『私、幸いなことにうつ病を患っています。』(小林亮太著、幻冬社ルネッサンス、2006)

 この著者の小林さんは、私が医院を開設するまで、勤めていた京都博愛会病院で、一緒に仕事をする経験を持った人です。
私にとって、小林さんという名前の人は、いつも印象深い人が多いのですが、著者の小林さんもそうでした。
大体、無口の人が多く、いつもちょっとはにかむのです。
どういうわけなのでしょうか。
それはさておき、この本を読んで、私ははじめて小林亮太さんという人の知らなかった一面を知りました。
随分多方面に、多彩な才能を持っている人なのだと思いました。
まず、彼が、パチンコや競馬で負け知らずだったとは、まったく気づきませんでした。
というわけで、精神科医の人間観察などあてにならないことを、身をもって確認したわけです。
そういうことが見抜けていれば、同じ職場に居る間に、そのコツを伝授してもらっておけばよかったなあと思います。
ともかく、この本には、その手の奥義の一部が書かれていますので、その方面に関心のある人は買ってみても良いのではないかと思います。
競馬の勝ち率は70〜90%だというのですから、たいした物です。
私は競馬をしたことがないので、どれくらいすごいかはわかりません。
でも、たぶん、すごいのでしょう。
とりあえず、推薦です。
それから、私は小学生の時から、運動音痴だったのですが、小林さんは、ハードル競技で、その頂点を極めた人のようです。
高校生から、社会人になるまで、ハードルには、徹底して、挑戦しているのです。
進学する大学の選択も、スポーツを手がかりにしているようです。
その運動理論というものが、色々と書かれているので、そういう方面に関心のある人は、買ってみてもよいのではないかと思います。
その雰囲気を知らない者にも、何かそうしたスポーツ選手の世界の一端を教えてくれます。
1000分の一秒の筋肉の動きが書かれています。
私はスポーツを真剣にやったことがないので、どれくらいすごいかはわかりません。
でも、たぶん、すごいのでしょう。
とりあえず、推薦です。
それと、この本の特徴は、ともかく色々な人に感謝の言葉が散りばめられていることです。
特にご家族への感謝の言葉が多いですね。
よく、ここまで感謝の気持ちが涌いてくるものだなあと思います。
たぶん、自分の能力に自信があるので、それだけ謙虚になれるのでしょうか。
とても、マネはできません。
私はこんなに人の感謝したことがありませんが、経験がなくても、こりゃすごいと思いますねえ。

そういうことを目当てにして読んでみると、うつ病の人の世界が、じんわりとわかってくると思います。

(2006,11,19)







『グラウンド・ゼロがくれた希望』(堤未果著、ポプラ社、2004)

2001,9,11に関する本をいくつか読んできたけれど、WTCの隣のビルに働いていた日本人がいて、その人がこのようなレポートを書いていることを、今まで知らなかった。
そのような人がいる可能性に、重いが及ばなかった結果なのだろうと思う。
堤さんは日本の高校を卒業してからアメリカにわたり、ニューヨーク州立大学、ニューヨーク市立大学大学院を卒業し、国連機関やアムネスティーなどに勤務の後、9・11当時は野村證券ニューヨーク支社に勤務していました。
この本の中には、9・11当日の生々しい体験が語られています。
その後、長期に尾を引いたPTSDにも触れられています。
彼女の立場は、日本からアメリカにわたった若い女性が、アメリカの自由や可能性を信じて、ニューヨークに暮らし、その希望や夢、理想をそのまま延長させていくというものです。
その立場は、彼女自身のアメリカでの経験に裏打ちされたものであるところに、力があります。
彼女は、自分の職場がテロによって破壊されるという直接的な体験を全身で受け止めています。
だれの言葉に代弁させることなく、まぎれもなく自分の体験として受け止めているのです。
このことは、本当の力を持っている人にしかできないことです。
そして、その後、アメリカが対テロ戦争になだれ込んでいく中にあって、彼女はアメリカの可能性を信じて、それを手放さないのです。
むしろ、一層、確かなものとしてつかんでいくのです。
この本の中には、彼女が9・11直後に朝日新聞に投稿した文章が載録されています。
その文章は、次のように締めくくられています。

「今回の惨事でニューヨーカーを一つにしたものは、まさにアメリカンスピリットだった。
そして、おそらく、大昔から人間が繰り返してきた過ちに終止符をうつものの存在もここにかくされているように思う。歌われるべきは『無敵のアメリカ』だろうか?答えはノーだ。私たちが今、目を向けるべきは国家としてのアメリカではなく、多民族・異文化が共存する国際社会の縮図としてのアメリカだ。この不思議な国のありように、サラダボウルのスピリットに、私は未来への希望をみる。」

アメリカが対テロ戦争にのめり込んでいくと同時、このような姿勢を生み出していくところに、アメリカの可能性や世界をリードしていける力が示されているのだと思います。
覇権国家としてのアメリカは、やがてその力を失っていくでしょうが、ここに示されているようなアメリカンスピリットは、国家としてのアメリカを越えて、未来を指し示していくでしょう。
この本が、「グランド・ゼロがくれた希望」と題されている理由です。

