精神科医の手法


 私の立っている精神科医としての立場は、精神科医一般からは偏っているかもしれませんが、あたかもそれが精神科医の基本的立場のように表現しています。だから、精神科医がすべて、私と同じ考えだと思ってもらっては困ります。精神科医がどうであるかというよりも、そこから日々の仕事に生かせるようなヒントが得られないだろうかと考えてもらいたいと思います。

1,専門家でないことを目指す専門家
 精神科医の特徴は何かと問われると、私たちは専門家でないことを目指していますと答えることがあります。たとえば、旅館に泊まると、番頭さんは客の靴を見て、その職業や収入を当てることがあると言います。客が二人づれであれば、二人の関係を見抜いてしまいます。どんな部屋へ案内すればよいか、料理のレベルはどうしたらいいか瀬踏みするのです。また寿司屋では、客の最初の注文を聞いて、どの程度の客か判断すると言います。そんな具合に、相手を見て、自分の専門分野の尺度をもって計るということがいつも行われています。それが専門家の仕事ということでしょう。
 しかし、精神科医の見方は、これら専門家の見方とは違います。つまり、何の尺度でも測らないように努力するのです。ありのままを見ようとすることでもあります。そういうことを専門にしようとするのです。旅館の番頭さんであれば、お客に気持ちよく泊まっていただく、また利用しようという気持ちになってもらいたい。その過程で正当な報償をもらいたいという立場です。お寿司やさんでも同じでしょう。しかし、精神科医の場合は、そういう立場に立ちません。患者がどういう利用のしかたをしてもそれを受け入れようとします。おかしいな利用の仕方だなあと思っても、取りあえずはそれに従います。むしろそうしていると、次には最初予想していたのとはまた違う利用の意味が、明らかになることがあることを知っているからです。
 専門家であるということは、実は一つの枠組みに相手をはめてしまうことでもあります。そうすると、相手は知らず知らずの内に、その枠組みにはまった動きをするようになります。日常生活ではそうすることも必要です。バスの乗客はみんな、同じように行動してもらえなければ運転手として困るでしょう。しかし、精神科の治療の対象になる人には、そういう枠組みにはまりすぎてしまう人がいます。こちらが枠組みを作っていては、いつまでたってもその問題点から抜け出せません。専門家ではないということは、そういう枠組みを持たないで相手に接するということです。枠組みがないので不安にもなりますが、自由にもなります。その自由さがうまく働くと、そこに治療的な意味ができてきます。
 また、何の専門家でもないということは、逆に何の専門家にでもなれると言うことをも意味します。最初から最後まで、専門無しでやれればよいのですが、そうでない場合もあります。そういう場合は、相手の求めに応じて、融通無碍に変化して行きたいものです。母親的に接することが必要な人には十分庇護的に、権威的に接する必要のある人には厳しく断定的に。こだわりなく、使い分けられることが理想です。 

2,目的もなく関わる。
 治療の目的は、基本的には訴えの解決にあります。訴えが除かれれば、治療は終結します。しかし、精神科医の関わりというのは、必ずしもそういった訴えの解消を目的としていません。不眠の訴えを述べる人であっても、その不眠を解決すればそれでよいというわけではありません。不眠の背後に、職場の問題や夫婦関係の葛藤があるかもしれません。むしろ、そういう問題を掘り下げるために、入場券がわりに不眠の訴えをもって、治療を受けに来たのかも知れません。もちろん、多くの患者は不眠の解決がされれば、満足して治療の場を去っていくでしょう。しかし、中には、治療の進展の中で、最初の訴えがほとんど重要性を持たなくなる場合もあるのです。かといって、不眠の訴えだけで終わる患者は浅い病気で、進展する患者が深い患者であるというわけでもありません。そういう区別を持ってみることは、誤りなのです。不眠の訴えが解決して、何年後かに別の訴えを持って治療を求めるということもあります。また、不眠の治療の中で交わしたわずかの言葉がその人を支えていくということもあります。
 治療の最初には、ある程度の見立ては必要です。しかし、重要なことは、治療の最終目的地を最初から決めない方がよいということです。一見治療が終わったように見えても、実際の治療が終わっていないこともあります。中途半端のように見えても、一区切りしていることもあります。そういうことは、すべてが終わったときにはっきりすると言うしかないのです。もちろん生きている限りは、すべてが終わるなどということは原則的にありえません。
 目的もなく関わるというのは、こちらの設定した文脈の中で相手を見ないと言うことです。自分たちのやっていることは、最終的になんなのかわからないかも知れないと言う関わり方です。「来るものは拒まず、去るものは追わず」という言葉があります。相手次第でよいではないかという立場です。目的もなく関わるというのは、その言葉に近いものでしょう。

