宮沢賢治と菩薩

    1、

 宮沢賢治に対する評価は、近年高まる一方である。彼ほど時とともに評価の高まる、作家もいないかもしれない。
彼に光があたらなかったのは、彼の選んだ詩や童話という分野が、小説のように大衆になじみにくいものであったということもあろう。
しかし、彼の表現世界の普遍性が、多くの人に理解されるには、あまりにも時代に先駆けていたとも言える。
逆にいえば、高い評価の一方で、低い評価も行われていたということになる。

 賢治というと、まず「雨ニモマケズ」の詩を思い浮かべるひとが多い。
この詩によって、賢治の印象が作られてしまっているといってもよい。
その禁欲主義や自己犠牲は、一読するだけで、強く印象に残る。
しかし、この詩を賢治の最高作品と考える人もいれば、駄作だと酷評するひともある。その評価が別れてしまうのである。
それは、彼の禁欲や自己犠牲が、詩の表現として洗練されているかどうかの評価の問題であろう。
この評価の分裂に、賢治の表現した世界に対する評価の分裂も、示されているいるのではなかろうか。

 賢治は二十四才から二十九才までの間、花巻農学校の教諭として働いた。
また、三十四才の年に、半年ほど東北砕石工場の技師としても働いた。
しかしそれらをまとめても、彼が三十七才で亡くなるまで、彼が実際に働いていた期間はせいぜいが五年程度である。
その他は学生か、病床で療養を続ける病人であった。
結局は家族の援助で生活する人間であった。
彼が、実人生を自分の経済力で背負った期間は短い。
彼の文学特に、童話の中には、一種の未熟さや空想性、現実遊離の傾向が見られるのはやむえないだろう。

 賢治は三十七才で亡くなった。
彼の生命をうばいとった結核という病気を考えると、彼は死の数年前から自らの死を自覚していたであろう。
彼が砕石工場技師として、半年ほどの間、東奔西走した姿を見ると、自分の死を手繰り寄せているとしか思えない。
このようなある種の早急さは、死を予感したからであといっても、社会性の未発達、計画性の欠如、人間集団に対するときの早急さといえるだろう。
こうした点は当然一つのひとりよがり性となるであろう。

 彼が法華経の信者であったことは、よくしられている。
彼の文学の中にも、法華経はしばしば登場する。
賢治が、深夜団扇太鼓を叩いて、花巻の町をめぐり歩いた話などは、彼の偏執的な面を物語っているようでもある。
彼が二十四才の時、家を出奔・上京して日蓮主義の宗教団体・国柱会本部を訪ねるくだりには、いくらか神がかり的な部分が感じられるほどである。
このようなエピソードを延長すると、彼がかたくなさや偏狭さを持っていたのではないかと、予想させるに充分であろう。

 これらの点は、彼の文学がこの世の現実に開かれていたかどうかの評価に、かかってくる。

   2、

 宮沢賢治の文学に対して、もし否定的な評価があるとすれば、その根拠となるものは何かを考えてみた。
しかし、これらの根拠は「人間の理想は実現されるべきである。」「理想の実現は、可能な形で着実に、計画的になされるべきである。」という前提を持っている。
功利主義、機能主義を重視するとき、これらの前提は力を持ってくるだろう。
「理想があっても、その実現手段を持たなければ無効である。」という考え方は、マルクス主義も含め、近代的思考につきまとっている。
 しかし、本当にそうなのだろうか。

もし、 そういう疑問が実際に出てきたとすると、その疑問に答えきることはむつかしい。
その疑問を別の言葉にすると、理想を作ることそれ自体が、すでに一つの仕事であるという立場になるかもしれない。

 功利主義、機能主義は、目標にむけて組織を作り、それを運営するときに、その可能性を発揮する。
しかし、その目標が本当に人間の幸せにつながっているかどうかには、答えを持たない。
多くの人にとって、目標が明らかになっていると確信されているとき、目標を問い返す作業は必然性を認められにくい。
そのような目標が達成されたり、失われた時、理想を問い直す作業の重要性が明らかになる。

 賢治の文学に対する評価が変わってきたとすれば、こうした点にかかわっているのではないかと思える。
賢治の文学はまさしく、この「理想を作ること自体が、一つの仕事である。」という姿勢に貫かれているからである。
賢治を象徴する、「雨ニモマケズ」の文章が「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」で終るのはその端的な現れであろう。

    3、

 賢治は一体いかなる人間であったのか。
彼の人間を規定するとき、彼は文学者なのか、教育者なのか、農業技師なのか。
私は賢治は宗教者であったと、まず考えるべきではないかと思う。