堤未果さんの文章はブログでも読むことができます。
柔軟な感性と力のある人です。
是非、お読み下さい。

(2006,10,15)



『アメリカに「NO」と言える国』(竹下節子著、文春新書、文芸春秋、2006)

最近はブッシュ大統領や小泉首相を批判的にとらえる本も少しずつ出版されるようになってきましたが、一時はほとんど異議申し立ての本はありませんでした。
マスコミの動きはもっとひどく、今だにアメリカやそれに追随する小泉首相を賛美しているしまつです。
この九月に小泉首相の任期切れとなるので、それに合わせるかのように首相と一定の距離を取ろうとする報道も見られますが、一時の賛美の姿勢を考えると、腰のすわった批判だとはとても思えません。
そういう中で、首相を批判する書籍が新書レベルでも出版されるようになっています。
頼もしい限りです。
しかし、それらの本の中で、今後も長期に読むに耐える本となると、わずかなものでしょう。
その理由の一つは、アメリカを批判しようとしても、説得力を持とうとすると、知らない間に、アメリカ的な思考を使って、アメリカを批判することになり、どこかで自己撞着に陥ってしまうからです。
現在のアメリカの政策を批判するだけではなく、アメリカの文化を根底から相対化する視点を持つ必要があると思います。
ところが、多くの本にはそれが欠けています。
 この本の特徴は、ヨーロッパから見たアメリカという視点で、アメリカとヨーロッパの文化の違いやその意味するものを見据えて、批判がなされている点です。
アメリカに「NO」と言える国はフランスです。
イラク戦争をめぐるフランスの態度決定の背景を述べて、そこにアメリカとフランスの文化の差を浮かび上がらせています
決して読みやすい本とは思いませんが、練られてきた思考が凝縮しているため、読み込むには時間が必要だからでしょう。
あるいは、私達が日常使っている思考と違った回路を刺激するからでしょう。
思考転換には時間がかかります。
ユニバーサリズムとコミュノタリズムという概念も、初めて読むと、すぐには整理して理解することは難しいです。
欧米とひとくくりにしがちですが、いくつもの原理をはらんでいることを考えさせられます。
フランスからの視点で、カトリックという補助線を入れることで、世界史や欧米の歴史・文化の理解が、格段に進むという印象があります。
実例も具体的に説得力を感じます。
これらは、フランスに住んで、カトリックを思考の枠組みとして生活している著者の力だと思います。
私達が、進歩だ、発展だと考えていることの中に、単にアメリカ化の進行にすぎないことが多く含まれているかもしれないということを、気づかせてくれます。
 日本人の我々が、この本からすぐに良い智慧を生み出せるとはとても思えません。
アジアのここ150年ぐらいの歴史に補助線を引くとしたら、それは何かという答えを仮説でも良いから見つけ出さないと、アメリカに懲りて、フランスに身を任せるということになりかねません。

(2006,5,7)


『拒否できない日本』
(関岡英之著、文春新書、文芸春秋、2004)

 この人の前著『なんじ自身のために泣け』という本を以前に読んだが、特に強い印象はなかった。
遅れてやってきた市民派、平和派という印象だった。
今度、この本を読んで感じたのは、市民派、平和派と感じさせた要素が、受け売りのものなのではなく、彼が自力でつかみ取ったものだったのだなあと言う感覚である。
自分自身でつかみ取ったものだから、それを自力で発展させていけるもの当然である。
この本が、どちらかという保守的だと受け止められやすい、文藝春秋社から出ているのもおもしろい。
自力での調査と思考によって、これだけの結果を得られると言うことに、まずは驚いた。
日常何となく感じている、日本社会のアメリカ化が、単なる偶然ではなく、計画されたものであること、それも公表され、アメリカ国家の意思によるもので、日本はそれを理解した上で、積極的に応じた結果であることがわかる。
 関岡は、建築家だが、自分が北京で開かれた国際建築家連盟で感じ取ったことを、吟味していくことから、問題の端緒をつかんでいることにも、説得力を感じた。
具体的には、建築家の資格制度を国際的に統一するという動きがあって、それがアメリカと中国の合意のもとに推進されているという事実である。
世界的に見ると、日本の建築家とアメリカの建築家の概念は違うのに、アメリカの基準が国際化され、日本は意識しないうちに世界市場から閉め出されているというのである。
この動きは、弁護士、公認会計士などにも見られて、将来的には、アメリカの基準が国際基準になりそうなのだ。つまり、世界規模の基準作りが、アメリカ主導で推進されているということなのだ。
 単にそれだけではなく、社会のあらゆる基準がアメリカペースで作られ、押しつけられている。
グローバル化というのは、アメリカ化ということにすぎない。
日本国家にそれが押しつけられている姿は、アメリカ政府が毎年出している「年次改革要望書」に示されている。
その具体的な検討をおこなっているのが、この本なのである。
具体的にとりあげられているのは、建築、金融、司法などの分野である。
読んでいく内に、日本という社会が、遠からず、アメリカの一部に吸い込まれてしまうだろうことが予想されて、実に慄然としてしまう。
 以前、この本がインターネットのアマゾンでは購入できないということが話題になった。
それくらい、今の日本社会の秘密に迫っている本だと受け止められているのだろう。
医療保険分野については触れてないが、健康保険が破綻すると言われながら、テレビでは一日中アメリカ金融資本が導入している医療保険のコマーシャルが流れている。
日本の健康保険を破綻させ、その市場をそっくり、アメリカ金融資本に差し出そうという動きなのだと言うことが想像される。
 アメリカで働いていた人から、日本人は不況で、世界中がこうなっていると考えているが、アメリカは好景気で湧いている。そのお金が実は、日本から流れて行っている。日本人は、本当に馬鹿だと聞いた。その話を、思わず思い出してしまった。
(参考リンク)
(2005,11,24)

