療 養 ア イ デ ア 集
 
           (2009, 2, 15 更新)




 このコーナーは夜間などに困って医院のホームページを覗いた人に、何かのヒントになればと思って作りました。気まぐれに、内容を増やしていくので、時々は覗いてください。このコーナーに感心した人は、診察を受けても、これ以上の中身はないので、自己治療に専念してください。感心しない人は、あまりご縁がありませんね。
 同じ話を聞かされても、退屈しない自信のある人は当院を受診されても良いかと思います。


 感想をメールでお送り下さい。読者のコメントとして追加していきます。

                     




答えの無い問い(2009,2,15)

「いっこうに解決しない問題を抱えています。どうすればよいのでしょうか。」
  「解決がむこうからやってきたら良いですね。」
○「そんなのんびりしたことを言っていては、話しになりません。」
  「さんざん悩んで、努力したのですから、そう簡単に答えは出ないでしょう。」
○「わかっていても、どうにもならないから、悩むのです。」
  「どうにもならないと本当にわかっていたら、悩まないでしょう。まだ、期待しているのですよ。」
○「だれかが何とかしてくれないかと思って。」
  「これまで、すべての知恵を出し尽くしたのですから、そんな事があるでしょうか。」
○「頼み忘れている人がいるかどうかですか。」
  「そうなりますね。」
○「そんな人は居そうもない。」
  「ではやはり、自然に悩みが消えるのを待つしかないですね。」
○「わかっているのに、待てないのです。」
  「自分が悩んでいるということに自信がないのでしょう。」






ある日の会話(2008,8,28)

「生きることが毎日つらいのですが。どうしたら良いでしょう。」

「新しい靴をはくと、足が痛くなるでしょう。靴がなじんでくると、段々痛くなくなってきます。
貴方も生まれてから、まだ20年ぐらいしか経っていないので、世の中はまだ新しい靴みたいなものです。
痛くても当たり前。そのうち、だんだん馴染んできますよ。」

「そんなものかなあ。まだ20年か。」




「つらいことがあってから、もう10年も経つのに、未だに忘れられません。思い出しては泣いています。早く、忘れたい。」

「その苦しみは、貴方にとって、夜の海に光っている燈台みたいなものです。
燈台を見て、今自分がどこにいるのかが分かります。
ああ、ここまで来ているのだなあと分かります。
だから、大事なものですよ。」

「じゃあ、いつまでも抱えていないといけないのですか。」

「難所を過ぎれば、燈台はもういらないでしょう。
危険な場所を過ぎれば、燈台をはるかに過ぎて、もう目にも入らなくなりますよ。」




大事な事(2008,5,21)

以前、人間は生きるために必要な能力を持って生まれてくると書きました。
つまり、生まれつき身に付いていない能力は、本質的に付け足しの能力なのです。
努力したり、勉強したりして身に付く力は、本当はよけいな能力なのです。
いくら小さな子供でも、誰が本当に自分のことを大事にしてくれているかはわかるものです。
成長して、損得を考えたりすると、見えなくなってしまう。
裸の王様はそういう話ですね。

大事な言葉というものもそういうものです。
子供がはじめて教えてもらう言葉、「こんにちは。」「ありがとう。」「さようなら。」
それさえしゃべれたら、人間はいくらでも生きていけるのです。
分かっているのになかなか言えません。

「こんにちは。」「ありがとう。」「さようなら。」
それが本当に言えたら、もう人間として十分ですね。



読者のコメント
(2004,4,24到着分)

 今回療養アイデア集に<療養のコツ(2004,4,22)>が追加されまして大変納得致しました。
それをお伝えしたくてメールした次第です。

ポイント1、 規則正しい生活。
        夜昼逆転はいけません。
ポイント2、 一日20分程度は汗がにじむ程度の運動をする。
        散歩でもよいです。
ポイント3, 一日一度は、家族以外の人と話をする。
        買い物に行って、店員さんと話すだけでも良いです。
ポイント4を実行すると良いでしょう。
       それは、「一日一度は大笑い」です。

