この日記は、医院での診療の様子をお伝えするものです。ホームページを見て、受診した患者さんから、日頃の診察の様子や、医者がどんなことを考えているかがわかると、受診する時の参考になるということで、このコーナーを開設しました。かなり、面倒なので反響が乏しければ、消滅する場合もあります。悪しからず。
11月X日
今日はある外来の患者さんと比叡山に登りました。
歩いて登るのは2年ぶりぐらいですが、坂本から登るのは10年ぶりぐらいです。
さすがに、もう少し若い頃は、患者さんに「大丈夫ですか?」などと声をかけていたのですが、
今日は、患者さんから「先生。大丈夫ですか?」と言われるしまつ。
もう、一緒に登るのは無理かと思いました。
延暦寺はかなりの人でしたが、薄曇りの日差しで、紅葉の色も冴えません。
延暦寺の根本中堂には、学生書道大会の作品が展示されていました。
それぞれに、お寺にふさわしい言葉が選んであります。
しかし、よく見ると「電子申告」なんてのもありました。
どういう意味なのか。
ふ〜む。
「火力発電」。
脱原発を意味しているのか。
ずばり「原発」というのもありました。
字は勢いもあって良いのですが・・・・。
「天使」というものありました。
教会の書道大会と間違えているのでは?
色々の思いを刺激されました。
帰り道も歩いて降りましたが、
お寺の回りに柵がつくられているのにびっくり。
イノシシか鹿対策のようです。
比叡山までがそうなったか。
山林から人間が追い出され、獣の世界になっているのを見てきましたが、
ここまでもかと思いましたね。
そのうち、比叡山では修行などできなくなるのでは?
11月X日
ちょっと古いですが、東北大震災での津波の被災地の写真がありました。
津波直後の写真、三ヶ月後、半年後の同じ場所の同じアングルからの写真です。
瓦礫が取り除かれ、整備されていく様子がわかります。
現地では復旧作業が行われているのでしょうが、
離れた場所からではわかりません。
こうした写真を見ると、少し心が和みます。
特に、自然の色ですね。
草の緑がこんなに目に優しいとは。
意外な発見に感じました。
11月X日
こんな記事を見つけました。
【 新しい出発を飾る 家族の肖像写真撮影 】
http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/ganbaru_kazoku/index.html
なんとも言えず良いですね。
市長さんのエッセーもおもしろいです。
一方で、
こういうブログもあります。
現場の人はこういう感じなんだろうなと思いますね。
11月X日
詩人のX氏より、次のような文章が届いた。
「3・11以降、僕はまず2編の詩を用意し、朗読を録音した。
そして、それとは別に「友達へ」という曲ができて、録音を行った。
しかし、自分の作った2編の詩を読み返しても「友達へ」を歌っても、何か空疎な感じ、もやもやとした虚無感がある。
そういう思いにとらわれていた。
震災後の、公共的な「がんばろう」の声には、僕は初めから訝しさを感じていた。
阪神・淡路大震災の時、僕は何度も被害調査に行った経験があるからだ。
メディアの流す「がんばろう」の声は、阪神・淡路大震災の時の再現にすぎない。
詩誌『ガーネット』(Vol.65)の詩誌時評で、廿楽順治が『未来』8月号(未来社)から桃原一彦の言葉を引用していた(孫引きになるが)。
「公式化されたテクストとその表記構造による囲い込みは、しばしば個人を超えて権威的に機能し、「個人の融和」を道徳的に要請する。それは公式化されたテクストをフィルター代わりに使用して他者のポジションに座りたがり、それを先取的に占めてしまうことでもある。それは大震災を「3・11」と表現し、2001年の「9・11」との関係で巨大なアレゴリーを構築してしまおうという誘惑に似ている。(中略)以上の問題は、わたしを含めたあらゆる知識人につきつけられるはずだ。他者(マイノリティや「犠牲者」)を対象とするさまざまな概念装置を生産し、その方法論を学生に叩き込む。このようなテクストの権力性と隣り合わせで、書くという行為を実践している」(桃原一彦「沖縄からの報告18 引き剥がされた影とテクストの誘惑」)
