診療日記(2011年6月27日更新)





この日記は、医院での診療の様子をお伝えするものです。ホームページを見て、受診した患者さんから、日頃の診察の様子や、医者がどんなことを考えているかがわかると、受診する時の参考になるということで、このコーナーを開設しました。かなり、面倒なので反響が乏しければ、消滅する場合もあります。悪しからず。


6月x日

九州新幹線のCMビデオが評判になっているらしいです。

いやあ〜。すばらしいですね。
元気が出ますね。
何かを信じてもよい気分になりますね。

皆さんも是非ご覧下さい。
元気になれますよ。

特におすすめはこれかな。



6月X日

福島原子力発電所の放射能流出は、聞けば聞くほど憂鬱になります。
本当のことが隠され続けて、国民は自分の判断で行動するしかない。
税金を払っていても、国からは真実が伝えられない。
こんな馬鹿なことがあるだろうか。

放射能の等値線図をみていると、本当に憂鬱になってしまいます。



6月X日

随分、日記を中断していました。
なにやかやと忙しく過ごしていました。

東日本大震災は、日本全体に大きな影響を残しています。
原発問題は、その解決の糸口も見えていないような気がします。
私などの戦後世代は、上の世代がどうして戦争を止められなかったのか、
疑問に思ってきました。
その責任を追及すべきだという考えを持ってきました。
今、私たちの世代は、より若い世代から、どうして原発などに頼ったのだと、
責任追及される立場になってしまっています。
「いやあ、私は最初から疑問に思っていてね」とか
「電力会社に騙されていたんだ」とか言っても、だれも信じてはくれないでしょう。
ちょうど私たちが、戦前派の抵抗姿勢の話を信じなかったようにです。

さて、どうしたものでしょうか。


福島県相馬市が発信するメールマガジンがあります。
立谷市長が執筆するエッセイとイベントなどで行ったあいさつを掲載しています。
市長が今どのようなことを考えているかが分かりますよ。



5月X日

ネットでこんなデータを見つけました。

震災で目覚めた“利他的遺伝子”

日本の社会は長期的に次のようになると予測されています。


○一物一価から、ローカル・マーケティングへ。

供給力が低下すると、企業が利益を確保するためには、一物一価ではなく、例えば西日本と東日本で価格を大きく変えるといったことが起こり得る。
また、無駄を出さないために、需給バランスを事前に把握する受注生産や共同購入が増える。


○個別消費から、シェアリング・システムへ。

資源の大切さがわかることで、その使い方にも新しい考え方が生まれる。資源を自分だけが使うと無駄が多いため、自分は必要な適量を使い、
他に必要としている人と分かち合うというシェアリングという考え方が根付き、それがいよいよ社会システムとして浸透していく時代へ。


○ファッション的エコから、生活そのものがエコに。

「エコ」「自然由来」「ファストファッション(経済性)」などへの興味基準が、『ファッション的なトレンド』よりも
『真に生活に役立つ』かどうかという尺度に変わる。
深刻な物資不足、電力不足などから、これまで世界的なエコ意識の高まりに先導されていたファッション的なエコ意識は退潮。
これまでは看過されていた実効性のないエコ活動がきちんと見直される。
資源節約に本当に意味があるものだけが認められる。「エコ」したことによる、「成果」の見える化が求められる。
その先には、例えば太陽光発電住宅のように、生活生活全体が24 時間自然にエコになっているシステムが支持されるようになる。


○人工的な生活から、自然と調和した生活へ。

あらゆる産業が進化し、生活に根付くことで、便利さとひきかえに、人間が本来持っていた自然との関わりが薄れ、
知らず知らずのうちに人工的な生活へとシフトしていた。震災が起きることで、自分達が住んでいる環境を再度意識させられることで、
自然の中で生きていることに気付き、その中で調和しながら生きることの大切さを強く感じるようになる。


○自分の将来のためにから、次世代の未来のためにへ。

「子どもを守る」という意識が強化される。
原発の廃炉まで何十年という話ひとつとっても、自分の死後も子どもたちの世代に重い課題がのしかかることを懸念する親は多い。
日本の未来に対して、次世代に対して、何ができるのか、何かをしたい、という欲求が強くなる。




5月X日

東北の被災地で色々の写真を撮りましたが、
心に残ったのは、日本各地から送られた激励の手紙や絵などです。
子どもたちからのものが多いのです。
ある避難所に張り出されていた絵です。














5月X日


連休を利用して、仙台市の被災地を訪ねました。
避難所に暮らしておられる方ともお話をしました。
若林区の津波の被災地も見てきました。
言葉を失うというのはこのことかと感じました。
とても、簡単に述べることはできません。
360度、津波に運ばれて何もない、あるのはただ木ぎれや、ゴミ、防風林だった木の根っこなど。
その中に、つぶれた自動車が埋まっている。
本当に大変な事態だと思います。
おそらく、三陸の海岸地帯はもっと大変なことでしょう。
どういう応援をしていけば良いのか、
何が求められているのか、
じっくりと考えて行かなければならないと感じました。

4月X日


阪神大震災のこと12

 色々と書いてみたが、今回で思い出を書くことを締めくくりとしたい。
 震災の起こったときの救急医療というと、まず外科的な救急医療を考えた。
それで、精神医療は出番がないと考えていた。

ところが、被災地では病院や診療所が機能を停止し、医療システムが一時的に動かなくなっていた。
精神科領域では、服薬が必要な患者さんに薬が届けられない状態になった。
つぶれた建物の下になって、カルテが取り出せない。
薬を供給システムが動かないということになった。
この状態に早急に手を打たないと、地域で生活している患者さんの病状が一気に悪化してしまう。
何とか、緊急避難的なものであるにしても、対応しなければいけない。
そういう課題が浮かび上がってきた。
この課題に取り組むことは、人員と連絡網、薬物の供給があれば、何とか可能である。
イメージも作りやすい。この取り組みは、震災後しばらくして、動き出した。
主として兵庫県周辺の自治体が取り組んだ。それぞれの自治体が担当の区を受け持って動いた。
やがて、神戸の医療機関が動き出したので、一ヶ月程度でその役割を終えた。

 緊急の対応としては、神戸市の入院施設が新規入院を受け入れられない状態となって、近隣の市や県に入院患者を搬送するという課題が生じた。
これもまた、対応のイメージが作りやすく、具体的なシステムも工夫された。
神戸市内の医療システムが十分に機能するまでのつなぎの役割である。
 これらの課題は、本来の医療システムが一時的に機能不全になったときの、補いであって、本来のシステムが回復すれば役割を終える。
ところが、一方で震災に関わる精神科医療というと、震災そのものの影響によって生じてくる「心のケア」というものが関心を持たれる。
その課題は、緊急避難とはまた別の課題である。緊急避難の課題に対して、遠方に住むボランティアが関わろうとすると、システムの一部に責任を持って参加するということにつきる。
しかし、「心のケア」ということになると、ことは簡単ではない。
継続して関わろうとするすると、責任を持ちにくい。
また、現地の医療システムに歪みを与えてしまう可能性もある。
いつでも撤退できる姿勢を維持しておこうとすると、電話相談のような部分的な関わりになってしまう。

 カウンセリングとか心理療法というものは、揺るぎない生活の基盤があってこそのものなので、そういう基盤が揺らいでいるときには成り立ちにくい。
しかし、専門家としての技術を持っている人は、そういうものを何かしら役に立てたいと思うだろう。
そこのところが、なかなか噛み合わないという現実がある。
一部の人は、ボランティアで避難所に「こころの相談」の窓口などを設置してみたが、利用者は少なかったようだ。
生活の場に、突然そういう機能が持ち込まれても、積極的な利用はしにくかっただろう。
相談窓口にいても、だれもやってこないので、ご用聞きのように避難所を回って、被災者の話し相手になっている人もあった。
色々な人が関わりを求めていたようだが、最終的にどのような関わりが適当なものであるのか、確定したとは思えない。

 私が被災地に関わって、これは優れた方法だと思った例を書いてみたい。
それは、足湯のサービスだった。
足湯というのは、足をお湯につけて洗ってあげることや、暖めてあげることである。
せいぜいふくらはぎまでの部分までが対象で、少し深めの洗面器を利用する。
私がその活動を知ったのは、すでに多くの人が仮設住宅に移ってしまった後でのことだった。
ボランティアのグループが集会場を借りて、サービスを行う。
希望者がやってきて、ひとときを過ごして帰っていく。
ただ、それだけのことである。
こういう取り組みでも、避難所で実施する場合は、責任者の許可が必要で、場合によっては実施できないこともあったという。
ともかく、最初のころは見よう見まねで、試行錯誤でやっていたという。

 足湯を受けると、ほとんどの人がリラックスする。
そして、その時の思いを自然に口にする。
色々な思い出を語る人もある。
震災の体験を語る人も当然ある。
しかし、ボランティアをやっている人は、足湯を行うことを役割と考えているので、利用者の語りを問い直したり、確認したりはしない。
語りは自発的なものに止まる。
聞くともなく、聞いていて、モノローグが少し相手を意識する程度に終わる。
ボランティアはその場限りの人で、次の機会があるかどうかはわからない。
しかし、心の緊張が解けて、聞いてもらうつもりがあるわけではないが、自然に語り出す。
その絶妙さがある。
時期はちょうど冬から春にかけてのことで、寒さがまだ残っている。
避難所にいた時期には、水回りが不自由で、入浴もままならなかった。
たとえ足だけでも、ゆっくり暖まったら気持が良い。
それを、若いボランティアの人がやってくれる。
身体もこころも自然に和んでくる。
終わったとたんに、身体の緊張が抜けて、立つこともできなくなっていることに気付く人もある。
突然、理由なく泣き出す人もある。
陽気に笑う人もあれば、ただただ、家族の自慢話を続ける人もある。
どうしなければならないということはない。
その自然さが、私には「心のケア」というものに、一致するように感じられた。
足湯のボランティアは、心理療法やカウンセリングの専門家でなくてもやれる。
しかし、それらの専門家がやれば、違った内容のものになるに違いない。
そうでなければ、専門家の意味はないだろう。

 足湯のボランティアは阪神大震災という時期や場所と関連して意味をもった。
別の形の災害では、他の方法が意味を持つだろう。
最初から、どういう方法が良いかと言うことは予測できない。
その場に直面した人が、色々な工夫の中から、適切な方法を見つけ出すものだろう。





4月X日


阪神大震災のこと11


 震災の後に色々なボランティアに参加したが、ひとつは電話相談のボランティアだった。
24時間電話相談と言うことで、相談所に泊まり込みで電話に対応した。
睡眠は、事務所に寝袋で横になる。
深夜でも、電話がかかれば起きて対応するのだが、午前1時をすぎるとあまりかかってこない。
日中は、事務所で電話があるのを待っている。
担当は2〜3人で、電話がなると近くの受話器を取る。
ぼんやりしていると、他の人が取ってしまうので、ある程度動かないと、ただ何もせずに時間が過ぎるだけになる。
一日に10件ぐらいの電話があった。
単なる問い合わせもあるので、内容のある相談は、1日3〜4件ぐらいか。
一日いても、中身のある相談が一つのないと言うこともあった。
結局専門職が待機していても、大して役に立たないという場面も多かった。
しかし、24時間待機していると言うことで、励まされた人もあるだろうし、こころ強いと思った関係者もあるだろう。
やっている側としても、自分たちが待機していることが、どこかで被災者全体を支える一助になっているだろうという思いが確認できているところがあった。

 さて、その相談に携わっているときに、本当に日本各地からボランティアが参加していた。
精神科医もいたし、臨床心理士もいた、ケースワーカーもいた。
東北や、九州からの参加者も多かった。
関東からの人ももちろんいた。そういう人たちと話していて、自発的に全国から集まってきた人々の熱意を感ずることもたびたびだった。
新幹線で東京からやってきいて、それだけでも交通費がかなりな額になる。
風呂にも入らず、一泊か二泊を寝袋で寝て帰っていく人たちは、そのたびごとに年休を使っているのだから、待遇も悪い上に、すべてが持ち出しである。
それだけの情熱を引き出すものがあって、その影響がその後の医療のありかたに何らかの影響を残さないはずはないという考え方が出てきても不思議はない。
参加者の中には、「ここから日本の医療が変わるのだ」と断定する人もいた。
実際関わっていると、本当にそう思えることもあった。
医療者が積極的に医療業務に関わることの手応えというのか、仲間への信頼感というのか、ともかくそうしたものが、医療全体に変化を与えると感じられたのだ。

 震災から一年経ち、二年経って、何が残ったかを考えてみると、周囲を見渡しても変わったようには思えなかった。
そのことは、震災のボランティアをしているときも、何となく感じたものだった。
神戸に行って、自分なりに活動をして、充実感を持っても、京都へ帰ると、そこには依然と変わらない日常があった。
被災地にいれば、自分の活動の異議を感じられるのだが、京都へ帰ると、そのような活動が特別な意味を持っているとは、全く感じられないのだった。
被災地では、多くのビルが傾いていて、まっすぐに立っているビルがないような気がした。
中には、墓石が倒れるようにして、倒れてしまっているビルもあった。
道路が倒れたビルでふさがれている場所もあった。
そのような光景を見て、京都へ帰ると、まっすぐに立っているビルも傾いているように感じられた。
それが傾いていなのだとすると、自分の感覚が混乱してしまう。
神戸に行って、自分でも気付かないうちに気分が高揚しているのだろう。
京都へ戻ると、非日常から急に日常に引き戻されたようで、めまいが起こるような気分がする。
神戸にいると「ここから日本の医療が変わるのだ」と思えるのだけれど、京都へ戻って同僚と話をしているときには、「ここから日本の医療が変わるのだ」という感情など全く起こっては来なかった。