ですが、私の場合はうつの症状がある程度良くなってきたからでしょうか、下宿に一人でいると<暇だなぁ>と感じる、思うことが多くなってきたことです。
そうするとポイント2で運動がてらどこかに行こうかと思うようになります。
(私は学生ですので大学へ行こうかというのも大きな意識改革だと思います)そうして外にでると、買い物もしたりしてポイント3を満たすことになります。
ポイント3の発展として誰かと何かの約束をして、また出かける機会が増えることもあります(ポイント2&3です)。
ポイント2&3をこなしていると、やはり疲れますので眠たくなるので寝ます(ポイント1)。
 これの循環を繰り返していると、よりよい方向へ向かうのでは無いかと最近自覚するようになりました。
ポイント4はポイント3をうまくこなせて人と多く会話するうちに生まれてくるように思います。
なかなか一人でいて本・漫画・ネットを見ていて大笑いは難しいので外に出かけるようにしていると、だんだんうまくことが運ぶのではないかと感じました。
( I )




療養のコツ(2004,4,22)

どういう風に療養生活を送ったらよいのかと訊ねられることが多いので、今回はそのポイントをお話しします。

ポイント1、 規則正しい生活。
        夜昼逆転はいけません。
ポイント2、 一日20分程度は汗がにじむ程度の運動をする。
        散歩でもよいです。
ポイント3, 一日一度は、家族以外の人と話をする。
        買い物に行って、店員さんと話すだけでも良いです。

これら三つを実行していれば、こころの病気は必ず改善に向かいます。

余力のある人は、ポイント4を実行すると良いでしょう。

それは、「一日一度は大笑い」です。





読者のコメント
(2003,8,4到着)

「大切なこと」、という文章と「病気の効果」という文章を読んで
目から鱗が出ました。
急に正しい考えが湧いてくるわけではない、その通りだと思いました。
その事で苦しさを持続させていました。
そして「病気の効果」にある家族の言葉を読んで、私の家族も
そう思ってくれているのはないかと思って何かちょっと感動というか
喜びみたいなものを感じました。
私がこの思いを抱えるようになって、家族に話すようになって、
どれだけ心の許せる家族でもちょっとした言葉で傷つけてしまったり
自分勝手な事をして傷つけていいわけがない、と強く思うようになったし
家族の悩みを真剣に実感を込めて聞くことができるようになったと思います。
その事で家族は私をもっと愛してくれていると自分で言うのも変な話
ですがそう感じました。
特に妹に対する暴力的な発言が多かった少女時代だった私を、心の病気
という形でその愚かさを教えてくれたんですね。
そういう事を少しは感じていたんですが、この文章を読んで
改めて実感する事がてきて、そのことは、今の私になくてはならない事
だったと思います。
(K.N)






・名医と名患者。
(2003,7,19)

 
世の中には名医と呼ばれる人がいます。
多くの医者が、これは見込みがないと、匙を投げたような患者を診察して、見事に治療してのける人のことです。
患者の立場に置かれると、そういう医者に診察してもらいたい、治療してもらいたいと思うのは当然でしょう。
さて、ここで指摘したいのは、名医のちょうど裏側になるような人として、名患者と呼べる人がいることです。
名患者とは、あんな医者に治療されたら死んでしまうと言われる医者に診てもらっても、その医者の能力のうち、一番優れたものを利用して、勝手に治ってしまう患者です。
そういう患者さんに出会うと、できの悪い医者でも、自分にも治療ができたと考えて、自信を持ち、意欲をもって仕事に取り組めるようになります。
どんな医者でも、最初は本当に藪医者です。
そういう人が、やがては一人前になれるのは、名患者の導きによるのです。
名弁護士は名相談者の存在によって作られます。
名僧は名信者の存在が支えです。
すぐれた教育者は、すぐれた学生によって作られます。
逆ではありません。
患者の立場になると、自分は受動的な存在だと考える人が多いですが、それはとても一面的なとらえ方です。





・なんのために生きているのか。
(2003,6,23)
 「私はなんのために生きているのでしょうか。」という質問を、患者さんから受けることがあります。
 そういう時、「あなたが生まれてきたとき、どんなことが起こりましたか。
」と尋ねることにしています。
「さあ!?」という人が多いです。それでも質問をしていくと。「家族はよろこんだでしょうね。」「父母は、この子のためにも頑張ろうと思ったでしょうね。」という話になります。
そのことを言い換えると、貴方が生まれたことによって、周囲の人は喜びを得たのです。
そして、身近な人に生き甲斐を与えたことになるのです。
だから、あなたの生きている意味は、今もその時と同じです。
周囲の人に喜びを与え、生き甲斐を作ること。
それが貴方の生きている意味です。





