斉藤茂吉にとって「見る」ことの意味
      ー窃視癖に関してー
                   
 一、はじめに

 斉藤茂吉は二四才(明治三十八年)から死の前年の七一才(昭和二十七年)まで短歌を作りつづけた。彼はまた、短歌制作の傍らで多数の随筆や評論をも著している。茂吉は正岡子規の影響のもと『アララギ』の代表的歌人となったが、その基本的態度は「写生」であった。後に自分自身の考えを、「実相観入」という言葉で表現している。それは「実相に観入して自然・自己一元の生を写す」という立場である。外界を表現するのか、内面を表現するのかという対立を、象徴的な自然描写によって統一的に表現するという立場に立って、解決・止揚することである。 彼は、徹底した観察、写生を歌を作る基本にすえた。それは彼自身が自然科学者の一つである医学者であったということとも相俟って、自己観察を詳細なものにしたと考えられる。 短歌は三十一字の中に叙情を中心として、一つの完成した世界を作りだそうとするものである。幾つかの短歌を連続して作る連作という方法であっても、一つ一つの短歌は独立して鑑賞に耐えるものでなければならないことになっている。そして、象徴的表現を写生という形で求めれば求めるほど、内面の投影がはっきりしたものとして現われてこざるを得ない。つまり短歌の一つひとつは、それぞれがまとまった自由連想や、夢の断片であるといってもよいのである。実際、茂吉の場合しばしば夢の内容が一つの短歌として歌われてもいる。注1)
 茂吉は一生を通じて短歌を作り続けたのであるから、とらえかたによっては、一生を通じた自由連想や夢の記録を残してりうと言ってもよい。短歌は定形詩であるから、定量化が容易であるという特徴を持つ。
 茂吉の近親者の証言によれば、茂吉はてんかん気質であったらしい。また、しばしば癇癪をおこすA型タイプの人間であったと思われる。彼の死因は高血圧と脳動脈硬化であった。老年に達してからは、脳動脈硬化による痴呆もみられているようである。これらが、創作活動にどのように影響していたかを考察することも一つの意味をもつであろう。
 しかし、この小論では、茂吉の短歌と随筆を材料にとりあげながら、茂吉の窃視癖とその背後にあるものにしぼって考察を加えてみたい。