3,理解することによって何かが変わる。
 目的もなく関わるというと、では何もしなくてもよいのかという考えが出るかも知れません。しかし、目的がないと言っても、目標がないわけではありません。それは、相手を理解するということです。相手の立場、考え、感情、その他を理解しようとするのです。もちろん、理解することそのものに目的があるわけではありません。何かのために理解するということでもありません。ただ、理解を深めていこうということです。
 何故、理解を求めるのかというと、理解が深まったときに、思いがけない進展が起こることがあるからです。それは必ずしも因果律に従うわけではありません。理解を深めたからということで、単純にその次の事態が起こるというわけではありません。それなら、理解を深めること自身を目的にすればよいことになります。理解が深まったときに、ごく自然に何かが起こるのです。
 たとえば、治療していて最初はなかなかうまくいかなかった患者との関係が、段々深まって、これはいい具合だと思っていると、その患者が重症の身体の病気(たとえば肺炎とか)になり、その治療を行ったところ、信頼関係が一挙に形成されるというようなことがあります。患者の理解が深まったことによって、その患者が肺炎になったということはありえません。しかし、そこには何らかの平行関係が感じられるのです。
 あるいは長い間、入院している患者に退院の働きかけを始めたら、音信不通の家族が突然やってきて、退院のための協力をしてくれたというような経験もあります。別に、家族を呼びよせようと考えたわけではありません。しかし、うまい具合に事が起こったのです。
 そういう現象を共時性の現象であると言う人もあるかもしれません。しかし、そういう風に何かしら神秘的な名前をつけてしまう必要はないように思います。理解を深めていく姿勢が、思わぬ所に思わぬ波紋を生むと考えれば良いと思います。現実の世界は、実に複雑に絡み合っているので、その全貌を知ることはできません。ただ、その患者のためを思う努力が、周囲を変えていく働きをしていると考える他はないのです。
 また逆に言うと、色々努力しているのに、いっこうに意外な事実も起こらず、進展もないときには、どこかで努力が空回りしているのではないかと反省してみる必要があります。ほとんどの場合は、これだけやったのだから、これくらいの幸運が起こっても当然だなあと思えることが起こるものです。
   
4,症状はメッセージ。
 精神科治療の場で起こっていることは、すべて意味があると考えてみたい。患者の症状にしても、治療の周囲に起こることにしてもです。無意味なものはないという前提に立つのです。たとえば、眠れないと言う症状があれば、それは起きていてやらなければならないことがあると言う意味ではないかと考えてみる。仕事に行けず、家に閉じこもっているとすると、普通なら意欲がないとか、怠けているのではないかと考えるのですが、そんなふうに考えず、逆に仕事に行く前に、家でやらなければならないことがあるのではないかと考えてみる。ある意味で、通常の価値判断から離れるのです。良いとか、悪いとかいう判断を保留する。逆に、悪いと思っていたことが、実は意味のあることなのではないか、そういう視点を想定してみるのです。良いと思っていることも、それを疑ってみる。
 多くの場合には、病気の症状は取り除くべきものと考えます。しかし、症状が現れてくるのは、そういう表現をとらなければ、注目されないようなものの自己主張なのではないか。もしそうだとすると、表現を求めてやまないものをつきとめて、必要なかたちでの表現を許さない限り、何度でも手を変え品を変え、症状は現れるでしょう。単純に症状を取ろうとすることは、問題を潜在化するだけかも知れません。
 症状は、まだわかっていないものからのメッセージかも知れない。何かのヒントなのかも知れない。トラブルとしか考えられないことも、本当は重大なサインかもしれない。そういう受け止め方をするのです。しかし、それに関して重要なことは、あくまでもその可能性に心を開いておくと言うことです。何か、いかにも本当らしいことに気付いたからと言って、それを確信し、そこからの視点でしかすべてを考えなくなると、大きな間違いです。そういう誘惑にかられると、逆に目の前で起こっていることを無視してしまうものです。むしろ、色々考えたあげく、それらすべてをかっこに入れて、保留したり、忘れてしまうほうが良いのです。たとえ忘れてしまっても、色々と考えたことは、心のどこかに残っていて、必要な時に浮かび上がってくるものです。   