 彼がその死に際して、遺言として残したことは、法華経を一千部印刷して配布することだった。
そして、その法華経には次のような一文がそえられた。

 ”私の全生涯の仕事は此の経をあなたのお手元に届け、そして其のなかにある仏意に触れてあなたが無上道に入られん事をお願ひするの外ありません”

 この文章を文字どおり取れば、彼の生涯は法華経に導かれたものということになろう。
彼の人生のもろもろは、印刷された法華経の前書きか、注釈の一部ということになろう。
このように自己規定する人間は宗教的人間という他はあるまい。

 そのように見たとき、彼の文学は、彼自身の宗教体験の定着、伝達の方法に他ならなかったというふうに見えてくる。
このことが、彼の文学を考える場合の第一の点である。

 賢治の文学を考えるときの第二の点は、彼の文学活動が、妹の発病と死、そして彼自身の死に挟まれて存在していることに気づくことである。
彼の作品に見られるある種の切迫感、かたくなさは、あまりに早く訪れた死ということを考えるとき、はじめてその意味がつかめるのではないだろうか。
おそらく彼は自分の夭折を知っていただろう。
そして自分の死から逆算して、すべてをなしていたのではないか。
彼がどのような作品を作っても、その隠れたテーマは、「死」にあったのではないか。

 「雨ニモマケズ」はあまりにも有名である。
この文章は石灰販売のために上京し倒れた後の病の床で、賢治が手帳に書きなぐったものである。
この文章はいくつかの文章と並んで書かれている。

 「快楽もほしからず

  名もほしからず

  いまはただ

  下賎の廃躯を

  法華経に捧げ奉りて

  一塵とも点じ

  許されては

  父母の下僕となりて

  その億千の恩にも酬へ得ん

  病苦必死のねがひ

  この他になし 」

 「  疾ミテ食摂ルニ難キトキノ文

  コレハ諸仏ノオン舎利ナレバ

  一粒ワガ身ニイタダカバ

  光明身ウチニ漲リテ

  病カナラズ癒エナンニ

  癒エナバ邪念マタナクテ

  タダ十方ノ諸菩薩ト

  諸仏ニ報ジマツラント

  サコソヲロガミマツルナリ 」

 これらの文章は、同じような構造を持っている。
つまり、生きられるならこのようにしたいということである。
逆に言えば、このようにするから生きさせてほしいというものである。
これは、アメリカの精神科医キュブラー・ロスが死を宣告された患者に面接して明らかにした、死のプロセスの「取引」の段階のように思える。
この段階にあるとき患者は、これまでの自分の人生を反省し、「このようにするから生きさせてほしい。」と願い、神と取引しようとするというのである。
もし、そのようなものだとすると、「雨ニモマケズ」は、死を前にした人間の、心からの願いを記したものということになる。
もちろん、公開や出版を想定してはいまい。
そのような文章が彼の代表作とされるのであれば、そこに彼の文学の本質が当然現われてくるだろう。

 賢治のなかにはある種のかたくなさがある。
しかし、彼は他方で強いユーモアの感覚も持ち合わせていた。

 「革トランク」という作品は、賢治の自伝的な短篇である。
村長の息子・斉藤平太は学校を卒業したのち、村で建築設計事務所の看板を掲げる。
平太の設計した建物は廊下がなかったり、階段がなかったりしたため、責任を感じて東京へ逃げだす。
二年ほど東京で建築の仕事の現場監督をしているうち、母が病気になる。
父親は平太をよびもどさせる。
平太は貯金のすべてをはたいて、革のトランクを買う。
それは平太の見栄のあらわれである。
トランクの中に入れるものがないため、「親方に頼んで板の上に引いた要らない絵図を三十枚ばかり貰ってぎっしりそれに詰めました。」郷里に帰った時、父親はその革トランクを見て、「にが笑ひを」する。

 この文章のなかには、父親の庇護のもとに、平太に仕事が回っていたことが暗示される。
また、大工達が平太の設計に不審を抱いても、賃金が高いため、何も言わないことなどが示される。
それらは、普通にはありえないことなので、そのたびごとに「こんなことは実にまれです」という一節が入る。
「こんなことは実にまれです」というのは、平太の脳天気ぶり、おめでたさを示している。
このリフレインのたびに、読者は「にが笑ひ」をしてしまうだろう。

 しかし、賢治の生涯を見たとき、この設計事務所も、現場監督も革トランクもそれぞれが、違った形で現実にあったことなのである。
賢治は平太を笑いながら、実は自分を笑っている。
おそらくは、賢治自身が生命を懸けたであろう仕事(そこには宗教活動も含まれている)をも、笑いの対象にしている。
そこには自分の死すら笑いかねない、深いユーモアがある。
それは、本当の成熟を経なければ、出てこないものである。