 二、窃視癖の存在

 茂吉の歌の中には、しばしば、隣の部屋の男女を気にするというものがみられる。例えば次のようなものである。注2)
 「隣り間に男女の語らふをあな嫉ましと言ひてはならず」
              『つゆじも』
 「隣室のをとこをみなの若きこゑ聞こえくれども嫉むことなし」
 「となり間に媚び戯るるこえ聞きて氷の水を飲みほすわれは」
              『白桃』
 茂吉は、旅館などに泊まると隣室が気になって、眠れぬこともあったらしい。日記のなかには、そのような記述がしばしば登場する。
「隣室ニ上諏訪ノ若者、若イ芸者ヲツレコミテ交合ス。交合ノ有様ハ割合ニ静カナリシモソノ前後ノ談話、耳ザワリシテ困リタリ」(大正十五年十一月九日)
「トナリニ女ノツレコミアリテイネガタシ」
(昭和九年七月十九日)
「夜、客ガ女中ト交合ス。音シナカッタガ動悸ガシタ」(昭和十二年一月九日)
「湯ノ浜着、亀屋ホテル投。::隣室ノ夫婦暁ヨリ交合二回、ソレ以前ハ眠リテ不知」(昭和十五年十月十九日)
 このような記述の示している方向は、茂吉のドイツ留学時の体験を描写した随筆の中で明らかにされる。茂吉は南ドイツを旅行している時、隣室に男女の客が入ってきた音を聞いて起き上がる。
 「::その時、部屋の暗闇に、隣室との境の扉の下の方から細く幽かな光線の差してゐるのに気づくと、僕は反射的に起きた。そして眼鏡をかけて扉に近づき、錠の穴から隣室をのぞいた。”Hineinschauen”である。隣室にはあかあかと電気燈がとぼって、そこに二たりの若い男女がゐる。僕は息をこらし、気を静めてそれを見るに、驚かざることを得ぬ。女は体貌佳麗で、男もまた吉士と謂っていい。ふたりともゲルマン族らしく、猶太族の相貌はない。
 ふたりは衣を脱した。女はすき透るような『潔白細膩』である。男が衣を持ってこちらの扉に近づいて来たとき、僕はおもはず後じさりをした。余り距離が近いので反射的にさうなったのであった。それから急いで二たびのぞかうとした時、いきなり額をば扉の撮手に打つけたので、又反射的に後じさりした。しかし二人はその音にも気づかなかったらしい。うら若い男女は自然の行為に移って行った。おほよそ半時間にして彼等はついに電気燈を消した。暗黒は僕の『自我』意識を蘇らせたのであるから、僕は二たび床のなかにもぐった。」
              『蕨』
 おそらく日本国内のことであれば、表現しきれないものが、外国の体験であるため、はっきりと表現されているのであろう。
 茂吉は単に隣室が気になっているだけではなく、そこでの性的行為が気になっているのである。そして、それを覗き見ようとするのである。そこには、常に一種の嫉妬心が隠されているだろう。
 「ねたましくそのこゑを聞く旅商人は行く先々に契をむすぶ」
             『つゆじも』
 「あひ抱き接吻をする場面をもまともに見つつ吾は帰りぬ」
             『白桃』
 「美しき男をみなの葛藤を見るともなしに見てしまひけり」
             『暁紅』
 「うつくしき若き夫婦よこよひ寝ば人のこの世のよしと思はむ」
             『寒雲』
 ドイツ留学中の体験の中には、接吻をのぞき見るというものもある。そしてそれは、短時間かいま見るというものではなく、一時間以上も見続けるというほど徹底したものである。
「そこの歩道に、ひとりの男とひとりの女が接吻をしてゐた。・・・これは気を落付けなければならぬと思って、少し後戻りをして、香柏の木かげに身をよせて立ってその接吻を見てゐた。その接吻は、実にいつまでもつづいた。一時間あまりも経ったころ、僕はふと木かげから身を離して、いそぎ足で其処を去った。」
             『接吻』
 留学中の話としては、他に女性の水浴中の姿をおしかけて見るという場面もある。「『一寸あけて呉れ。大切なんだから』中で笑ふこゑがして、戸が開いた。娘は上半身裸形である。
『いやな方ね。そんなにせっかちで、あたしお化粧ちゅうよ』
『何かまはん。僕は欧羅巴人のお化粧を見るのだからその侭やれ』娘はToiletteといふ語を使った。『失礼してよ』とか、『それでも見てゐられるとをかしいわね』などといって娘は体を洗ってゐる。・・」
 「異邦に留学することは何で楽であろうか。艱難辛苦のうちに見る一瞬の夢の如きものであればこそ、『充足の原理』も成り立つのである。」
             『探卵患』
 一瞬の覗き見の瞬間が、夢のような充実の時なのであろう。
 茂吉が故郷から東京にやってきたころの想出を書いた『三筋町界隈』は、とどのつまりは次のような文章で終っている。
「上京した時私の春機は目ざめてはゐなかつた。やをという女中::がわたしを、ある夜銭湯に連れて行った。さうすると浴場には皆女ばかりゐる。年寄りもゐるけれども、綺麗な娘が沢山にゐる。私は故知らず胸の躍るやうな気持ちになったやうにもおぼえれゐるが、実際はまださうではなかつたかも知れない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であつた。後でそのことが分かり、女中は母に叱られて私は二たび女湯に入ることが出来ずにしまつた。私はただ一度の女湯入りを追憶して愛惜したこともある。今度もこの随筆から棄てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残ってゐる。」
 しかし、このような覗き見は、裸体や性行為の場面を直接見ようとするだけでなく、間接的なものをも含んでいる。例えば、茂吉の長崎での体験はそのことを示している。
「長崎に行ってから、婢のいいのがないので困った。それに独身で半年以上も暮らしたので、不自由の目に遭ってゐる。ある時、五島うまれだといふ小女を雇った。十七ぐらゐであったかと思ふが、小柄で背がひくく、せいぜい十五ぐらゐに見えた。いろが浅黒いが、顔が円く、二重瞼などをしてゐるので、一見のうへ直ぐ雇入れたのであった。」「このやうにして数ヶ月立った。ある日、病院の事務長が私に向って、私の家にこのごろ毎日鼠が巣を喰ってゐる。めすの鼠と、をすの鼠が毎日ままごとをしてゐる。何せ頭の黒い鼠だから気をつけなさい。といふことを長崎弁で注意して呉れたのであった。」
「ある日曜に、女が出て行ったあと、一つしか無い女の行李をあらためると、中から沢山の手紙が出て来た。手紙は鉛筆で書いたものもあり、薄墨で書いたのもあり、いろいろである。私は時には動悸させながら其等の文句をひろひ読した。『デウスさまの、みめぐみにより‥‥』といふやうな文句で、甚だあまい恋愛的文章にみちてゐた。‥‥ 私は其等の手紙の文句を幾つか写し取ってしまって置いたのが、大正十三年の火事で焼けた。これはどうも惜しくないやうで惜しい。」
               『婢』
 召使の私物を捜索するだけでなく、その内容を複写し保存しておくというやり方は、彼の覗き見の徹底性を示しているだろう。それと同時に、そこには嫉妬の感情が感じられる。それは召使に対する、一種の所有欲の結果でもあろう。また、自由な恋愛に対する嫉妬も見られるであろう。
 そのような自由な恋愛への嫉妬心は、恋愛のために生命を捨てた人々に対するとき、激越な表現にまでなってしまう。
 「心中という甘たるき語を発音するさへいまいましくなりてわれ老いんとす」
 「有島武郎氏なども美女と心中して二つの死体が腐敗してぶらさがりけり」
 「抱きつきたる死ぎはの遘合をおもへばむらむらとなりて吾はぶちのめすべし」
              『石泉』
 