 
『生きる意味』(イバン・イリイチ著、高島和哉訳、藤原書店、2005)
 イバン・イリイチの本は1970年代に読んで、エコロジーやオルナタティブの思想家だという印象しかなかった。
今回の本を読んで、それが誤解であることがよくわかった。
何より、イリイチがキリスト教の宗教者であることが、印象的だった。
彼自身は、自分を宗教者というより、歴史家として定義しているようだが、それはことの流れでそう表現しているだけで、実質はだれよりも宗教者であることを、認識していると思う。
物事をとらえる根本が、宗教者としても立場に据えられていることが十分すぎるくらいに読み取れる。
日本人の中には、これほどの徹底性はなかなか見られるものではないだろう。
それほどの、ラジカルさが感じられるのだ。
 この本は、イリイッチの読者でもあり、共鳴者でもあるインタビュアー、デイヴィッド・ケイリーを得て、イリイチが自分の思想の流れを振り返るというものになっている。
中には、本人が忘れてしまった話を、インタビュアーが持ち出してくるところがある。
その場合、イリイチは、自分の一貫性を確認しようとするのではなく、自分の現在立っている場所の確認に力を込めている。
だから、その時点、その時点での自分の正当性を誇るのではなく、現在から未来へのベクトルに関心が向かっている。
彼自身が過去に書いた本も「パンフレット」と呼んでいて、その時点での宣伝文書という位置づけである。
いくら学問的考察が込められていても、実質はその時点での政治的有効性ということが問題になっている。
その姿勢が、行動し、思索する知識人の一つの典型を提示したものと感じられる。
 イリイチは、教育、医療、交通、ジェンダー、道具といったテーマを、自分の置かれた状況に迫られる形で、考察している。
その内容は、社会というものが、ある種の道具、システムが開発されることによって、どのように変容していくかを明らかにしたものである。
学校や教育機構ができることによって、多くの人々は、選別、分断され、「自分は十分な教育を受けていない。」という後ろめたさや、挫折感を持つようになる。
教育効果より、その事実の方が大きな意味を持っているというのである。
また、医療が発達することによって、人々は自分の身体、生命、不幸に対する感受性と自己決定権を失ってしまう。
そうした逆説が何度も指摘され、それらの集積によって、もはや人間は人間でなくなっている。
人間存在の中の大地性を失って、すべてがバーチャル化しているということだろう。
そのような現状が報告されている。
この本の中には、解決策は書かれていない。事実の直視を提起した本である。
実に刺激的な本だと思う。
ちょっと高いけれど、おすすめの本ですね。
(2005,11,24)


『水滸伝』 (楊定見・施耐庵・羅貫中著、駒田信二訳 、古典文学大系 、平凡社 、 1967)

