(はじめに)

 司馬遼太郎氏がこの二月十二日になくなった。
彼の小説はこれまで、何度かにわたって読んだことがあった。
そしてそのたびにいくらかの満足と、いくらかの不満とを持った。
それで、それぞれの出てくる根拠を探ってみることを通じて、歴史をもう一度考えてみようと思った。
そのために、以前読んだ彼のエッセーを、この機会に読み返してみた。
この目的にはエッセーの方が良いと思えたからである。
その中で、印象的な部分の抜粋を紹介して、最後に司馬文学に対する私なりの感想を述べてみたいと思う。

(司馬遼太郎のエッセーの抜粋)

・投降や逃亡が、それが国家に対する最悪の裏切りであるというかっての武士時代にはなかった道徳律が軍隊をおもおもしく支配しはじめたのは、明治後、百姓階級から兵隊をとるという徴兵令ができ、各地に鎮台ができたときからだったろうとおもわれる。

・近代国家というのは、じつに国家が重い。庶民のながい生き死にの歴史からいえば明治というのはとほうもない怪物の出現時代であり、その怪物に出くわした以上はもはや逃げようはなかった。

・日本というこの自然地理的もしくは政治地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆくことが大事なように思える。

・国家に責任をもっている専門家とか、その専門家を信用する世間の常識というものほどあやうくもろいものはないということを、大日本帝国というのは国家と国民を噴火口にたたきおとすことのよって体験した。日本の歴史のなかで、昭和期の権力参加者や国民ほど愚劣なものはなかった。

・陸軍の思考法はまだ武士気質がのこっていた日露戦争まえは簡明直截で、つねに実用性を重んじ、当時世界有数の秀才将軍といわれたクロパトキンを満州の野でやぶった。であるのに、昭和期になって指導部に秀才の層が厚くなると、物の考え方が、政治や外交の面でもそうだが、抽象的思考を好み、形而上的ポーズにあこがれ、諸事現実離れしてきた。

・昭和前期の日本というのはあれは本当の日本だったのかどうかということが変に気になってきて、その気になり方が、日本人の経たながい時間に多少の関心をもつ契機になったような気もする。

・徳川は三百年つづいた。その秘密のひとつは諸大名以下を礼式でがんじがらめに縛りあげたところにあるといえるかもしれない。ついてながらこれらの礼式は儒礼ではまったくなかった。室町礼法を典拠とした日本独自のものであり、この点からみても徳川期は儒教の学問はさかんであったものの、中国文化圏から孤立していた。

・明治維新における天皇の存在は大きい。天皇を革命の中心に置くことによって、「一君万民」の平等思想が草奔の志士たちをゆりうごかした。この日本史における特異な存在を、山県などが西洋の皇帝のごろく考え直そうとし、しかも外装だけがそうで実体はロシアの皇帝のような専制権力をもたなかったところに明治国家のいびつと悲惨さがある。

・秀吉が、家康や山県にくらべて、なにやら愛嬌のようなものを後世のわれわれに感じさせるのは、かれが自分の権力を神聖装飾することにずいぶん手抜かりをやってしまったというところにもあるのではないか。

                                 「歴史と視点」

・話し手の正直さこそが、言語における魅力をつくりだす。それが唯一の条件でないにせよ、正直さの欠けた言語は、ただの音響にすぎない。

 私は日本人は不正直だとは決して思わないが、しかし正直であろうとすることについての練度が不足していることはたしかである。ナマな正直はしばしば下品で悪徳でさえある。しかし、練度の高い正直は、まったくべつのものである。ユーモアを生み、相手との間を水平にし、安堵をあたえ、言語を魅力的にする。

・職業として芸術家や学者、あるいは創造にかかわるひとびとは生涯コドモとしての部分がその作品をつくる。その部分の水分が蒸発せぬように心がけねばならないが、このことは生活人のすべてに通じることである。万人にとって感動のある人生を送るためには、自分のなかのコドモを蒸発させてはならない。

・人や仕事を管理する能力など、本来希有なもので、まず徳がなければならない。徳など、若いころから自分を無にして他者や仕事に奉仕できるように自分を訓練してきた人にしてはじめてできるもので、年功序列がその徳をつくるものではない。