 三、茂吉にとって「見ること」の意味

 では、茂吉にとって「見ること」の意味はどのようなものであろうか。ここではまず、『赤光』の中から「死にたまう母」を取り上げて考えてみたい。「死にたまう母」は五十九首、四部からなっている。「其の一」は、母の危篤を聞いてから故郷に着くまで。「其の二」は病床の母に会ってから、その死まで。「其の三」は火葬。「其の四」は母を見送ってから山の温泉で静養するところ。以上のようにわけられる。このなかで「見る」「見られる」「見える」といった視覚を表わす言葉がどの程度使われているかを調べてみた。(表1)
 これを見ると、視覚作用が意識されるのは母の死の前と後で違いがあることがわかる。母の死が予想され、それに近づいていくときが最も意識され、母の死後急速に意識されなくなるようである。つまり、葛藤や不安に近づくとき「見よう」とする作用がたかまると言ってよいだろう。それは、不安や葛藤の正体を見ようとすることであり、その解消方法をさぐろうとすることなのであろう。それにはなにかしら、不安の解消につながるものを、我がものとする行為でもある。
 茂吉が一生の間に作った短歌全体の中に使われている、「見る」「見える」というような、視覚作用を意味する言葉を数えあげると、それは六度のピークを持っていることがわかる。(図1)
 一つは、大正六年、東大病院を退職し、長崎医専教授となるまでの一年(茂吉三十六才)。二度めは大正十一年、十二年のドイツ留学中のことである(四十一、二才)。三度めは昭和七年(五十一才)歌集『石泉』のころ。四度めは昭和十一年、歌集『暁紅』のころである(五十五才)。五度めは、昭和十七年、歌集『霜』のころである(六十一才)。六度めは昭和二十二年(六十六才)歌集『白き山』。
 一度めはポストのない一年であり、気楽でもあり不安定でもあったであろう。
 二度めは留学中であるため、異国に対する興味と、一方では生活形態や文化の差によるショックからくる不安のために、見るという作用が亢進したのであろう。しかし、このころの作品は、後日ノートをもとに制作したものが多いとも言われている。
 三度めは昭和七年。特別なことのない年である。昭和3年から7年にかけての視覚語の増大を見ると、この変化は茂吉が留学からの帰国途上で焼失した病院の再建も実現し、経営の安定していく過程と平行しているのであろう。しかし、翌年妻のスキャンダルが露呈することを考えると、社会人としての成功の影で、家庭生活の危機がなんらかの形で進行していたとも言えよう。
 四度めは、永井ふさ子という愛人との交際が深まった年である。そのころ茂吉は、妻の交友関係からくるスキャンダルで妻と別居していた。結婚生活の行き詰まりや老いの自覚(このころ墓域を決めたり、墓碑の文字を書いたりしている。)が、恋愛関係を深め、他方で茂吉のライフ・ワークの一つとなる柿本人麿研究を促進したのであろう。このことが彼の「見よう」とする作用につながっているのであろう。
 五度めは、太平洋戦争の開始とつながっている。茂吉はこのころ戦争を賛美する歌を次々と作っている。歌集として後に刊行された時には、極端に戦争を賛美した歌は除かれたが、それでも戦争の開始と高揚した心理状態から、見ようとする作用が高まったのであろう。この時期は他の時期に比べて、視覚作用のなかでも「見える」というような、受動的な形が多くなっている。これは、戦争を歌うとき、主として報道映画を材料としたこともあろうが、危機にたちむかうと言うより、危機にせまられたと言えるのではないか。戦争末期の昭和十九年は、彼の生涯で最も視覚作用のおとろえている時期になっている。
 六度めは、敗戦後疎開先の自然の光景に、自らの癒しを求めているころである。戦争によって破壊された国土と人々そして自分自身を、見つめようとする姿が見て取れる。
 これらから言えるのは、危機のただ中にあって圧倒される時ではなく、近づいてくる危機の予感や、すぎさった危機の克服の道が現われてくるときに、茂吉の見ようとする作用が強くなっていると言えよう。
 ちなみに、茂吉の人生の3大挫折と言われる、青山脳病院の焼失(大正13年末)、妻のスキャンダル(昭和8年)、日本の敗戦(昭和20年)の後は、それぞれ見る作用は低下していることがわかる。