 また、賢治はポルノのオーソリティーでもあったらしい。
盛岡高等農林学校を卒業後、鬱々として家業の質屋の店番をしながら、浮世絵版画の膨大なコレクションを作っていたという。
しかし、その内容はおそらく、永久にだれにもわからないだろう。
ともかく、彼が単なる禁欲主義者でなかったらしいということは言えよう。

 賢治の仕事はすべて未完成のものである。
生前に出版されたのは、『春と修羅』『注文の多い料理店』の二冊だけである。
また、彼の代表作とされる「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「ポラーノの広場」なども、何度も改訂されていて、決定稿であるかどうかもわからない。
つまり彼の行為、作品のすべてが、試行段階、草稿なのである。
つまり、なにかにむかって開かれている。開かれた形なのである。
このことは、彼のなかにかたくなと見えるものがあったとしても、それもまた、長い経過の一つなのかもしれないと思わせるものである。

 「農民芸術概論」の結論は次のようなものである。

「結論

 ::われらに要るものは銀河を包む透

    明な意志、巨きな力と熱である:

 

    われらの前途は輝きながら険峻であ

     る

    険峻のその度ごとに四次芸術は巨大

     と深さとを加へる

    詩人は苦痛をも享楽する

    永久の未完成これ完成である 」

 「永久の未完成これ完成である」とすれば、彼の行為や作品の未完成な姿が、そのままで一つの完成であると言えよう。

    4、

 賢治は一八才の時、島地大等編著の「漢訳対照法蓮華経」を読み、異常な感動を受けたという。
その後彼は、一生法華経を手元から離さなかった。
彼の一生は法華経によって導かれているといえる。

 賢治は三五才の時、砕石工場の技師として東京へ製品の売込みにいっていて、倒れて死を覚悟した。
そのとき家族あての遺書を書いている。

 「この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいただきながら、いつも我慢でお心に背きたうとうこんなことになりました。
今生で万分の一もつひにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生、又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。

 どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。
そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。

   (1931年)9月21日

               賢治 」

 彼の信仰は、遺書の核心となるまでに、深く煮詰められている。
彼の信仰がここまで深まったのは、彼が消極的、受動的な宗教者であっただけではないということを示していよう。
彼の宗教態度は深い宗教体験を持った人に帰依して、それを心のよりどころとしているようなものではない。
彼は行者であった。つまり積極的、能動的な宗教者であり、自らの宗教体験から出発するひとであったと言える。
賢治を評価する人にもあまりそのことが共感されていない。
信仰者というとらえかたが多い。

 彼が受動的な宗教者であるとしたら、彼の態度はかたくななものがあるだろう。
しかし、彼が自分自身の宗教体験を核にしているのだとしたら、彼の態度はむしろつつましいものかも知れない。

 彼が法華経をとなえて夜の花巻の町をめぐった事実がある。
それを彼がそう状態であったと取る人もある。
また、彼が行的な行動にでたいくつかのエピソードを性欲の克服法と見る人もある。
しかし私は、素直に宗教的な行為とみたい。

     5、

 賢治が21才の時、彼は岩手病院で診察を受け、肋膜炎と診断された。
そのとき彼は友人に「私の命もあと15年はありません」と言ったという。
それが事実とすると、彼の寿命は予言通りだったことになる。

 この年の暮れ、妹トシが勉学中の東京で倒れた。
賢治は父の命によって上京し、次の年の2月まで看病することになる。
毎日の病状の変化を克明に父親に書き送った賢治の手紙は、時には一日2通におよんでいる。
その内容は病状報告が主であるが、トシの病状好転に伴って、賢治の東京見聞の内容が見られるようになる。
そこには、東京への家族全員の転居の提案もある。
トシは病気療養のため故郷に帰ることとなるが、賢治の手紙には彼が東京に止まって、トシのなしえなかったことをなそうとする発想が感じられる。

 賢治は24才の時、突如上京する。
その背後には、学半ばにして学業を終えなければならなかった、トシの挫折した思いがあっただろう。
しかし、彼の東京での模索もトシの発病の知らせによって、中断する。
この時、童話原稿を詰めて持ち帰ったトランクが、先に見た「革トランク」である。
賢治が農学校の教諭となるのは、この上京の挫折の結果である。
つまり、宗教活動への専念を諦めた所から出ている。

 次の年11月27日、賢治が26才の時、妹トシは亡くなった。
彼は妹の死に際して、「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」の三つの詩を作る。
ここには、妹の生きる世界と自分の生きる世界の断絶が表現されている。
それは、死にゆくものと、この世に止まる者との断絶、祈りと現実の断絶でもある。
妹の死によって、賢治の中に断絶が口を開けたとも言えよう。
賢治はそれに架橋を試みようとしている。「春」と「修羅」との間の架橋である。