5,現実を送り届ける
 精神科医が精神病に苦しんでいる人に声をかけるとき、原則としていることの一つは、現実の世界を送り届けてあげると言うことです。
 症状を何かのメッセージと考える。価値判断を越える。そういう風にしていくと、すべてが相対化されてしまうかも知れません。確かにそういう受け止め方をするのですが、実際に働きかけるときは、ある程度の方向性を持たないわけにはいきません。それが、現実性、一般的なレベルの判断です。「普通の人はそんなことはしないのではないかなあ」「一般的には、こうするでしょう」といったコメントを付けるのです。
 たとえば、大学を卒業してから家にこもっていて全く外出しない人がいるとして、その人の言い分を聞いていくとなるほどと思えたとしても、「普通あなたのような年齢、学歴の人は、こんな風に家に閉じこもっていないでしょうがねえ」と言ってみると、「実は私も本当は困っているのです」といった返事を聞くことが少なくない。こういうふうに、不思議ですねえと声をかけてみると、本音が自然に出てくることがあるのです。
 精神病の人であっても、本当はどういう行動をとるのが自然なのかということは知っているものです。だから、意味もなく「貴方の考えはわかりますよ」と言ったりすると、理解されていると思われるより、いい加減なことを言ってバカにしていると受けとめられることが多いようです。むしろ率直に、おかしいものはおかしいという方が良いのです。ただ大切なことは、そのおかしいという判断を押しつけないと言うことです。現実を送り届けることはしても、判断は相手に任せるのです。現実を示しながら、あえて判断を差し控えることで、こちらが相手を尊重しているという態度を受け止めてくれるのです。
 精神病の人は、病気に圧倒されて、現実を確認する目を曇らされているのです。あるはずがないと思っていても、ついついもしかしたらという考えに引きずられてしまうのです。そういう時に、揺るぎなく現実が存在していることを確認してくれる人がいると、ふと安心できるのです。
 私も精神科医になり立ての時は、自分が精神病ではないと主張する患者に真っ正面から反論し、治療の必要性を説得したものです。結果は、病気であるかないかの押し問答になったものです。しかし、最近では「病気でないというのなら、病気でないかもしれないけど、ここ三日も寝てないと言うのは普通じゃないねえ」というような説得をしています。すると、案外、「まあ、完全な健康ではないですよ」という返事が得られるものです。相手が、少しでも自分の不自由さを訴えれば、後はなんとかなるものです。
 相手を説得するのではなく、より適切な判断を下せるように、判断材料を提供するのです。そういう態度を続けていけば、頭ごなしの拒否に出会うことは、少なくなるでしょう。

6,隠れた可能性を認めてあげる。
 どんな絶望的な状況に置かれた人でも、生きてきた過程のなかでは、幸福にすごした時間を持っていない人はいないと思います。子ども時代の楽しい思い出が全くないという人もいないでしょう。そういうものを思い出せば、自然と元気が出てくるものです。つまり、隠された財産というものは、どこかにあるものなのです。
 それと同じように、自分の持っている可能性のすべてを試みてしまった人もいないと思います。しかし、絶望にかられている人は、あたかもすべての能力を試してしまったというふうな感じを持っているものです。特に、意識的な努力をして、報われなかった人によく見られる現象です。だから、可能性はまだ残っているのだということを伝えられば、希望が生まれてくると思います。
 その人の気付いていない可能性、能力を発見すれば、事態は変わっていくでしょう。それも、思いもよらないものであって、現実に能力が隠されているものが良いのです。いくら可能性がありそうでも、すでに試されていて、本人もその限界に気付いているようなことでは意味がありません。また、意味もなくただ褒め上げるということでもいけません。ともかくおだてればよいというほど、人間は単純ではありません。やはり、その人自身が自分を再発見するということでないといけないのです。だから、可能性を認めると言うことは、その人を深く理解しているということでもあります。つまり、深く理解している人がいるというメッセージを伝えるわけです。言い換えれば、「周囲が絶望していないのに、本人が先にあきらめてはおかしいよ」というわけです。
 たとえば、自分は詩を作るのがうまいと考えている人がいるとします。しかし、実際はたいした可能性はないとします。もしその人の声が良いとすれば、詩の内容はともかく、朗読が絶品だとほめるという具合です。
 人間というのは、自分もまんざらではなさそうだということになると、隠れた力が自然と動き出すものです。 