 四、見る対象としての女性の顔

 茂吉の歌にはしばしば女性の顔が歌われている。それらの歌は全体の流れから見て、やや唐突の印象を与える。そしてその特徴は、顔の中でも特に眼に注意がはらわれていることである。
 「ほのぼのと目を細くして抱かれし子は去りしより幾夜か経たる」
 「あさぼらけひとめ見しゆゑしばだたくくろきまつげをあはれみにけり」
 「あはれなる女の瞼恋ひ撫でてその夜ほとほとわれは死にけり」
 「ひんがしに星いづる時汝が見なばその目ほのぼのとかなしくあれよ」
              『赤光』
 「うつくしきをとめの顔がわが顔の十数倍になりて映りぬ」
 「あきらけきふたつの眼副へたるふたつの眉を奈何にかもせむ」
 「ほのぼのと清き眉根を歎きつつわれに言問うふとはの言問」
              『暁紅』
 「美女の顔たちまちにして驚くばかり大きく映り睫毛またたく」
              『寒雲』
 「うつくしき顔がにほひてまじかくをとほりて行けりわれはまたたく」
              『つきかげ』
 これらの歌からは、特に、大きな女性の顔が印象に残る。人間にとって女性の大きな顔が近づくときは、まず母親に抱かれるときであろう。母親に抱かれその顔を見るとき、子供は安心と満足を得るものである。茂吉の見ようとしているものは、その根底に母親の像を予想させるものがあるといって、よいのではなかろうか。
 茂吉の癖は、失敗したり困ったりすると、舌を出すことと、目を瞬かせること、目をつぶってしまうことであった。この短歌を読んでみると、茂吉の癖のうちでも瞬きをすることは「母親を見ること」「母親に見られること」を意味していたのではないかと予想させる。
 女性の顔を見るということに関して、茂吉のドイツ留学中の思い出を書いた随筆を見てみたい。茂吉はウィーンで師事した、オウベルシュタイネル先生の記録を残している。その随筆の中で、茂吉は先生の死後、その小間使いのことを思い出す。茂吉は弔問にことよせてその少女を見ようとするのである。「私はオウベルシュタイネル先生の葬儀がドエブリングの墓地で、加特利の教式で行はれるといふことを聞いたとき私の眼の中の魚鱗が取除かれて、急に清明になったやうな気がしたのであった。そればかりではない、かの小間使の顔が私の眉間に彷彿としてあらはれて来るのをおぼえた。私はかの小間使が猶太娘でなかったことを知ったとき、かの娘の額から毫光でもにても差すごとくに感じた。」「小間使の顔容は、おもひ出さうとしてもすでに既におぼろになった。今おもへば純粋の維也納型の娘であったのに、ある先入見のために、掛引をして見て居ったのは、私の不覚であり、惜しいことをしたと今でもおもふ。」
 茂吉は先生がユダヤ人であり、小間使いもそうであろうと考えて、顔をよく見なかったというのである。それが残念であるというのである。しかし、ここには父・権力者の抑圧がなくなった時、はじめて支配下の女性を見ることができるという傾向をみることができよう。
 先生の息子は病弱であった。そのことについて「たまたま雑仕婦の媼は、『それは、先生がお若い時分に、あんまりシャンパアンを抜かれたせいでございます』と云って除けた。」
 最後の言葉は、先生が一種の去勢を受けていたという考え方を、茂吉が取っていることを示している。そして、それは小間使が先生の所有物でなかったのだと考えたことを予想させよう。だから一層、茂吉は残念がることになる。「父は死んだのに、自分は女性(母)の顔を見ることができない。」こう読みかえれば、エディプス・コンプレックスそのものであろう。

 五、見ることと幼児体験

 茂吉の見ようとする指向性に対して、その父母はどのような態度をとったであろうか。まず母親について見てみよう。
 『赤光』の「死にたまう母」の中から、もう一度、母と「見ること」の関係を考えたい。母の危篤を聞いて故郷にむかう場面を描いた「其の一」を検討してみたい。
 「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる」
 「ははが目を一目を見んと急ぎたるわが額のへに汗いでにけり」
ここでは、臨終にのぞむということは、その人の目を見るということである。次に臨終の場面を描いた「其の二」
 「はるばると薬をもちて来しわれを目守りたまへりわれは子なれば」
 「寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば」
ここでは、母が自分を見るということによって、緊張はピークをむかえる。それは同時に緊張の弛緩と安心の瞬間でもあったであろう。「見る」ことは、分離不安の克服を意味しているのである。
 そして、
 「いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くをみたり死ゆくを」で死をむかえるのである。
 茂吉は『母』という短い文章を残してもいる。
「私が 童であった時分、ときどき流行性の結膜炎を病んだ。村では、それを『やん目』と称してゐた。
 わたしが『やん目』に罹ると、母はいつも小一里もある村はづれの山麓に祀ってある不動尊に参詣に連れて行った。その不動尊は巌上に祀ってあり、巌を伝って清冽な水が滝になってながれ落ちてゐる。
 母は私を連れてゆき、不動尊に目を直してもらふやうに祈願礼拝せしめ、それから、その滝の水でながく目を洗ふので一度の参詣は半日がかりであった。
 かへりには村はずれの茶屋で、大福餅のやうなものを買ってくれるのを常とした。その餅のことを、綿入餅と云つてゐたが、その大きな餅一つはそのころ二厘した。私はそれを買ってもらふのが嬉しく、急性の眼病を患ひながらも母に手を引かれ、よろこび勇んで不動尊に参拝したものである。」
 茂吉は母親が自分の「見よう」とする行為を、支持していたと受け止めていることを、これほど明らかに示すものはあるまい。
 これに対して父親に関する記憶はどうであろうか。父親の記憶は『念珠集』にまとめられている。その中には、去勢体験、去勢不安に関するものがみられる。まず人形芝居のことが出てくる。
「年に一度、多くは冬を利用して人形芝居が村にかかった。」「その人形芝居には、美しい娘をさらってゐる大猿を一人の侍が来て退治したり。松前五郎兵衛が折檻されて血を吐いたり、若い女房がひとりの伴を連れて峠を上って行くと、そこに山賊が出て来たりした。」
 大猿や折檻、山賊などは去勢体験につながるものであり、父親の記憶とつながっているのであろう。それは、去勢者としての父親を予想させるものであろう。
 しかし同時に、父親は全く別の姿をとって現われても来る。茂吉は年少の時たわむれに漆の木で腕に男根の絵を描いたが、そこが漆瘡になって治らなくなった体験を持っている。それを父が塗り薬で治してくれる。
「僕は恐る恐るすでに結痂した男根図を父に見せた。父も母も共に笑った。叱られるつもりのところ叱られなかったので僕も大きなこゑを立てて笑った。」
 茂吉が自分でどれだけ努力しても治らなかった漆瘡も、父親の塗ってくれた薬で劇的に治っていく。茂吉にとって父親はこの時、治療者であった。それもただれた男根を癒してくれるのである。その記憶は、茂吉が成長し父親に対する尊敬の念が薄らいでいった後にも、長く残っていたという。ここには去勢者がまた、癒し手としても存在するということが、父親の本質としてとらえられていよう。また、茂吉の養父が、精神病院の院長であったことも影響していよう。
 母親が目を治し、父親が男根を治すということは、興味深いことである。
 茂吉は成長してもなかなか寝小便が治らなかったという。それを治すために一家そろって湯治にいくことになる。
「父は五つになる僕を背負ひ、母は入用の荷物を負うて、青根温泉に湯治に行ったことがある。」「青根温泉に行ったときのことを僕は極めて幽かにおぼえてゐる。父を追慕してゐると、おのづとその幽微になった記憶が浮いてくるのである。」「或る日に、多分雨の降ってゐた日ででもあったか、湯治客がみんなして芝居の真似をした。…… その時父はひょっとこになった。それから、そのひょっとこの面をはずして、囃子手のところで笛を吹いてゐたことをおぼえてゐる。」
 茂吉は父の死後、父の日記を調べて、この湯治の間に母親が弟を懐妊したのであろうとしている。父親の想出の最後が、両親の原光景を予想するという所で終るのは、茂吉の窃視癖が去勢不安の解消を求めるものであることをも示していよう。父親に関する記憶の中では、見る作用についての記述は少ない。父親と茂吉の関係は、相互に見つめ合うという関係ではない。父親はもっぱら茂吉にとって見る対象であるか、茂吉の見ようとする行為を禁止する存在であったのだろう。