 賢治が32才の時、発熱し病床につく。
20ヵ月間、彼は病床生活を送った。
おそらく彼は自分の生命が長くないことを感じたであろう。

 次の年に、東北砕石工場の技師となった時、彼は残る生命を肥料の改善事業に捧げようと考えたのであろう。
しかし、その自己破滅的とすら感じられる活動によって、昭和6年9月、発熱し、その後臥床生活から立直ることはできなかった。。

 彼がその臥床生活の中で作った詩、「眼にて云ふ」を見てみよう。
これは昭和7年の歯茎出血の際のものである。

 「だめでせう

  とまりませんな

  がぶがぶ湧いてゐるですからな

  ゆうべからねむらず血も出つづけるもんですから

  そこらは青くしんしんとして

  どうも間もなく死にそうです

  けれどなんといい風でせう

  もう清明が近いので

  あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに

  きれいな風が来るですな

  もみぢの嫩芽と毛のやうな花に

  秋草のやうな波をたて

  焼痕のある藺草のむしろも青いです

  あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが

  黒いフロックコートを召して

  こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば

  これで死んでもまづは文句もありません

  血がでてゐるにかかはらず

  こんなにのんきで苦しくないのは

  魂魄なかばからだをはなれたのですかな

  ただどうも血のために

  それを云へないがひどいです

  あなたの方から見たらずゐぶんさんたん

   たるけしきでせうが

  わたしから見えるのは

  やつぱりきれいな青ぞらと

  すきとほつた風ばかりです」

 幾人もの人の臨終に立ち合ってきた人間から見ると、ここに述べられているのは、「死」を前にした透明な緊張感に他ならない。
「死」は病人に来ると同時に、その死を看取る周囲の人々にも来るのである。
臨終の床にあるものは、その「死」を内側から見るが、周囲の者はそれを外側から見るのである。
「死」はその双方の間にやってくる。
臨終者から見ると、死ぬのは周囲の人々であり、自分には「きれいな青そらと、すきとほつた風ばかり」が見える。
臨終者のそばに心を開いてすわると、同じような「光と風」が見えてくる。
賢治はその光景を描いているのである。

 賢治は昭和8年9月21日に永眠した。 
彼の人生は、結核との戦いであったと言え るのではないだろうか。
それはつまり、死との絶えざる対話でもあっただろう。

 賢治の世界にある透明感はニア・デス体験や、臨終者を前にした静寂ににている。
それらはいずれにしろ、死者からの視点なのである。

 この死者からの視点は、賢治の作品のあちこちに見られる。
彼が子供を主人公として描いた童話も、子供が弱いが故に、死者に近いと考えるとよく理解できるように思える。
例として「ひかりの素足」という童話を取り上げてみる。

 この作品は、二人の子供が吹雪の中で道を見失ってしまうという話である。

「雪がどんどん落ちて来ます。それに風が一そうはげしくなりました。二人は又走り出しましたけれどももうつまづくばかり一郎がころび楢夫がころびそれにいまはもう二人ともみちをあるいているのかどうか前無かった黒い大きな岩がいきなり横の方に見えたりしました。
風がまたやって来ました。
雪は塵のやう砂のやうけむりのやう楢夫はひどくせき込んでしまひました。
そこはもうみちではなかったのです。
二人の通って来たあとはまるで雪のなかにほりのやうについてゐました。」

 やがて、二人は意識を失ってしまう。
兄の一郎は失った意識の中で、地獄のような所へ行き、やがて「立派な大きな人」に出会う。
「その人ははだしでした。
まるで貝殻のやうに白くひかる大きなすあしでした。」
そして、一郎はその人から、元の世界へ戻るように言われる。
「お前の国にはここから沢山の人たちが行ってゐる。よく探してほんたうの道を習へ」と言われる。
意識を取り戻したとき、弟の楢夫はもう冷たくなっていた。

 この物語に出てくる二人は、「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラを思わせる。
子供の弱さが、吹雪という自然の猛威の前で説得力をもって語られている。
主人公が大人であれば、この遭難は軽率さや無思慮を表現することになるだろう。
しかし、主人公が子供であるため、雪の中をなすすべもなくさまよい歩く姿が、人間の無明を表わしているかのようである。
「ひかる大きなすあし」を持つ人の出現は、一層対比的である。