大切なこと(2003,6,8)
わたしが面接のときに一番繰り返す言葉は、「あせらないでください。」とういうことと、「別に何もしなくてよいです。」という言葉です。
「そんな馬鹿な、何もしなくて良いのですか。」と質問する人もいます。
しかし、考えて見れば、精神科に通院するだけでも大変なことです。
それも定期的にです。
その努力だけでも、何かを変化させる力はあると思います。
焦らないことです。
病院に来る人は、何かをしないといけないと考えています。
しかし、病院に来る前は、それこそ真剣に考え抜いていたでしょう。
それでもうまくいかなかったのです。
急に正しい考えが涌いてくるわけはありません。
今は、よけいなことを考えず、古い考えを洗い流す必要があるのです。
そのためには、正しいと思いつくことにすぐには着手しないことです。
何もしないだけで、古い考え方は少しずつ消えていきます。
そうすれば、自然に新しい考えが動くようになります。
大きな変化が、そんなに急に起こるわけがありません。




・病気の効果
(2002,11,30)
ある患者さんの知り合いが、「あの人は、精神的な病気になってから、本当に人間がまるくなりました。
以前は、人を傷つける大変な人でしたよ。病気になって良かったですよ」と言いました。
考えてみると、そういうこともあるかもしれません。
医療関係者というのは、病気は悪いもの、なくすのが当然のものだと考えています。
でも、本当は意味があったり、必要性があったりするものなのかも知れません。
こんなことを言うと、病気を治せない負け惜しみに聞こえるかも知れません。
しかし、患者さんの家族の話を聞いていると、ときどき、
「子供が病気になって、人間のことや社会のことをどれだけ学んだかわかりません。」という話を聞きます。
時には、「あの子が病気になって、私は初めて人間らしい人間になりました。
その意味では、あの子が病気になったことを感謝すらしています。
病気になったことを悲劇だとは思いません。
こんな人々がいること、そして日々努力している人の存在をしらなかったことがむしろ悲劇に思えます。」
という話を聞いたこともあります。
医療者にはそういうことを言う資格はないのですが、
ごく普通の人たちの言葉として、ご紹介してみました。





・タクシーのたとえ
(2002,6,2)
 
タクシーに乗るときは、運転手に運転を任せます。
自分がどんなに運転が上手でも、運転手の運転のしかたに口を挟んだりはしません。
とりあえずはまかせるのです。
気になるからといって、「横からダンプが近づいている。」「前の車との車間距離がたりない。」「ブレーキを押すタイミングがおかしい。」などと叫び続けていれば、運転手から、「降りてください」と言われるでしょう。
かといって、何でも任せておけばよいというわけでもありません。
「金閣寺へ行ってください」と言ったのに、車が金閣寺ではなく銀閣寺の方向へ走っているとしたら、「金閣寺にお願いしているのですが、銀閣寺と間違えていませんか」と尋ねるのは必要なことでしょう。
一つのことを専門家に任せるのにも同じようなことが言えます。
何から何まで任せてしまってはいけませんが、一つ一つにコメントをつけすぎると逆効果になることもあります。





・あしもとを見ること
(2002,3,7)
 山へ登る時、頂上をながめて、目的地はあそこだと確認することは必要だろう。しかし、頂上ばかり見ていたのでは、すぐに足元の石や木の根につまずいてしまうだろう。頂上へ登るには、足元を見て、一歩ずつ歩いていくしかないのだ。頂上を見ずに、足元を見なさいと言うと、「バカにしないで、私の目標はもっと上にあるのよ。」と言い出す人がいます。なんだか元気一杯のようでも、そんなことでは、すぐに失敗してしまうことでしょう。