 六、見ることからの発展

 われわれは、すでに茂吉の窃視癖についてみてきた。しかし、それらの報告は、より発展した考察へのてがかりとして、述べられているのである。むしろ、それらの発展がひかえているからこそ、彼は一般に隠すべきとされることをも、報告できたのだと言える。
 ひとつの例をまず検討したい。次の文章は、茂吉が長塚節を追悼して書いたものである。
「長塚さんの旅行談に出て来る女人の事を想ふと予は実は羨しくて堪らなかった。併し此の世にうまれて実際長塚さんほど、官能方面に於ける女人との交渉の少ない人も稀であった。桑門に入って不犯の生を送る人は別である。それでさへ夢の世界は許されて居る。閨中恍惚図に表はれ来る僧侶の顔容を見る毎に予は癪に触って堪らない。あれほど時々出て来る可哀らしい女人を長塚さんは抱いて居ない事を想ふからである。」        
         『長塚節氏を憶ふ』
長塚節が女性との交際が乏しかったことをいうために、閨中恍惚図を持ってくる必要はないだろう。しかし、茂吉の感じた同情の一部は伝わるかもしれない。茂吉の窃視癖を思わせる文章はほとんどが、このようなかたちである。つまり、なくても目的とする議論はできるのだが、あったほうが議論に説得力が出る。そして、そのことによって窃視癖に示されているものが、その存在を許される。つまり、昇華の方向が想定されることによって、その原初的形態も許されることになる。
 長崎時代に茂吉が女中の私物をのぞき見したことを、われわれは見た。その文章のなかで茂吉が考察したことは、つぎのようである。
「女は、ねちねちいてゐて、つひに強情を徹さうとした。それを私はやはり『切支丹気質』の一種類だとあとで思ったのであるが、切支丹宗門に対する迫害史は近来諸家の研究によって益々細かいところが世に分かって来、同時にマルチリウムといふ語も、殉教等の語と共に異様な光を帯びて来たやうであるけれども、当時の役人の憤怒の心を釈明して呉れる史家がどしどし出なければ、私が『デウスさまのみめぐみにより』云々の文句に憤怒を発した心理が永久に分からないのである。」
               『婢』 
 つまり茂吉ののぞき見によって、我々は切支丹弾圧史に関する新しい視点を得ることができるかのようである。少なくとも茂吉はそう信じたであろう。われわれは茂吉と共に、街頭での接吻や、ホテルの隣室をのぞき見ることからも、同様の歴史的発見や芸術論の深化を体験するのである。 このように、茂吉の窃視欲が、昇華されていく道筋をたどることによって、茂吉の学問や芸術鑑賞の方法を知ることができよう。
 茂吉の見ようとする力がいかに強かったは、彼の歌壇での論争や研究方法をみてもあきらかである。そこには、彼のてんかん気質も示されていよう。その徹底性、執拗さ、緻密さは論敵を破るだけでなく、そこから別の問題を引き出そうとするかのようですらある。
 茂吉の美術鑑賞の態度の徹底性は、留学中のヨーロッパの美術館や寺院での態度にうかがわれる。彼は職業的画家と間違われたほどであるという。彼の残したノートには、その一端が示されている。4)
 茂吉が窃視症を疑われてもしょうがないような報告を、あえて明らかにしていることから、我々は茂吉がこのような自分自身の傾向を知ったうえで、研究欲の腑活化のために、そのような表現を取っていたのではないかと考えることもできよう。