 宮沢賢治は、ある決定的な無力な体験を持っていて、そこから発想しているのであろう。
人間の無力さのかなたに、大いなる力の持ち主を考える。
人間の無力さは生命のはかなさであり、はかない生命がはかないままに、この世にありうるのは、それが「ほんたうの道」を求めるものだからであろう。

 彼が動物を主人公に取り上げるもの同じ性質を感じさせる。
つまり、はかないものとしての動物、死に近いものとしての動物である。
例の一つとして、「やまなし」という童話を見てみたい。

 この作品は、蟹の子供が谷川の底で話し合っている情景を描写したものである。

 「二疋の蟹の子供らが青じろい水の底で話てゐました。

 『クラムボンはわらつたよ』『クラムボンはかぷかぷわらつたよ』『クラムボンは跳てわらつたよ』『クラムボンはかぷかぷわらつたよ』

 上の方や横の方は、青くくらく鋼のやうに見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。

 『クランボンはわらつてゐたよ』『クランボンはかぷかぷわらつたよ』『それならなぜクランボンはわらつたの』『知らない』つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽつぽつぽつとつづけて五六粒泡を吐きました。それはゆれながら水銀のやうに光つて斜めに上の方へのぼつて行きました。

 つうと銀のいろの腹をひるがへして、一疋に魚が頭の上を過ぎて行きました。」

 やがて、かわせみが来て、その魚を取ってしまう。

 「と思ふうちに、魚の白い腹がぎらつと光つて一ぺんひるがえり、上の方へのぼつたやうでしたが、それつきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金の網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。
二疋はまるで声も出ず居すくまつてしまひました。
お父さんの蟹が出てきました。

 『どうしたい。ぶるぶるふるえてゐるぢやないか』
『お父さん、いまをかしなものが来たよ』
『どんなもんだ』
『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖つてるの。それが来たらお魚が上へのぼつて行つたよ』
『そいつの眼が赤かったかい』
『わからない』
『ふうん。しかし、そいつは鳥だや。かはせみと云ふんだ。大丈夫だ、安心しろ。おっれたちはかまはないいんだから』
『お父さん、お魚はどこへ行つたの』
『魚かい。魚はこはい所へ行つた』
『こはいよ、お父さん』
『いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、樺の花が流れて来た。ごらん、きれいだろう』

 泡と一緒に、白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました。
『こはいよ、お父さん』弟の蟹も云ひました。
光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしづかに砂をすべりました。」

 ここに見えるのは、水底から見た水面の姿である。
「水銀のような泡」や「光の網」「天井をすべっていく樺の花」などが見える。
そのような光景の中で、蟹の子供は、魚がかわせみに獲られる所を見た。
一つの生命が一瞬の内に、失われる所を見た。
それは、川面を流れていく泡や花のように、淡淡として、夢のようですらある。
蟹の子供はそれでも、生命のはかなさを感じて不安がる。
それは、生命を持ったすべてのものが感ずる不安であろう。
その不安もまた、川面の波の影のように、ゆらゆらと変化していく。

 宮沢賢治は動物の視点に自らを置くことによって、生命のはかなさをなによりも説得的に表現することができたと言えるだろう。
蟹の語ることは川の語ることに他ならず、川とは生命の流れに他ならないのである。
人間はだれもがこの川を、川面の方からながめている。
そして、その視点から描写する。
しかし、賢治は水底から描いた。
そこに、賢治の視点の特殊性がある。
それは、死からこの世を見ていた彼の視点を表現している。
彼は童話という方法を取ることによって、語り手を自由に動物や植物、時には鉱物にまで変化させることができた。
彼が、童話を選択したのは、彼の見ていたものを表現しようとするとき、一つの必然であったのである。

   6、

 賢治は一生禁欲を守ったと言われている。
その理由には宗教的な立場があげられる。
しかし、結核を患い、遠からずやってくる自分の死を予感したからこそ、彼は女性との交際を避けたのではないかとも思える。

 死の世界から見たとき、性欲の活動は人間の生命のはかなさを際立たせるものであろう。
しかし、その一方で死の予感が、逆に性欲を亢進させることも多い。

 「小岩井牧場」の有名な一節を引いておこう。

 「もしも正しいねがひに燃えて

  じぶんとひとと万象といっしょに

  まことの福祉にいたらうとする

  それをある宗教情操とするならば

  そのねがひから砕けまたは疲れ

  じぶんとそれからたったひとつのたましひと

  完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする

  この退転を恋愛といふ

  そしてどこまでもその方向では

  決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を

  むりにもごまかし求め得やうとする

  この傾向を性欲といふ 」

 しかし、性欲を克服することは容易ではない。
「そのねがひから砕けまたは疲れ」という所には、賢治自身の吐息が聞こえるようである。
「決して求め得られない」ものを、「むりにもごまかして求め得やうとする」人間の心を、賢治はだれよりも知っていただろう。