・日本風であれ、西洋風であれ、いい礼というのは受けた者に閃光のような快感がおこるものである。人間関係のなかで、もっとも気分のいいものの一つで、人はみな礼を心の花として期待している。

・窓のない思考というものがある。頭を穴ぐらに突っこんで、独り思いに落ちてゆく思考法である。自分と論理が一体になっって自己旋回してゆくのは水中の感覚のように甘美でさえあるが、結論はたいていろくなことはない。

・たれにとっても、表現は本質的であるほうがいい。それに、短ければ短いほど、ことばというものは、光を増すのである。さらには、論理に密着しつつ、感覚的であるほうがいい。

・現代史の世界が、過去にくらべてきらきらと輝いてみえるのは、”公”がどうやらかっての神と同様の価値に近づいてきたということにあるのではないか。水、空気、森林、海浜などすべてが、”公”で私物ではないという思想がひろまっているのである。

・私どもは、日本国というものを、丸ごと、それも精密に、さらには冷静に考える政治感覚をもたねば、世界中が迷惑する。日本の破滅だけではすまないのである。

・野蛮人は1人でいると孤独だが、二人いると一勢力になる。

・「文化」についての私の定義は、「それにくるまっていて安らぐもの・楽しいもの」というものである。

・日本的感性が世界に貢献できるのは、光琳をふくめた浄土的なやすらぎの芸術や工芸的なもの、あるいは工業意匠的なものではないかと思うのである。

・一個の人生は、ヤマ場だけでいえば、数個のカセット・テープでしかない。しかし、感受性がゆたかであれば、世界と社会ほどおもしろいものはない。

・昭和四十年代からはじまった地価高騰は、後世の歴史家はこれを経済現象とはせず、人間集団への裏切りとか、反社会行為といったふうなどす黒い印象としてうけとるに相違ない。

・徳とは、人に生きるよろこびをあたえるための人格的原理といっていい。

                                  「風塵抄」

・他人の功利性をもっとも温かい眼でみることができたのは諸英雄のなかでは、秀吉のみでしょう。

 ある種の宗教的ふんい気をもった英雄がいます。たとえば、関羽、八幡太郎義家、楠正成、上杉信玄、西郷隆盛などで、もしこういう人達を主人として選んで、しかもその人物に魅力を感じてしまったばあい、人は多く命をすててしまいます。

 秀吉には、そういう、傾斜のするどい宗教的魅力はなかった。なかったことは同時に、偉大さをもあらわすものでしょう。

・古来一つの権力なり体制なりが自己改革しという例は一つもない。いくら名医だって自分の外科手術ができないのと同じです。

・私はものはときに巨視的に見なくてはならない、と自分に言いきかせています。そうしないと本当の事実は見えない。

・日本人が戦後史のなかで組み上げたこの社会は前の社会にないいいところもたくさんありますが、しかし、出来上がって熟していくまでじっと見つめ、一つ高いところから考えこむという姿勢を保ちつづけることができにくいようになって(いるのではないか。)

・われわれが生きているこの現代社会も軍隊の一種ではないか。ここでは実際の人殺しはない。しかし、企業競争その他のきびしい競争にかこまれています。機能主義を徹底して追求しなくては目的を達せられない社会だという点では、本物の軍隊とかわりはない。

・いまの政治は、管理体制に対して、せいぜい調整機能しかもっておらず、その副作用に対して断固としてそれをひっこめさせる「権力」をもっていない。管理社会における政治権力というのはいままでの歴史のなかのそれとはまったくちがうものであるべきです。

・悪いやつだけが蛇のようにさといのではなく、私どもは、さほどに智恵を用いなくても、他人の弱点や弱味だけはわかるようにできている。ただそれを功利的な目的のために利用するかしないかだけで、悪いやつと、それに対置される普通の人間というものの分類ができる。

・政治や経済の機構というものは、先進地帯ではゆるやかに進展し、矛盾ができれば反撥と崩壊をくりかえしていわば自然の作用にちかいほどの自然さで手直しがおこなわれ、現実と調和してきたために、容易にその矛盾に気づくことができず、矛盾といってもやがては解消されるところの、あるいは他の価値に置き換えられたりするような些少なものにすぎない場合が多い。