7,全体を問題とする。
 患者に働きかけるとき、いつもその人に関する全体性を考えます。その人自身の全体性とか、その人の家族やとりまく人々の全体です。入院している人の場合には、入院している病棟の全体を考えます。その人の病気を考えるとき、症状だけを取り出して考えないことと同じです。
 たとえば、鬱病の男性がいるとします。その男性は母親との関係が相互依存的であるとします。そして母親には自分一人で生きていくことへの不安があるとします。息子は自立したいのですが、そうすると母親を突き放すことになるので、踏み切ることができません。むしろ息子は自分が鬱になることによって、自分は独立できないということを納得しているかのようです。
 こういう息子の鬱病を治療するとき、この親子の状況を変化させることなく、治療を進めていくと、息子の鬱は改善したが、母親に深刻な問題が生ずるということがあります。それでは、一人を治して、もう一人を病気にするということにもなりかねません。そして、長い目で見たり、大きな捉え方をするとき、結局はうまくいかないのです。だれか一人がうまくいって、他の人は置き去りという解決は、たいがいは間違っているのです。
 全体の各要素が順番に変化し、それによって全体も順当に変わっていくということが理想です。螺旋的に改善していくのがよいのです。鬱病の例では、息子の病気が改善し、それにそって母親も変化し、そのことが息子に影響するという具合です。どれかの要素が突出して改善すると言うことは、場合によっては全体のバランスを揺るがすかも知れません。 もちろん、全体を動かすと言うことはそれほど容易ではありません。ほとんど不可能かも知れません。しかし、たとえできなくとも、全体にどういう影響を及ぼすかということに意識的であることは大事です。意外な落とし穴というものは、その時になってやっとわかるものですが、全体を見ようとする努力をはらっていれば、全く意外な結果というものはめったにないものです。
 全体性の尊重には、まだるっこしいという反応も出ますが、見捨てられるのではないかという不安を持っている人には、とても安心なものです。そういうことの効果はすぐには現れませんが、現れるときには、確実な力を持ったものとなっています。

8,一番進んだものと一番遅れたもの
 全体性を重んずると言うことと、とらわれなく関わるということを調和させる方法として、一番進んだ部分と一番遅れた部分に注目してみたいと思います。それは、少なくとも単焦点的な働きかけをしないということです。ある人の能力を判断する場合、一番優れた所に着目することもあるでしょうし、逆に一番遅れた部分に注意を向ける場合もあるでしょう。しかし、どの場合にもそこには選別的な感覚が入り込むと思います。それでは、とらわれなく見るということから離れていってしまいます。やはり意識的に選別を無効化し、相対化する努力を必要とすると思います。
 集団を見る場合でも、集団の中の一番優れた部分と、一番遅れた部分に注意していくことが大事です。その集団の能力を高めるためには、能力のある部分に注目し、さらなる発展を促して行くべきです。しかし、それだけでは、全体の能力のばらつきが大きくなるでしょう。だから、一番遅れた部分への働きかけが重要になっていくのです。これらを同時に見ていくことによって、全体を複眼的に浮かび上がらせていくことができるでしょう。また、全体の能力の増大も計っていけると思います。
 とりわけ優れた能力を持っているわけでもなく、かといってきわだって劣っているというわけでもない場合、自分より優れている人がどう扱われるかを注意するものです。また、一番劣っている人がどう扱われるかに注意を向けもします。それらが、同時に尊重されていると思えば、中間的な立場の存在もそれなりの評価を得ていると想定するのが自然でしょう。
 精神病院に入院している患者を診ていると、一番症状がひどい患者がどう扱われているかに他の患者が注目していることを感じます。そして、その悪い患者の状態が改善していくと、他の患者にもほっとした気分が拡がることに気付きます。また、回復のはやい患者が例外的な存在としてではなく扱われると、それは幸運なのではないのだから、自分もまたそうなるのではないかという期待を暖めることになっていきます。
 全体をくまなくとらえるということは困難です。しかし、上と下から挟むようにして考えれば、全体はその間に入ってくるものです。