 京都の精神科病院に勤務していて、阪神大震災の後一年ほどの間に、被災地から京都へ避難してきている人の中で、精神的な不調をきたして、入院せざるをえなくなった人を二人担当した。
担当したときは、神戸でボランティア活動をしてきて、現地のことを知っていることが何らかの役に立つのではないかと考えていた。
ところが、実際に治療していくことになって、現地の被災の状況を知っていることが役に立ったと思ったことは一度もなかった。
それらの人は、確かに震災が発病に直接・間接に影響を与えていたけれど、その要素を把握していなければ、治療が進展しないということは、事実としてはなかった。
どんな精神科医であっても、十分対応可能であった。
つまり、被災地で活動したことは、具体的な治療場面で、意味を持つものだとは思えなかったのである。
もっと言えば、ボランティアで活動したことが、「ここから日本の医療が変わるのだ」ということと関係しているとは思えないのである。
ただ、その時は、そのような言葉に現実味を感じたことは確かである。

 もし、何かが変わったとすれば、災害時にボランティアに参加することに抵抗が減ったこと、そう言う場には、そこでしか感じられないような仕事の充実感があるということを知ったと言うことだろう。
日常的な医療活動では得られない高揚感もあるし、一緒に動く人たちへの信頼感も芽生える。
それらがそのまま日常的なものとして継続して、次の作業へ結びつくことはなくても、いざという時に動き出すための、準備運動になるということは言えるだろう。
災害時の緊急対応に協力するのは当然だという認識が共有されたとすれば、それは「ここから日本の医療が変わるのだ」という思いを現実化させたとも言える。
しかし、「ここから日本の医療が変わるのだ」ということが、医療のあり方を根本的に変えるというを含んでいたとすれば、それは現実化しなかったし、今後もそういうことは起こらないと思う。
「医療のあり方を根本的に変える」ということは、日々の営為の積み重ねの中からでしかないであろう。
何かのショックですべてが変わるなどと言うことは、あり得ないことだ。




4月X日


阪神大震災のこと10

 災害のボランティアであれば、仕事の種類を厭わず、どんな内容の作業でもこなすのが当然だと言われている。
そうでなければ、おかしいというのだ。
現地の人手不足、作業内容の多様さ、マッチングの困難、等々を考えると、選り好みは良くないというのは良くわかる。
しかし、人間には得意、不得意があるし、職業的な経験も関係してくる。
若い人で体力も気力もあり、柔軟性もあれば、どんどんこなしていけるだろうが、一定の年齢を越すと、作業内容によっては無理になるし、場合によれば邪魔になってしまうだろう。
だからと言って、希望した仕事を選べるかというとそうでもない。
苦情を言うくらいなら参加しない方が良いと言われてしまうだろう。
特殊な能力は、状況によっては何の役にも立たない。
むしろない方が良いということにもなる。

 また、ある程度の専門知識があっても、受け入れ側の体制と噛み合わないと、それもおかしなことになる。
そう考えると、その人の特性だけでなく、生活だとか人となりなども、相互に理解し合えるような状況が一番良いと言うことになる。
それはどういうことかと言うと、結局親戚、友人の関係の発展であれば望ましいということになるのだろう。
だが、ボランティアというものは、そういう関係と遠いものだと感じられる。
被災地の親戚の所に行っても、ボランティアとは呼ばないだろうし、そういう意識もしないだろう。
ボランティアと言えば、やはり善意の第三者というニュアンスがある。

 阪神大震災ではボランティア元年という言葉が使われた。
私は当初、日本の社会に新しい動きが生まれたのだと感じていた。
被災地に行ったとき、どれほど多数のボランティアが動いていたか。
町中がボランティアであふれるような感じだった。
それらの人々は生き生きとして、輝いていた。
町全体が熱を帯びているような気がした。

 一年後、同じ避難所のあった学校を回ってみたが、休日だったせいか誰一人人間がいない校庭を見ていると、一年前は夢幻のように思えた。
まったく違う光景があったからだ。
 どうしてそんなにも変わってしまったのか。
それとも何も変わっていないのが本当で、見え方が変わっただけなのか。
色々と考えた。
 何故、ボランティアに沢山の人が集まったのか。
そして輝くように作業に取り組めたのか。
そこを考えていくと、人間というのは、人のために役に立ちたいという願いを強く持っているものではないかと気付かされる。
自発的に、無報酬なのに、困難な作業に取り組んで、そのことに喜びを感ずる。
それは、人間には、ただ喜んでもらうだけという作業を求めるところが、元来あるからではないか。
共同体というものは、そういう感情を基礎にして作られているものだろう。
家族にしてもそういう感情抜きには維持できない。
しかし、個人の意識が強くなり、損得を計算し、効率的な作業を重視し、目的合理性を求めるようになると、人のために無償で働くという機会は減ってしまう。
だれもがそういうことに参加しようとしなくなる。
人々は共同体を離れて、自立した個人になることを求めるようになる。
束縛を離れ、自由を求める。
意味不明な義務は回避して、共同責任も取らずにすませようとする。
しかし、人間はそういう風に、自由を求めて、自分だけの気楽さに満足と安心を得られるかというとそうではないだろう。

 一人になって、自分で自分のことを褒めてみても嬉しくともなんともない。
かといって、評価を求めて、他人にすり寄るのも、認めがたい。
そうなると、評価されるに決まっている作業に、無私の思いで取り組むと言うことは、十分な満足を得られる作業と言うことになる。
作業の内容も、自分が選んだのではなく、無作為に選ばれたのであるとすれば、一層、納得が行くだろう。
そう考えてみると、ボランティアに多くの人が集まるのも、自分の周辺の人間関係だけでは満足できず、孤独な思いを抱いている人々の多いことと関係があるだろう。
ボランティアが盛んになる背景には、人間関係を求めているけれども、過大な負担を引き受けるのはかなわないという警戒心があるのだと思える。
限度なく献身を求められるかに見える、丸抱えの共同体からは距離を取りたいものの、人とのつながりなしでは空虚である。
そう言った、現代の人間の思いが、ボランティア活動で満たされる面があるのではないか。
実際にボランティアに参加して得られる満足は、過去の行きがかりを持たず、純粋に人のために尽くせるという感激によるものだろう。
それも一時的で、その場限りのものであることで、束縛も生じない。

 逆に言うと、自分の日常生活の範囲では、そのような無私の献身を捧げるような存在を持っていない、あるいはそういう献身を受ける存在でもないというのが、私たちの人間関係ということになるだろう。
ボランティア活動をうさんくさいという人の中には、無私の献身を最初から信じていない人がいるが、同時に、そのような存在を身近に見つけられず、生活の場から離れてさまよっていく人への疑いを持っている人たちもいると思うのである。




4月X日



阪神大震災のこと9

 仮設住宅への入居がはじまってしばらくしてから、イベントのボランティアに参加したことがある。
その取り組みは、神戸市内の交通の便利な場所にあって、そのまま復興住宅がそこにできれば、良いだろうという場所だった。
炊き出しがメインで、歌や楽器の演奏があって、傍らのテントで健康相談を行うというものだった。
私は、テントで健康相談を行ったが、血圧を測りに来る人が数人あるだけで、実質的な相談はなかった。
それでも、多種多様な人が集まって、結構にぎやかな時間を過ごすことができた。
なんと言っても、出し物の歌や音楽が人気があって、ちょっとしたお祭り気分だった。
笑顔があったり、大きな笑い声があったり、何がどう役に立ったかはわからないのだが、ともかく盛り上がったことは事実で、終わってからの余韻も良いものだったので、成功だったのだと思う。
 そのイベントで一番感心したのは、炊き出しを担当した人の動きだった。
その人は神戸市内に住んでいる人で、炊き出しのことには通じている人ということだった。
まず、イベント直前まで、その人はなかなかやってこなかった。
遅刻するのではないか、準備が遅れてしまうのではないか、他のイベントと時間的にずれてしまうのではないか。
そういう心配をしていたが、ちょうど時間ぎりぎりになって、その人はやってきた。
そして、瞬く間にテントを組み立てて、調理に入った。
調理に必要な機材は、ほとんどが色々な団体からの借り物だった。
それらの機材も、その人が、鍋は○○。コンロは○○から借りる。テントは××、運搬の自動車は△△と手配して、ちょうどの時間に全てがそろうように計画していた。
そんなにうまく行くのかなと感じたが、寸分の狂いもなくて驚いた。
それだけの組織のどこに何があるかを知っていて、うまく借り出すルートも心得ているわけだ。
そのことだけを取ってもすごいなあと思った。
 さて、調理に入る前に、その仮設住宅の入居者数、イベントの規模、その日の天候や気温、イベントの始まる時間と終わる時間を、確かめると、すぐに作業に取りかかった。
その日のメニューは豚汁か何かだったと思う。
簡単な内容ではあるが、次々と指示を出して、ボランティアを動かしていった。
そして、予定時間にはわずかのゆとりをもって作業を完了した。
それからいよいよ、炊き出しが始まった。
どんどん人がやってきて、次々と食器が回っていった。
使い捨ての容器なので、ゴミが出る。
それをてきぱきと処理していく。
何とうまいものだと思った。
そして、みんなが食べ終わったころ、鍋の中にはほとんど何も残っていなかった。
つまり、最初の段階から、今日の豚汁はどれくらいの寮が必要か完璧なほど読み込んで作業にかかっていたということだ。
その仕事ぶりに驚いた。
残飯がない。
ゴミも最小限になっている。
そして、いざ撤収となると、組み立てたときと同じように、あっという間にテントは畳まれて、車に積み込まれてしまった。
反省会とはそんなものもなく、風のように過ぎ去っていった。
その仕事ぶりに、これはプロの作業だぞと感じ入ってしまった。
その人は、本業はまた別にもっているらしいし、仕事の種類も、炊き出しとは関係のないものらしい。
つまり、本当にボランティアでやっているのに、作業の中身はプロのそれなのだ。
私は、その姿を見て、「ボランティアとはこういうもののことを言うのか」と感心してしまった。
ボランティアはアマチュアで、能率も悪くて、内容も乏しい、しかし善意で一生懸命やっているから、認められて当然という考えが、自分の中にあったことに気付いた。
 しかし、その技をボランティアに参加している人なら誰でも持っているかというとそうではない。
ごく一部の人だけが、プロの域に達するまでの技術を持っているのだと思う。
阪神大震災では、そのようなプロの技を身につけた人々を沢山生み出されたのではないかと思う。
そういう人が、自分の技をさらに洗練させて、次の大きな災害の時に生かせたら、有効な支援を作り出せるのではないかと考えた。
しかし、自発的意志で行うボランティアの技術を、継承していくことは可能なのか。
また、それができたとして、必要な時にフットワーク良く動ける条件を保障できるのか。
炊き出しのお兄さんも、数年したら思いでの彼方に消えてしまうのではないか。
ボランティアのリーダーを、持続的に育成していくことはできないか。
そういうことも考えてみた。
しかし、実際には難しいのではないかとも思う。
行政にそういうことができるとは思えないし、やってみると官僚化するだけで、ボランティアの自発性はなくなるだろう。
行政の外郭団体に期待しても、天下りのポストになるだけかもしれない。
フットワーク軽く動く組織は、ゆるーい集団になってしまうかも知れない。
ボランティアが動きやすい社会を考えると言うことは、官僚組織や、組織の官僚化にどう風穴を開けるかという話になっていくようだ。




4月X日


阪神大震災のこと8

 神戸の保健所に応援に行っている頃、仮設住宅の最初の工事がほぼ完成に近づいたと言うことで、見学に行ったことがある。
まだ、誰も入居していない段階で、いくつもの棟が並んだ姿は、何かの収容所のような感じだった。
生活臭が全くなく、生命の感触が見られなかった。
一緒に行った職員は、「仮設住宅といっても、施工主によって費用が違うのですよ。ともかくできるだけ早く作るという条件だから、材料にしても、構造にしても、統一されていないのです。どういう仮設に入ることになるか、全くの運ですね」と言った。
避難所から仮設住宅に入るのも抽選で、仮設住宅から復興住宅に入るのも抽選だったので、これもまた運である。
市内の中心部に近い仮設もあれば、不便な場所の仮設もある。
一人一人の条件を考えていると、とても大量の処理はできないだろうから、誰からも苦情の出ない、抽選ということになってしまったのだろう。
それでも、障害者や高齢者には優先の配慮があったと記憶している。
 最初の見た仮設住宅は、埋め立て地に造られたものだったので、周囲から隔絶され、交通も不便で、買い物に行こうとしても車がなければ生活できないような場所だった。
「買い物などはどうなるのでしょうか」と聞いたら、「たぶん、スーパーなどが車に商品を積んで、巡回するのではないかなあ」という返事だった。
お客が居れば、当然そうなることだろう。
 いよいよ入居が始まってからしばらくして、同じ仮設住宅を訪れたら、それぞれの住宅には洗濯機が並べられたり、自転車が置かれたり、洗濯物が干されていたりなどして、人間の生活が感じられるものになっていた。
それでほっとした。
それでもいくらか陸の孤島という印象があって、息詰まるような感じが残っていた。

 それからさらに時間が経ってから、同じ仮設住宅を訪れたら、どこかからカラオケの音がして、これまでに感じたことのないような活気を感じた。
「あの音は何ですか」と聞いたら。仮設住宅の中に、住民の交流するスペースが作られて、そこでボランティアのグループが色々な催し物をしているのだそうだ。
早速覗いてみると、仮設住宅に入居している人たちが、にぎやかに歌っている。
町内会の慰安旅行のような感じだった。
若い人は少なかったが、中年を過ぎた人たちが和気藹々と歌っていた。
絶叫で、マイクがハウリングと起こしていた。
すごいパワーだと思った。
仮設住宅が生活の場になって、住んでいる人たちの間にも、つながりが生まれつつあるのだと言うことを知った。
最初に仮設住宅を訪れたときには、そんなスペースがなかったので、暮らしていく中でそのような場所の必要性が認識されて、作られたものなのだろう。その時、見学したときに仮設住宅の感じた、収容所的な印象が薄れていく感じがした。
何より、そこの住人の力によって、そのようなスペースが生み出されたであろうことに安心感を持った。
たぶん、行政もその必要性を認めたのだろう。
場所というのは、そこに住んでいる人にしか見えない部分があるだろう。
聞いてみると、他の仮設住宅にも、そのような交流スペースが作られることになっているそうだった。