 中国の長編小説を、読むのを楽しみしている。一度読んでおけば、精神活動にかなりの老化現象が起こってからでも、再読する気分になるのではないかと感じている。
私が祖母と住んでいた金沢の家には、南総里見八犬伝だとか、江戸時代の長編小説の類があって、それらは、老人になったとき読むのを楽しみにして保存してあるのだと言うことだった。
結局、祖母はそれらの本を読むことなく亡くなったが、テレビが出現する前は、そうした読み物が、老後の楽しみだったのだろう。
というわけで、私も、今からちょっと準備をと考えている。
ただ、準備が何の役にも立たない可能性もあるが。
 今回は、「水滸伝」である。
英雄豪傑の登場する痛快な物語であるという先入観を持っていたが、読んでみて、それほど痛快ではなかった。豪傑と言っても、単なる暴れん坊の大酒飲みばかりで、何かというと怒り出して、人を殴りつけたり、時には殺してしまったりするのだから、乱暴な話である。
侠気と言っても、思いこみにすぎない感じで、猪突猛進に他ならない。
話が盛り上がると、その場の勢いで義兄弟になってしまう。
共通の友人があると単純に信じてしまう。
そういう人たちが、時の勢いに乗って、梁山泊に集合する。
そこを痛快と思うかどうかだろう。
そういう具合なので、時の勢いに見放されると、たちまち分散してしまう。
 興味深いのは、小説の中に出てくる、各種犯罪の手口である。
小説の背景になるころには、そういう詐欺や強盗があったのかと気づかされる。
かなり綿密な描写があるので、これは犯罪の教唆なのか、犯罪予防の勧めなのかわからないなあと感じた部分もある。
それほど、具体的なのだ。
さらに、犯罪捜査の方法や刑罰の方法にも興味を感じた。
初動捜査は、証言の収集だが、二人以上の証人がいないと、事件として取り上げられない。
そのあたりは、結構厳密だったようだ。
しかし、一度逮捕されてしまうと、袖の下を惜しみなく使わなければ、簡単に殺されてしまったりする。
まず、拘置所に入ると、牢名主みたいな役人が、入牢の百たたきを行う、ここで袖の下を使わないと、「打ち所が悪くて死んでしまう。」ことにもなる。
十分お金をつかませると、5、6回叩いて「飽きたからやめる。」とか、「病気らしいので、治ってからにする。」という具合になる。
いよいよ刑が決まって、出牢の時も同じことがあるので、ここでも袖の下が効果を持つ。
懲役は、事件の起こった場所から遠方の離れた町に護送されて、そこでのことになるので、あまり拘禁度は高くなかったようだ。
ここでも袖の下を使うと、お寺の鐘突のような軽い仕事に回されるらしい。
その護送の間だが、袖の下を使わないと、わざと病気になるようにしむけられたり、殺されてしまったりするので、恐ろしい話である。
まったく、地獄の沙汰も金次第である。
 恐ろしいと言えば、旅行をするときの、道中の茶店などが結構怪しげである。
一人旅などしていると、茶店でしびれ薬を飲まされて、動けなくなったところをばっさりやられて、持ち物をごっそりもっていかれてしまう。
ひどいところになると、殺された上、身体をばらばらにされて、肉まんじゅうの具にされてしまう。
本当にそんなことが横行していたのだろうか。
ちょっと疑問だが、まったくの作り話でもないのだろう。
中国大陸は広大だし、そういう中で生きて行くには、大酒飲みで乱暴で、どんな仲間がいるかわからないような、つまり一般人が敬して遠ざけるぐらいでないと駄目なのかも知れない。
 水滸伝に出てくる女性は、そういう茶店で働いていて、かもになりそうな客を物色する老婆か、男勝りの武術を使う、女将軍みたいな人ばかりである。
艶っぽい話など全く出てこない。
全編これ男の話である。
物足りないと言えば、実に物足りない。
金瓶梅は水滸伝の一エピソードを膨らませたものだが、水滸伝が金瓶梅を生み出す必然性がよくわかる。
併せて読むとおもしろいだろう。


(2005.4.3)

『静かなる戦争』(デービッド・ハルバースタム著、小倉慶郎、三島篤志、田中均、佳元一洋、柴武行訳、PHP研究所、2003)

 この本の副題には「アメリカの栄光と挫折」と書いてあるが、もう一つ意味がよくわからない。
冷戦の終了後、アメリカが明確な世界戦略、外交戦略を持てないまま、次々と生ずる軍事衝突をともなうような国際対立に対処していく姿が描かれているが、それがはたして「アメリカの栄光と挫折」と言えるものなのかどうか。
簡単に副題を付けてしまった感じがする。
この本は、ベトナム戦争を扱って、ベストセラーになった『ベスト&ブライティスト』の著者、ハルバースタムがクリントン大統領時代の、国際紛争とそれに関与したアメリカの政治家、軍人の姿を活写したものである。
描写が具体的で、登場人物のすべてが生き生きと動き回る様子は、ノンフィクションと言うより、フィクションのようですらある。
この本は、9/11以前に書かれているので、その後のアメリカの対テロ戦略にはまったく触れられていない。
しかし、9/11以後のアメリカの動きを予想できるような、事実が次々と紹介されるので、読んでいて、その後のアメリカの政治の動きが了解できるようになる。
アメリカの軍部が、いかにベトナム戦争で打撃を受けたか、そのことがその後の軍事行動に大きな影響を与えているかがわかる。
軍部の軍事行動への消極性を変えるには、国家をあげて、軍事行動に突き進むような動きを作り出す必要があったことが、よくわかる。
テレビのニュースがショウ化して、衝撃的映像に世論や政治が翻弄されるさまも良く描かれている。
まじめな議論が軽視され、ニュースは個人攻撃やスキャンダルに引きずり回されてしまう。
視聴者は気まぐれで、次々と新しいニュースに移っていってしまう。
そういう中で、アメリカが必要とされる対外軍事行動に対する国民の支持を得るためには、センセーショナルな行動を取るしかないのである。
一方で、アメリカ軍の死者や戦傷者は最低限でなければならない。
そうした条件下で行われる軍事行動は、きわめて危ない綱渡りのようなものである。
アメリカのイラク戦争も、アメリカ国内の要素を考えるだけでも、いつ破綻するかわからないものだと感じられる。
イラク戦争を巡っての、米英と仏ロの対立は、ユーゴ空爆の時点から存在していたことも、初めて知った。
アメリカよりイギリスが軍事介入に積極的であったという事実もある。
それらが、イラクでの動きにつながっている。
そうしたあれこれを知ると、イラク戦争の現状が、過去の無数の事実の積み重ねの上に作られていることがわかる。
この作品の「静かなる戦争」というのは、東西対立が解消し、核戦争という意味では、平和なのだが、そこに軍事力を使わなければ処理できない問題が出てきたときに、アメリカは自分の軍事力を、はたして正当に行使できるかという問いかけが含まれている。
東西の冷戦時代は、味方でなければ敵であり、最終的には核抑止力が働いていた。
そういう構造が消えてしまった中で、いかなる制御が必要とされているのか、また可能なのか。
その問いへの答えは出ていないのである。