 「なんべんさびしくないと云つたとこで

  またさびしくなるのはきまつてゐる

  けれどもここはこれでいいのだ

  すべてさびしさと悲傷とを焚いて

  ひとは透明な軌道をすすむ 」

 童話「土神と狐」は、性欲の持つそのようなかなしさとおろかさをとらえている。

 「土神と狐」は、野原に生えている一本の樺の木と、「二人の友達」の話の話である。
土神と狐がその友達である。
土神は正直だが感情的で、狐は嘘つきだが上品だということになっている。
二人とも樺の木に好意をもっている。
狐はロマンチックな話で、樺の木の関心を引く。
狐と樺の木が楽しそうに話しているのを知ると、土神はいても立ってもいられない。
そして、後から自分の怒りを後悔する。

「土神はたまらなさうに両手で髪を掻きむしりながらひとりで考えました。
おれのこんなに面白くないといふのは第一は狐のためだ。
狐のためよりは樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。
けれども樺の木を方はおれは怒つてはゐないのだ。
樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。
樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。
樺の木さへどうでもよければ狐などはなほさらどうでもいいのだ。
おれはいやしいけれどもとにかく神の分際だ。
狐のことなどを気にかけなければならないといふのは情ない。
それでも気にかかるからしかたない。
樺の木のことなどは忘れてしまへ。ところがどうしても忘れられない。
今朝は青ざめて顫へたぞ。
あの立派だったこと、どうしても忘れられない
。おれはむしやくしやまぎれにあんなあはれな人間などをいぢめたのだ。
けれども仕方ない。
誰だつてむしやくしやしたときは何をするかわからないのだ。」

 土神は神様なのに、怒りに吾を忘れることがある。
そして、「誰だつてむしやくしやしたときは何をするかわからないのだ。」と思う。
そして、ある時とうとう、「いきなり狐を土べたに投げつけて、ぐちやぐちや四五へん踏みつけ」てしまう。
土神は狐が樺の木に自慢していた、「研究室兼用」の「書斎」に乗り込む。
そこは「あつちの隅には顕微鏡、こつちにはロンドンタイムス、大理石のシイザアがころがつたりまるでごたごた」のはずであった。
ところが狐の穴は、「中はがらんとして暗くただ赤土が綺麗に堅められてゐるばかり」だった。
その意外な光景に、「土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て」来る。

 狐は樺の木の関心をかうために、嘘をついていた。
持ってもいないものを、持っているかのように言った。
そのために神の怒りをかって、生命を失ってしまう。
そして、土神は神であるのに、嫉妬の感情から狐の生命を奪う。
神にあらざる行為におよんでしまう。
その行為のむなしさは、「がらんとした」狐の穴が表現している。
本当のものはなにもなかったのである。

 しかし、この作品は土神や狐の行動を笑ってはいない。
中身のないもの、虚栄へのいとおしみもある。
性欲の中に生の悲しさ、はかなさを感じていながら、はかないままに、はかなさを生きるようとする姿勢がある。
賢治は禁欲をとりながら、禁欲を絶対視してはいない。

   7、

 大乗仏教の生み出した考え方の中に「菩薩」の思想がある。

「(菩薩は)洞察することがあるとかないとかに安住してはいけません。
なぜかといえば、もし洞察することのないことに安住すれば、それは凡愚の者のありかたです。
もし洞察することのあることに安住すれば、それは声聞のありかたです。
それゆえに、菩薩は、洞察することにも洞察しないことにも安住すべきではありません。
それに安住しないということが、菩薩の境涯なのです。

 それは凡夫の境涯でもなく、聖賢の境涯でもない。
これが菩薩の境涯です。
輪廻を境涯とし、しかも煩悩の境涯ではない。
これが菩薩の境涯です。涅
槃を悟ることを境涯とし、しかも決して完全な涅槃に入らない境涯、これが菩薩の境涯です。」『維摩経』

 菩薩は悟りを選ばず、輪廻の中に生きるという選択を意味している。
衆生を救うために、悟りに近い所にいながらそれを選ばない。
悟りの世界を見ながら、そこに入らない。
そうすることによって、ふたつの世界に同時に生きる決断をする立場である。
そして、この二つの世界に生きることを求めさせるのは、菩薩の「願」である。
衆生救済の願いである。
慈悲の現われである。

 つまり菩薩は、何をしたかという規定ではない。
「悟りの世界に入らない」、すなわち「しない」という規定である。
行為の規定ではなく、存在のありようの規定である。
それは、「願」を持って生きること、その人の生が「願」と一体化していることでもある。

