逢魔が時
きもとけいし
「死んでしまおうか」
正一は、ふと呟いた。
町のはずれのある公園の中。
正一は薄汚れたベンチにぽつんと座っていた。
既に初夏の太陽は沈み、あたりは茫洋としている。
そして梅雨の季節のせいであろうか、生暖かい空気があたりを占めていた。
正一は今年で三十五才になる。
正一は働いていない。
無職である。
正一は精神障害者であった。
正一は精神分裂病と医者から診断されている。
障害年金を受けて父母と一緒に暮らしていた。
彼は最近、とみに元気がなく鬱気味であった。
ここ何年かのうちに彼の病友は二人続けて亡くなっている。
二人とも正一とおない年で、彼らとはうまがあっていたのであった。
電話をかけ合ったり、映画を観に行ったり、喫茶店へ行ったり、病における悩みや病における環境について、ずいぶん賑やかに語り合ったものであった。
その二人が去年、秋の中頃に相次いで鬼籍にはいった。
病友の死による正一の落胆ぶりは激しかった。
仲の良い仲間との交流が途絶えてしまった正一は、往来以上の孤独に悩まされ始めた。
もともと父母とも、そんなに仲が良いことでもなく、相談出来るような近い距離の健常者に恵まれて居なかったことも災いして、正一は家に引きこもるような生活に惰ちていったのであった。
彼らが鬼籍に入って逝ってしまってから、冬は寂しく、春は鬱々と、言うような気分と友に過ぎていった。
そして初夏の今日の日、徒歩で足を伸ばして、町外れのこの公園にたどり着いたのである。
生暖かい。
正一は粘りつくような汗を背中にかいていた。
正一はこの世界に居るのが厭になっていた。
そして簡単に「死んでしまおうか」と口についたのだ。
まわりの空気は半分明るく半分暗い感じになってきた。
ポケットをまさ繰る。
食べかけの板チョコが出てきた。
正一は板チョコは少し解けかけている。
指にベチョっとチョコが付く。
「ちぇ」
正一はその指を舐める。
ほんのり苦い味がした。
その時、正一のすぐよこに子供の姿があった。
「うっ」
正一は驚愕した。
突然、傍らに子供の姿が湧いて出てきたように感じたからだ。
心臓の鼓動が早くなり背中に汗がぶわっと滴る。
「そのチョコレートをおくれよ」
子供は早口で正一に言った。
「な、」
正一は即答出来ない。
なんなんだ、この子供は
良く観ると子供は時代錯誤の格好をしていた。
汚い緑の着物にわらじばきのいで立ちである。
子供は男の子か女の子かわからない。
そして驚いたことに頭の天辺に小さな黄色い角がはえていた。
正一は黙ってその子供に板チョコを差し出した。
子供はがぶがぶと一瞬の間にたいらげてしまった。
「もう、ないのかい?」
角の生えた子供は板チョコをもっと要求してきた。
なんなんだ、この子供は?
なんで角が生えてんだ?
正一は脅えた。
はやくこの場を去りたい。
けれども両足は根がはえたように微動だにしない。
子供が正一の右手を握る。
そしてニッと笑った。
その笑顔には悪意も邪気も感じられなかった。
正一がなんとなくホッとした瞬間、両足は戒めから自由になったのが感じられる。
正一は子供に手を引かれるまま歩き出す。
公園を抜け、路地を抜け、不思議と人には出会わない。
そして一軒の駄菓子屋に正一は導かれた。
駄菓子屋は一昔も二昔ものたたずまいをしている。
そういえば、幼い頃、よくこういう店によく行ったっけ
正一は懐かしくなり店内をいろいろ見渡した。
ガラス瓶に詰められた飴玉、ガラス瓶に詰められたバター煎餅、陳列されている昔懐かしい駄菓子類の数々。
正一はふと締められていた心が柔らかくなるのを感じた。
「お婆さん、チョコレート菓子をたんとおくれ」
角の生えた子供が早口でまくしたてる。
「はいはい」
優しそうなお婆さんが店の置くから顔を出す。
「これと、これと、それと、」
子供は次々と注文していく。
その勢いに驚いた正一は急いで財布の中身を確認した。
あ、だけれども、所詮駄菓子の勘定だからな
正一は冷静になって駄菓子代を払った。
「ありがとう、おじちゃん」
俺ももう、おじちゃんと呼ばれる年になったのか
正一は苦笑いを浮かべる。
二人はまたもや、その公園に戻って来た。
角の生えた子供はかなりの量であったチョコの駄菓子類を歩きながら、既に食べ尽くしていた。
正一はいくらか余裕が出てきて子供に尋ねた。
「君はどこの子なんだ?」
角の生えた子供はにっと笑って答えた。
「鬼の子さ」
「鬼、・・・・」
子供はニコニコ笑っている。
鬼と聞いても正一は不思議と驚かなかった。
そんな正一を子供ニコニコ笑いながら見つめている。
正一も柔らかな笑顔を浮かべる。
そして言う。
「君はどこから来たの?」
「隠れ里さ」
「隠れ里、・・・・」
どこからか豆腐売りのラッパの音が聞こえる。
公園の横から野球のラジオの実況中継の音が漏れている。
正一は黙って思慮を巡らした。
この場所、この時間は、人の居るべき空間では無いのではないか、・・・・?
「おじちゃん、どうもありがとう、御馳走様」
「いやいや、どういたしまして。僕のほうこそ、なんか面白かったよ、君と逢えて」
「おいら、もう行かなきゃ」
「行くって、何処へ」
「決まってらあ、隠れ里さ」
「僕もそこへ連れていってくれないか」
「いいのかい?おじちゃん、もう二度と戻れないよ」
正一は黙った。
「もう二度と人間界に帰れ何だからないのだから、それでもいいのかい?」
それでも、いいんだ」
正一は語気強く答えた。
「まあ、おじちゃんのような人間は初めてではないからなあ」
と言うことは今までに前例があると言うことである。
世に言う人の失踪事件の顛末はある意味、このようなものではないだろうか。
今まで、どれだけの人間が隠れ里へ行ったことであろう。
「じゃあ、おじちゃん、ついてきな」
鬼の子供は、すたすたと暗闇の仲を歩み出す。
正一は子供のあとについていこうとしたとき、
正一、正一、と頭の中に父と母の声が響いた。
帰っておいで、帰っておいで、行ってはいけない、正一、
父さん、母さん、
正一はその声に答えた。
瞬転、角の生えた子供の姿はかき消えた。
正一は今まで何事もなかったか如く、薄汚いベンチに腰かけていた。
あたりはすっかり暗くなって、公園の常夜灯のまわりに蛾がまとわりついている。
夢だったのか?
正一はポケットをまさぐる。
板チョコは無く、財布にもお金が減っている。
夢じゃなかったのか、・・・・・。
正一は急に怖くなった。
公園から転げるように飛び出た。
早足で帰路に付く
父さん、母さん、ありがとう、
正一はほっとした面持ちで父と母の顔を浮かべる。
正一は何故か、父と母に感謝せずにいられなかった。
そして、もう二度と、鬼の子供に逢うことは無いだろうと確信するのであった。
夜の町の灯が正一に安心感と肯定感を裏づけたのである。
おわり
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