(2004,11,24)
 


『造物主の掟』(ジェイムズ・P・ホーガン著、小隅黎訳、東京創元社、1985)

 およそ百万年前、異星人の自動工場宇宙船が、超新星の爆発の影響で、電子回路の損傷を受けて、土星の衛星タイタンに着陸する。そこで、自動工場が動き出し、いつしかタイタンは、異星人の自動工場の作り出したものによって支配されてしまう。
 人間の無人探査機がタイタンの映像を地球に届けてから、その探査に有人探査機がむかうことになる。ところが、その使命を受けたメンバーは多種多様で、地球を出発するまで、その使命は誰にも明らかにされなかった。その理由の一つは、映像の情報がソ連に伝えられていなかったことである。目的地は、火星だとされていた。
 乗組員の中には、霊能力者であるザンベンドルフが含まれている。
その人物がこの作品の主人公になっている。
彼は霊能力者とされているが、実際はトリックを使って、秘密の調査スタッフの調べた情報を、これみよがしに示していただけだった。
彼が、乗組員の一人とされたのは、異星人との出会いに、彼の超能力が意味を持つと考えられたらしい。
さて、タイタンの現実は、自動機械で作られたロボットが、感情や意志を持って動き出し、あたかも中世ヨーロッパのような社会を作り出している。
そこには、暗黒の支配と、自由を求める動きとが存在している。その対立と変動の中に、人間が登場するのである。
ここで、ザンベンドルフの一味は、自由を求めるロボット達と結びついて、タイタンの社会に自由と民主主義をもたらそうとするのである。
ザンベンドルフのチームの調査力、企画力、組織力が意味を持ってくるのである。
その課程が中世の英雄物語のごとくに語られる。
タイタン側の登場人物も、モーゼ、ガリレオ、レオナルド、ヘンリー、アーサー、ランスロットなどと命名されていて、人間社会の神話を投影されている。
モーゼがカリスマとなっていく課程には、ザンベンドルフの繰り出すトリックが使われていて、それがタイタン社会の変動を促していく。
自動機械が作り出したロボットが意志を持つようになる過程や、タイタンで有機物が機械のように合成され、利用される想定など、つじつまの合わせ方が、おもしろくて十分に楽しめる。
また、人間が、タイタンの社会を操作して、誘導していく様子もおもしろい。
すべての神話が、大衆操作の道具としてねつ造されていく過程も興味がわく。
読んでいると、この小説は、お楽しみが目的のSF小説にすぎないのだが、その底流に、自分たちとは異質な社会に介入して、そこを操作して、神の役を演じたいという欲望を感じてしまう。
底の浅い娯楽小説と言えば言えるかもしれないが、案外アメリカ人の本音を語っているのではないか。
単純な私は、そこにすぐアメリカによるイラク戦争を結びつけてしまう。
アメリカがイラクに乗りこんで、悪の集団を根絶して、社会を根底から作り替えようという欲望を持つのも、彼らの社会の深い衝動とつながっているのではないかと感じてしまう。
著者がイギリス出身のアメリカ在住の作家らしいので、アングロサクソンの体質と言った方が良いのかもしれないが。

(2004,10,24)




『戦争が遺したもの』(鶴見俊輔、上野千鶴子、小熊英二著、新曜社、2004)

哲学者、思想家の鶴見俊輔の話を、社会学者の上野千鶴子、小熊英二が聞き出すというのがこの本の筋書きである。
戦争中から、全共闘までの歴史を鶴見が述べる。
これまで語られたことのないエピソードも多数語られて、かなりのサービスぶりだと思う。
若者二人は鶴見の姿勢について、突っ込んだ質問をしている。
一般の鼎談本なら避けるような部分にも質問は及んで、なかなかの力の入れようだと思う。
例えば、従軍慰安婦問題で、日本が国家として補償をしようとしない姿勢に対して、国民基金の提案がされて国民の自発的な補償を行おうとする動きがあり、鶴見はその動きを応援した。
しかし、元慰安婦の人々は、国家による正式な補償でなければ受け取らないとした。
運動は行き詰まり、呼びかけ人は批判された。
鶴見もその一人で、その批判をどう受け止めているかが話題になっている。
なかなかに厳しい追究がなされている。
外にも、60年安保闘争の評価、全共闘、ベ平連、吉本隆明、丸山真男などの評価についても厳しい論議が出てくる。
運動を共にして、その後政治姿勢を異にした人々の評価なども問題になっている。
鶴見の最後のよりどころは、やくざな気分、人と人との共感、信頼のようなものである。
これらは、鶴見のいつもの語り口で、読んでいて他での発言と矛盾しないので、流れるように入ってくる。
今回の鼎談で印象に残ったのは、戦時下に下獄していた政治犯、思想犯の話である。
敗戦となった瞬間に、釈放を求める運動が起こらなかったこと。
また、入獄者も、人民大衆が解放に来るまで待っていないで、アメリカ軍の手で釈放されるのに甘んじてしまったことの問題である。
この選択の意味は極めて大きい。
アメリカ軍を解放軍と規定することにつながったからである。
鶴見によると、こうした選択が行われた一番の原因は、関係者全員が食料不足で空腹のため、まともにものが考えられなかったためだという。
そういう発想は、当時を実際に経験したものでなければわからないだろう。
ベトナム反戦運動とか全共闘などの歴史は、私も同じ体験を共有しているが、そのころを振り返って見ると、社会現象の推移というものの慌ただしさを感じてしまう。
現象をとらえたと思っても、そのときには事態は全く別の様相を示している。
その変化の意味をとらえようとすると、よほど確りした視点を持っていないと不可能だと思う。
その事実は現在進行中の現象についてもあてはまる。
気が付いて見ると、判断を間違ってしまったのは、お腹がふくれていたからという可能性もある。