また、震災後にいくつかの同人誌や商業誌で、震災関連の詩を読んだが、どれも、非常に空疎な感じがした。
現に僕は、被災者に向けた歌詞を作るとき、煎じつめれば「がんばろう」という歌詞しか書けなかったのは確かだ。
しかし、「がんばろう」もまた、桃原の言う「個人を超えて権威的に機能」する言葉の一つなのだ。
廿楽はまた、「私たちは実は普段から物事について「うまく言えない」。言葉にしてしまったものは、言葉にならなかったものの痕跡だというのは誰もが体験的に知っている」と綴っている。
少なくとも、僕は詩人と名乗る以上、今後も、震災を初めとするものにかかわる言葉には、慎重にならざるを得ない。」
重い問いだと思う。
11月X日
現在京都では、国民文化祭・京都2011という催し物が行われていて、
そのイベントの一つに京都映像フェスティバルというものが開催されている。
そこにたまたま1926年に撮影された『狂った一頁』という映画が上映されることになった。
無声映画で、本当に古いものだけれど、偶然発見された作品らしい。
この映画は、精神科病院の岩倉病院でロケを行ったらしく、
舞台はほとんどが精神科病院の病棟である。
無声映画で、シナリオがわからないので、口をぱくぱくしているのを
見ながらストーリーを想像するしかない。
監督は衣笠貞之助である。
その監督の監修により1975年に音楽だけ入れたそうだ。
結局筋はよくわからなかったが、当時の精神科病院の様子はうかがえた。
個室の様子とか、興奮している患者の扱い方、作業療法の実態など。
ともかく、出てくる役者の演技が真に迫っていて感心した。
実際に病院に行って、患者の日常を観察して、演技を組み立てたのだろう。
精神科病院が登場する映画と言えば、
『カリガリ博士』を思い出してしまう。
手法には似たところが感じられる。
『カリガリ博士』は1920年の制作で、
日本公開は1921年だから、
6年後の『狂った一頁』が影響を受けていても不思議はない。
ウィキペディアには影響されたという指摘はないが。
いずれにしても、1920年代の精神科病院でも、
当時の医療スタッフが、何とか治療の形を求めて、
努力してる様子の一端が見られて、
納得できる部分があったのは収穫だった。
(つけたし)
その後ネットを探したら、
いくつかの情報が得られた。
「この作品は会話場面も空想場面も多い反面、無字幕であるために、よほど映画を見慣れている人でも、粗筋を読み解くことさえ困難である」。
というコメントもあった。
佐藤忠男は「カリガリ博士」の影響にも言及している。
脚本が川端康成とはちょっと驚きました。
11月X日
半藤一利の『漱石俳句探偵帳』(文春文庫)を読んだ。
夏目漱石の俳句の背景をさぐって、漱石文学の意味をとらえ返そうという試みだ。
いろいろと知らなかった事実を知らされた。
漱石が芭蕉をあまり評価していないということを知らなかった。
名句とされる「古池や蛙飛びこむ水の音」などは、ほとんど軽蔑の対象である。
漱石は禅に興味を持っていたとされているが、芭蕉の境涯を認めようとしなかっただろう。
芭蕉の取り澄ましたような動きの無さを嫌ったのだろうか。
漱石が評価するのは、蕪村である。
蕪村は絵画的な面があって、そこが漱石の感覚に合ったのかも知れない。
漱石は自ら絵筆を取ったし、絵画には関心があった。
そう言えば『草枕』の主人公は絵描きだ。
漱石の文学創作は俳句から始まったことは知っていたが、
本質的な問題を孕んでいることを感じさせられた。
処女作の『我が輩は猫である』が、「ホトトギス」に連載されたというのも、
単なる偶然ではない。
短歌は同じ短詩系の定型詩とはいうものの、
物語のエッセンスのようなものが込められている。