 その後、仮設住宅から、復興住宅に人びとが移っていくと、取り残される人びとが出てきた。
向こう三軒両隣に誰もいない。みんな引っ越していった。
老人だけが残されると、仮設住宅はまた、最初の生活臭の乏しい、生命の感じられない空間になっていった。
一挙に復興住宅への入居が困難であるとすると、櫛の歯が欠けたようになって、最後に出ていく人は大変だろう。
巡回の買い物の車も少なくなったり、心細さがつのったり、見捨てられたような感じも出てきてしまうのではないか。
集団が作られて発展していくときは良いが、集団の力が低下していくとき、最後の処理は大変だなあと、そういうことを感じた。

 それからまた時間がたって、仮設住宅の交流スペースが、有効に働いたところもあれば、まったく機能しなかったところもあることを知った。
仮設住宅の中には、そのような共有スペースを全く利用せず、利用したのは入居者の葬儀の時だけだったというケースもあったらしい。
そこに住む人たちから必然性をもって、スペースが生まれたのなら、有効に使われるだろうが、住む人たちにとって必然性を持っていなければ、死んだ空間になってしまう。
あるいは、建物を造ることは簡単だが、その建物を有効に使うような人間を作ることはできないとも言える。
この事実は、有効な支援とは何かと言うことを考える材料になる。



4月X日

阪神大震災のこと7

 震災が起こって、神戸の町を何度も訪れた。
保健所の支援という形や、ボランティア組織の訪問とか、弁護士さんの組織したよろず相談の一員とか、神戸の東灘区から長田区まで、現地に入って、そこの状況に触れることができた。
ともかく、最初の印象が強烈だったので、継続した関わりを自分なりに求めてしまったのだ。
相手のためになっているかどうかというより、自分にとって避けて通れない課題になってしまったのだ。
 最初に神戸の町に入ったとき、木造建築のほとんどが破壊されて、町は瓦礫の山だった。
大きな通りから少し住宅地に入ると、道沿いの電柱が一列になって傾いている場所もあった。
一軒の家がくずれて、横の家に傾き、その家が更に次の家に崩れかかっているという光景もあった。
崩れそうな家のまわりにロープが張られ、近づくなと注意が書いてあった。
うろうろしていると、「どなたの家の探しているのですか」と問いかけられることもあった。
京都から来て、震災の様子を見ているのですと説明すると、淡々と地震の時の様子を話してもらえた。
「私はこのあたりに住んでいたのですが、この家では3人なくなって、あちらでは二人」と行った具合に説明を受けた。
「ともかく、埋もれている人を助けて、何人も掘り出しました。
そこの家の人は柱が折れて胸に刺さって、亡くなりました。20代の女のひとですけど。可愛そうでした」
説明を聞いていると、2〜3時間前の出来事のようだった。
誰かに話したいという気持ちが次々と湧いて出るのだろう。
 避難所になっている小学校の校庭で、焚き火を囲んでいる人たちもいた。
話題は地震当日の話が多くて、「地震の直前に空が夜明けのようにパーッと明るくなったのですよ。それからドーンと来て」というような話がくり返されていた。ある人からは、近所の人の体験を聞かされた。
いつも朝に夫婦で散歩に行くことのなっていて、その朝も散歩に出た。
途中で、奥さんがサイフを忘れて、家に取りに帰ったところ、地震が起こって、家は潰れてしまった。
夫が家に駆けつけてみると、玄関から奥さんの手だけが見えて、それを握ったら、暖かかった。
何とか覆い被さった屋根や柱を動かそうとしても、びくともしない。
そのまま手を握っていたら、段々と冷たくなっていった。
そういう話を聞かされた。
みんな淡々と、何のコメントもなく、事実だけを話していく。
そういう体験をすると、なかなかその場を去りがたい。
何かできないのか、何かしてみたい。
そういう感情が強くなってしまう。
その後、何度も神戸に行くようになったのは、最初の頃の印象が強かったからだ。

 建築家のグループの活動で、家の損壊状況を確認する活動に付いていったこともある。
家が全壊なのか、半壊なのか、補修すれば使えるのか。
そういう判定をする作業である。
たぶん、行政もそういう作業をしているのだろうが、セカンドオピニオンと求めたい人もいるだろう。
そういう人のために、ボランティアで参考意見を述べるという活動で、あらかじめ先発隊が避難所へ行って、希望者をつのっておき、本体がやってきたときは、訪問先のリストが出来ている。
私もそうやって、色々なお宅へあげさせてもらった。
全壊の家はあきらめているので、確認の希望はない。
まだ、使えそうでも、「これはだめ」とか、意外に思える判定もあった。
町を進んでいくと、家の半分が壊れて、二階の部屋がむき出しになっている家もあった。
勉強机があって、箪笥が見えたりして、それが外に丸見えになっている。
日常生活を、一瞬の内に破壊した地震の姿を物語っているように見えた。

 震災で破壊された町全体の様子が予想されて、強い印象が刻みつけられた。
私が見たものは、医者としての観察ではなく、町を通り過ぎる観察者のものでしかなかった。
あるとき、現地で診療している医者は何を感じているか、何を考えているかを知りたくなった。
それで、知り合いの医者に神戸の様子を尋ねてみた。
私は私なりに観察した状況を話してみた。
すると、答えは意外なものだった。
「へーえ。そういうことになっているのですか。ちっとも知らなかった。私は被災した家の片付けと、日々の診療に追われてしまって、市内がどうなっているか、ほとんど知らないのですよ」というのである。
考えてみれば、当たり前のことかも知れない。
被災者本人にとっては、自分の生活の回復が大事。
自分の家族や周辺の人のことが大事。
早く本来の業務を回復することが大事だ。
町全体がどうなっているかという前に、目の前のことに緊急性がある。

 当時、神戸でやっているボランティアの活動も、現地から参加している人は少なかった。
本人が被災者なのだから、当然だろう。
参加者は、東京とか九州とか、どちらかというと遠方の人の方が多かった。
被災地でボランティアをつのろうとしてもそれは無理というものだろう。
しかし、遠方からの支援となると、移動、宿泊、食糧、などの確保に問題が生じてくる。
また、継続して支援を行おうとすると、その体制の確立が難しい。
人材の確保にも困難があるだろう。
支援とかボランティアとか、考えてみると困難な問題が次々と浮かんできた。




4月X日


阪神大震災のこと6

 阪神大震災はボランティア元年と言われたほど、ボランティアが活躍したと言われている。
私もその一員であったわけだが、今度の東日本大震災では、ボランティアは要請があるまで行かない方が良いと言われていた。
つまり、自分の勝手な判断で、現地に向かっても、迷惑になるだけだという情報が流されたわけである。
振り返ってみると、ではあの時私も本当は要請されるまでボランティアに行かない方が良かったのだろうかということになる。
たぶん、最初の段階を除けば、私にはボランティアや支援の要請があったとは思いない。
つまり、1〜2回参加すれば、それで活動は終わっていただろうと思うのだ。
だけど、それは本当に適切な判断であったであろうか。

 ここで、当時の神戸で聞いた一つのエピソードを紹介してみたい。
それはK先生と言われた災害医療緊急医師の話である。
 震災からしばらくして、神戸には沢山のボランティアが集まった。
その活動は玉石混淆で、被災者にとっては負担であったり、迷惑であったりするような活動をするグループもあった。
避難所はオープンな空間であったから、色々なグループが勝手に入り込んで、思いつきの活動をすることもあった。
それらをまとめ上げる体制が整っていたわけではない。
色々なトラブルがあって、避難所の中にはそれを調整しようとする動きが出てきた。
その形はそれぞれだろうから、その詳細を私が把握しているわけではない。
しかし、私が訪れた避難所には、「災害ボランティアはかくあるべし」というはっきりとした理念を持ったK先生が、活動を取り仕切っていた。
その避難所で活動しているボランティア団体は、すべてK先生の指示に従わなければならなかったし、新たに活動を始めようとする団体は、K先生の首実検を通らないと、一切許されなかったのである。
その試問は厳しいもので、ボランティアの基本的な考え方から、活動の作風、行儀の一切まで点検されて、少しでも疑わしい点があると、決して活動を認めてもらうことはできなかった。
K先生は、国際的な武力紛争や災害の場所には真っ先に駆けつけ、必要な作業を行ってきたので、現場の状況把握を適切に行う力量を養ってきていた。
その経験をもって、震災のボランティアにやってきた人たちに、厳しい基準で評価を行ったのである。
興味本位の参加はもちろん問題外である。
被災者に対する謙虚な姿勢を持たないグループは直ちに活動を禁止された。
そういうわけなので、K先生から活動を評価されたり、新たな活動のを承認を得たりすることは、一つの名誉でもあった。
避難所で活動している人々は、K先生に恐れと尊敬の念を持って、仰ぎ見るような感じであった。
ともかく、K先生は献身的であり、無欲であり、しっかりした信念に基づいて行動していたからである。
 他の避難所で活動していた人々からは、避難所によって、活動が認められたり、認められなかったり、その理由も曖昧で、納得いかない場合もあるという意見が出ていた。
それで、K先生が一括して掌握している避難所には、とりあえず一つの秩序が保障されているという安心感があったわけだ。
いつも黒いシャツに、黒いネクタイ、颯爽とした姿に、あこがれる女性たちもいたらしい。
私もK先生の噂を聞いて、一度はお会いしてみたいものだと思っていた。
混乱を極める現場に立つK先生の姿は、台風の暴風雨に中に立つ一本の黒旗のように思われたのだ。
「すごい人だよ、一度は会っておかないと」と、K先生を知る人々は口々にそう述べていた。

 とうとう、K先生に会える日がやってきた。
しかし、その時にはもうK先生の姿は避難所にはなかった。
次の紛争地に移動したのだろうか。
どうも、そうではないらしい。
よくよく聞いてみると、どうも大きな声では言えないことらしい。
避難所が落ち着いてきた頃、医療関係者の支援のローテンションが確立し、遠方の府県からの応援の医者や看護師が到着するようになった。
そういう人たちとK先生も当然交流する。
そうしているうち、後からやってきた医師の中から、どうもおかしいという声が出始めたらしい。
たとえば、医師なら当然知っているはずの医学知識を知らないような様子が見える。
ドイツ語が読めないらしい。
などなど、本当にK先生は医者なのだろうか。
ある時聴診器を当てていて、聴診器が耳に当たっていなかったという話まで出た。
とうとう、誰かがK先生に「貴方は本当に医者なのですか」と聞いた。
今度はK先生が問いつめられる番になった。
そして、K先生は自分は医者ではないと白状してしまったらしい。
新しくやってきた医師たちは、混乱していた避難所をまとめ上げたK先生の業績を考慮して、事態を公にせず、静かに避難所を去るように勧告した。
そして、K先生は避難所からいなくなったのだ。
それから10数年、K先生を見かけた人はいない。
K先生を知っている人は、「一目見ればすぐわかる」と言っているので、神戸には戻ってくることはなかったのだろうと思える。

 避難所の混乱期にK先生はリーダーシップを発揮して、カリスマ的な力で集団をまとめ上げた。
多くの人が、そこに医師としての理想的な姿を見ていたのだと思う。
しかし、混乱期を乗り切ったとき、K医師の姿は虚像であったことが暴露された。
組織的な活動が準備され、カリスマ的な役割が必要でなくなったことと見合った展開だった。
K先生は医師免許を持っていなかったとしても、必要な役割を演じていた。
そのことは否定できないだろう。
K先生が、医師であると名乗らなければ、そんなスキャンダルは生じなかっただろう。
それとも、そう名乗らなければ、指導力を示せなかったのだろうか。
 K先生のような指導力を持った人は少ないだろう。
そのK先生をもってしても、医師であることを僭称しなければならなかったとすれば、普通の力量の人には雑多なボランティア集団をまとめ上げることはできなかっただろう。
そういう状況を考えてみると、多様な組織がボランティアを大胆に受け入れることは難しいということになる。
この事実はむつかしい問題を提起しているように思える



4月X日

先日、受診した患者さんが東日本大震災の一週間前に岩手県に出張していて、今回津波で消えてしまったJRの駅に立っていたという話をしてもらった。
夢のようだということだった。
地震が一週間後だったら、自分はどうなっていたかと。
ニューヨークの9・11同時多発テロの後にも、WTCのてっぺんのレストランで食事したことがありますという話を患者さんから聞いたことがある。
遠い世界のことではなく、すぐ手を伸ばせばとどく場所に事は起こっているという気がした。


仙台の避難所に応援に行っていた人の話を聞いた。
若林地区の惨状は、見渡す限り何もないということだった。
避難所に入っている人は、布団に寝て、起きてその上にうずくまって、何もできないで一日を過ごしている。
一切を失った人に何をしてあげたらよいのか。
見ていても、途方にくれてしまうという。
一日も早く、それらの人たちが立ち上がれるような対策を取ってもらいたいと願う。