(2004,4,16)

『ミルトン・エリクソンの心理療法セミナー』(ミルトン・エリクソン著、宮田敬一訳、星和書店、1984)

以前にもエリクソンの本を取り上げたことがある。
この本は、エリクソンが少数の研究者相手に行った、セミナーの記録である。
月曜日から金曜日までの5日間の話である。
とても内輪の感じがある。
参加者は10数人だろう。
ただ、聴衆はみんな心理療法の専門家なので、反発したり、疑問を持っている人もあるだろう。
そうした疑問を聴衆の一人を取り上げて、催眠療法の対象としてしまう。
そうこうしているうちに、反発などどこかに行ってしまうのである。
その後は、エリクソンの経験談を聞くことになるのだが、底に流れているものは、治療は患者が行うものであって、治療者はほんの一部を助けるだけであるという考え方である。
考え方というより、事実と言った方が良いのかも知れない。
実にユニークで、おもしろい。
心理療法というものに対する堅苦しさが取れる。
面接室の制限された、狭苦しさが消える。
どうも、エリクソンにはアメリカの農村の臭いがする。
そこでの仕事や家庭、自然、人とのつながりが背景に確実なものとして存在している。
エリクソンは自分の行っている治療の実例を具体的に上げていく。
患者にレストランをごちそうさせたり、(するのではなく、してもらう!)、半分強制です。
相手は、そんなことなど絶対にしないケチです。
治療のために肉体労働をさせたり、(命じるのです!)。
そんな肉体労働をさせられるくらいなら、病気が治った方が良いと思わせるのです。
それらの背後には、いつもアメリカの田舎町の風景が重なります。
実例が実例なので、プライバシーなど多分ないでしょう。
知っている人が読めば、誰なのか確実にわかってしまう。
こんな本を書くなんて、何てことだい。と思います。
でも、そうした話は、エリクソンの住んでいる土地では秘密でも何でもないのでしょう。
だから読んでいて、不快感はありません。
なんだか、近所の人から聞いたうわさ話のようです。
エリクソンはすごい治療者だなあと思います。
まねをすることは絶対にできません。
それでいて、何か元気づけられるような感じがします。

(2004,3,21)




『法然の哀しみ』(梅原猛著、梅原猛著作集10、小学館、2000)


日本の宗教者で最も重要な人を上げろと言われれば、私は法然を上げたいと思う。
平安の宗教者と言えば、空海にしても、最澄にしてもその当時の中国の最新の仏教潮流を日本に紹介した人物である。
道元にしてもそうである。
しかし、法然は全く自前の考え方で一派を開いたのである。
その後は日蓮や親鸞もあるが、パイオニアの力量に支えられている面は否定し難い。
私は、「選択本願念仏集」で、出家した方が念仏しやすい人は出家した方がよい。在家でいる方が念仏しやすい人は在家でいるほうがよい。といった言葉に驚いてしまった。
それは真の宗教者にだけ見られる徹底性であると思う。
そういいながら、自分は戒律を保つのだから、言葉の重みが違う。
法然が死を前にして述べた「一枚起請文」は、わずかな言葉の中に、法然の人生、思索、体験のすべてが込められている。
ここまで煮詰められるということは、真に驚嘆すべきことだ。
私は法然の縁の地25箇所を巡ったことがあるが、それぞれの地に立って、法然の巨大さを感じ取ることができた。
法然の生誕の地に立てられた誕生寺を訪ねたとき、法然の木造を背負った熊谷直実が、号泣しながら登ったという坂道を私も登った。
その時の、様子が今、まざまざと再現される思いがした。
法然の船を追って、遊女がやってきた港町をも訪れた。
それぞれ強い印象があった。
法然以外には、明恵、良寛などの縁の地を訪ねたことがある。
それぞれの宗教者の形がおぼろに感じられるものである。