そこがカタルシスになる理由で、
短歌は刑務所と病院で流行するという話が昔はあった。
感情表現を形にして煮詰めるということだろう。
それに比べて俳句は、
物語の断片。
首根っこを押さえるものという風情がある。
物語の出発点をかっさらうというのだろうか。
詩歌を精神療法的に使う場合は、その使い分けがポイントになる。
私の経験では、俳句は双極性障害の人に向いているような気がしている。
短歌はwetだし、俳句はdryだ。
半藤一利が選んだ漱石の一句は
「秋風や屠られに行く牛の尻」である。
漱石らしいユーモアと皮肉があるというのである。
漱石は、日本の近代化が内発的なものではなく、
外から強いられたことの歪みをいつも問題にしていたが、
「牛の尻」には、深い批評性が見られるのではなかろうか。
11月X日
下村 治の『日本は悪くない―悪いのはアメリカだ』(文春文庫)を読みました。
その内容にびっくり。
20〜30年前に、その後のアメリカ経済や日本経済の行く末を予言しているのですから。
これほどすぐれた知性の人がいるとは、驚嘆するに値します。
この本の結論をこころに刻む必要がありますね。
「これからの日本は江戸時代のような姿になるのがよい。文化とか芸術とか教養に力を入れる時代になるべきだ」
下村治という人の経歴は
昭和9年大蔵省入省。
経済安定本部物価政策課長、日銀政策委員などを歴任。
34年の退官後は日本開発銀行理事、日本経済研究所会長などを務める。
国民所得倍増計画を唱えた池田勇人内閣では経済ブレーンとして高度経済成長の理論的支柱となった人です。
こういう人がいたからこそ、戦後日本の驚異的な経済成長も可能となったのですね。
そういう人だからこそ断言する、
「これからの日本は江戸時代のような姿になるのがよい。」
腹に答えますね。
10月X日
作家の北杜夫氏が亡くなったそうだ。
私は、一度だけ北杜夫氏からはがきをいただいたことがある。
一枚のはがきに、新年おめでとうから、ご卒業おめでとう、故人を悼みます。病気快癒おめでとう。
そういった言葉が、一杯印刷してあって、その場にふさわしい項目に○をつけてあるというものだった。
禍福はあざなえる縄の如しという教訓か、
それとも手数を省くための方法か。
どちらでも良いような、結局同じようなことなのか。
手に取ったときにんまりしてしまいました。
北杜夫氏の冥福を祈って、合掌。
10月X日
みんなねっとの近畿ブロック家族のつどいに参加しました。
主催は全国精神保健福祉会連合会です。
京都の引き受け団体は京都精神保健福祉推進家族会連合会。
近畿地区の人たちが集まって交流のひとときを持ちました。
印象に残ったのは、アトラクションの「生きる喜びを琴の調べにのせて」という弾き語りです。
弾き語りと言っても、お琴の演奏ですから変わっています。
演奏は、全盲の箏曲家・梶寿美子さんです。
ご自分の体験とそれを支えたお母さんのお話をされました。
いつも笑顔を絶やさずに、寿美子さんを支えられたお母さんが、
高齢になって認知症になられた。
そして、言葉の端々に寿美子さんにこれまで話をされなかった苦労の数々を、
漏らすようになられた。
それで、「ああ、そうだったのか」と気付いたことが沢山あるそうです。
それを涙ながらに話された。
聞いている聴衆の中にも、ハンカチを取り出される方がいらっしゃいました。
障害に直面して初めて気付くことが多数あるのですね。
最後に大坂の家族会の幹事の皆さんが舞台に上がって、
「薬づけでも人生は」という歌をカラオケをバックに歌いました。
迫力ありましたねえ。たくましく、大坂の力ですよ。
歌詞をご紹介します。
薬づけでも人生は (「浪花節だよ人生は」の替え歌)
1)飲めと言われてイヤイヤ飲んだぁ〜
治ると言われて、その気になったぁ〜
ちゃんと飲んでも、すっきりしないィ〜
眠気、けだるさ、意欲が出ないィ〜
薬づけだよ、おいらの、おいらの〜人生ィはぁ
2)飲めと言われて飲んではいるがァ〜
飲んで、飲んでも治りはしなぁいィ〜