・ジョージ・ワインバーグの言葉
(2002,2,20)
 ジョージ・ワインバーグというカウンセラーは、面接の時に、いつも次のように呼びかけてきたそうです。
「あなたが中心なんです。それについて考える力がまだないうちに、あなたがすでに始めていた人生の旅は素晴らしいものなのです。あなたがどこからやってきたかは問題ではありません。混乱した状況で、あなたは数多くの決断を下してきました、そして人生について学びそれを解釈し、ひとりの人間としてできる限りのことをしてきたのです。それがあなたなのです。あなたはおそらく中途で脱線したり、孤独になったり、負けたように感じたかもしれません。あるいは、努力したのに人間関係がうまくいかなかったり、生きながらにして埋められたように感じたかもしれません。しかし、もう一度やってやろうという気持ちは、あなたの心臓のように、どこかで動き続けているはずです。人生の旅のどの段階もとても貴重なものであって、私はそれを非常にすばらしいと思っています。」
 『セラピストの仕事
』より



・前向き思考(2002,2,7)
 ネガティブ思考で、まったく前向き思考ができないと言うのですね。
 ものの本には前向き思考が大事で、ネガティブではいけないと書いてあるのですね。
 それが困ったことだというのですね。
 私に言わせれば、自分の考えがネガティブだという考えが、もう後ろ向きなのです。
悲観的になったら、なんて自分は慎重なんだろう、最悪の状況の準備をするなんて、すごい!すばらしい!その調子だぞ!と思うことですね。
 自分の考えが後ろ向きだと判断したときに、その考えは後ろ向きになるのです。



・もつれた糸(2002,2,7)
 もつれた糸をほぐすには、これぞと確信があっても、特定の糸をぐっと引っぱってはいけません。
全体をゆっくりともむようにして、ふんわりとほぐします。
優しく扱っていると、いつの間にかゆるんでくるのですね。
急いで、どこかに力を入れると、一層もつれがひどくなります。
何事も、こじれた問題は、そんなものじゃないでしょうか。



(読者のコメント)(2002,2,7到着分)
お久しぶりです。
以前(昨年9月)にうつ病で先生のところへ診察にいった学生です。
通院をやめてしまいましたが、時々このホームページをみて元気もらっています。
うつ状態の時に涙流してよくこの療養アイデア集を読んで頑張ろうって思えるんです。
うつ病とまだ一人で戦ってますが、私のうつ病を治すのは結局は薬ではなく、私の考え方にあるってことに気がつきました。
考え方一つで、私の心が楽になるっていうことを知りました。
まだまだそれを行動に移すことは難しいけれど、少しずつがんばっていきたいです。
うつ病って弥生時代など昔にもあったのかなーって不思議に思うことがあります。



・早く、早く(2002,1,27)
 病気から早く良くなりたいというのは、誰もが感ずることでしょう。
 でも、風邪を引いたとき、熱が下がったからと言って、すぐに動き出して、ぶり返した人がいると思います。
 自分では治っていると思っても、あわてるのは禁物です。
 早く治すより、ちゃんと治すことが大事です。
 怪我をして、かさぶたがはったばかりなのに、治ったかなあと無理にはがせば、また血が出ます。
 本当に治っていれば、自然にかさぶたは落ちるものです。


・イヌの前に立ちはだかる(2001,12,16)
 狂犬がおそろしい勢いで走ってきたら、だれでも道を避けると思います。自分は人間で、相手はイヌだから、負けてたまるかとぶつかっていく人はいません。負けるが勝ちとすら思いません。ところが、相手が人間と言うことになると、ぶつかっていきたくなる人がいます。こんなことは許せない。引っ込むわけにはいかない。負けてたまるかというわけです。


・棒ほど願って、針ほどかなう
(2001,12,16)
 願い事というものは、なかなか完全にはかないません。それが棒ほど願って、針ほどかなうという言葉です。ですから針ほどの希望を実現するのに、針ほど願って、針ほど努力しても、実現する可能性はありません。針を実現するには、棒ほど願う必要があります。棒ほど実現しようとしたら、一抱えも、二抱えもあるような大木ほどの願いを持つ必要があります。自分の夢を叶えるためには、2ランク上の目標を持つ必要があります。病気を治したい人は、病気が治ってその上で何をするのか、それができたらどうするのか、それくらいを考えて、進んでいくようにしたいものです。


・進歩の速度
(2001,12,3)