ところが、法然の全体像を表した本は少ない。
梅原猛のこの本を読んで、その不満を解消することができた。
法然の出家と父親の死の関係。念仏が弾圧され、法然が四国へ流されることになった、政治的背景。悪人正機説が法然にもあること。
近代的悪人理解の問題点。等、この本で納得の行く形で知ることができた。
しかし、この本に対する不満もある。
それは法然の宗教体験に正面から向き合っていない点である。
法然が、膨大な仏典の中から、口誦念仏を見つけだしたのは、法然が自分の宗教体験の意味を探って行った努力の結果なのであって、仏典の理論整理の産物ではない。
法然のカリスマ性は、法然の宗教体験の純粋さによる。
法然は自分の宗教体験を言い当てる仏典をさぐりあてたのである。
その事実の衝撃が問題である。
その衝撃を、法然は生き抜いた。
仏教学者は、あまりに文献を重視し過ぎる。
宗教は宗教体験をぬきに語れない。
法然の宗教体験を知ろうと思えば、一日7万遍の念仏を実行してみるべきだろう。

(2004,1,28)


『アメリカ時代の終わり』(チャールズ・チャプラン著、坪内淳訳、NHKブックス、2003)

今後の世界の動きを大胆に予想し、今後はアメリカが世界の中心から降りて、アメリカとEUという二極構造に変わっていくだろうと断言している。
アメリカは、無駄な抵抗をせずに、秩序正しく、新興ヨーロッパにその指導権を譲り渡すべきだというのである。その理由として、アメリカの力が限界に来ていることを指摘する。
現在のイラク戦争はそのプロセスを押し止めるより、促進してしまうだろうと予想している。
アメリカに今残っているのは、軍事力だけで、世界を統合する経済力も政治力も存在しないという。
そこで登場するのが、EUである。
チャプランは第一次世界大戦、第二次世界大戦を引き起こしたのは、統一ドイツの成立であると見る。
それほど多様な社会を統合するというエネルギーは、大きなものがあるというのである。
アメリカが大きなエネルギーを持っているのは、イギリスとの独立戦争を戦った13州が、ねばり強い話し合いと、試行錯誤の過程を経て、連邦国家になったということに見ている。
そのエネルギーがその後の発展を導いたというのである。
今、その作業が行われているのEUにあって、アメリカにはない。
その結果が、ここ10年ほどの間に、現実の姿を取って現れてくるだろうと予想する。
そうした、世界全体の流れを見損なうと、国家の運営にも大きな問題が出てしまうだろう。
そこで問題になるのは、アメリカがそのことをどこまで理解できるか、受け入れるかにあるというのである。
それが困難であればあるほど、時代の変化には混乱が伴う。
日本の身の処し方としては、アメリカに身の程を知ることを勧めるという役割を演ずることである。
しかし、現在の日本は、今後も継続してアメリカ中心の一極構造がつづくととらえているように見える。
それは、とんでもない間違いということになる。
そうした静かな退場の例として、第二次大戦後のイギリスの行動があげられている。
EUの統合によって、世界は多極的な世界に移行していく可能性があるという。
その場合、日本はアジアでの国家統合をめざしていくのが一つの選択となろう。
しかし、チャプランが指摘していることは、ドイツがEU統合の中心を担い得たのは、第二次大戦の反省をしたからであって、現在の日本が、アジア統合の中心になるには、戦争の反省が足りないと指摘されている。教科書問題や、靖国参拝の問題を、アメリカの政治学者から指摘されることには、奇妙な感覚があった。
私には、中国や韓国の批判が国際的な承認を得ているという感覚が、乏しかったのだろう。
現在の日本は不況にあえいでいるが、このままですべてが終わるとは思えない。
しかし、世界大の政治方針を立てようとすると、周辺諸国との関係を改善することが何より必要なことだろう。
というわけで、この本には、色々と刺激を受けた。
ただ、残念なのは、パレスチナ問題の見通しについて、パレスチナ側に責任があると読み取れ、時間の問題で解決されるという書き方なのには不満を持った。
あまり、見通しについて責任を持って、予想するという立場ではなかった。
イスラエル側に近いのである。

(2004,1,3)




『「きけわだつみのこえ」の戦後史』(保坂正康著、文藝春秋、1999)