・もし日露戦争の直後に、研究者がたとえ粗笨なもものであっても歴史に対する冷厳な態度で戦争像を書いていたとしたら、その後の日本の歩みはずいぶんちがった、ものになっていたにちがいない。

・小説を書くという作業は、自分自身のなかに普遍的人間が厳然と住んでいて、それがいかに奇妙な心理や行動を表現しようとも、本来普遍性から外れることがないという、いわば証明不要の公理のようなものを信ずる以外に書けるものではない。

・科学がいかに進んでも人事における性が不可解なものとして残るであろうように、男がその人生を当然噛みこませてゆかざるをえないものとして、権力がある。人事における権力もまた性とならんで永遠に不可解なものである。

                               「歴史の世界から」

・ 明治の初年に廃仏毀釈があった。奈良の興福寺は、今で言うなら東京大学、叡山は京都大学、というほどの権威をもった存在なのに、それが一片のお布令で、何の抵抗らしい抵抗もなしに、明日からは春日神社の神主になったりするんですね。こういう文化大革命が上からおこなわれるときには、国家は兵隊を寺なら寺にさしむけ、取り囲み、場合によっては銃剣で圧伏し、死人が何人か出る・・・というのが普通でしょう。それが、お布令一枚で廃仏毀釈という世界史上類のまれな文化大革命がスラスラ行ったというところに、日本人と日本史の本質の一部をのぞくことができます。

・大阪の歴史的特質と言えば、日本全国のなかでここだけが封建体制をより軽く体験したということです。

・東北の部隊が強い。あるいは越後の部隊がつよい。なぜつよいのか。それは、太平洋戦争の終了ごろまでのその地帯には濃厚に封建的な潜在体制や意識がのこっていたからです。

・大阪には、たえず地方から人が上がってきます。そのために、たえず土着の感覚が生きています。東京にも、地方から人が上がってきますが、身構えて入ってくる。大阪には、それぞれの土地にいたままの姿で入ってきますから、それで土着の感覚が崩されない。まあ、これは、日本なりの市民精神といっていいものでしょうな。日本なりの近代合理性の根になるものだと思います。

・歴史を見るさいに、何よりもまず、奇談奇説を考えようとする自分、それにまどおうとする自分をおさえることが大事ではないでしょうか。

・史料自体はなにも真実を語るものではない。史料に盛られているものは、ファクトにすぎません。しかし、このフアクトをできるだけ多くあつめなければ、真実が出てこない。できるだけたくさんのファクトを机の上に並べて、ジーッ見ていると、ファクトからの刺激で立ち上ってくる気体のようなもの。それが真実だと思います。

・歴史というものは、手触りで感じていかなければいけないところがあります。

・信長も頑固なように見えて、非常に柔軟です。信長に非常に感心することがあります。彼は桶狭間でいちかばちかのバクチをしますね。しかし彼は、その生涯のうちに、こんなバクチは二度と打とうとしない。こんなものは百に一つぐらいしか当たるものではない。そのことを彼はよく知っていたのでしょう。

・さきの見える人間が、その構想を打ち立てるゆくについて、格別な場をみつけてそこに立つ、というのは大事なことですね。

・私は、史観というのは非常に重要なものだが、ときには自分のなかで、史観というものを横に置いてみなければ、対象のすがたがわからなくなることがある、と思っています。史観は、歴史を掘り返す土木機械だと思っていますが、それ以上のものだとは思っていません。土木機械は磨きに磨かねばなりませんが、その奴隷になることはつまらない。歴史をみるとき、こときにはその便利な土木機械を停止させて、手堀りで、堀かえさなければならないことがあります。

・体制製造家の悲劇というものがあるんですね。その生涯はまことに華麗で、しかもすさまじい。だが、これは人間のなかにはめったにない才能です。処理家のほうは、たとえば東京大学法学部が生産し得るわけですし、いくらでも出てきますけれども、新たな体制を創造する人間はなかなか出ないんですね。

・処理家には敵がいない。処理するだけでビジョンがないから、敵対関係が生じない。

・日本人はどうも、社会を壊してしまうことはいけないことだ、と思っているようなのです。そして、社会を組み上げていくことが正義だと思っているらしい。一つの社会が壊れたら、すぐ新しい社会を組み上げていきましょう、というところがある。新しい社会ができると、立場立場で非常に不満ではあるけれども、作ることに正義を感じて妥協してしまう。