だれか教えて良くなるコォツを〜
わたしのしあわせどこにィある〜
薬づけでも、さがそう〜 私の人生を〜
3)休めといわれて〜休んでいるが〜
視線が気になりゆっくり出来ない
まわりを気にせず、歩いていきたい
オレにもやれることあるはずだぁ〜
希望忘れず 行こうよ 自分の人生を
9月X日
ある患者さんが、診察中に写真を見せてくれた。
「これはなんでしょう?」
白い色をした、ウインナーソーセージの様なものだ。
「紙粘土で作ったウインナーソーセージですか。」
「はずれ!これがおえっといったら、口から出てきたのですよ。」
「不思議なことですね。」
「もう、一ヶ月も前に、むしゃくしゃすることがあって、やけくそでティッシュペーパーを食べたのですよ。
それからお腹がおかしくて、昨日とうとうこれが出てきてすっきりしました。」
「どちらにしても、出て良かったですね。」
「先生、一体どう思いますか?」
「やはり、人間の胃袋は山羊と違うんだよね。」
「そういうことではなくてですね。私の胃袋の消化力が低下しているんじゃないでしょうか。」
「いやあ、そういうことはないね。」
「でも、救急病院の先生は、消化されると言ったのですよ。」
「それは、その先生が間違っている。ティッシュペーパーは水に溶けません。」
「ほんとですか。あやしいなあ。」
こういう時は、インターネットが便利だ。口頭で説明しても納得してもらえない場合、
ホームページを見てもらうと断然説得力があるのだ。
早速、インターネットに接続して、検索した。
「ほら、見てご覧なさい。ちゃんと、ティッシュペーパーは消化されず、便から排出されると書いてあるでしょう。」
「なるほど。書いてありますね。でも、先生、ちょっとちょっと。これは愛犬の飼い方のページじゃないですか。私は犬じゃないですよ。」
「ええっ!確か戌年じゃなかったっけ。」
「先生、何を言っているんですか。干支など関係ないじゃないですか。」
「苦し紛れです。ともかく、ティッシュぺーパーは消化されないのです。どうしても、食べたいときは、トイレットペーパーにしなさい。」
「そんなもの食べられませんよ。」
「トイレットペーパーは水溶性があるので、消化管で分解されるので安心です。安心して食べられます。」
「そんなの嫌ですよ。」
「ティッシュを食べたくらいだから、食べられます。」
「無理です。」
「ちょっと太めのパスタと思えば、食べられるでしょう。」
「そんなに言うのなら、先生が食べて見せて下さい。」
「げっ、やぶ蛇だったなあ。」
自説に固執すると、自滅するという教訓を得る診察となりました。
8月X日
児玉教授について、こういう批評もありました。
武田邦彦、小出裕章、広瀬隆・・・等、反原発、脱原発文化人の中に、もう一人、「反原発スター」(笑)が誕生しました。
児玉龍彦。東大医学部卒、東大先端技研教授。
そこで、僕も彼の証言やインタビュー、新聞記事などを読んでみた。
彼の言っていることは、誰が見ても「正論」である。
おそらく、彼の発言は間違っているわけではない、というより、お得意の「後出しジャンケン」なのだから、あまりにも正しすぎると言っていい。
しかし、 それにしても、彼は、何故、突然、泣き出すのか。
あるいは、何故、インタビューの間、へらへら笑い続けるのか。
顔つきにしても、とても僕には、一流の科学者の顔には見えない。
感情の起伏の激しい、世間知らずの科学者(医者)にしか見えない。
御用科学者たちが信用できないように、この、結果論でしか物の言えない科学者(医者)も信用できない。
というより、半分しか信用できないように見える。
ということは、御用科学者たちの発言も半分は真理だということではないのか。
色々な意見を述べることができるのが、民主主義でしょう。
それぞれの意見を大いに戦わせるのが良いと思います。
他人の発言を封じたり、発言の場を破壊したりすることは、望ましいことではありませんね。
最終的に誰が正しいか、それは歴史の審判によるしかないのですから。