 七、見ることへの回帰

 茂吉の見ようとする傾向は、研究欲や調査欲へと発展していった。しかし、それらの中に完全にとけこんでいったわけではない。すでに見たように、茂吉の見ようとする欲求は一生のうち何度か、高まりを見せている。
 ここでは、その最後の高まりについて触れてみたい。言うまでもなく、この高まりは日本の敗戦によって受けた衝撃から、茂吉が立直ろうとして、彼の見せた彼なりの努力の結果である。敗戦の打撃は、茂吉の老いを急速に深め、その前後の写真で見る彼の容貌の変化は痛々しいほどである。それほどまでに、彼は打ちひしがれてしまったと言えよう。
 東北の田舎町から上京し、東京帝大に合格、医師となり、医専教授、留学をはたして病院長の職についた。一方では、文学界の重鎮となった彼の航跡は、近代日本の興隆の姿と平行していたと言えよう。そういう彼にとって、敗戦の事実は、積み上げてきたものがすべてくずされるような体験であったかも知れない。
 しかし、この打撃からもう一度立ち上がろうとして、彼の取った方法は、あくまでも対象と自己を凝視するというものであった。そこで作られた作品は、彼の最高峰をなすものと言ってさしつかえないだろう。その作品は、この文章全体であつかっている、窃視癖ということからはずれてしまうが、茂吉の取った「見て見て、見抜く」といった方法が、ついに「見る」主体をも越え出ていく所が、示されているように思われる。
 「くやしまむ言も絶えたり炉のなかに炎のあそぶ冬のゆうぐれ」
 「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨すりそそぐ」
              『小園』
 「彼岸に何をもとむるよひ闇の最上川のうへのひとつ蛍は」
 「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」
              『白き山』
 八、考察

 茂吉は窃視癖を思わせるような経験を、随筆の中で明らかにしているが、それらの随筆は人目につかぬてすさびの埋め草のような作品ではない。茂吉の随筆選集などを作る場合、選ばれるような本格的な作品なのである。そのため、茂吉の窃視癖は、茂吉研究者には周知のことである。しかし、その事実を正面から論じたものは、見られないようである。3)9)
 ではまず、茂吉が窃視症であるかどうかを問題にしてみたい。しかし、いろいろな教科書を見ても、窃視症に対する記述はわずかなものである。それは、窃視症が一般にそれ以上の行為に発展しにくいので、表面に現われにくいということが一つの理由である。また、窃視症的傾向は通常の人間にも存在し、明確に異常であると、規定しにくいからであろう。ちなみに、I.C.D.10の草稿案では、窃視症についての記述はわずか三行である。「人々の性的行為あるいは脱衣のような私的な行為を眺める、反復性あるいは持続的な傾向。通常これは性的興奮と自慰へと発展する。自慰は見られている人の気づかないところで実行される。」8)
 D.S.M.VーRでは説明も長くなっているが、本質的にあまり変わらない。次のようである。
「この障害の基本的病像は少なくとも六ヵ月にわたり、警戒していないひと、通常、見知らぬ他人が、裸か脱衣中か、または性行為中であるのを見るという行為に対し、強烈な性的衝動と性的に興奮する空想が反復することである。患者は、この衝動に基づいて行為に及ぶか、または、このことでひどく苦しむ。
 見るという行為(”のぞき見”)は性的興奮を得る目的のためであり、その人との性的な活動は求めない。通常、オルガスムは窃視症的行為の間に自慰行為によって起るか、目撃したものの記憶に反応して、後程起こるかもしれない。しばしば、これらの人々は、自分の見た人と性的体験をもったという空想で楽しむが、それは実際には行われない。重症の例では、のぞき見だけが性的活動の唯一の形態となっている。