・日本人というのは、本来が無思想なんです。あるいは本来が無思想なればこそここまでこられた、とも言えるのではないでっしょうか。さらにはもう一方で、日本人がテクノロジーに関する秀才だからではないでしょうか。無思想で技術がある。

                                「手掘り日本史」

・昭和前期にはげしく欠けているものは、他国や他民族への思いやりである。もっともこれは、日本だけでなく二十世紀前半の特徴といえるかもしれない。スターリンのソ連、ヒトラーのドイツをみよ。この種の狭隘さこそ愛国心だと考える傾向は昭和初年、にわかに濃厚になった。一種の病気だが、この病気はいまもむかしも、その国々での後進性に根ざしている。

・「中国人の顔は、リラックスしている」と、むかし日本通のアメリカ人にいわれたことがあった。つまり、窓があいている。しかし、残念ながら日本人の印象はそうでない、という。

・民族という存在は、諸刃の刃を素手でつかんでいるようなものである。自分の民族に誇りと根をもたない人間は信用できないのと同時に、民族共有の地下宮殿(集合的無意識)にはつねに悪魔がひそんでいるということを知っておかねば、世界は民族間紛争であけくれるだろう。

・十七世紀といえば、その初頭(徳川初頭)、日本にも活力があった。平和が到来した時代でもあり、富力もそれに伴い、後世にのこる記念碑的文化財を生んだ。建築でいえば、姫路城も桂離宮も、この時代にできた。その後、これだけの建築がつくられただろうか。問題は、いまの日本に後世に遺すに足る有形・無形の文化財が生み出されようとしているかどうかである。

・昭和になって、軍人や右翼的風潮が、日本を業火のなかにたたきこんだ。その結果、アジアにおける日本像まで変えてしまったが、しかし、日本が大崩壊から秩序をとりもどしたのは、先祖からひきついできた実直さのおかげだったことは、まぎれもない。・・・いま世界に映っている日本人についての平均的印象は、やはり古来の実直という像ではないかと思える。日本人もその国家も、このむかしからのシンを充実したり、そこしは華麗に表現してゆく以外に、道がないのではないか。

・なにぶん、実直者たちは、具体的思考にあっては精密だが、具体性からすこし離れて形而上的に考えることが不得意なのである。このために、実直国家は、しばしば虚喝集団に大きく足をすくわれる。

・デンマーク、スウェーデン、オランダなどはそれぞれに王国である。いずれも高水準の民主体制をもっていることで知られる。また、国民所得と福祉の度合が高く、治安がよく、さらには他国や地球環境に対して、特有の繊細さをもっている。ひとびとに虚空へのつつしみがあるともいえる。明治憲法下の日本も、本質的にはおなじだった。

・日本が、現在、大思想によるなまなましい拘束なしによき社会をつくっていることを、地球や世界の課題のなかで役立てられないか、ということである。これはむろん、そのためのあたらしい思想が要る。

・江戸時代の法制における盲人救済のやり方が世界史のなかでもすぐれたものだったことが最近注目されはじめている。おそらく江戸の盲人救済の思想的根底に”ひとごとではない”という仏教渡来以来の感覚が息づいていたのに相違ない。”因縁が一つちがえば自分もそうだ”という”他生の縁”の感覚は、江戸時代人にとって日常のものだったことを思えばいい。

・私が観念的にきめこんでいる戦前の平均的日本人というのは、職種にかかわらず職人型である。律儀でもある。自分の職分については責任感がつよく、寡黙でケレンがない。情景としていうと、電車がガラ空きに空いていても、一隅をめざしてすわり。肩身を小さくして、ひざをそろえている。目だけは、よく光っている。

 ・・・いまの日本の平均的印象は・・・ぜんたいに水っぽくなり、自我が大きくひろがっているわりには、責任感が希薄そうにみえるのにちがいない。

・一方で若さを寿ぎ、一方で古き仏たちの古寂びを尊ぶという二つの感情は、論理として統一されることがなく、たれのなかにも同居している。その無統一が、根源として日本人の活力をつくっていると考えていい。