8月X日
以前、ご紹介した東京大学の児玉教授の緊急記者会見が行われたそうです。
そのビデオです。
質疑応答もあります。
「民主党は政権党だから代表を選ぶことをやっても構わないが、国政は国民のためにあるのではないのですか!……
(再び声を詰まらせ)マスコミの報道も大きな疑問です。
これだけ福島県や関東各地で原発事故による異常な事態が進んでいるのに、まったく住民本位の報道がなされていません」
「妊婦や子供の安全を守り、国土をどこまできれいにするかという問題が、総理選びの基準になっていない。
小沢派か仙谷派かなんて、どうでもいいことだと思います。
政府だけでなく、学会やマスコミも機能不全を起こしています」
児玉教授はまた、こうも主張している。
「現在の原子力政策および、原子力災害に対する決定がほとんど原子炉関係者によって行われている。
しかし、今までの失敗に責任を持つ人が、これからの政策を決めるのはやめてもらいたい」
今後はゲノムやイメージング(視覚化)、コンピューターなど各分野の研究者、民間企業も含めた
「清新でチェック可能な専門家委員会」の設置を主張するのだ。
8月X日
お盆をすぎて、少し朝夕の風に涼しさを感ずる頃になりました。
それでも、日中は蝉の声がうるさいです。
アブラゼミのジュウジュウいう声で、暑苦しい限りです。
一体、蝉はどうして鳴くのでしょうか。
今日は蝉に質問してみました。
「あなたは、どうしてそんなに鳴いているのですか。」
「えーと。こうして鳴いていると、木の樹液が増えるのです。
黙っていると、樹液が少ないのですよ」
「なるほど、人間が聞いていても、暑苦しくて脂汗がでそうだから、木も同じなんでしょうね。」
「樹液の出る木に止まっていると、雌が近づいてきて、頗る都合が良いのですよ。」
「それで、雌の鳴かないわけがわかりました。」
8月X日
今日は外来の患者さんと大文字山に登りました。
天気予報は雷雨に注意でした、登り初めからは激しい雨です。
しかし、雨脚にめげず、強行登山です。
目的地の祠についたころは、雨も上がり、
雲間からは太陽が。
不思議な光景です。
雲の動きによっては、集中的な豪雨が見られていました。
夏の雨って、怖いですね。
出発前にスタッフのMさんが用意してくれたお弁当を開けると、
おにぎりがリポビタンに変身していました。
祈りも空しく、呪いは解けないままでした。
大文字山って、怖いですね。
大文字山に年間百回以上登っているおじさんが、
こんな天気の日は珍しいと断言。
普通なら34度はあるというのに、今日は26度の冷え込み。
夕暮れの光景を見て、下山。
足下も暗い中、降りていくと、
暗闇に、ミニスカートの若い女性が一人で登ってきます。
戦争中、無数の骨が発見されたという千人塚の近くです。
その時急に冷たい風が、・・・
私たちは、急いで下山したのです。
8月X日
私は時々、発音がはっきりしないと言われて患者さんから叱られています。
この前も、海水浴に行ってきたらしい患者さんに。
「すっかり、陽に焼けていますね。」と言ったところ、
「にやけていますねとはどういうことですか」と怒られてしまいました。
「いや、そうじゃないですよ。私は、『すっかり、陽に焼けていますね』と言ったのです」と、
ゆっくりと歯切れ良く発音しました。
すると、「やっぱり、にやけているとしか聞こえない」とおっしゃるのです。
やぶ蛇だったのか。
実演しなきゃよかった。
発音って、難しいですね。
7月X日
ある日曜日、京都市の北の果ての地域を訪ねてみました。
今でもかやぶき屋根の家が残っているほどの田舎です。
冬には、雪のため、幹線道路が不通になって、京都市内からは郵便も届かないという田舎です。
京都市内にも、そういうところがあるとは驚きですね。
地域の神社に行ってみると、狛犬がこんな風に風化しているほどの田舎です。
いやあ、すごい。
伝統を守り続けているのですね。
道を歩いていくと、「ネコに注意」の看板が。
すごい!