第二次世界大戦で戦没した日本人学生の、書き残した手紙、手記をまとめたものが、『きけわだつみのこえ』である。
最初、東大協同組合から出版され、その後光文社からの出版となった。
今では、岩波文庫に入っている。
私が学生のころに読んだのは、光文社版だった。
一読して、世の中には賢い人がいるものだという印象だった。
その当時は、それらの学生がどのように亡くなったかよりも、その教養や知能に関心が向いてしまった。
自分が同じ境遇に置かれても、「聞くに耐えないわだつみのこえ」しか残せないなあと思った。
感想はそれだけだったが、今度この本を読んで、戦没学生の体験を継承することにも、色々な困難があるのだと感じた。
経過というのは、こういうことである。
戦争の中で、思いを残して死んでいった若者の声を残そうとした家族が、ボランティアで活動を続けて、「きけわだつみのこえ」を世に送り出した。
しかし、その後、50年ほど活動を続けた段階で、会の中心勢力からそれらの家族=遺族がパージされるような形で、排除されてしまったのである。
それは、戦争体験の継承を巡る姿勢の違いが問題なのだが、戦没学生の体験を被害的な立場からだけではなく、加害者としての立場で見るべきだという視点が生まれてきたことと関係している。
戦没学生の加害性ということを、指摘すると、当然家族と対立するだろう。
しかし、現実にそういう姿勢で、戦没学生の手記を集められかというと、それは不可能に近い。
こうした手記を集めたり、公刊しようとすると、遺族の意志をどのように尊重していくかが問題になる。
死者をむち打つような姿勢で、資料を集められるわけがないのである。
人の集めた資料に批評を加えることはできても、批判の姿勢を持ちながら、同時に資料収集の作業を続けるためには、だれが見ても頭が下がるような献身的な作業を重ねる必要があろう。
そうした手間暇を欠ける作業を省略して、頭の中で考えただけの視点で、押していこうとしたところが、遺族の納得を得られなかった理由だろう。
戦争体験を継承すると言うことが、単なる視点の継承だったり、資料の保存であるだけでは、次の時代の役には立たない。
こうした会の活動の中に生じてくるような、対立や矛盾をねばり強く克服していくことの中にしか、継承の中身は存在しない。
他に感じたことは、こうした手記を残していった学生を教育していた、教官側、文部省の役人などは、戦後、これらの手記をどのように読んだのだろうかという疑問である。
国の方針に従って、命を投げ出した学生達に対して、かわいそうだとか、ひどい時代だったという程度の感想しか持たなかったのではないか。
「きけわだつみのこえ」に呼応する声が指導者層の反省の中にあったのかどうか。
そこが問題だと思う。
もうひとつは、「きけわだつみのこえ」と共鳴する声を、掘り起こす作業が、その後、どういう風になされたかである。
たとえば、ベトナム戦争に従軍したアメリカ兵の声、逆に、北ベトナムの学生の声、そうした声を共鳴させていく作業があり得たのではないか。
戦場に倒れた人々の無念を掘り起こすことによって、見えてくるものが必ずあると思える。
そうした作業が重ねられていれば、日本軍の一員となった戦没学生の戦争責任が一方的に追及されるという形は避け得たのではないか。
そんなことを考えてしまった。

(2004,1,3)




『敗北を抱きしめて』(ジョン・ダウワー著、三浦陽一、高杉忠明、田代泰子訳、岩波書店、2001)

アメリカの歴史学者が日本の戦後の過程を、細かな資料に当たりながら浮かび上がらせた力作である。
その大きなポイントは、戦後の日本の方向性を決める過程で、最初の理想主義的な方向が、冷戦の進行によって、大きく変化していったという事実である。
この事実は、すでに繰り返し指摘されてきたものであるが、ダウワーの分析は、その変化の中に、戦後の日本社会を規定した、社会のあり方を決定する方向が孕まれていたというものである。
敗戦の過程で、戦後統治を安定させるため、米軍の積極的働きかけで、天皇の免責がはかられ、その後、社会全体の無責任体制を導くことになった事実などが指摘されている。
天皇の免責は、米軍の都合で行われたものにすぎない。
占領が終了した時点で、国家として独自の判断をおこなうタイミングがあったが、その判断を放棄してしまった。
また、一度は排除した旧支配層の復活を許すなど、米軍の方針は、政治的な無責任さを許容するものになっていった。
これらは、組織の陰に隠れて、個人の責任を明らかとしない、無責任な戦後日本の社会の風潮につながっている。
その他にも、米軍は自分たちの支配をむき出しにしないため、陰での誘導を行って、文書化されない命令を使って、国家を統制した。
このようなやり方は、占領終了後も残って、官僚組織による、社会の統制を許すことにもつながっていった。アメリカが、その後、日本の中に存在する成文化されない各種規制を、貿易障壁として攻撃するようになったが、その基礎を作ったのは、米軍であったというのである。
これらは、戦後の日本が基本的に米軍の作った枠組みの中で動いていたことを意味していよう。
これらの性質が、戦後日本の繁栄を生み出すことにつながっていることは疑いない。
しかし、同時に、その枠組みを離れた時、日本が独自の見取り図をもって国家社会の運営を行えないだろうということをも意味している。
ここが、現在の日本の混乱の根拠になっているだろう。
現在、イラク戦争後の国家の立て直しが計画されているが、イラクの現在の経過を見る限り、日本の占領体制が参考になるとはとても思えない。
日本の今後を考える場合、人道支援だけではなく、アメリカの占領政策をとらえ返し、戦後の日本のあり方を見つめ直すプロジェクトを是非行うべきだと思う。
自衛隊の派遣先が安全か危険かだけではなく、米軍支配による国家再建の比較研究こそが、求められているのではないだろうか。
この本の中で、事実として初めて知ったことに、BC級戦犯の死刑者数の国別分類があった。
連合国は、それぞれの国が戦犯裁判を行って、日本の軍人に死刑を含めた刑を執行したのである。
その死刑判決の内訳が、オランダ(236人)イギリス(223人)オーストラリア(153人)中国(149人)アメリカ(140人)フランス(26人)フィリピン(17人)となっている。
この数字が何を意味しているのか、なかなかに興味深い。
多くの人が考えているのとまた別の戦争の姿がそこにはあるように思える。

(2004,1,3)




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