 ここで菩薩の規定を考えたのは、言うまでもなく、宮沢賢治という人間をとらえようとするとき、彼が菩薩であったのではないかという考えを促すものがあるからである。

 『銀河鉄道の夜』の中で、最後にジョバンニが述べることは、「僕は僕のために、僕のお母さんのために、みんなのために、ほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ということである。
すでに見た『ひかりの素足』の最後も、「よく探してほんたうの道を習へ」と言われるものであった。
これらの作品は、夢のような朦朧とした中で異界に入り、そこで一種の霊的交流をおこなって、この世に戻って来るという粗筋である。この世に戻る直前に、これらの言葉が現われる。

 これらの作品は、ニアデス体験・臨死体験の構造に似ている。
死に近づいて、そこから戻ってくるとき、この世をこれまでとは別な姿で見る。
そのため、ニアデス体験をした人の中には、そのことだけで人生観が変わってしまう人もある。
賢治のこの二つの作品はニアデス体験と同じような力を持っている。
この世に戻って来たとき、主人公は、「ほんとうのしあわせ」「みんなのしあわせ」のために犠牲になる覚悟を持っているであろう。
その覚悟を持たなければ、この世に戻ってこられなかったかもしれない。

 つまり、犠牲を誓うことによって、いきることが許されている。
自己犠牲が自己肯定の根拠になっているのである。
それは、すでに見たキュブラー・ロスの「死のチャート」で言えば「取引」にあたるものだといえる。
「このようにするから、生きさせてほしい。」という。
このような発想が強くなる背景には、何度も死を身近に感じた体験が賢治にはあり、その意味を反芻してきたからであろう。
生きられることは恩寵であり、祈りに対する報いである。

 では、生きることを許された生命を、何に使うのか。
その生命は、みんなのために使うしかない。
このとき、肯定された自己が、犠牲的に使われる。
それは自発的行為であって、「取引」でない。『グスコーブドリの伝記』はその一つの例である。
グスコーブドリは火山の爆発によって、気温を上げるために自分の生命を犠牲にする。
それは、自分が子供の時に、飢饉の苦労を身に染みて経験しているからである。

 逆に、自分の利益のためだけに生きようとするとき、挫折や失望が訪れるという内容の作品も多い。
『貝の火』のホモイは、ひばりの子供を助けたことによってもらった「貝の火」を、自分の思い上がりから失ってしまう。
『どんぐりと山猫』では、うまく争いを裁いた一郎は、裁判所からの呼び出し状に注文をつけたばかりに、裁判所から呼び出されることはなくなる。
しかし、これらの作品では、主人公は元にもどるだけで、ことさらな懲罰はみられない。
むしろ、我欲に左右される心の、切なさや悲しさが共感されているのである。

 賢治は生きるということと自己犠牲を、二つの方向で結びつけている。
つまり、生きることが許されるために自己犠牲を誓うという方向と、生きる以上はそれを最も意味あるものとするために、自己犠牲を選択する方向とである。
つまり、自己犠牲がある時は手段となり、ある時は目的となっている。
生きることと自己犠牲が重なって、同じものなってしまったかのように見えることもある。
しかし、それらは同じように見えて、本当は同じではない。
ある時は、自己犠牲が目的のようであり、また手段のようでもある。
そのゆれが、一つの作品の中にも見られることが、賢治の魅力なのではないだろうか。
そこに、生きることの確かな手触りが感じられるのではないだろうか。

 彼は、自己肯定と自己犠牲というふたつの世界に、同時に生きていた。
それは言葉を変えると、生きながら同時に、死の世界を見ていることでもある。
自己犠牲によって自分の死滅した、死の世界からこの世を見ている。
この世の生のむなしさが、死の世界から見たときはじめて消えていく。
彼はその光景を、この世のことばで表現しようとした。
そして同時に、彼は自己犠牲にかけきれない、己れを見てもいた。
そのこともまた、言葉として表現されている。
ここに、宮沢賢治の菩薩性が現われている。

 賢治の菩薩性ということを考えた時、彼の童話の世界はどういう意味を示しているだろうか。

 ここで、「3才までの子供は神に近い。」といった言葉を思い浮べてみよう。
子供は菩薩であるといっても良いかもしれない。。
子供は大人の世界の現実を知っていながら、自分がそこに入りきれないために、大人の世界が部分的なものであることを知っている。

 人間はこどもからやがて大人になる。子供のままでは生きられないからである。
一度大人になると、大人から子供には戻れない。
人間というのは、その不可逆性の名前かもしれない。