 発症年令  通常、窃視症的行動のはじまりは、15才以下である。

 経過  経過は慢性化する傾向がある。

 鑑別診断  正常な性活動でも、しばしば、裸体、脱衣、または性的活動を見ることによる性的興奮が含まれる。しかし、それは、警戒していない人となされるものではなく、見られている相手と行うその後の性的活動の前戯としてなされるものである。さらに、窃視症の患者は、のぞき見の秘密で非合法的な特質によって興奮する。」1)
 この定義はかなりはば広いと言えるかもしれない。 茂吉は、のぞき見の衝動によって行為におよんだということを、たびたび述べているわけではない。しかし、彼自身が明らかにしているいくつかの行為からだけでも、彼が窃視症であったと診断してもよいであろう。
 しかし、フロイトの定義によれば、茂吉のような行為は、倒錯とは言えない。フロイトの定義は次のようなものである。「凝視の快感がパーヴァージオンとなるのは、(a)それがもっぱら性器に局限されているとき、(b)嫌悪感の克服と結びついているとき(窃視症、すなわち排泄作用のさいにのぞき見するもの)(c)それが正常な性目標の準備をするかわりに、むしろこれを抑圧するようなとき」2)
 フロイトは凝視に関する性目標の固定化について、羞恥心と嫌悪感を重要と考えているため、このような定義が出てくるのであろう。しかし、茂吉の窃視傾向にあっては、フロイトが重視した羞恥心や嫌悪感は、大きな意味を持っているように思えない。(フロイトの述べている例の(b)にあたるものとしては、『痴人の随筆』の中の「後架砂上」があるが。)フロイトの考え方によれば、茂吉の行為は、むしろ正常者の一例といえよう。  窃視症は、去勢不安に基づくとされる。「この不安は原光景(primary scene)または成人の性器をみたことから起る去勢不安であるとされ、窃視症の対象となる条件は幼児体験の反復または否定であるという」5)
 また「家庭環境では、幼児の両親の不和、10才以前の家庭の崩壊、友人とくに女性の友人がつくれなかったものが多い」6)という。
 茂吉の窃視症の背後に去勢不安があることは、ほぼ明らかであろう。その一部は特に父親の記憶にからんで見られるであろう。しかしそれのみではなく、思春期から青年期にかけて彼のたどった道を見ても、去勢不安の一端が予想されるであろう。
 茂吉は十五才の時、両親のもとを離れて、東京の青山脳病院院長・斉藤紀一のもとに引き取られた。そこでは、安定した立場がなかなか与えられず、書生、居候、養子、の混合のような立場であった。男の子供のいない紀一に、長男が生まれ、養子の話に障害が出できたり、高校入試の失敗や、重篤な病気にかかったりして、前途に失望したり、絶望を感じたこともあったようである。養子の立場を確保するためには、たとえ気にいらなくても紀一の娘と結婚する必要があった。結婚相手となった斉藤てる子とは十三才も年が違い、最初は未来の結婚相手の子守りをしていたような状態であった。思春期(十五才)から青年後期(三十三才)まで、結婚相手が固定して他の選択がおそらく許されず、日常的に一緒に暮らしていたということの、もたらした影響は大きいものがあったであろう。言わば性的対象が固定・制約され、そのことが去勢不安をもたらしたであろう。またそれを逃れるためには禁忌の侵犯か、欲動の昇華の道しかなかったであろう。禁忌の侵犯が窃視症の形をとり、昇華の道が芸術・学問・研究の道をとったのだといってもよいかもしれない。
 茂吉は親しい女性の友人を持たなかったと言われている。彼が後々まで、性を短歌のなかに歌ったことにしても、具体性を欠いた抽象的哲学的なものとしてそれがあったからだとする見方もある。7)
 最後に茂吉が何故窃視癖を思わせる文章を書いたのかについて触れてみたい。かれは精神科医であり、性医学にも関心をはらっていたので、随筆に見られるような文章を公表すれば、窃視癖と受け止められることは、当然予想していたであろう。
 まず考えなければならないのは、これらの文章が主として留学中の体験であるということである。ドイツ留学は養父斉藤紀一も、また文学上の師の一人でもある森鴎外もはたしていて、当時の情況からして、茂吉が留学をはたすということは、それらの人と肩を並べることを意味する。場合によれば「父」を越えることであって、エディプス・コンプレックスの解消につながっている。留学中、実父が亡くなったり、帰国後しばらくして、養父と院長を交替したりして、そのことの意味はより明らかとなっていく。
 つまり、茂吉はドイツ留学によって、窃視癖を克服する手がかりを得たのではないか。そのことが、公表を促したのではないかとも考えられる。
 茂吉が先輩の医師として、また文学上の師として、親しく接する機会を持った森鴎外は、ドイツ留学体験を、ドイツ三部作と言われる小説にまとめている。それらは、ヨーロッパでの女性体験の表現でもある。また、鴎外は、彼自身の性体験と思われるものを、小説『ウィタ・セクスアリス』に表わし、発禁処分にあっている。これらの表現活動は、軍医としての鴎外の昇進に影響を与えたと見られている。茂吉が「写生」という文学上の立場から、鴎外の仕事に挑戦を試みたと予想することは、あながち不自然ではあるまい。鴎外のフィクションに対して、茂吉はノン・フィクションの形でで、自らの性的体験を描き得るところまで描いたと考えることもできる。つまり、茂吉は自分の窃視癖という症状を自ら克服する姿を、創造活動の形で表現してみせたとも言えるのである。このことは、鴎外の仕事の継承であり、発展でもあろう。
 茂吉が窃視癖を思わせる作品を表わした時、彼は自分の症状を克服し、一家をなしたという宣言をしたのだと言えるかもしれない。すでに見たように、茂吉は窃視癖を、文学史研究や創作活動の中に発展させていくのである。