阪神大震災のこと5

 東から西に向かうJRがまだ住吉までしか開通していない頃、三宮方面に行くには、住吉駅で降りて、バスに乗り換える必要があった。
住吉駅で降りて、バスの乗り場に向かうには、歩道橋をわたる必要があった。
住吉駅からバス乗り場まで、沢山の人がその歩道橋を渡っていた。
ある時、そこを歩いていると、階段の所に、「神戸に見物に来るな。さっさと帰れ、邪魔だ。見せ物じゃない」と書いたビラが貼ってあった。
沢山の人が神戸に来ていたが、支援やボランティアの人もいるが、見物に来ていた人もいるのだろう。
そして、支援者と言っても、幾分かは現地の状況を知りたいと思ってやってきた人もいるだろう。
色々な人がいるのだから、現地の人々にとって、不愉快な体験になることもあっただろう。
そういう思いが、罵声のようなビラにつながったのだろうと思う。
そして、私自身自分のやっていることが、そういう声を浴びせられるような行動であるかないか、わからないなあと思っていた。
私が現地に入るようになったのも、最初は行き当たりばったりの行動からだったからだ。

 神戸に行きだしてしばらくしたころ、あるボランティアのグループから相談したことがあると声をかけられた。
そのグループの活動拠点に行ってみると、ボランティアに参加しているメンバーの一人の様子がおかしいというのである。
どうも精神的に不調のようだし、周囲に負担になっているのだけれど、どう対応してよいのかわからないということだった。
ふらりとやってきて、グループに入れてくれと言われて、様子を見ていたら、段々話の内容がまとまらず、睡眠も取らなくなって、周囲の人々とのトラブルが生ずるようになったのだという。
現地で活動しているボランティアのグループにはそういう形で参加した人も結構いるらしい。
活動の中核になっている人々は、震災前から知り合っていた人々だけれど、活動が動き出してから参加した人の中には、偶然の出会いからつながった人も多い。
本人の背景も良くわからず、どこから来た人なのかもよくわからないというのだ。色々と周囲の情報を聞いてみると、どうも精神的な病気の状態であるとしか考えられない。
本人に直接話をしないと診断はしにくいが、かと言って私が面接するのは本人を刺激して、一層混乱を広げる恐れがある。それで、グループのリーダーと話をして、その人の行動パターンを聞いて、どういう風に説得するかを設定した。
とりあえず、本人が疲労していること、自宅へ帰って静養した方がよいことなどを、リーダーが説得役になって話すことにした。
色々と工夫して、結果的にはサブリーダーのような人が、本人とゆっくり話すことに成功した。
それで、段階的に出身地や家族の連絡先を聞き出すことができた。
最終的には、本人が家族に連絡し、帰省することも段取りがついた。
話し出してから、そこまで至るのに半日ぐらいの時間がかかった。
私は、説得に直接タッチしたわけではなく、関係者の相談に乗っていただけだ。
それでも、結構時間がかかってしまった。
関係者も本人の言動がおかしいと感じだしてから、誰かの助言を得ないといけないと決心するまでに時間がかかっているわけだし、グループの考え方が初めからまとまっていたわけでもない。
ともかく、何日きあは、本人への対応を巡って、いろいろと話し合いが行われて、周囲の人々も心労を重ねたことは疑いない。
その原因の一つは、ボランティアのグループなので、善意の協力申し出は受け入れるという基本姿勢にあっただろう。
それぞれのメンバーの背景を充分確認する時間も労力もないなかで、半ば無条件で受け入れているので、善意で処理できない問題が起こると、解決に非常に時間がかかってしまう。
契約によるつながりではなく、善意のつながりなので、解消することにしても割りきれなさが残る。
ボランティアはアマチュアなのだけれど、それがアマチュアで良いということになってしまうと、周囲に迷惑をかけることも出てくるし、場合によれば存在自身が負担であるということにもなるだろう。

 この問題は色々な意味を含んでいると考えた。
時間が経ってから考えたことは、被災地、非被災地、被災者、非被災者という区別を立てて、ボランティアを非被災地に住む非被災者が、自分の都合で被災地の被災者のところにやってくるというとらえ方が間違いではないかということだ。
ボランティアの人は、非被災地に住む被災者で、自分の復興のために被災地にやってきている人なのではないかと言うことだ。
彼らの被災体験の癒しのためには、被災地に活動するのがふさわしい人たちなのだろう。
そのことと、被災地における被災者の活動との折り合いをどう付けるかというが問題なのだと思う。
被災地に無関係の人は入らないでほしいと断定することも一つの答えではあるのだろうが、見えないところで生じている被災体験を解消することの助けにはならないだろう。
 



4月X日

阪神大震災のこと4

 阪神大震災が起こって最初に神戸に入った日は、大阪から神戸に向かって動いているのは阪神電車だけで、東灘区の青木という駅までだった。
駅についてから、周りを見ると、鉄筋の家やビルは残っているものの、木造の家はほとんどつぶれていて、所々火事で燃えていた。
リックを背負った沢山の人が、街の中を歩いていた。街全体が異様な熱気につつまれているような感じだった。
 私は、市街地を歩いて、保健所のある場所を探した。
そこで、何かボランティアでやれることはないかどうかを尋ねようと思った。
探し当てた保健所の中は、人が一杯で、そのほとんどがボランティアの人たちだった。
保健所に持ち込まれた救援物資の仕分けや配送に動いてる。
競りが行われている中央市場と言った雰囲気だった。
ぼんやりしていると突き飛ばされるか、罵らせそうだった。
精神保健の窓口に行って、「私は精神科医で、何かお手伝いできないかと思ってきたのですが」と言うと、担当の人は、「じゃあ、やってもらいたいことがあります。まず、保健所長に挨拶してください」と言われた。
人混みを縫って所長室へ行くと、所長さんが「まあ、みんな保健所に泊まり込んでやっていますから、気が立って大変ですよ」と言ったような説明をしてくれた。寝袋で、ソファーの上にごろ寝という感じなのだろう。
「職員と言っても、みんな被災者ですからね」。
そうこうする内に、先の担当者が地図のコピーを持ってきた。
「丸印のところで、不穏状態の人がいるらしいです。様子を見てきて下さい。
困ったこたがあれば、携帯で連絡して下さい」と携帯電話を渡してくれた。
身元調査らしいこともなく、「できるでしょ」という感じで一任されたことにびっくりしたが、それだけ手が足りないのだと言うこともわかった。
「マスコミが色々聞いてきますが、対処はおまかせします。排除はしないが、協力もしないというのが方針です。
では、気を付けて」という具合で、保健所を後にした。

カメラを背負ったテレビ局の一団が付いてくる。何とか撮影に協力して欲しいというのだが、私は様子もわからないので、お断りした。
それでも、20〜30mぐらいは後を追っかけてきて、協力を頼んでいた。
 目的地に行ってみると、木造2階建ての家の玄関に女性が大きな声を上げていた。
家の中は、壁が落ち、ガラスが割れて、土足で入るしかなく、とても寝泊まりできる状態ではない。
女性のそばには、ご主人がいて、「先ほどはひどかったのですが、何とか落ち着いて避難所に戻れそうです」とのことだった。
女性は、自宅に戻って、何とかそこですごそうとしたのだけれど、とても無理とわかって興奮してしまったようだった。
現場に行ってみると、緊急性は乏しかったが、市民から要請があれば、保健所は動かざるを得ず、対応するのには人手が足りないことがよくわかった。

 その後、他の保健所から応援の依頼があって、一泊二日で応援に行った。
そのころはまだ、保健所は救護所となって、医療機関にかかれない患者さんに、薬を無料で配布していた。
受診していた医療機関が、被災して受診できない人が保健所に来て、つなぎの薬をもらうということになっていた。
私が担当した時期は、医療機関の診療も少しずつ始まっていて、薬を取りに来る人は、一日の内に2〜3人で、仕事があるようなないようなものだった。
それでも、薬を渡す以上は、医師の診察が必要だった。
支援と言っても、ただぼんやり坐っているだけである。
保健所の相談員の人と話をしていて、支援というのは何なのかを考えた。
予想していたものと違っている気がした。
何もしていないじゃないか。そう感じた。

 その後、支援活動を続けていて、支援というのは、本来その地域で責任を持って活動をしている人の手助けなのであって、代わりをするものではないということがよくわかった。
本来の担い手が動きやすくなるように、手助けするものだと言うことがわかった。
だから、事態が落ち着くにしたがって、フェードアウトしていくものであって、最初からその心づもりでいる必要がある。
あくまでも黒子である。電話番や留守番のようなものである。
舞台の表に出るものではない。
そういうことがわかった。
後に残るような大きな印象を与えてはいけない。

 支援に行くと、本来の作業をしている人が励まされる。
自分たちが日本全体から見守られている。
孤立していのではないと確認できる。
それで、少し元気が出る。
自分を奮い立たせることができる。
そういうことだろう。

 被災地に行って支援しているとか、ボランティアしているというと、それは献身的なことですねという人がいた。
逆に、目立ちたがっているだけだろう、感謝されたがっているのだろうという人もいた。
しかし、支援やボランティアは、そのどちらでもない。
目立たない黒子の仕事であって、いつしか忘れ去られ、支援されたというぼんやりした雰囲気だけを残すものである。
そうあるのが、理想だと思える。
 


4月X日

阪神大震災のこと3

 阪神大震災が起こってから、最初のころは一週間に二回ほど神戸に行っていた。
色々なグループに参加して、一緒に行動した。行政の組み立てた支援活動に関わったこともあるし、ボランティアグループに参加したこともある。
単独行動のこともあった。
関わる立場によって、被災地は違った姿で見えた。
基盤になっている組織が既存のものである方が、関わりの形もはっきりして、意味も限界もとらえやすかった。
出来たばかりのボランティアグループでは、役割がはっきりしないこともあった。
しかし、その場合の方が、被災地の現状がとらえやすい場合もあった。

 最初のころは、避難所を訪ねることが多かった。
避難所が小学校や中学校のような、学校である場合は、ほとんどの人が体育館は教室を利用していた。
何階建てかの建物に入ると、3階建ての上の方に行くと、人がほとんどいないところもあった。
教室に布団が敷いてあるのに、人の姿がない。
日中は、働きに行っているらしいという話を聞いた。
中には、避難所に場所だけ確保して、日中は半壊した自宅に帰っている人もあるらしい。
たぶん、避難所に避難したことにしておいた方が、食事の配給の便宜や今後の保障の面で有利になるからなのかも知れない。
そういうことが決まっていなくても、そういう可能性があるのだとしたら、何らかの手を打っておこうと思うのも当然だろう。
そういう先々のことを考えながら、自分の身の処し方を選ぶのは当たり前だろう。

 そうして、教室を回っていると、教室に入らず、廊下で寝ている人たちがいた。
教室の方には、まだ空きがあるようなのに、わざわざ廊下で寝るなんておかしいなあと思った。
教室と廊下では暖かさが違うからだ。
避難所の管理をしている人に聞くと、「避難所と言っても、人間関係が大変なんですよ」という返事だった。
その細かな内容について、その人は言葉を濁してしまったので、具体的な事実は知ることはできなかったが、見ず知らずの人間が密閉した空間に長時間いると、思わぬトラブルが生ずるのだろう。
トラブルの結果、耐えられなくなった人は、教室を出て、廊下で暮らすことになる。
寒さはしのげても、人と人との関係はしのげない。
そんな現実があるのだ。中には階段の踊り場に寝ている人もいた。
一番驚いたのは、階段そのものの上に寝ている人がいたことだ。
色々な場所が占領されていて、とうとう階段に逃げてしまったのだろう。
そんなところに寝る方がまだましだと考えるようなことがあったのだろう。
身体を斜めにした姿で、熟睡できるものなのだろうか。

 避難所に入りたくない人たちもいた。
自宅で過ごし続ける人もいたし、公園にテントを張って暮らしている人もいた。
避難所に入らないと、行政的な援助を受けにくくなるのではないかと思ったが、「お仕着せはいやだ。この方が気楽でよい」という返事だった。
後から考えると、背後には隠れた理由があったかもしれないが、その時は言葉通りに受け止めていた。

 そういう人たちの姿を見ていて、私は一種のショックを受けた。
その人たちの中に、「支援なんかいらない。支援して欲しくない。あなた方に私たちの支援はできない」といメッセージを感じたからだ。
私の中には単純な図式が存在していたことに気付いた。
それは被災地には困った人たちがいて、支援を待っているという図式である。
被災地に行けば、何か役に立つ援助ができるのではないかという思いこみである。
人間が生きている具体的な姿をそんな単純な図式でとらえきれるわけがない。



4月X日

阪神大震災のこと2

 今回も、阪神大震災での避難所のことを書いてみたい。
震災が起こってすぐの段階では、被災者は指定された最寄りの避難所で生活していた。
避難所のほとんどは、小中学校であった。
そうした避難所では、講堂や教室などに布団が敷かれて、そこで全ての生活が行われていた。
仕切もなく、カーテンもなく、全てがお互いに見えてしまう生活だった。
それでも、割り当てられた場所によって、その待遇は変わってくる。
前回書いたように、外気と直接接するような機会があるような体育館に場所を指定された人もある。
三階の教室に指定された人もある。
中には、柔道場に場所を指定された人たちもあった。
柔道場だから、畳が敷いてある。体育館の床に寝るのとは大違いだ。どういうことで、場所が指定されたのかわからない。
早い者勝ちだったのか、順次場所が指定されたのか。
いずれにしても、その場所によって、ある人は安全に過ごせただろうし、ある人は肺炎になってしまうこともあっただろう。
そういうことは運のしか言えないのではないか。

 避難所にいる人と話しているときに、こんな話を聞いた。

「毛布二枚では寒くてしょうがない。何かないかと探していたら、体育館の横に犬小屋があったのです。
犬小屋と言っても、段ボールのですけどね。
そこを見たら、毛布にくるまれて犬がいたんですよ。
私はね、寒くて死にそうだったから、その犬に頼んで、毛布を譲ってもらったんですよ。
あんたは生まれつきの毛皮があるのだから、こっちに譲ってくれと言ってね」

 その女性は、犬からもらった毛布をかぶって、今も寝ているそうだ。
見に行くと、段ボール箱の中の犬は、寒さを気にする様子もなく、丸くなって寝ていた。
 私は、犬からもらった毛布の話が印象に残った。

