『心理療法とシャーマニズム』(井上亮著、創元社、2006)


私がかって、「宗教と心理療法」というシンポジウムを企画した時、シンポジストの一人として、参加していただいたのが、この本の著者の井上さんでした。
このシンポジウムの内容は、平井孝男さんの努力により、『癒しの森』(加藤清監修、創元社、1996)として、出版されています。
その時のご縁で、何度か井上さんにお会いしました。
最初にお会いしたときは、カメルーンから帰国したばかりで、顔色や表情が日本人のものではなく、身体は日本に戻っても、心はアフリカに残っていて、「この人大丈夫なのだろうか」と感じました。
それでも、何度かお会いする内に、段々と日本人のそれに戻ってこられたので、安心しましたが、最初の不安がどこかに残っていた気がします。
もう一つ、印象に残っているが、「ボーダーラインを一回の面接で治した。」という話です。
何でも、ボーダーラインの人の話を聞いていて、2時間ほどで治したというのです。
あまりに真剣に聞いていて、面接の時に葦を組んでいたばかりに、その後しばらくは足が動かなくなったそうです。
ボーダーラインを一回の面接で治すなんて、そんなことがあるだろうかと疑問に思いました。
しかし、今回の本の中にある、「青年期離人症の精神療法」「’as if’人格再考」などの論文を読んで、一回でボーダーラインを治したという面接の概要を感じ取ることができました。
それは、クライエントの病気を治療者が一度引き受けて、治療者が自己治療すると同時に、クライエントの病気が治るというような方法です。
井上さんが、シャーマニズムに関心を持ち、その実践の一端に触れたのも、そのような治療的手法と関係があるでしょう。
この本の中で、何度も、向こうの世界(病的な世界や霊的な世界)に行って、こちらの世界(現実界)に戻ってくる方法が問題とされていますが、その理由は、井上さんの基本的資質と大きな関連があるでしょう。
この本を読んで、一番に問題となるのは、彼がアフリカの霊的世界に触れて、日本の現実世界に本当の戻ってこられたのか、それともそうでなかったのかという問題です。
最初、井上さんは、カメルーンのシャーマンから「日本に帰れば死ぬ。」と予言されています。
その予言を変えるために、井上さんは自我の計らいを捨てて、すべてをなりゆき任せにすることにします。
すると、それらの予言は、「何の問題もない。」に変わります。
それで、調査活動を継続するのですが、このやり方には危険性を感じます。
井上さんは、カメルーンで生活するために、色々な準備をして行きました。
一つは、飲料水への注意です。
現地の人には安全に見えても、どのような細菌、ウイルス、毒物が混入しているかわからないので、水を飲むときには最大限の注意をはらったそうです。
煮沸消毒は当然としても、常に水源地を確認し、各種のフィルターを通し、時には消毒剤を使用しています。つまり、各種のフィルターを通して、カメルーンの現実に接していたのだと思います。
しかし、シャーマニズムについては、その全容がわからないのですから、どれほどのフィルターを用意しようと、それで十分であったかどうかは、わかりません。
むしろ、「日本に帰れば死ぬ。」という予言を、どうすれば変えることができるのかを、シャーマンに尋ね、その方法を実施すべきだったでしょう。
あるいは、その時点で、調査を中止すべきだったのではないでしょうか。
この本を読むだけで、カメルーンの霊的世界の影響を受ける人があると思います。
読者が日本の現実にもどるための装置を十分に用意していないという点で、この本の編集には問題があります。

(2007,2,11)

『聞きかじり 見かじり 読みかじり』(坂東三津五郎著、三月書房、1965)


京都の古本屋で、この本を買った。
三百部限定の特装品だ。
私の本は、百拾参番となっている。
装丁、坂東三津五郎である。
表紙は、丹波木綿の手織りで、藍で染めてある。
ちょうど、手のひらを広げたほどの大きさで、手に馴染む。
木綿の感触が心地よい。
ここに収められた文章は、ほとんど書き下ろしらしい。
原稿をそろえるのに、二年かかったと書いてある。
つまり、凝りに凝って作った本と言うことになる。

本をその中身だけで考えるとすれば、文字情報だけが意味を持つ。
インターネットの中のデジタル情報が、ディスプレイの上に表示されれば、事は足りるということになる。
しかし、この様な本を手にすると、本は中身の文字情報だけではないことがうなずける。
装丁のデザイン、表紙の手触り、重さ、一枚一枚の紙の感触、活字の種類。
それらが相まって、情報として伝えてくれるものがある。
そこにあるのは、坂東三津五郎の伝えたい感覚そのものだろう。

表紙を開くと、八代目坂東三津五郎という署名がある。
左上に「北條様」とある。
前の所有者なのだろう。
北條様とはだれだろうか。
どういう形で、渡されたものなのか、色々と空想できる。

こういうことは、本がものとして存在するから受け止められることだ。
本が好きだということは、本の文字情報だけではなく、
本に関わる丸ごとに心惹かれるということだろう。
積ん読に意味があるのも、文字以外の本の情報が、本を身近に置くだけで伝わってくるからだ。

この本は、歌舞伎の世界のエピソードが鏤められている。
記録に残しておきたいちょっとした知識の吹き寄せみたいなものだ。
ところどころ、「芸」に関する勘所が、体験を織り交ぜながら書かれている。
それらが、うまい具合に溶け合って、良い味わいになっている。
随筆というものはこうでなくてはと思う。
本を作るなら、こういう具合にできればなあと憧れる。

ちょっと、お見せしたいぐらいです。

(2007,1,22)



隣人記(鶴見俊輔著、晶文社、1998)

著書が出版されると、必ず眼を通すというほど熱心な読者ではないけれど、鶴見俊輔の本は全体の3/4ぐらいは読んでいるのではないかと思う。
この本は、彼がつきあった人の列伝のようなものか。
アメリカ留学中の指導教官から、近所の老人まで、登場人物は多彩だ。
人間観察記録でもあるし、同時に自伝でもある。
彼の仕事ぶり、感じ方や考え方、生活の仕方、人との付き合い方まで、数々のエピソードのたどることができる。
だから、この本は、鶴見俊輔という人の、一つの索引のようなものだろう。
どの話でも良いが、興味の持てる話があれば、そこから入っていけば、彼の世界が見えるようになる。
人物評伝だが、批判的な文章は少ない。
生きている人の悪口は書かないというのが、彼の考え方だろう。
ゴシップにしても、相手を傷つけるような話は避けている。
生きている人の批評はほめる形だ。
そのほめられることを受け入れると、ちゃんと裏側には批判が入っている。
つまり、とても教育的だと言うことだ。
勝負事には、将棋型と碁型がある。
将棋は全体を見ながら、すこしずつ態勢を作って本丸に攻めてくる。
碁は布石を打って、全体に影響させながら、基本的に陣地を分け合う。
教育にも、同じようなやり方があるだろう。
鶴見俊輔のやり方は、碁的だ。
意識しないうちに、要所にパチリと一目置かれる。
それぞれの人物批評に取り上げられた人は、自分に関する批評を読んで、置かれた石を感ずるだろう。
私は、この本に取り上げられた人の何人かを個人的に知っている。
文章を読んで、こういうところをほめるのかと感心する。
そして、教育的配慮を感ずる。
教育の一番の勘所は何か。
彼の仕事を見ていて、石はいつも癒しを促すところに打たれていることがわかる。
そういうことを教えてもらった点で、鶴見俊輔はわたしの先生であるし、同時に癒し手でもある。

(2007,1,21)
                            元へ戻る