をすぎた精神科医の治療には、パワーがありません。
その方が良い患者もありますが、真剣勝負のような治療はむつかしいです。
というわけで、名医とされる人の治療が実際にすばらしいという可能性はほとんどありません。
一般に、名医とされている精神科医は、昔、すばらしい治療をしたかも知れない人です。
そういう医者の所に、沢山の患者が集まって、医療レベルを維持しながら、その要請をこなしていくなどと言うことはありえません。
すばらしい治療をする精神科医は、無名で、30代半ばから40代半ばの人でしょう。
この先生はすばらしいと感じて、その人が10年〜20年して世に出てくるとしたら、それは幸運な治療を受けたということでしょう。
というわけです。
すばらしい医者を発見した人は、誰にも言いません。
患者が集まって、自分の面接時間が減ってはかなわないからです。
8月X日
数日前から、パソコンが変な音を立てていたので、場合によると、内蔵ハードディスクが壊れるのではないかと予想しました。
以前、そういうことがあったからです。
今度は、すべてのデータをバックアップしているので大丈夫と思っていました。
ところが、いざ、ハードディスクが止まってびっくり。
止まったのは、内蔵の方ではなく、外付けのバックアップのハードディスクだったのです。
大事なデータは、内蔵の方にもあったので安心ですが、以前外国旅行に行って撮ったビデオのデータなどがすべてパァ。
データ量が多いのと、さほど重要とも思わなかったので、どこにもバックアップを保存してなかったのです。
バックアップは複数取っておかないといけないのだと痛感しました。
8月X日
診療所を開設して、驚いていることの一つは、お医者さんの受診が多いことです。
精神科への受診が周囲にわかっても大丈夫なのかなあと、こちらが考えてしまいますが、皆さん気にされていないようです。
それより、早く治してくれ!という感じです。
そういったお医者さんのお話を伺って感ずるのは、お医者さんがあまりに多忙だと言うことです。
病院勤務の方、特に若いお医者さんは12時間勤務など当たり前、それができなきゃ、医者としての資格無しという風潮です。
少しぐらい給料が多くても、これじゃあ割が合わないなあと思います。
その結果、燃え尽きで鬱状態となってしまうのですから、本当に何をかいわんやです。
自分もそういう風に働いていたことがあるのですが、振り返ってみるとおかしいなあと思います。
しかし、それくらいやって初めて見えてくる医療の限界、治療の限界、人を援助することの限界というものもあります。
それやこれやを考えると、結局答えはわからなくなってしまうのですが、働きすぎて、燃え尽きかけている若いお医者さんを見ると、お大事にとしか言いようがありませんね。
8月X日
ホームページ開設5年目となりました。
最近では、医院の来院者のほとんどがホームページ経由です。
それだけ皆さんの役に立っているのでしょう。
内容をよりよいものにしていくために、皆さんの感想をお待ちしています。
ご希望がありましたら、何なりとお知らせ下さい。
8月X日
先日、精神保健指定医の研修会に行って来ました。
5年ごとに行われる研修会です。
これに出ないと、指定医の資格がなくなるので、朝9時から午後5時まで、びっしりの研修ですが、皆さん熱心に参加されていました。
それでも、スライド映写のために電気が消えると、とたんにいびきが聞こえたり、携帯の着信音がなったりする点は、大学の講義と同じです。
研修会の様子の映像をお見せします。
座席は指定席で、欠席したり、途中で雲隠れすると、わかってしまう配置です。
こんな映像は普通は見られませんね。
と言っても、あまり価値はないですが。
話題として印象に残ったのは、外国からの留学生が、精神的に混乱状態になったとき、本人の同意がないと、入院させられないこと、本人が拒否すると、強制入院の方法がないこと等が問題として指摘されていました。周囲の友人などが困って、つれてきても、どうしようもない。
対応できないということでした。
日本の法律では、精神障害者の横には、家族がいるものと想定されているので、家族はいるけれど、連絡が付かない、それも外国にいると言うのでは、どうすることもできないのです。
身元不明の人への対応は、できるようになっているのですが。
これから留学生などが増えると、深刻な問題が起こる可能性があるということでした。
7月X日
小学校や中学校が夏休みになって、朝の街から少年少女が消えています。
自転車通勤の私としては、出勤時の混雑が減って、道を走りやすくなっています。
夏休みの子供達のことを考えると、自分は何をあくせくしているんだろうなあと思います。
最近、患者さんの中に、過労気味の会社員が多いのに気付きます。
本当にへとへとになるまで働いて、矢が尽き、刀折れてやっと受診されるという人もあります。
元気になる薬を下さいと言われるのですが、どう見ても、薬より休暇が必要だとしか思えないのです。
休みを取られたらどうですかとお話ししても、八月の末なら、二日続けて休めますが、それまでは無理ですなどと言われてびっくり。
本当に休めないのか、仕事中毒なのか、わかりませんが、もっと自分の身体を大事にしてもらいたいと思います。
健康第一ですよねえ。
7月X日
先日、医院開設5周年を記念して、医院の今後を考えるシンポジウムを行いました。
参加者は40名ほどでした。
シンポジストとしては、医院からデイケア部門、受付、カウンセリング部門、利用者、行政からの立場で保健所からレポートしてもらいました。
スタッフは全員参加しましたが、参加者のほとんどが通院中の患者さんと家族の方でした。
2時から5時過ぎまで、途中20分だけの休憩で、集中した話し合いができて、びっくりするほどでした。
医院が狭くなっていると言う意見も、皆さんから出ましたが、今の医院の雰囲気を大切にしてほしいという希望が印象的でした。
どういう風にして、増えていく患者さんのニーズに答えながらも、今の雰囲気を維持していくか、なかなかむつかしい問題です。
スタッフの養成が大事であることは間違い有りませんが、シンポジウムの印象では、やはり、利用者の協力がなければ、むつかしいだろうと思います。
あせらずに、無理せずに、しかし、効率的に事を進めていきたいと思います。
開設当時は、外来の患者さんが少なくて、待ち時間に私がテレビゲームばかりしていたことを思い出します。今から考えると、実に牧歌的な時代でした。
7月X日
最近は、日によって受診される方の数が、ばらつきが大きくなっています。
以前から、天気の良い日と悪い日には、受診者が少ないです。
曇り空などなんとなく外へ遊びに行くにはならないような日に、受診者は多くなっています。
また、新患の受診は重なることが多いです。
だれでも、同じような気分の中で動いているのでしょう。
本当に不思議なことです。