 避難所の人たちと話をしていて、それから神戸の町を回ってみようと思った。
避難所を出て、5分ぐらい歩くと、倒壊を免れたビルが見えた。
一階はテナントになっていて、そこには喫茶店が開店していた。
急にコーヒーが飲みたくなって、ドアを開けた。
そこは避難所とは別世界だった。
暖かい暖房が効いていて、ゆったりした椅子に座ると、一流ホテルのロビーのような感じだった。
やわらかな音楽が流れていて、コーヒーの香ばしい香りもする。
さっき、犬から毛布をもらったという場所から、歩いて5分ぐらいの場所だ。
木造建築の家に住んでいた人が、家を失って雑魚寝のようにして暮らしている人たちのすぐ横で、鉄骨のビルの中には震災前と何一つ変わりのない日常がある。
その落差にめまいがするように感じた。
その断絶を埋め合わせるような想像力を私は持ち合わせていなかった。
不条理という言葉を思い浮かべた。
しかし、それから先が出てこない。

 この問題に答えを出すのには何年もの時間が必要だった。
そして、私の得た答えは単純なものだった。
人生は本来不条理なものであるというのが、私の答えだ。
平穏な日々を日常と思うから、突然の災害に驚いてしまう。
時には呆然自失して、思考が停止してしまう。
あってはならないことだと、つぶやくしかない。
しかし、そのことで現実は少しも変わらない。
本来、不条理なものであるのに、その本質を見ていなかったと考える方が、つじつまがあう。
これまでその不条理に直面する機会はあったのに、見ていて見えていなかったのだろう。

 不条理を隠すもの。それは豊かさだと思う。
豊かさがあれば、不条理をなくせなくとも、少なくとも緩和することができる。
その豊かさは、物質的なものであっても、精神的なものであっても構わない。
豊かさがあれば、不条理さを耐えられる。
逆に、不条理さを耐えることに役立つものを、豊かさと呼んでも良いのかもしれない。



4月X日


医院の入り口に置いてある、自動販売機のお茶が売り切れになった。
補充は行われない。
地震のために、入荷できなくなったらしい。
どこのレベルの問題なのか、ペットボトルのキャップを製造している工場が被災したという話もあった。
これから、どういうものが不足していくのか。
医療品では、漢方薬の一部が入荷しなくなっている。
私は漢方薬をあまり使わないので支障はないが、今後が心配である。


宮城県の支援に行った団体から会計報告があった。

@義援金(3月19日から4月6日までの分)
計912.724円(22名+2団体)
ありがとうございます。 

A3月17日の宮城県立精神保健センターへの支援費の確認が出来ました。
計768.060円
内訳(食品226.263円・毛布28.180円・雑貨29.160円・
紙おむつ等137.761円・薬165.734円・軽油50.912円・高速料30.050円
2tトラック100.000円)


堀田善衛の『海鳴りの底から』という小説を読んでみた。
江戸幕府の体制も整いつつあった時期に起こった「想定外」の大規模な一揆に、諸藩も幕府も、当初は統制の取れない動きをするばかりだった。
最初、島原地方で鉄砲や大砲の音がすることで異変を知った熊本藩は、島原藩の異変を知って、救援の部隊を出そうとしたが、当時の公儀の法度では、他藩に兵力を動かすことを禁じていた。
熊本藩は、九州にいた幕府の目付に、急を知らせたが、「様子を見るように」という返事をもらっただけだったらしい。
それは、中央の指示をもらわないと回答できない種類の問題であったこともあるが、幕府目付が異動の時期で余計な決断をしたくなかったためだという。
また、熊本藩は、島原藩に救援物資を輸送したが、藩主不在の状態では受け取れないと、受け取りを拒否され、一旦陸揚げされた食料を、船に積み込んだという。
島原藩の家老は藩主が戻ってから、「ちゃんと備蓄していなかったのか」と叱責されることを恐れたのである。
10日後、島原藩は熊本藩に救援物資を依頼した。
そんなことで、諸藩の協力を図れるわけがない。
幕府の討伐軍は、板倉重昌、石谷貞清という幕府の官僚で、九州の諸藩を束ねる力量のない統率者であった。
そのため、最初の段階では、無秩序な攻撃でいたずらに死傷者を増やしただけだった。
全体として、戦力の逐次投入が行われるという軍事行動としては、稚拙なものとなった。
幕府側が勝利したのは、圧倒的な物量の差であって、志気や指導力の差ではない。

これらの出来事を眺めてみると、政治行動にしろ、緊急行動にしろ、事態が収まった後にそれらがどのように評価されるかを最初に意識して、そこから逆算して現在の行動を決めていることがわかる。
すべてが官僚組織の行動規範に則っている。
現在の原発事故の問題への対処は、どうみても緊急行動というより、官僚組織の動きを基準にしていることがわかる。
管総理が悪いとか、民主党が悪いとか言うより、官僚組織が危機に対応できないということなのだろう。
民主党ではなく自民党であれば、東京電力を別の動きに出来たかというとそんなことはないだろう。
水漏れを止めるために、新聞紙やおがくずを使ってみたり、水の流れを見るためにバスクリンを使ったりすることは変わらなかっただろう。
官僚組織化することによって、何はともあれ、安定した動きを維持する役所、企業を良しとする社会を作ってきたのだから。




阪神大震災のこと1

 震災が起こってから、3週間目ぐらいだっただろうか、神戸のある避難所を訪れた。
小学校の体育館に多数の被災者が生活していた。
避難所には一切の暖房がなかったか、真冬だから、その寒さは本当に答えた。
暖房がないのは、余震があった場合、火事の原因になるからというのが理由のようだった。
体育館には、外につながる大きな扉があって、それを動かして人が出入りしていた。
扉を開ける度に外気が入り込む。すさまじい寒さだ。入り口のすぐ近くに、布団を敷いて被災者が横になっている。
体育館の床の上に段ボールを敷いて、布団が上下一枚ずつ、毛布二枚である。
そこに断続的に外気が吹き込む。
聞いてみると、昨日も被災者の老人が一人、肺炎になって救急車で搬送されたという。
しかし、退院するとまたこの体育館に戻ってくるらしい。
 これはひどいなあと私は思った。
思わず知らず、「ここにビニールのカーテンを二重にして下げて、直接外気が入らないようにすれば良いのになあ」とつぶやいた。
すると、そばにいた女性が、目を三角にしたような表情で、「そういうことは役員の人に言って下さい。役員の人に!」と叫んだ。
それを聞いて私はびっくりした。
通りすがりの人間がつぶやいただけなのに、すごい反応だと思った。
そして、その女性が何故そこまでの憤りを感ずるかを想像してみた。
たぶん、彼女もそういう思いを持っているのだろう。
しかし、いくら避難所の責任者に訴えても、事態は変わらなかったのだろう。
出入りが不便になるとか、ビニールを調達できないとか、色々な理由が告げられて、結局断念したのではないか。
他にも、不都合なことが色々あるだろう。しかし、それらを解決する道筋が見えない。
そういう憤りがたまりにたまっているのではないだろうか。

 各避難所には市役所から連絡係の市職員が派遣されているが、連絡係であって、決定権はない。
避難所の中には自治組織が作られて、そこで色々な問題が処理されるが、権限は制限されている。
不満が爆発しないように調整するのが役割のようなものだろう。
被災者は黙って、事態が改善するのを待つしかないと考えているようだ。
関係者の誰を見ても、それぞれに持てる力を出し切って仕事していることは明らかだ。
だから、これ以上言ってもしかたがないということだろう。

 そこでは、こういうことも聞いた。
避難所におむすびが100個届いたとする、その時の避難者が110人だったとすると、そのおむすびは捨ててしまうのだそうだ。
10個足りないので、不公平になると言うことらしい。
何と杓子定規かと思ったが、そうしないと運営できない現実もあるのだろう。
大変な作業である。

 何とも言えない気がした。
そして、その何も言えないというのが、被災者の置かれた現実だと思った。
それを一言で言えば、自己決定権をすべて奪われた状態と言うことになる。
住むところがない、食べ物もない、お金もない。
ただ待っているしかない。
不満を言っても、何の解決にもならない。
 だから、被災者の支援は自己決定権を取り戻すことに尽きるのではないか。
そのための物質的基盤、精神的基盤、組織的基盤を取り戻すことではないか。
いくら救援物資が届けられ、義捐金が届けられようと、自己決定権を取り戻すことに役立たなければ、それは支援にはならないだろう。



4月X日

阪神大震災を神戸で体験した方から、メールをいただきました。
その一部です。

ーーーーーーーーーーーーメールその1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あんまり大変なときって先といっても、せいぜい明日かあさってくらいのことしか考えられない。
 
今の東北の現実と試練に立ち向かっている人達をみると、その言葉しか出て来ないのです。
 
 
東電やこういったエネルギー政策を主導してきた政府にはもちろん腹がたちますが、
欲望規範の生き方ではない方向性を真剣に国民が考えざるをえないギリギリの今だと思います。
 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

同じく、神戸で震災を経験した方から、次のようなメールを頂きました。

ーーーーーーーーーーーーーメールその2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

つかさき先生

ご無沙汰してます。

地震・津波のこと、原発のこと、本当に目が離せないですね。
日本中が弱っている感じがします。

ところで、ネットで話題になっている、平井憲夫さんの文章は
もう読まれましたか?もしこれが本当なら、この人は1997年に
亡くなっていて、まるで今のこの原発事故を予言しているような
文章を遺しています。

http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html

今度、祝島(山口の上関原発に島をあげて反対している)を
描いた映画、「みつばちの羽音と地球の回転」を観てきます。
なんとか原発に頼らない国を作れないのでしょうか。
フランスやアメリカなども絡んでいて、難しいのでしょうが...

では、用件のみにて失礼します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

原発事故は大変な事態ですが、これからどうしていったらよいのか、
とても考えがまとまらないという状態です。
特に、一庶民の立場では、一体何ができるのでしょう。

計画停電など、本当は必要ではなかったのではないかということが
事実をもって証明されつつあります。
ひどい情報操作と権力行使が行われていたのだと思います。


1995年の阪神大震災の時には、
わたしも随分ボランティアに参加しましたが、
そこで何を経験したのか、その要点を言ってみて下さいと言われても、
にわかには言葉に出てきません。
今度の東北大震災に出会って、結局、私にとっての阪神大震災というのは、
「ああ言うこともあった」「こう言うこともあった」
という体験談に止まっていたのだなあと思います。
体験の中身を吟味することがあまりにも少なかった。
だから、要点が言葉にならないのでしょう。
これは間違いだったと思います。

もう十分すぎるほど遅いのですが、
少しずつ言葉にしていきたいと思います。

医療関係の組織などに僅かですが、カンパしました。
赤十字の義援金などは、まだ現地に渡っていないそうです。
私のカンパはなるべく現地で現在活動している医療グループに直接渡るように考えています。

医院の受付の義援金カンパは、3月末で一旦締め切り、
37000円ほどを、現地へ医療品をトラックで運んだグループにお送りしました。
ご協力いただいた皆さんに御礼を申し上げます。



4月X日

東北地方太平洋沖地震であった心温まる感動エピソードを紹介。

http://matome.naver.jp/odai/2130008285448154801

「全てが事実じゃないかもだけど、日本人っていいね〜」とあります。

エピソードの一つはこれですね。


20年連れ添った最愛の妻を救うため、スキューバ装備で津波の濁流に飛び込んだ
43歳の男性 の話も話題になっているようです。


福島原発事故に対する海外メディアを翻訳しているブログがあります。
かなり読み応え有りです。




4月X日


外来で色々な方のお話しを聞いていると、東日本大震災の影響が色々な所に現れてきています。

建築資材が足りなく待って、住宅建築の見通しが立たなくなっている。
一部の資材で、特に材質の良いものを作っていた工場が、
今回の地震で被災し在庫が無くなったそうです。
次善の質のものは、ほとんどが被災地の仮設住宅にまわされて、供給がストップしているとか。
学校で修学旅行の目的地が関東地方で、旅行をキャンセルしようとしたら、新幹線のキャンセルはできますが、一度キャンセルすると、今後4〜5年は修学旅行割引が使えなくなると言われて、困惑しているとか。
色々な影響があるものだなあと思います。
今後、思わぬ所で影響が出てくるのだろうと思います。
 
医薬品の不足も噂されていて、何時、どの薬が入荷しなくなるかわからない様子です。
とりあえず、新規薬を取り寄せようとしても、困難な状態になりつつあるようです。
お得意さん優先なので、しょうがないでしょうけれど。
一部の薬は、すでに在庫切れになっているようです。
代替え品のないものは大変です。
パニックになるほどの問題ではありませんが、じわりと不自由さが出てきています。
 
臨機応変で対応していくしかありませんね。
 

親戚が東京にある方から、東京ではお米が買えないので、だれかお米を送って下さいと、
親戚の皆さんに連絡したそうです。
東京では、お米を入手するのが本当に困難な様子です。
その依頼にお米を送ってきたのが、
岩手県の親戚だったそうです。
岩手県は被災地で、東京はそうではないと考えていると、それはどうも間違いのようです。
少なくとも主食の確保という点ではそうではない。
もちろん、岩手県のすべてが被災地ではないというつもりはありません。
しかし、条件の如何によれば、東京は明らかに被災地です。

高度に組織された社会では、一地方の災害でも、別の土地に被害をもたらしてしまう。
それも明らかな被災です。


外来を受診している患者さんで地震をきっかけとして、症状が悪化したと話をしていて、
一番手応えがあるのは、私が阪神大震災の時に被災地で体験したできごとを話している時です。
どんな大変な災害でも、人間はたくましくそれを乗り越えていくものだという実感です。
その経験を話すと、皆さん納得されます。
それが本当のことだと知っているからでしょう。