やはり田舎だと思いますね。
というか、どうしてネコに注意なのかわかりませんね。
最初の写真を見て下さい。
家のまわりに棒が立っていて、
針金が繋いであります。
これに、電流が流れているのです。
怖いです。
この電気は、サルやイノシシ、鹿などを寄せ付けないためのものです。
そうしないと、畠の作物をやられてしまうのです。
それじゃあ。電気のない昔は、けものにやられっぱなしだったのでしょうか。
そうじゃない。
動物と人間は棲み分けをしていた。
人間が、杉を植林するために、雑木林などをすべて杉の林にしてしまった。
国から奨励金が出て、どんどんと杉林にした。
それで、動物は食べ物を得る場所がなくなって、人家に近づき始めたのだそうだ。
今では、外材が入ってくるようになって、造林業は衰退して、働く人も数えるほど。
人口が流出して、山村の平均年齢は65歳を超える。
生きる場を失ったサルやイノシシが畠を荒らし回る。
人間が自然破壊をして、野生動物は絶滅しているんじゃなかったのか。
どうも、それほど単純ではないらしい。
自然破壊で、昆虫が減っているけれど、都会ではゴキブリが大発生するようなものか。
山村では、人間の生きる場がだんだん野生動物に浸食されているらしい。
人間は、電気を流した網の中で暮らしている。
まるで、収容所の生活の様です。
産業政策が20年〜30年程度で変化すると、
柔軟に対応できない地域は、破壊されて元には戻らない。
7月X日
2011.07.27 国の原発対応に満身の怒り - 児玉龍彦
「七万人もの人々が自宅を離れて彷徨っているときに、国会はいったい、何をやっているのですか!!」
本当に熱弁です。
発表内容の資料はここにあります。
児玉先生の息子さんの声。
「親父からはいつも、勇気ということを教えられてきた。親父の立場で、公開の場でああしたことをいうのは、どれだけの勇気がいったことだろう。まずはそれをねぎらってあげたい。
親父のスピーチを通して、どうか学者にも社会のため、人のために真摯に仕事をしている人間がいると伝わればと思っています。利権やポジションにとらわれた人間の多さに嫌気がさすこともあると思いますが、物事をよくするために行動することをどうかあきらめないでください。」
7月X日
京都のお寺が、墓地の整備や清掃をする高齢者の男性職員を募集したら、
応募してきたのは、西陣織関係の人たちばかりだったそうだ。
それぞれに西陣織の専門的な技術を持った人たちだったらしい。
繊維産業では、もう生活していけないらしい。
何十年も修行してきた人たちが、
その技術を消滅させていく現実を見ていると、
これで良いのかなあと感じさせられたという話を聞いた。
東北大震災で、消費が冷え込んでいる。
特に、関東地区の消費活動が低迷している。
現在の日本で、贅沢品を消費するのは東京周辺の金持ちしかいない。
その消費がひかえられている。
京都の伝統産業は、そのような傾向に大きな影響を受けている。
伝統産業は職人仕事に支えられている。
職人は危機管理が乏しく、宵越しの金を持たないという生き方の人も多い。
消費が途絶えると、とたんに仕事が減り、
収入も激減する。
蓄えがないので、耐えることができず、
やむを得ず転職ということになっているそうだ。
東北大震災の影響が薄れて、消費が上向きになるころには、
伝統産業の担い手が、いなくなっている可能性があるようだ。
そういう話を診療の傍らで聞かされている。
見通しのつかなさから、鬱症状が悪化する人もある。
聞いていて、なかなかにつらいものがある。