 物事というのは、右肩あがりにドンドン進歩するなどということはありません。
 階段みたいなもので、急に上昇する段階もあれば、まったく変化が見られないような段階もあります。
 つまり、変化は坂道のように継続して変化するのではなく、階段のように変化するものなのです。
 しかし、一見変化がないような状態が続くからこそ、次の大きな変化があるのです。
 色々な稽古事でもそうですが、大きな成長の前には必ず、なにをやっても効果がないような時間があるものです。
 そこで投げ出しては、物事は結局変わらないものだという結論となってしまうでしょう。
 忍耐をもって待つ人にだけ、ある日、変化や成長がやってくるのです。



・わかっているつもり
(2001,11,23)
 自分ではわかっているのだけれど、なかなか自分の行動は変わらないと言います。面接をしていても、そういう表現をする人が多いです。
 でも、「今、あなたの水を飲もうとしたコップは、本当はおしっこをとるコップです。」と言ったら、そのコップを使う人はいません。一度聞いただけで、その人の行動が変わってしまうのです。
 たとえば、あなたが密かに好意を感じている異性が、実はあなたに思いを寄せているとします。そのことを知ったとたんに、あなたの行動ばかりか、声のトーンまで変わってしまうでしょう。変えようと思わなくても変わるのです。
 真実の力というものはそういうものです。知ったのに変わらないというのは、本当に大事なことがまだわかっていないからです。
 だから、わかったつもりになって、無理に自分を変えようとすることはやめたほうが良いのです。


・山登りのたとえ
(2001,11,21)
 高い山へ山登りをするときに、道は決して昇りばかりではありません。尾根を越えて、谷を下って、また尾根を登るというのが一般的です。山へ登るのだから、道は上に向かっていなければならないはずだと考えても、事実はそういう風にはいきません。登ったり、下ったりしながら、次第に上へ上へと道は昇っていきます。道が下りだしたときに、こんなはずではないと言い出したら、ついに頂上へは到達しないでしょう。
 道が下りになると、道を間違ったのではないと疑いますが、やがて道はもう一度登りだし、今度はさっきより一段と高い尾根へとつながっています。昇り下りにこだわらず、黙々と進んでいけば、やがては頂上に至るでしょう。


・ゆりもどしのたとえ(2001,11,21)
 地震の後には、ゆりもどしがあります。変化があっても、その後に反動が来て、その後にやっと安定するのです。時には、揺り戻しが何度もあることがあります。揺り戻しがなければ、まだ本当の安定ではありません。病状が安定した後に、安心と思ったらとたんに病状が悪くなることがあります。これも一つの揺り戻しです。本当の安定を求めるのなら、揺り戻しが来ていないうちは安心できません。
 病気が治ったと思っても、「あれれ、治っていなかったのかなあ」と思える段階を経過しないと、本物ではありません。少し悪くなる程度のことがあって、やっと本物です。病状の回復過程で、良いことばかりが続いている段階では、まだ完全な回復ではありません。だから、「治りました。」と言っているうちは、本当に治っているわけではありません。


・イヌと言葉 
(2001,11,16)
 子犬のときからイヌを飼っていると、なついてしまって、帰宅すれば飛んでじゃれつくし、こちらがしょんぼりしていると、ワンワンと励ましてくれて、人間と同じような愛情をもっていることに気づく。でも、どれだけイヌに愛情があっても、人間と同じような言葉をしゃべって、励ましてくれたり、愛を表現してくれることはない。そのことに、誰も疑問を持たない。イヌはしゃべれないものと考えているからである。愛情と能力は別のものなのである。
 ところが人間は不思議なことに、相手が同じ人間であると言うことになると、愛情があれば能力はついてくるものだと信じたがる。愛情があれば、もっと私のことがわかってくれるはずだとか、思いやりがあれば、私にもっと優しい言葉をかけてくれるはずだとか。あなたにできないのは、能力がないのではなく、愛情がないからよ、というわけである。しかし、愛情さえあれば、その人はスーパーマンになれるのだろうか。そういう風に思うのは、相手に能力がないと考えるより、愛情がないと考える方が、こちらが楽だからかもしれない。


