彼は歩いていた。


彼は歩いていた。
午後九時。
夜の町の中を。
この時刻になっても町の喧噪はまだ、静まらない。
夜風が頬を刺すように冷たい。
三月中旬。
もうすこしすれば、温かい季節になる。
そうすれば、ちょっとは気分が軽くなるであろうか。
彼の気分は暗かった。
彼の気分は重かった。
彼の気分は悪かった。
もう、どれくらい気分の悪いのは続いているだろう。
彼は病気であった。
心の病。
精神病。
精神分裂病。
と、精神科医に診断されている。
これは若いうちに発病しやすく、百人のうち一人は分裂病という統計がでており、症状として顕著なものは主に被害妄想である。
彼は十代の後半に不眠などの症状から発病したのである。
彼の年齢は現在三十代前半。
発病して、かれこれ十年以上になる。
入院も二回経験した。
それ以来、暗い気分と共に彼は人生を過ごしてきた。
職にもついていない。
親しい親友と言える友はいない。
ましてや恋人などいるはずがない。
孤独である。
彼は孤独であった。
そしてこんな自分が大嫌いであった。
彼は自分の人生に嫌気が差している。
いいことは何もなかった。
自分の人生は八方塞がり。
自分の人生は不幸一色。
彼はそう想っている。
彼は己を呪い、世を呪った。
呪い呪いながら彼は夜の町を歩いた。
そんな彼は精神分裂病であった。
彼は頭上を仰いだ。
天蓋には月齢十五日の月が輝いている。
雲一つ無い夜空であった。
月に行きたいな。
彼は月を見ながらそう思う。
この世界から抜け出したい。
自分自身から抜け出したい。
いやな世界から。
大嫌いな自分から。
彼は月夜が好きであった。
月の光が好きなのである。
月の光は太陽のように強烈な光ではない。 それは彼を慰撫するかのような優しい光であった。
そんな光の中を彼はあてもなく歩いていた。 鬱積した重く暗い気分とともに。
ネオンの光の中に不思議な看板が浮き上がっていた。
彼はなぜか足を止めた。
占いハウスブルーム。
そう読めた。
占いか・・・。
彼は興味を示した。
人生でも占ってもらおうか・・・。
そう考えた。
その時、辺りが一瞬強烈な光に照らされ、天空が割れるかと思われるぐらいの轟音が耳をつんざいた。
雷の光の中で、その建物の姿が浮き上がる。 西洋風の変わった形をしていた。
その扉が自然に少し開いた。
まるで彼を誘っているかごとく。
彼は吸い寄せられるかのように建物の中に入っていった。
建物の中は闇であった。
闇の中で猫の鳴き声がする。
彼の心の中に恐怖心が湧いてきた。
出なければ。
この建物から出なければ。
心の中に警笛が鳴っている。
彼は扉を開けようとした。
扉は頑として開かない。
彼が恐怖感で叫び声をあげようと大きく口を開いたとき、闇の奥からたおやかな声がした。
「なにを占いましょうか」
若い女性の声である。
彼は声の方向に視線を移した。
闇の中に女性の上半身が浮き上がっている。 彼は目を凝らした。
闇に目が慣れてくる。
占い師は机に座っていた。
黒いケープをはおっている。
西欧風の顔立ち。
美人である。
彼女の美しさは昼間の太陽のような物ではなく、それは夜の月の光の美しさであった。 彼は見惚れた。
占い師のその瞳に吸い込まれそうだ。
「なにを占いましょうか」
占い師は再び彼に問うた。
彼はその声を聴いて我に返り、すこしあわてた。
左足に何か柔らかい物が触れている。
見ると黒猫が彼の足に体を擦り寄せていた。 「クロっていうんです」
クロという名前の猫らしい。
みゃあ。
一声鳴いて黒猫は闇の中に溶けた。
「なにを占います」
占い師はみたたび問うた。
返事の代わりに彼は占い師の前に座る。
机の上には大きな水晶球が置いてある。
それに彼の顔が逆に写っている。
占い師は両掌を水晶にかざしている。
すると水晶は微かに光を放ち始めた。
彼は占い師に対して初めて口を開いた。
「人生を、僕の人生を占って欲しい」
それを聴いて占い師は目を見開いた。
そのなかに妖しげな光がひかる。
「人生を、ですか」
「はい」
彼は真摯に頷いた。
占い師は静かに笑い始めた。
そしてころころと笑い続けた。
彼はそんな彼女の態度に怒りを覚えた。
怒気を込めて言った。
「なぜ笑うんです」
「あ。ごめん、ごめんなさい」
占い師はそう言ってまだ笑っている。