被災地に応援メッセージをというブログを見つけました。

http://blog.goo.ne.jp/omoiyari0311/?fm=modadv

被災地へ医療スタッフとして行ってきました。 というブログもありました。

http://blog.goo.ne.jp/flower-wing




3月X日

100円ショップで買い物をしていると、急いだ様子の男女がやってきて、
2L入りのミネラルウォーターを何本か買おうとして、「一人さま、2本までです」と注意された。
「千葉県から来たのです」との事だったが、どうも、コンビニなどを回って、ミネラルウォーターを
買い求めているらしい。
わざわざ、千葉県から京都までやってきたとも思えないが、急いだ様子だった。
京都のコンビニでは、ミネラルウォーターもいつも通り並んでいるし、買いだめしている人もいないようだ。
乾電池はなくなっていて、単4しか売っていない。

夜間、町を歩いていると、ところどころ看板に電気がついていない。
休みかなと思うぐらいのお店もある。
色々な行事が、自粛されていて、
医療関係の勉強会なども中止や延期が出ている。



先日受診された方は、うつ状態が続いていたのですが、ようやく改善してきたところに、
今回の地震で、完全に症状が元に戻ってしまったとのことでした。
毎日、布団の中で泣いていて、動くことができないというのです。
そのお話を聞いていて、京都もやはり被災地なのだなと思いました。
地震は東北で起こって、その影響が間接的に出ているという認識でしたが、
そうではなく、ここもやはり被災地なのだと感じました。
京都に居る限りは、ここで起こっている被災にちゃんと向き合うことが大事だと思いました。

京都の診療所に受診している方も、2〜3割の方は、
大きな影響を受けています。
その姿がどういうものであったか、これから少しずつ表面に現れてくるように感じます。


原子力発電所建設に反対してきた方のお話をお聞きしました。
電力会社を相手取って、裁判も起こしたことがあるそうです。
今回の福島原発の話題も出ました。
反対運動をしていた人たちが、今度の事故で絶句しているそうです。
危険性があると指摘してきましたが、実際の事故が起こってしまうと、
どうして良いかわからないのでそうです。
反対派にとっても「今回の事態は想定外だった」らしいです。

その話を聞いて、色々なことを考えました。
一番大きなことは、人間はある種の想定した枠からなかなか出られないと言うことです。
今回の事故が、脱原発の文化へ向けて大きなきっかけになるのか、
それともこうすればまだまだ原発は使えるという方向に行くのか、
まだまだ、わかりません。
反対運動の方は、日本はどんどん悪くなると予想していました。
しかし、「事件は会議室で起こっているんじゃない。事件は現場で起こっているんだ」ということにからめて言えば、
「日本の変革は国会や首相官邸から起こるんじゃない。それは被災地から起こっていくんだ」
というのが真実だと思います。


次のようなプロジェクトがあるようです。
復興支援「牡蠣オーナー」制度
復興資金に1万円を投資すると、養殖再開後牡蠣が送られてくるようです。
ただ、5年以上かかる可能性もあるそうです。
昔から、「桃栗三年柿八年」と言いますから、
8年ぐらいはかかるのではないでしょうか。???



3月X日

読者からのお便りです。


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きょう、診療日記に紹介された、H生さんのお手紙を、
なんとも、苦しいきもちで、読みました。
東京在住ですが、
原発の、ニュースを、きくたびに、
胸が苦しくなり、
放射性物質が降り注いでいる、と、きくたびに、
なんともいえず、かなしく、くやしく、不安なきもち、
また、しばしば、絶望的なきもちに、なります。
とくに、地震から、一週間ぐらいのあいだは、
テレビの画面で、
原発が爆発するシーンを、目の当たりにしては、
恐怖で、震えが、とまらず、
被災地の惨状に、胸を引き裂かれる思いを、味わいながら、
同時に、自分自身も、子どもたちと共に、余震に、おびえ、
くわえて、原発の、不安。
停電の、寒さと、暗闇。
どこまでも、どこまでも、
落ちていく飛行機に、乗っているような、
いつか、落ちるところまで落ちたら、
粉々に砕け散ってしまうと知りながら、
それでも、脱出することも、できない飛行機に、
乗っているような、
どうしようもない、無力感と、恐怖感に、
毎日、毎日、
さらされてすごしてきました。
地震からちょうど、一週間経った日に、
娘が体調をくずし、小児科に、かかりました。
そのとき、小児科の先生は、
「たぶん、アレルギー性の症状だから、気長に、なおしましょうよ」と、
薬を処方してくださり、
「きっと、二週間ぐらいで、効果が出てくるかな?」と、おっしゃいました。
そのとき、わたしは、「は?」と、
一瞬、何を言われているのか、よく、わからなかったです。
地震以来、「二週間後」などという未来の時間が、あるなどということは、
考えられなくなっていました。
とりあえずの「今」しか、考えられない。
「今」からつづく、「二週間後」などという、「未来の時間」が、あるなんて、
そんなこと、とても信じられなかった、そんなこころの状態になっていたのだと、
そのとき、はじめて、気づきました。
そんな具合でしたので、
その日からは、すこし、先の未来が、あるのかもしれない、と、
思いなおすようになり、
だんだんと、
余震にも、停電にも、
街の中でおこる、さまざまの不便にも、すこしずつ、慣れ。。。
けれど、こんどは、水道水が放射能汚染されたと、きき、また、恐怖し、
農作物も、あれも、これも、ダメだと。
雨にあたっても、いけない。
北風が吹くたびに、不安で。
「はやく関東を脱出した方がよい」とか、
「関東方面はキケンだから、近寄らないほうが、いい」とか、
いろいろな科学的なデータも、あちこちで、聞かされて。
外国からこちらへ来ていた人で、もう、何人も、ご自分の国へと、帰られた方も、ありました。
日本人も、関西方面へ、脱出して行かれた方、何人も、あります。
けれど、わたしたち、
そして、きっと、多くの、関東以北に在住の人たちは、
いま、住んでいる土地から、脱出することなど、できないのでしょう。
放射性物質が降り注いでいる、と、聞き、知りながら、
その空の下で、ほぼ、いつも通りの、生活を、
つづけていかざるを得ません。
その場所で、子どもたちを、育て、
その空の下で、その水を、のみながら、今まで通り、がんばって、働いています。
この二、三日は、
原発関連のニュースも、放射能関連のニュースも、
もう、つらくて、
聞き続けることが、できなくなってきました。
子どもたちの安全を、完全には、もう、守ってやれないにしても、
それでも、すこしでも、守れるものなら、守りたいと、願うので、
最低限の情報には、アンテナを、張ってはいますし、
がんばってはいるのですが、
なんとも、、、つらいです。
わたしの実家は、神奈川の海沿いにあり、
相模灘で今回のような津波が起これば、すぐに、海にのまれてしまう場所に、あるのですが、
その実家の、母と、きょうは、夕方、電話で、はなしをしました。
自分では動けない病身の妹と、母、二人でくらしているので、
あれ以来、津波のことが、あたまをはなれず、不安だと、
電話のたびに、母は、はなしていました。警報がでても、逃げられないよ、と。
その母の声が、今日は、すこしだけ、ちがいました。すこし、声に、力が、もどってきていた。
きょうは、昼間に、妹の主治医の先生が往診に来てくださったのだそうです。
診察が終わったあと、母が、先生に、
「先生、津波が来たら、ここも、先生の病院も、だめですよね」って、言ったのだそうです。
そうしたら、その先生は、
「そうだよ、津波が、来たらね。みーんな、もう、だめだ。みーんな、いっしょに。
でも、『みーんな、いっしょに』、だからね。」って、
両腕を大きく広げて、にっこり笑いながら、母と、妹のこと、包んでくれたのだそうです。
それで、母、「なんかもう、心配しなくてもいいようなきもちになっちゃった」と。
原発事故にも、よくなる兆しは、いっこうに、みえてきません。
放射能汚染は、ますます、深刻さの度合いを、増していくのかも、しれません。
けれど、それでも、
わたしたちは、
ここから、逃げることは、できません。
どんなに、ひどいことになると、知らされても、です。
かなしいけれど、
みーんな、いっしょに、
涙を、のんで、
この空の下で、
できるだけふつうに、くらしていくよりほか、ないのです。
だから、
H生さんのお手紙、読むのは、すこし、つらかった。。。
ながく、ながく、なってしまい、
自分でも、なにを、伝えたかったのか、
わからなくなってしまいました。
失礼いたしました。
それでは。。。


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原発事故。
もう、私たちには解決能力もないし、政府発表のごまかしやウソを暴く力もありません。
ただ、報道されている事態を眺めるしかありません。
じゃあ無力なのか。
そうではないと思います。

かって、広島の平和記念資料館で、
一人の少女の履いていた下駄を見ました。
原爆が投下され、廃墟となった町を
少女の母親が娘の消息を求めて、
歩き回ったのです。
そして、三ヶ月後、母親は瓦礫の中から、娘の履いていた下駄を見つけました。

原爆は少女の命を奪ったけれど、廃墟となった広島の町をさまよって、
娘の痕跡を求めようとした母親の執念を奪うことはできなかったのです。
母親が求めたものは、破壊された町の秩序を、取り戻すことだったのです。
瓦礫の中に、意味をさぐったのです。
それは破壊する力を押し戻す力です。
その力がなかったら、広島は今も廃墟のままでしょう。


現在の日本が置かれている破局的な事態を乗り越える力は、
透徹して物事を見抜く力であると思います。
それは、詩であり、歌であり、祈りであり、思想の力であると思います。






3月X日

読者から次のお便りがありました。

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つかさき先生

先生は、阪神大震災に医師として行かれたそうですが、 私のもとにも、一昨日、災害外国人通訳・翻訳ボランティア現地派遣要請が来ました。
これは、大津市の「全国市町村国際文化研修所」に設置された 「東北地方太平洋沖地震多言語支援センター」を中心として、 被災外国人の情報収集をはじめ、支援活動を行っており、 我が財団法人京都市国際交流会館へも派遣依頼が来たものによります。

主旨に賛同し、活動に参加したいところですが、医学・薬学・遺伝学等を学び、 放射性同位元素を10年以上取り扱った経験のある自然科学者の端くれとして、 よく検討した結果、派遣要請を辞退しました。

現状関東以北に乗り込むのは、
私信ですが、原発問題が解決しない限り、非常に危険だと思います。。

米国は随分以前より、原発80キロ以内を退避勧告しております。
理由として、以下の著名科学雑誌Nature今週号にオーストリア気象地質力学中央研究所のデータとコメントが公開されています。
http://blogs.nature.com/news/thegreatbeyond/2011/03/first_estimates_of_radioactive.html

時間帯によって、神奈川や群馬周辺にも放射線が降り注いでいます。
日本で報道されている値は、ある時間における点でのデータですので、24時間積算値ではないことに非常に疑問に思います。

上記データはヨウ素だけですが、さらに危険なセシウムについては漏出量が既にチェルノブイリの50%に達する報告が海外からあります。
図や、英文を読めば納得頂けるものと思いますが、この雑誌では先週から地震・原発問題について特集が組まれています。
ほとんどの記事にざっと目を通しましたが、 もはや現状では、市民レベルで解決できるものではなく、 自衛隊、米軍等の特殊訓練を受けた方に委ねる問題であると思います。
これは、欧米の科学者が、原発問題に楽観的見解を取っていないことにも起因します。 原発付近の風向きが、たまたま良かっただけなのです。

雑誌でも、out of controlと大きく記述があります。
尚、この雑誌は世界の科学者から認められた雑誌ですので、客観的データに基づいた学術論文、記事しか掲載されません。
ですので、やたらに危機感を煽るものではなく、軍事衛星など、各種測定結果に基づくものであります。

日本国内では、情報が政府や東京電力から統制若しくは過少報道されておりますので、真実がどうであるのか客観的判断ができません。
もし、京都市の財団から派遣される場合も、ボランティアの放射線被害や現地衛生状況が悪いことや医薬品不足に起因する 健康問題には、十分配慮してほしいものです。

(H生)


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みなさん、それぞれに震災に対して支援を考えておられるようですが、形に現すことはなかなかに大変です。


今日受診された方に、震災当日東京ディズニーランドにおられた方がありました。
地震で地面は液状化して、道はまくれ上がるし、バス停や電柱なども傾いて、大変な状態だったそうです。
ちょうどモノレールの軌道の下にいて、上を見上げるとレールの上で、モノレールの車体が揺れている。もう少しで、落下するところで、恐らくここで死ぬのだろうと思ったそうです。
ディズニーランドから外へ出られず、近くのホテルの宴会場に避難したそうですが、雑魚寝状態で、余震が続いたため、一晩中、船に乗っているような気分だったそうです。
石油精製所の爆発も目撃して、すべてがおしまいになるような感じだったと言います。
京都に帰ってからも、周囲の人にしゃべろうにも、素直に聞いてもらえるかどうかわからないため、黙ってきたそうですが、それがまたストレスになっているらしいです。


他にも、外来に通院している方で、地震の映像を見るだけで不安になる方も多いです。過去の衝撃が再現されて、苦しくなる場合もあります。待合室で、他の患者さんが地震の話をしているのを聞くだけで耐えられなくなる人もあります。


そういう人たちに、阪神大震災の時の経験をお話ししています。
被災地の人々は意外と明るいとか、復興している姿を見ると、自然に心が癒されるものであるとか、そういう過去の体験をお話しすると、力づけられる方が多いです。




3月X日
とうとう、医薬品に不足が出てきました。
福島県に工場のある製品が、在庫かぎりで今後入荷の見込みなしという連絡がありました。
今のところ、経口栄養剤であるとか、湿布の類なので、代替え品もあるので、
現実の不自由はありませんが、今後どうなるか、予断を許しません。


本日、受診した患者さんは、
地震以後、心身の不調が続いているそうです。
仕事の休みの土日は、ほとんど寝ているそうです。
地震によって、生じた微妙な変化が負担になって、
とても落ち着かないそうです。
関西が離れた土地だと言っても、精神的な問題は、
物理的距離とは別です。
なるべく、身近な人と地震の話題を話すように、
日常的な息抜きを忘れないようにとお話ししました。


