つかさき医院の目標とその変遷

 私は三年前に、長年働いていた京都博愛会病院を退職し、北山通りに「つかさき医院」を開設した。
当初は、病院での体験を延長して、社会復帰の促進を医院の中心目標と考えていた。
しかし、実際に医院を動かしていくと、受診して来る患者さんには、色々な人がいて、とても「社会復帰」などというような考え方ではくくれないと思うようになった。
医院を受診するのがやっとという患者さんに対して、「社会復帰」と言ってみても、どうもうそ臭いのである。
それからは患者さんを巡って、支援者のネットワークを作るということを、目標にするようにした。


 人間のネットワーク作りを目標とすれば、強引に一つの方向へ引っ張ることもないだろうし、うそも生まれにくいと思ったのだ。
ところが、当の患者さんからは、それでは私たちはどうなるのですか、何をすればいいのですかと聞かれて、返事のしようがないことに気づいた。
なんともうかつなことだった。


 この段階に達して、私が思いついたのは、「この医院は美男美女を作ることを目標とする」という方針である。
それぞれの人が、自分なりの目標をもち、納得できる努力が可能となれば、その人は自然に表情が明るくなり、希望があふれ出て、「美男、美女」になるだろと考えたのだ。
それからは私はことあるごとに、「この医院は美男美女を作ることを目標とする」と語るようになった。
 医院のデイケアでは、習字に「美男美女養成所」と書く人も現れた。
患者さんの中には、「ここは美容精神科です」と言う人も出てきた。


 それで私も満足していたが、最近はまた考えが変わってきた、それは自分だけ美しくなることを求める人間を作っても、その人は社会や周囲に受け入れられないだろうということだ。
美しくなるのはよい。
こころが伸びやかになって美しくなることは、誰にも否定できないだろう。
しかし、関心が自分にだけ向かっていたのでは、本当の安定が得られるだろうか。

 今年に入って医院の目標を「幸せ配達人養成所」という風に切り替えることにした。
周りの人を幸せにして、その喜びが戻ってくることの方が、大事ではないか。
いわゆる「社会復帰」をするよりも、周囲の人に喜びや励ましをもたらすことの方が重要なのではないか。
仕事はするけど、みんなに嫌われている人より、何もできなくても、周囲に受け入れられるような人間に意味がある。
最近は、そんなことを考えています。

(2001,3,14)