「ごめんなさいね、お客さん。笑ったりして。そのまだいたんだなあ、こんな悩みを持っている人がこの世界にね、なんて思ったらおかしくて。ごめんなさいね。こんな真面目な悩みをね」
「真面目な、悩みですか」
「そうお客さんのはいたって真面目な悩みです」
それがどういう事か彼にはわからなかった。 真面目な悩みとはどういう事か。
「どういう意味ですか」
占い師は微笑した。
神美的な微笑であった。
彼はそれを見てなにか心が軽くなるかのように感じた。
「今の人たちの悩みってのはですね、お金と恋愛の二本だてが主なんです。そればっかりなのですよ。だからですね、お客さんの悩み人生っていうのは滅多にない、それほど希少価値のある真面目な悩みなのです」
「それは結局どういうことなのですか」
占い師は一息置いてこう言った。
「あなたが純粋だと言うことです」
「純粋、僕がですか」
「そうです」
占い師はきっぱりと断言した。
「純粋であるがゆえに人生を悩むのです。人生を悩む人は純粋なのです」
「やっぱり、よくわかりませんが・・・」 「それでいいのですよ」
占い師は優しく言った。
「では占ってみましょうか」
「お願いします」
「これを見てください」
占い師は水晶球を指さす。
「はい」
彼はそのガラスの塊を覗きこむ。
「よく見てください」
彼は一心に覗きこんだ。
そして驚いた。
その中に見えるものは七つの光の乱立であり七つの光の奔流であった。
目まぐるしく変わる光の乱立。
目まぐるしく変わる光の奔流。
彼はいつのまにか、七つの光の奔流の渦のなかにいた。
その中は彼の遠き優しさの時代の残滓が感じられる。
彼は光たちの収束していく中心点へ流された。
気がつくと彼はいつの間にか星雲の中に存在していた。
そこから地球が確認できる。
青い星地球。
宇宙のオアシス地球。
彼はその光景に唸った。
凄い。
これは神の視点である。
地球は美しくそして、そして、宇宙の中の青い点でしかなかった。
感情がふいに溢れてくる。
皮膚がささくれだつような感覚。
星星がきらめいている。
彼はいつの間にかその宇宙と一体になっていた。
あの月が、月齢十五日のの月が微笑している。
彼の心に鬱積感はなかった。
あるのは安息感である。
彼は安定していた。
すべてを委ねていた。
この一体となった宇宙に。
彼の意識は人のそれを越え始めた。
そして、その意識の中に自分の存在肯定を感じていた。
そのままでいいのか。
そのままでいいんだ。
このままでいいのか。
このままでいいんだ。
これでいいのか。
これでいいんだ。
彼は自問自答していた。
彼の意識は徐々に希薄になっていく。
宇宙の中に彼の意識が吸収されていく。
彼の意識は消えた。
しかし彼は最後に思った。
自分は宇宙の一部分であり、宇宙は自分の一部分であると。
その考えに宇宙の星たちが一斉に瞬いた。 彼は安心した。
彼は納得した。
流れ星が三つ、尾を引いて順番に流れた。 彼の耳に遠くの車のクラクションが聞こえた。
彼の目の前に扉があった。
そこに占いハウスブルームと看板がでている。
彼は何故ここに自分がボーツと立っているのかわからなかった。
あ、そうか占いだ。
彼は思い出した。
何かを占ってもらおうと、・・・。
彼は扉を開ける。
「いらっしゃい」
嗄れた声が答えた。
そこには白髪のよく太ったおばあさんが水晶球を前に鎮座している。
彼は少し思案した。
「またにします」
彼は占いハウスを後にした。
ふと腕時計に目をやる。
時刻は日付を越えていた。
彼は何か急激に時間が経ったような感覚に襲われた。
しかし深く考える事は止めて、家に帰ることにした。
彼の心は重い。
彼の心は暗い。
彼の心は悪い。
対抗方向に人影が見える。
猫の鳴き声がした。
それは黒猫を抱いた夜目にも美しい女性であった。
彼女の姿とすれ違うとき、彼の胸の鼓動は高まった。
そして、その瞬間脳裏に地球の影がちらつく。
彼はすこし驚愕した。
彼が気を取り直した頃、その女性の姿は、はるか彼方にあった。
どこかで、・・・。
彼はその思いを振り捨てて足取り重く帰路についた。
そんな彼の心は鬱積している。
そんな彼を頭上の月齢十五日の月は優しく慰撫の光で照らし続けていた。

おわり



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