本日、読者から次のようなメールがありました。
関東地方の様子がわかって、大変な状況であることが想像できます。

つかさき先生、こんにちは。
立教新座のメッセージ、ありがとうございます。
うちのほうも、11日は、ものすごく揺れて、とても、こわい思いをしました。
今も、余震は、頻繁につづき、計画停電も重なって、とても、こわい思いを、しています。
わが家は足立区にあって、23区内に属しているのですが、いろいろ、これまでも、社会的に、弱い立場にある地域ですので、今回の計画停電でも、やっぱりな。。。という状況。
23区は計画停電からはずすとか、いうはなしもありましたが、ここは、日によっては、一日6時間の停電を強いられ、工場とか、お店とかも、いろいろ、たいへんだって。
このままだと、この町は、もっともっと、貧しくなってしまうだろうな、と。
23区でも豊かな地域のほうは、あんなに明かりをつけて、あんなに暖房をして、そちら側の人たちと、はなしをしても、今回の震災での、危機感とか、ぜんぜんちがってきている。
こちら側にいると、同じ東京でありながら、セ・リーグのはなしとか、電気が煌々とともり、あたたかそうな、テレビのスタジオの様子とか、腹が立って、しかたがない。
いや、計画停電からここをはずせとか、それをやること自体・u桙ノ不満があるとか、言ってるのではなく、地域の選び方や、やり方の裏に、いろいろな、社会の歪みを、感じずにはいられず、なんだか、くやしくて。足立区長と荒川区長が、昨夜、東電に、乗り込んでいきました。http://www.city.adachi.tokyo.jp/010/d00400042.html
さて、立教新座ですが、わが家では、立教新座中学のメッセージhttp://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8589/のほうを、先日、むすこと一緒に、声を出して、読みました。
今夜も、6時20分から10時まで、計画停電の予定。(でも、昼間の停電がないから、お店とか工場は、まだ、よかったのかな。)
今朝も、もう、なんども、揺れていて、もう、なんども、テーブルの下に、もぐった。
原発も、心配だし。
いろいろ、いろいろ。。。
ほんとうに、あの日を境に、あらゆることが、かわったのだなと、思います。
いろいろ、心配なことばかりです。
でも、しかたがない。東北の方達ががんばっておられるのに、ぐちぐち、文句言っている場合では、ないですよね。
反省しています。
先生のところの日記が、日々、更新されていくことに、感謝しています。
関西からも、そういうまなざしで、応援してくれ・u桙トいる人たちがあることが、ありがたいです。
自分たちは安全な場所にいて、w)「はやくあぶない東日本から脱出しろ」とか、そんなことばっかり、言う人たちも、いますから。。。
すみません。
愚痴でした。
ほんとうに、失礼しました。
ごめんなさい。





3月X日

今日も、受診した患者さんからテレビの震災報道を見るのがつらいという話をうかがいました。
阪神大震災の時に、友人を亡くされて、そのことを思い出すそうです。
被災地へ食糧を運んで、見知らぬ人に配ったそうです。
また、別の患者さんは、三陸地方の住んでいる友人との連絡が取れないと、
心配しておられました。

本当に、今回の地震が、関西に住んでいる人間にも直接影響を与えていることを感じます。


先日は、知人の結婚式に参加しました。
披露宴をデジカメで撮っていて、電池がなくなりました。
単三の電池なので、どこにでも売っていると思って、
気楽にホテル近くのコンビニに入りました。
探してみると、電池の棚には単四の電池しかありません。
単二も単三もすべて売り切れです。
よく見ると、東日本大震災のため、一部商品は在庫切れですと書いてありました。



ネットで話題になっている、

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

ご紹介しておきます。


3月X日

震災の影響で、外注している臨床検査の会社から、引き受けられない検査項目が発生したという連絡がありました。
特殊な検査である上、私の医院では依頼したこともないため、直接の影響はありませんが、
専門医療機関には微妙な影響があるでしょう。
ほとんどの検査には、代わりになる検査項目があるので、なんとかなるでしょうが、
地震の影響が多方面に現れてくるという一つの結果でしょう。


町を歩くと、義援金募集の人たちが沢山立っています。
何かをしたいと思っても、何をしたら良いかわからない。
とりあえず、義援金を出そう、呼びかけようということになっているのでしょう。


今日、メルマガで届いた情報の内に、
次のような記事がありましたので、ご紹介します。



 ■ 真壁昭夫  :信州大学経済学部教授

 今回の大災害から復興を考える時に最も重要なポイントは、今までとは違った人材
を見つけることだと思います。具体的には、過去の成功体験などに固執する人たちで
はなく、従来の事にとらわれずに、新しい発想で、色々なことを考えられる人材です。
「そうした人が、わが国にいるのか」と問われると、やや不安になりますが、とにか
く、本当の意味での復興には、新しい人が必要です。

 今回の災害の規模は、今まで我々が経験したことのないようなマグニチュードでし
た。ということは、そもそも、「あの時はこうだった」という経験が該当しないケー
スが沢山あるように思います。それは、今まで経験したことがないような惨事に遭遇
しているわけですから、当然のことかもしれません。

 また、過去の経験を引きずっていると、どうしても、色々なことを考慮する可能性
が高まります。中でも、既得権を持っている人たちからの影響を、完全に排除するこ
とは難しいと思います。若い、新しい人であれば、そうした"しがらみ"を持っていな
い可能性は高いはずです。旧態依然とした"しがらみ"を持たないことは、かなり重要
なファクターになると思います。それは、プロ野球の開幕時期について、選手会や世
論の強烈な反対にも拘わらず、当初の予定日に、ドーム球場で開幕戦を強行しようと
する姿勢を見せている一部の人たちのスタンスからもよく分ります。

 そうした人たちは、自分たちが持っている発言力という過去の"しがらみ"を使って、
自分たちの考えを押し通そうとしています。そうした姿勢は、これからも出てくるこ
とが考えられます。それに対して、政府は、予定を若干遅くするという妥協案に、押
し切られようとしているように見えます。多くの人や企業が節電しているときに、消
費電力を減らすとはいうものの、多くの電力を使うドームでの試合を想定しているよ
うです。

 多くの被災者の方の状況は、徐々に改善しているとはいうものの、依然、かなり厳
しい状況にいることは間違いありません。寒い中、十分な食料や暖房用の燃料にも事
欠いているといわれています。また、水や薬品も不足していると報道されています。
実際、避難所にいても、命を落としている人が何人も出ています。そういう状況下、
何故、野球の開幕を予定通りに行う必要があるのか、おそらく、多くの人が理解に苦
しんでいることでしょう。

 一部の人たちは、おそらく、適切な判断ができなくなっているのだと思います。ま
た、社会全体の事を考えなければならない政府も、有効な手立てが打てない様子です。
それでは、日本という国が本当に良くならないと思います。そうした人たちは、今回
の大惨事をきっかけに、実際の意思決定を行うポジションから降り、若くて、新しい
人たちにポジションを譲るべきだと思います。

 復興の様々な段階で、過去の成功体験が必要になった時だけ、そうした人々に意見
や見解を求めればよいでしょう。その時には、旧人は忌憚なく、意見を参考として述
べればよいのです。わが国は、1960年代から1990年代初頭に至るまで、20
世紀の奇跡といわれるほどの高成長を達成しました。それ自体は、とても素晴らしい
ことで、大いに誇るべきです。しかし、高度成長から安定成長期に入り、しかも少子
高齢化や人口減少という局面を迎えた今、われわれも、そうした条件に適合した社会
をつくるべきポイントが来たと思います。

 ある意味、われわれは、それを怠ってきたのです。高成長に呼応して拡大する電力
需要に合わせて、国内に原子力発電所を54か所作りました。世界第3位の水準です。
そして、原子力発電所を作るときには、充分に安全対策をしていたはずです。しかし
ながら、その前提条件を超える今回の災害に遭遇して、とても大きな犠牲を払うこと
になりました。

「だから、すべてやめるべき」という議論をするつもりはありません。しかし、今回、
多くのコストを払って、われわれが目指していたものと反対の事が起きることを学び
ました。そのコストを無為にすることは適切ではありません。問題は、今、意思決定
を行っている人たちが言うような、「想定外の自然災害に遭遇した」という逃げ口上
を正当化すべきではないことです。今日、地方の駅前で、若い人たちが一生懸命に募
金活動をしているのを見てきました。わが国も、まだ捨てたものではないことを実感
しました。そうした人たちのエネルギーを、生かすことを考えるべきだと思うのです。

                       信州大学経済学部教授:真壁昭夫




3月X日

先日ご報告しましたが、京都にある精神医療関係の組織が、宮城県立精神医療センターに支援を行いました。

その詳細ですが、

====================
経過
16日22時、  病地継続会に要請入る。
17日0時半   全国のネットで宮城のセンターの危機と緊急に支援要請がつたえら 
         れる。京都も支援と返信しておく。
17日7時半   「2トントラック借りられた・・」との情報あり。しかし薬品は調達出来て
         も、必要物資を集める場所・人・お金・物品が確保できず
   12時   岡山県立精神科医療センターより、「薬品物資は集めたが輸送する車           
         がないので京都まで持って行かせてほしい」との連絡あり
   13時半  物資調達担当になってくれる人がやっと確保出来る!!
   16時〜  物資の調達始まる。
   19時   トラックに物資あつめる。
   20時   岡山と合流
   23時   京都から宮城に出発
18日15時?  宮城のセンターに到着
★運転された方々はすでに無事に帰ってこられました。
宮城のセンターへの物資支援は初めて!だったそうです。
薬・食糧・おむつ切れていたそうです。
今回窓口の方のところには次々と感謝の電話、民間では初めての行動へのエールが来たそうです。

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この活動には80万円がかかったそうです。
医院では募金を開始していますが、まだ振り込み先が決まっていないので、送金できていません。

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宮城県からの返事は、次の様だったそうです。


宮城県立精神医療センターのKAです.

この度は,日本全国の皆様から多くの応援をいただきまして感謝申し上げます.

KO院長やKAが物資と薬剤の応援をお願いしましたところ,多くの皆様のご心配
やご協力をいただいいまして様々な形で,次々に届けられているところです.本当
にありがとうございます.
多くの皆様の思いが込められたネットワークの結集ともいうべき2トントラックが
京都から届いたときには,本当にありがたい気持ちで涙が止まりませんでした.そ
の後様々な形で,薬剤を中心に届けられております.そのお陰で,薬剤は安定した状
況になりつつあります.本当にありがとうございます.

当院の現状は,電気,水道は復旧しましたがガスが使えない状況です.(給食用は復
旧しています).暖房がようやく入り始めていますが,病棟までには時間がかかり
そうです.寒い生活が1週間以上続いておりますが徐々ですが,確実に復旧は進んで
います.物資の入り方も少しづつ良くなるのではないかと思っております.

被災した職員や体調を崩す職員もいる中,医師,看護,コメディカルが災害体制を組
み,一丸となって勤務しております.何とか乗り切っていきたいと思っております.

今回の皆様の薬剤,物資等をお送りいただいた事に関する御礼を直ぐにすべきとこ
ろ,.昨日メールが故障してまして,遅れましたことをお許しください.

宮城県立精神医療センター
KA  (人名はこちらの判断でイニシャルとさせてもらいました)


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大阪の自転車屋さんが自転車で東北へ向かい、
現地で、パンクを無料で修理しているそうです。

ボランティアは支援要請があるまで動かない方が良いという報道もありますが、
じっとしていられない人は、そんなことより、現地に行ってしまうのでしょうね。
そういう人たちは、たぶん直感的に何が必要か分かってしまうのでしょう。



3月X日

京都にある精神医療関係の組織から、宮城県立精神医療センターに救援物資を送るという知らせがありました。
つかさき医院では、それを応援するために義援金をつのることにしました。
外来受付にも、募金箱を設置しました。
これから、色々な組織からの呼びかけがあると思います。
出来る範囲で協力していきたいと思います。

外来患者さんとお話しすると、募金してきたとおっしゃる方が多いです。
何かやりたいけれど、何をすれば良いのかわからないという方も多いです。
今すぐにでも、東北へ駆けつけたいという方もあります。
そういった人々の思いが、うまく実現させられる方法が見つかればと思います。


今日も、医院で朝の会議の時に、東北での地震の話題を話しました。
すると、医院に実習に来ている大学院生から、「岩手の友人が今回の地震で亡くなりました。」
という報告がありました。
すぐ側に、関係者がいることに気付きます。
色々な場所で、今回の地震を話題にしていくことは大事だと思います。


今日の外来患者さんの中に、関東地区で今回の地震に遭って、京都へ避難してきたという人が、
3人もありました。
一人の方は、避難所生活が不安で、関西に逃げてきたということでした。
他に、茨城県を旅行中に地震に遭ったという方も一人ありました。
地震のテレビ映像をみて、昔のトラウマを思い出して、苦しくなったという方が2人もありました。
今回の地震の影響が一週間して、実際の診療場面に表れてきています。
これから色々な影響が出てくるだろうと思います。
他に、東京へ旅行していたという人から、停電や物資不足の報告も聞いています。
決して、関西は離れているとは言えません。
日本人はみんな一丸となって、踏ん張るべき時が来ていると思います。
ともに、頑張りましょう。


3月X日

大きな企業のHPのトップページに、地震の被災者向けのメッセージを
載せてくれるように依頼したらどうかというアイディアを頂きました。
それぞれの企業が、自分たちに企業理念に基づいた、メッセージを
載せることになれば、大きなインパクトを与えるというのです。
皆さんはいかがでしょうか。