 子供は大人に比べれば、大人よりはるかに死に近い。
それは神にちかいということでもある。
子供は命のはかなさを知っている。
自らの無力を身体で知っているからである。
このことの不安、空虚、切なさを大人は抑圧してしまっている。

 大人から見たとき、子供は依存的であり、退行しやすく、甘えているものに見える。
しかし、それが子供の本質なのではない。
自分が大人であると思っている人に、そう見えるだけである。

 大人は子供の持っている可能性の、一部を発展させただけである。
子供は大人よりも広い可能性をもっている。
それは、人間を越えた存在として、子供があるとということでもある。
やがて克服されるだろうものとしてではなく、子供としていきるということは、生命のはかなさを生きるということでもあろう。
それは、菩薩となることであるといってもよい。

 子供の世界を伝える言葉としての童話は、そのまま動物の言葉でもある。
賢治が童話の中で、子供を主人公としたり、動物を主人公としたりしたのは、そうした弱さ、はかなさの表現に思える。
彼が何もせず病床にあったということは、大人の世界に入り切れず、その世界を別な眼で見ていたことを意味する。
それは、子供の眼、動物の眼、そして菩薩の眼であったろう。

 賢治が社会人としてやったことは、農学校での実践にしても、砕石工場の技師としての努力にしても、業績としては大したものではなかろう。
それを継承するとしても、彼という個性を離れて残るものは少ないだろう。
しかし、彼が生きて放った生命の輝きは、時空を越えている。
彼が書き残した多数の原稿を、たとえ反古の一枚までも残そうとした人々がいたことは、その光を一つ残らず掬い取ることに意味があったからだ。
それも、最も彼の身近に生きた人々に、彼がその光を残そうとしたのである。
それは、彼の行為によるのではない。
彼の存在自身がその光を放ったのである。
そのことによって、彼は彼なりに「生きる」ということの定義を残した。
彼には、おそらく菩薩の後光が見えていただろう。それは彼自身もその光をはなっていただろうということである。

 

   8、まとめ

 宮沢賢治の仕事を総合的にとらえようとすると、彼の一生は法華経行者としてあったと見ることが、最も妥当なものだろう。
彼の芸術を中心に考えることや、実践家としての彼を重視する立場もあるだろうが、彼自身が自らの生き方の中心に置いたのは、法華経であった。
彼の芸術も生活、労働も法華経精神の具現であったろう。しかし、彼は宗教をすでに作られたもの、確立したものと見ていたのではない。
彼が、自分の童話集の序文に載せようとした、次の文章がそのことを示している。

 「(この童話は)正しいものの種子を有し、その美しい発芽を待つものである。而も決して既成の疲れた宗教や、道徳の残滓を色あせた仮面によって純真を心意の所有者たちに欺き与へんとするものではない。」

 彼は、新しく芽を出そうとしている、生命の輝きを宗教体験の核心と考え、そのことを表現しようとしたのである。
そこで述べられた芽を、読者が日々の生活の中に発見することを彼は望んでいたであろう。
そのことを彼は、法華経という言葉で表現したのであろう。
彼の法華経に対する理解はおそらく、彼独自のものがあろう。
「法華経」の読み込みから、彼を考えていくことは、我々に残された問題である。

 彼が法華経に出会ったのは、18才の時である。
最初から深い感動を感じたという。
しかし、彼が自分の信仰を深めていったのは、妹を見送り、やがて彼自身もそのために生命をおとす、結核患者としての日々が、大きな意味を持っているだろう。
それは、延期された死であり、毎日が死との対話であっただろう。
そのことが彼の信仰を深め、死を予告された者からみたこの世の姿を、文学の形で定着させることとなったであろう。

 彼の描いた童話の世界は、しばしば子供と動物を主人公としている。
しかし、彼の文学は決して子供むきの目的で書かれたものではないだろう。
彼にとってそれは、この世のもう一つの真実を描くための方法であったろう。
生きることのはかなさ、せつなさ、人間の弱さ、そして美しさがそこに描かれている。 
最後に、我々は賢治から何を学ぶことができるかを、考えてみよう。
彼は「先ずーーを求めて/以てーーせん/といふ風の」生き方を捨てようとした。
彼は単刀直入に信ずることを行おうとした。
そして、決して狂信的ではなく、それを行おうとした。
その結果、彼は期待される以上に若くして亡くなった。
彼は自らの迷いを直視していた。
そして、自らの弱さをかかえながら、その理想に殉じた。
彼は効率原理を取らなかった。理想と生き方が一体化することを求めた。
そして、理想を実現させることではなく、理想をかかげることそれ自身が、人間の課題であることをしめした。
彼は菩薩の発する光を、発していたといえるのである。

 

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