・階段のたとえ
 (2001,11,14)
 階段には踊り場というものがあります。別に、無くても良いようなものですが、これが無いと階段を上り続けるのは無理でしょう。二階までの階段ならまだしも、10階とか20階の建物に、踊り場なしの階段では、怖くて上れないでしょう。いつも一本調子では、やっていけないものです。
 何か、一つのことをするにも、時々休みを入れたり、方向を変えたりすることが必要です。そうすることが安定してものごとを続ける秘訣でしょう。能率良くやろうとして、ただそれだけを考えていると、破綻してしまうものではないでしょうか。人間は疲れてくると、必要な休みを取ることすら忘れることがあります。それは大きな失敗につながる誤算です。


・乗り換えのたとえ (2001,11,14)
 歩いている人が、自転車に乗ろうとしたら、一度は立ち止まる必要があります。自転車に乗っている人が、バイクに乗り換えようとしたら、一度は自転車を降りて、立ち止まらなければならない。より早い移動手段に移るのに、一度は止まらなければならないのは、矛盾のようですが、現実には必要なことです。
 全速力で自転車をこいでいて、そのままバイクに乗り移ろうとするようなことを人間は時々やってしまいます。あなたはどうでしょうか。



・悟りの話・その2 (2001,11,12)
 同じ宗教家と別の時に話したときのことです。私は「悟りを開いた人は人格円満で、みんなに好かれるようになるのでしょうか。」と尋ねた。すると、「お釈迦様でもダイバダッタという身内の人に殺されそうになった。達磨さんも毒殺されそうになった。悟りをひらけば、みんなに好かれるのなら、そんなことは起こらんだろう。」と言われた。「では、普通の人と同じですか。」と尋ねると、「普通の人は、不幸せが始まっているのに、まだ幸せが続くと思ったり、幸福なのに、まだ本当の幸せではないと考えたりする。悟った人間は、幸せなときは幸せだと思い、不幸せなときは不幸せだと思うだけだ。」


・悟りの話・その1 
(2001,11,12)
 ある宗教家と話したときのことです。私は「悟った人はどういうことを考えるのですか」と聞いてみました。すると、「悟った人は、できることをできると考え、できないことをできないと考える。」との返事でした。私は「そんなことは当然ではないですか、できないはずのことができるようにならないと、値打ちがないのではないでしょうか。」と言いました。すると「できないことをできないと考え、できることをできると考えるのはむつかしいことだ。できることをできないとあきらめるから、人間は元気を失うし、できないことをやろうとするから、恥をかくのだ。できることと、できないことの区別がついたら、悩みなんて起こらんよ。」と言われた。



・豆腐のたとえ (2001,11,12)
 豆腐を手の中に持っていると、本当に持っているのかどうか疑わしくなることがあります。目で見ていれば、確かに手のひらの上に乗っているのに、手応えがありません。豆腐というものは本来そういうものです。でも、本当かしらと疑いだしたらどうでしょう。手応えがないから、もしかして落としてしまうのではないか、そんなことを考えるかもしれません。手応えを求めて、手に力を入れたらどうなるでしょう。手応えがないので、心配になって手に一層力を入れるかもしれません。その結果はどうなるでしょうか。おわかりのように、手はぎゅーっと握られて、あったはずの豆腐は、指の間から、漏れだして床に落ちてしまうでしょう。その時、ある種の人は考えます、やっぱり手の中にはなかったのだと。
 ある人は、友人から裏切られるのが怖くて、「あなたは私を捨てようとしているだろう。」と問い続けました。友人は、最初は真剣に否定していたのに、段々面倒くさくなって、黙って去っていきました。そのとき、最初の人は、「やっぱりそうだった。最初から裏切るつもりだったのだ。」と言って、自分の直感力に満足したのでした。
 

・トンネルのたとえ (2001,11,6)
 自動車を運転している人が、トンネルに入って、出口が見えてくると、思わずアクセルを踏むそうです。運転手は、早くトンネルを抜け出したいと思うのでしょう。ところが、そのためにトンネルの出口では事故が起きやすいそうです。
 登山の場合でも、頂上に着くまでと、着いた後では、下山の時の方が遭難しやすいそうです。
 病気の療養でも同じ事が言えます。病状が改善に向かうと、もっと早く良くなりたい、早く全快したいと思うものです。そのために、不安な点があっても、一気に加速をかけてしまいやすいです。よくよく注意しないといけません。改善のきざしが見えてきたら、逆に慎重に、ゆっくりと進むぐらいが大事でしょう。
 早く治ることより、確実に治ること。確実に治るより、ゆっくりと治ること。ゆっくりと治るより、良くなったり悪くなったりするという、治る過程を味わうこと。治る過程を味わうより、そんなことにも気づかぬ事。そんな風でありたいです。