YOUTUBEのあなたたちは一人じゃない

ご覧下さい。
コメントも沢山ついています。
感動的です。


また、こんなHPがありました。

日本ユニバ震災対策本部

ご参考にしてください。

次のような記事が載っています。
http://npo-uniken.posterous.com/46132557

一人一人の人が動くことは、決して無駄ではないと思います。



3月X日

今日も医院で東日本大震災のことを話し合いました。
何ができるのだろうかという言葉に終始しますが、
考え続けることが大事だと思います。
考え続ければ、必ずアイディアは出てくると思います。


東北地方では、ガソリンの供給が不足して、車が使えない所が増えてきているそうです。
バスや電車も間引き運転で、通院しようにもできない患者さんが出てきていると言います。
地震の被害が直接及んでいない地方でも、物資の流通が滞って、その影響が出てきています。

京都にいても、製薬会社の内、岩手県に本社のある会社は、コンピューターが故障して、
出荷や会計処理がすべて手作業となっており、迅速な対応ができないという報告が入りました。
日本は全体として、一つの機能を果たしているのですから、一つの地方の機能が損なわれても、
やがては全体に波及するでしょう。
対応をすぐに行うわけにはいきませんが、心の準備ぐらいはしておく必要があるでしょう。


YAHOO JAPANのホームページ上で、「被災地の医療提供体制を支援する会」という掲示板を見ることができます。
現地の状況の一端を知ることが出来ます。

【青森県】被災地の病院情報・医療支援http://bit.ly/h3B1y9
【岩手県】被災地の病院情報・医療支援http://bit.ly/hEWsbj
【茨城県】被災地の病院情報・医療支援http://bit.ly/fwH18g
【福島県】被災地の病院情報・医療支援http://bit.ly/hnJBO1
【宮城県】被災地の病院情報・医療支援http://bit.ly/eCHiiR


福島県南相馬市の「小高赤坂病院」が原発20キロ避難勧告地域に入ったそうです。
16日までに、約100人の全入院患者が、福島県立南会津病院と福島市内の病院に分散転院するめどがついたと言います。
院長は、渡辺瑞也先生です。
私も学会活動などでお世話になったことがあります。
冷静で、沈着な方です。
粛々と作業を行われたことと思います。


アメリカの新聞を読んでいる方から、次のような記事の紹介がありました。

History Is on Japan's Side


ツイッターの書き込みから

「 94歳になる自分の爺さんがつぶやいた。日本は昔戦争で全てのものを失った。
今回地震で又多く失った。ばってん得たものもあるじゃろうが、絆とか人の温か
さとか思いやりとか。忘るんなよ!今度は自分達の世代が創って支えていかにゃ
んたいと。」

佐藤優の提言

「政治家の危機意識が、与野党ともにまだ不十分だ。具体的提案がある。鳩山由紀夫氏、麻生太郎氏、安倍晋三氏、小泉純一郎氏、森喜朗氏、村山富市氏、細川護煕氏、羽田孜氏、海部俊樹氏が一同に集まり、国家の危機にあたり日本国民に団結と、国際社会に理解と協力を呼びかけて欲しい。国際的に、党派を問わず最高首脳経験者が発するアピールには特別の重みがある。 国民1人1人に求められるのは、日本人の底力に対する自身と信頼を再確認することだ。日本人は、ふだんは国家や民族を意識しなくとも、危機に直面すると、強い同胞意識と静かな愛国心が燃える。だから事態に冷静に対処できる。」



3月X日

 今日、医院の中で東日本大震災のことを話題にしたら、親族が釜石に住んでいるスタッフがいました。家屋全壊で、今は救護所にいるそうです。他のスタッフに親族が電力会社で働いている人がいて、原発の状況が話題になりました。
 今日、受診した患者さんの中に、親御さんが原子力発電所で働いているという方がありました。それぞれの方にとって、今回の震災と原発の事故は人ごとではありませんでした。遠いところの問題のように考えていましたが、身近な所にいる人たちを通じて、密接に関連しているのだと改めて感じました。

 患者さんの中には、被災地の精神科患者さんがどうなっているのか、心配しておられる方もあります。不十分ですが、わかった範囲で、お知らせします。

岩手県、一関地区の南光病院は活動しているそうです。大船渡、気仙沼地区の希望ヶ丘病院と大船渡病院は無事で動いているようです。光が丘病院は被害に遭ったとの事ですが、詳細不明です。
東北の被災診療所では、薬を7日〜10日分しか出していないとのこと。在庫の有る分を、なるべく沢山の患者さんに提供しようという考えです。補給には心配が残りますけれど。

宮城県内各地の避難所では10万人に医療を提供できない状況にあるとのことです。

被災者の医療は、健康保険の自己負担分免除の取り扱いのようです。


京都での動きとしては、次の様です。

東北地方太平洋沖地震 15日、京都から被災地にむけて出発! (派遣人員) 緊急消防援助隊,救援物資搬送員,災害派遣医療チーム(DMAT)として,職員217名を派遣  京都府も力を合わせています。

緊急の消防援助隊は、3月14日、午後5時ヘリコプター一機が埼玉県に向けて出発。その後、午後10時に、ヘリコプターの燃料補給車を含めた先発部隊が出発したそうです。緊急時の対応は、即日動き出していたとの情報です。
 少なくとも阪神大震災の時より迅速に動き出したようです。

救援に関与できる人は、皆懸命に努力しておられます。
本当に、頭が下がります。
それらの方々のご活動に心より敬意を表します。



3月X日

 東日本大地震では、遠隔地に何ができるのか、よくわかりません。

ツイッター情報を見ていると、何かヒントがあるかもしれません。

ツイッター医療情報まとめ


こういう書き込みがありました。無断引用。
「父が明日、福島原発の応援に派遣されます。半年後定年を迎える父が自ら志願
したと聞き、涙が出そうになりました。「今の対応次第で原発の未来が変わる。
使命感を持っていく。」家では頼りなく感じる父ですが、私は今日程誇りに思っ
たことはありません。無事の帰宅を祈ります。」



赤十字では、被災地向けの義援金の受付を始めました。

義援金は郵便局・ゆうちょ銀行で受け付けです。
口座名義は「日本赤十字社 東北関東大震災義援金」。
口座番号は「00140−8−507」です。
受付は今年の9月30日まで。

赤十字社のHP

東日本大震災の被災地支援を協議するため、
関西など2府5県でつくる広域地方公共団体「関西広域連合」が13日、
神戸市中央区の兵庫県災害対策センターで参加府県の知事らによる委員会を開催、被災者の受け皿として府県営住宅や病院、施設などを確保することを決めました。
さらに、被災県ごとに担当を分担。
宮城県については兵庫、徳島、鳥取の3県が担当、
福島県は京都と滋賀の府県、
岩手県は大阪、和歌山の府県がそれぞれ支援することを確認。




3月X日

3月11日、東北地方で大地震による大津波の被害が起こりました。
私は、阪神大震災の際に、ボランティアに参加していたので、当時の状況を思い浮かべながら、
現地の大変な様子を想像しています。
現場で、救助や救命に当たっている人たちの尋常ではない努力に、胸が痛む思いです。
家や家族を失った人たちの悲しみ、電気も暖房もない部屋で夜を過ごす人たちに心細さにも、
思いが向かいます。
遠く離れた地からは、できることも限られていますので、いらだたしい思いもつのります。

阪神大震災の時には、現地に何度か足を運びましたが、
援助を求めている場所はあっても、適切に人材を配置することは無理で、
足手まといになってしまう状況も知りました。
調整のための人材がない、ネットワークがない、伝達手段がない。

現在東北地方に向かったDMATのグループも、
活動場所が設定できないので、撤収している部隊もあるようです。

阪神大震災の時には、
ボランティアに来ている人の精神的不調の相談に乗ったりしていました。
ともかく、役に立ちたいということで、やってきて、不眠から興奮状態になって、
何とかしないといけないのに、家族や連絡先がわからない。
そういうことを経験して、単純な善意では負担を掛けてしまう現実を感じました。
慎重は人は、そう単純に動かないのでしょうが、慎重だけでは動かない面もあり、
難しい問題だと感じました。

インターネットでも言われていますが、
何の当てもなく、現地に行くのは考えものです。
物資を送るのも、ある程度まとまったものでないと、処理が困るので、
何かを送りたいなら、現金がよいでしょう。
なるべく、大きな組織に委ねた方が良いと思います。

インターネットで呼びかけられているのは、節電です。
関西地方からは電気を送ることも難しいようですが、
関東地方なら大いに役に立ちます。
ただし被災地周辺の助けですね。
被災地は未だに電気が通じていないところも多数ありますから。
節電の呼びかけのポスターをご覧下さい。
ここ
精神的応援になると思います。

医療分野の情報としては、
被災者は全国で、健康保険証がなくても、保険扱いができるそうです。
障害者自立支援法の医療も、指定医療機関以外でも、口頭の申告で、利用可能だそうです。




2月X日

診察室に入って来るなり、患者さんがビニール袋に入った白いものを取り出した。
「先生、見て下さい。」
「これは、錠剤がつぶれているね。」
「つぶれているんじゃないです。かじられているのです。」
「ははーん。これはベゲタミンBじゃないかな。」
「ネズミがかじったのです。」
「・・・・・」
「先生はどう思いますか。」
「ネズミは不眠症だったのかな。」
「何を暢気なことを言っているのですか。大変ですよ。」
「どうしてかじられたのですか。」
「居間のテーブルの上に置いておいたのです。帰ってみたらこのしまつです。」
「えらいことですね。薬は缶に入れておかないといけませんね。」
「今は、紙箱に入れてます。箱に入れたら大丈夫です。」
「えらい大胆なネズミだね。」
「大胆どころか、この前は鳥かごの中に入っていて、大変だったのです。」
「それはえらいことだ。」
「十姉妹がびっくりして、小さくなってました。鳥かごの中ですわっていたんですよ。」
「ネズミは十姉妹と友達なのかな。」
「何を暢気なことを言っているのですか。大変ですよ。」
「鳥かごに入るのなら、ねずみ取りをしかけたら入るのじゃないかな。」
「保健所に相談に行ったら、ねずみ取りをしかけなさいと言われたので、置いています。」
「入りましたか。」
「入りませんね。警戒しているのでしょう。」
「鳥かごなら入るのにね。」
「ねずみ取りを置いてから、ネズミが少し静かになりました。」
「ねずみ取りを見ると、恐怖感を持つのかも知れないね。」
「ねずみ取りを置くだけで効果があるのですね。」
「部屋に10個とか20個とか置くと、もっと効果があるかもね。」
「そんなことしたら、寝るところがなくなります。」
「では、部屋に鏡を幾つも置いて、沢山ねずみ取りがあるように見せたらどうだろう。」
「先生、そんなことして、ネズミがねずみ取りの所でドタバタしたら、鏡に映って部屋中ネズミだらけになりますよ。
そんなの見たら気絶します。」
「そう言われればそうだなあ。」
「先生は暢気ですねえ。」

医院での仕事の帰り道、イズミヤに寄ったら、当の患者さんと出会った。
「あっ、また出た!」
「私はネズミじゃないですよ。」
「似たようなもんや。」
「・・・・」



2月X日

町田宗鳳の『縄文からアイヌへ』という本を読んだら、後半がほとんどゾーエの話だった。
こんなところでゾーエに出会うとはと、びっくりした。
生命観の話でゾーエが出てくるのだが、<ゾーエ的生命感覚>という章まであって、
著書の基本構造に組み込まれている。
ケレーニーより遥かに理解しやすい形に、まとめられている。
共感できる部分も多々ある。
出版は2000年となっているが、こういう本が出ていることを知らなかった。


2月X日

木村敏の『関係としての自己』という本を読んでいたら、
古代ギリシャでは生命をゾーエとビオスという概念で捉えていたと書いてあった。
興味があったので、出典らしきケレーニーの『ディオニューソス』を読んでみた。
ギリシャでディオニューソス信仰がどのように生まれたかを検討しているのだが、
読んでもなかなかわからない。
ギリシャ神話の知識が乏しいからなのだろう。
そもそも、ヨーロッパ思想を知ろうと思えば、
ギリシャ神話やギリシャ哲学は基礎的教養なのだろうが、まとめて勉強したこともなく、
突然、そんな世界に頭を突っ込んでも、わかるわけがない。
本の中に、時々ゾーエとかビオスという言葉が出てくるのだが、
理解にはほど遠い。
何だか、ヨーロッパが急に遠くなった気分がする。


1月X日

外来の患者さんが
「今日は俳句を作ってきました。聴いて下さい。
『春の鬱、寝たり寝たりかな』
どうですか?」

私は「それはね、『春の鬱、ひねもす寝たり、寝たりかな』でしょう」と言った。
すると、患者さんは、
「そんなことはわかっていますよ。
そこを『春の鬱、寝たり寝たりかな』とするところが面白いのですよ。
先生は、教養をひけらかしすぎですよ。」

私「・・・・・」



1月X日

腕時計が止まってばかりいる。
時計屋へ持って行ったら、
ソーラー電池なので、
光に当てないと駄目だと言われた。
冬は、袖の長い服を着るので、
文字盤に光の当たる時間が少ないためだそうだ。
しばらく、虫干しみたい感じで、
蛍光灯の下に時計を置くことにした。


雪が降って、寒い。
北陸生まれなので、雪が降るのには慣れているけれど、
故郷を30年も離れると、雪の降るのは珍しい。
大きなぼた雪が降ってきて、
それを見ていると、子供の頃を思い出す。

雪の降ってくる空を見上げると、
大地が空に登っていくような気がする。



1月X日

 新年早々、エアコンのスイッチを入れて、本でも読もうかなと思ったのですが、なかなか暖かくなりません。
まだ、買って一年半ほどしかしないのに、もう故障かいと思ってよく見ると、冷房の表示になっています。
ボタンの押し間違いか。
どうやら今年もそういう感じになりそうです。
まあ、めげずにやっていきましょう。



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