9,ここ一番の時の関与
 精神科医が治療的な関与をするというと、いつも怠ることなく関わり続けるというイメージを持つ場合があるかも知れません。しかし、そういう中断することのない、継続した関わりはあまり深い意味を持ちません。むしろ、事態の転機となるような時に、集中的に関わることの方が大きな意味を持ちます。そのためには、事態の転機をとらえる力が必要です。重要性のないときには待機していて、チャンスがくれば瞬時に動くのです。
 また、一般的なかたちで関わっていく場合でも、一点集中の努力をするようにします。たとえば、一日一度のポイントを絞った関わりは、ほんの一瞬のことになるでしょう。また、一週に一度のレベルとなれば、数分間のことかも知れません。年に一度となれば、一時間の時間を使っても、十分意味を持つでしょう。それだけの意味を持つ時間を生み出すように、日頃布石を打っていくことが必要です。つまり、ある焦点にむけて、時が熟するように設定して行くのです。
 そういう設定をする理由の一つは、継続した緊張を続けることは実際上不可能だからです。長い緊張は、内部から崩れてしまいます。そうなると、本当に必要なときにエネルギーを動員することができません。
 患者との面接にしても、いつも力を一杯使っていると、常時目に見えるような相手の反応を求めるようになります。それでは、患者の方も追いつめられて、息苦しくなってしまいます。自由さがないところでは、結局本質的な変化はありえません。
 消防署員は火事のないときには、ただ待機しているだけです。何もしないでいられないといって、消防署員が火事はないかと四六時中動き回っていては、いざというときに役に立たないでしょう。待っているからこそ、必要な時に全力で関われるのです。
 重要な関わりは、一週間に5分でよいのです。あるいは月に5分でもよいでしょう。ただ長い時間をかければよいわけではありません。適切な関わりであれば、時間の長短などは問題ではないでしょう。その時を待って、全体を観察し続けることが重要なのです。そして、それは意外と心的エネルギーを必要とするものなのです。時には、継続して力をそそぎ続けるよりも、はるかに力の総量がいるかもしれません。

10,正しい答え
 新しい患者を前にして、何が正しい関わりかたなのかを判断することは不可能です。長い時間をかけて、その正しさを探っていくしかありません。試行錯誤の積み重ねの中から、自然と答えがにじみ出てくるのを待つしかないのです。
 ただ言えるのは、正しさというのは、患者の問題をより広がった関係性の中でとらえていくことだということです。そういう方向を促していくということです。また、患者自身の隠された能力が表面に表れてくるように促すということです。
 それらがどうしたら実現するのか、いつでもはっきりしているわけではありません。また、どんなときでも、有効だという答えはありません。
 治療者は時々、任せなさいとか、大丈夫と言ってみたい誘惑に駆られることがあります。しかし、根拠なくそういう言葉を口にしても、得るものはありません。自分のことに関して患者は、我々が考えている以上によく知っているからです。
 できれば、治療者と患者が一緒に協力して答えを求めていければと思います。また、ある時、正しい答えが出たとしても、その答えがいつまでも正しいままであるかどうかはわかりません。いつでも白紙に戻って、出発点に戻って、考え直す姿勢を持ちたいものです。

 以上色々と書いてきましたが、煎じ詰めれば一つのことの色々な表現だと言ってよいでしょう。あるいは、目に見えるものにではなく、その背後にあるものに向かって働きかけるということでしょうか。



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