・あかちゃんのたとえ・その2 (2001,11,5)
 
あなたが生まれてきたとき、ことばもしゃべれないし、目も見えない、立つこともできず、満足に食べることもできませんでした。着る服だって準備せずにやって来て、おまけに一文無しでした。そのまま放置されたら、たぶん数時間で命を失ってしまったことでしょう。それでも、貴方は死ぬこともなく、今ではパソコンを操って、ホームページを覗くまでになっています。
 あなたが、頭を下げて頼まなくても、色々な人が自発的に協力して、貴方の命を守っただけでなく、身銭を切って、食べさせてくれたり、服を着せてくれたりしたのです。
何もしゃべれず、説得しないのにですよ。
 あなたは、今では人の考えていることを話し合いで理解することもできますし、自分の意志を伝えることもできます。だとしたら、赤ちゃんのときよりもっと、貴方自身の協力者、援助者を見つけられるはずです。その方法が上手く見つからないと言って、あきらめてはいけません。
 生まれてきたときの貴方は、心細さでなきわめいていたのです。それでもちゃんと守られてきました。そのことを思えば、勇気が湧いて来るではありませんか。



あかちゃんのたとえ・その1 (2001,11,4)

 人間は生まれてくるとき、生きるのにもっとも必要な能力をまず身につけて生まれてくると思います。どうでもよい能力を持っていたら、それこそびっくりです。直感力はまるでテレパシーのように身につけているのに、ものを考える力なんてまるでありません。つまり、人間にとって、あれこれ考えたり、悩んだりすると言う能力は、本当は不可欠ではないのです。ああしたらいいのか、こうしたらいいのかということが、本当に人間にとって大事なことなら、生まれたての赤ちゃんはすぐに、ああでもない、こうでもないと悩むでしょう。ところがそんなことは全くありません。おっぱいが欲しくて泣いているか、おむつを変えてもらって満足して寝ているかです。
 このことから、ショッキングなことが判明します。つまり、貴方が悩んでいるようなことのほとんどは、どうでもよいことなのです。



・新幹線のたとえ・その2(2001,11,3)
 新幹線の「のぞみ」に乗れば、京都の次は名古屋です。名古屋の次は東京です。座席に座っていようと、廊下を歩いていようと、東京駅に到着する時間は同じです。本を読んでいようと、寝ていようと同じです。ところが、いつも何かの努力をしていないといけないと考える人が居ます。できるだけ頑張る、集中する、新たなことに挑戦する。すると事態が改善するという考えです。しかし、新幹線に乗ったら、別に努力のしょうがありません。頑張ろうと思って、全力で廊下を走っても、人より早く東京駅に着くわけではありません。
 精神科の治療には、努力が必要なこともありますが、のんびり、ゆっくりすることが大切な場合が多いです。
 あなたは今、新幹線の車両の中で走っていませんか。



新幹線のたとえその1(2001,11,3)
 精神科を受診する人の中には、クスリを使わないで治したいという人があります。クスリに頼りたくない、自分の力で治したいのだというのです。確かにその方が良い人もあります。クスリの副作用が強い人や、クスリに依存的になりやすい人などです。しかし、クスリを使うのが適切な選択であるにもかかわらず、使いたくない人があります。そういう人に説明するときの話です。
 京都から東京に行くのに、ほとんどの人は新幹線を利用します。足があるのに歩いていく人はありません。クスリを飲まずに治そうとするのは、新幹線を横目に見て、歩いて行こうというようなものです。確かに、歩いても行けます、しかし時間もかかるし、足も痛くなります。色々な人が利用して、安全で確実だとi言われている方法は、やはり使った方が良いのではないでしょうか。
 なんでも、自分の力でやろうとしていませんか。ちょっと考えてみてください。


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