 九、まとめ

・斉藤茂吉は生涯にわたって短歌を作り続けた。その作品のひとつ一つを夢や自由連想の断片のようなものとして考察した。
・斉藤茂吉には窃視癖を思わせる、体験報告がみられる。これは茂吉の見ようとする欲求の現れである。
・茂吉の見ようとする欲求は、葛藤や不安の接近によって拡大する。これは去勢不安の克服を求めるものである。
・茂吉の見ようとするものは、女性の顔から原光景へとつながっている。ここには、エディプス・コンプレックスの克服が隠されてい
る。
・茂吉の窃視欲は、芸術・学問の形へと発展していった。茂吉はそのことを自覚していたと思われる。
・窃視欲が発生してくる根拠として、思春期以後の生活状況について触れてみた。
・茂吉が自らの窃視癖を公表した背景には、エディプス・コンプレックスの克服が可能となったという思いが存在すると思われる。


 注)

1)茂吉は戦争賛美の短歌を多く作っている。しかし、次のような短歌を見るとき、茂吉が戦争に何を予感し、戦後どのようにふりかえっていたかを知ることができる。
 「ドイツ製の兜かむれる支那兵に顔佳きをみなご立まじる壕」
 「国語学者二人と共に支那兵に銃殺さるる夢を見てゐし」
              『寒雲』
 「目かくしをされし女の銃殺をまのあたり見むわが境界ならず」
              『つきかげ』
 これらは、短歌が自由連想や夢の記録に近い意味を持っているということを物語っていよう。女性の顔や目(かくし)の意味については本文参照。

2)茂吉の歌集はおのおの次の年の作品からなっている。
 『赤光』  (明治38年〜大正2年)
 『あらたま』(大正2年〜6年)
 『つゆじも』(大正7年〜10年)
 『遠遊』  (大正11年〜12年)  
 『遍歴』  (大正12年〜14年)  
 『ともしび』(大正14年〜昭和3年)
 『たかはら』(昭和4年〜5年)
 『連山』  (昭和5年)
 『石泉』  (昭和6年〜7年)
 『白桃』  (昭和8年〜9年)
 『暁紅』  (昭和10年〜11年)  
 『寒雲』  (昭和12年〜14年)  
 『のぼり路』(昭和14年〜15年)
 『霜』   (昭和16年〜17年)
 『小園』  (昭和18年〜21年)
 『白き山』 (昭和21年〜22年)
 『つきかげ』(昭和23年〜27年)


  引用文献

1)A.P.A.:Diagnostic and Statistical Manunal of Mental Disorders (Third EditionーRecised),1987,(高橋三郎訳、DSMVーR 精神障害の診断・統計マニュアル、医学書院、1988)
2)S、Freud、懸田克躬、吉村博次訳:性欲三篇、フロイト著作集第5巻、人文書院、1969、
3)平野仁啓、本林勝夫編:「斉藤茂吉研究」、右文書院、1980、
4)片野達郎:「斉藤茂吉のヴァン・ゴッホ」講談社、1986、
5)加藤正明:異常性欲、異常心理学講座4、みすず書房、1967、
6)加藤正明:成人の性的異常、現代精神医学大系 8、中山書店、1981、
7)中野重治:斉藤茂吉ノート、筑摩書房、1964、
8)W.H.O.:I.C.D.10、1988 Draft of Chapter X Categories F00ーF99,1988、
9)山上次郎:「斉藤茂吉の生涯」、文芸春秋、1974、


  参考文献
1)斉藤茂吉全集、全36巻、昭和48年1月〜51年7月(岩波書店)
1)斉藤茂吉選集、全20巻、昭和56年1月〜57年8月(岩波書店)




    斉藤茂吉の短歌における視覚作用を表す言葉

             見る(能動語) 見える(受動語)    計
明治38〜大正2   10、9 %   5、2 %    16、1 %
大正 3          8、8     4、1      12、8 
   4          9、5     3、2      12、7
   5          9、0     2、6      11、5
   6         15、6     4、6      20、3
   9         13、1     3、8      16、9
  10          7、4     7、0      14、4
  11〜12      15、6     5、9      21、5
  12〜14      14、0     5、9      19、9
  14         10、6     3、4      14、0
昭和 元年      12、3     0、7      13、0
   2         10、6     2、4      13、0
   3          7、6     1、9       9、5
   4         10、1     5、4      15、4
   5         10、2     7、9      18、2
  (5)「連山」     9、8    10、2      20、0
   6         15、7     6、1      21、9
   7         15、9     9、1      25、0
   8         13、1     4、3      17、4
   9         12、3     5、1      17、4 
  10         12、2     4、7      16、9
  11         14、7     5、6      19、9
  12         11、2     2、6      13、9
  13          9、7     3、6      13、4
  14          8、8     3、4      12、2
  15          6、9     1、3       8、2
  16         10、7     3、8      14、5
  17         12、2     7、8      20、0
  18          9、6     1、4      11、0
  19          5、0     0、5       5、5
  20          6、9     3、6      10、4
  21          9、7     4、0      13、7
  22         11、8     3、0      14、7
  23          8、4     0、9       9、3
  24          8、9     1、3      10、2
  25          6、5     2、9       9、4
  26          5、9     2、3       8、0



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