                                  「風塵抄2」

(コメント)

 司馬遼太郎は関西にその居をさだめて、作家活動を行っていた。
小説の語り口もなにやら関西風であるといっていいだろう。
司馬遼太郎は座談の名手で、NHKの番組で「太郎の国の物語」というのがあったが、彼の魅力を表現していて、とても印象に残った。(この内容はのちに「明治という国家」という題で出版された。)
司馬文学の基礎には、関西弁と関西の発想がある。それはさかのぼれば、「天下の台所」の大坂で培われた、江戸時代に生み出された合理主義、現実主義、につながるものだろう。
関西弁のどことなくとぼけて、断定をさけ、主義主張を軽くみる味わいは、権力の中心になり得なかったこの土地の気風にふさわしいものだ。
司馬遼太郎の歴史小説は、この気風を背景にしている。

 骨太の思想や信念を重視し、あげくに神懸かりとまで登りつめるような観念や思考の力にとらわれてしまうのではなく、人間の信用や律儀さ、実直さ、慎ましさ、鍛錬、といった風なエトスをより重要と考えるようなありかたは、商人がとる人間や仕事の評価の仕方に親しいものだろう。
封建制のもとで競争を押さえながら、それでも力をつけていった江戸時代の大坂商人の気風には、資本主義を生み出すような自由さと自信が見られただろう。そこに司馬文学の基礎の一つを見たいと思う。

 司馬遼太郎が、その仕事の基礎としたものは、時代錯誤のブリキの棺桶とでも言うしかない戦車に兵隊を乗せて、戦場に送り出した軍国主事日本の現実があった。
彼は、そのような立場で敗戦を迎えたのである。
兵器の効力を無視したような戦争が何故起こったのか、何が国家をしてそういう行為に駆り立てたのか。
その探求の過程で、司馬遼太郎は関西風の現実主義の有効さを、再確認していったのだと思う。
もちろんこれは、戦後民主主義の歴史観とは異質であったが、庶民とでも呼ぶべき多くの人々の感じ取っている歴史認識に近いものであっただろう。

 司馬遼太郎は、昭和初期の日本の現実をとんでもないものだと思うと同時に、それが明治以降の日本のありかたと異質の物であるとも考えてた。
彼は、本来の日本の姿を評価すべきものだと考える。とりわけ明治初期の日本の姿には、一つの芸術品と評価できる面があるとまで考える。
そして、戦後の日本の一部に見られた、第二次世界大戦への参加の仕方を否定的に考えるあまりに、それ以前の日本の全てを否定するような考え方には同意しなかった。
彼は、日本の歴史に自信を失った人々に、必要以上の卑下は非現実的であるということを示した。
この考え方は、戦後の経済復興とともに自信を取り戻したくなった人々に受け入れられた。
彼の作品が、国民文学のような形で受け入れられたのもそのせいだろう。

 司馬遼太郎は、具体的な史料を基礎にして、歴史上の日本人の思想を取り出した。
多くの人が日本人の軽薄さの根拠としたような、無思想、無節操、無原則なありかたを、柔軟性の現れと見たし、そこに積極的な価値を見いだしもした。
その手法は、手堅いものであったから、十分な説得力ももったのである。
そして、無思想な日本人が支えとしたものは、ある種の美学、志、潔さといったもので、司馬遼太郎は歴史の節目で、それらが光を放つ人々の姿を作品のなかで紹介している。
彼は日本人の美学を、「昼間庭の草を取って、夕方打ち水をする。やがて涼風が起こって縁側の風鈴を鳴らす。そういうすがすがしさ」といった感じでとらえる。日本人であれば、その美学を否定することはできないだろう。
そこに力があるというのである。
読者はそれらを読むことによって、無思想に見える日本人も、まんざら捨てたものでないことに、安心することができるのである。
むしろ無思想であるからこそ、実質をもった人間が浮かび上がる瞬間が、輝いて見えたとも言える。

 これらの点は、彼がブリキの棺桶とでも言うしかないような戦車の中で敗戦を迎えたという事実から引き出されものだ。
その過程が十分うなずけるところに、彼の作品の説得力がある。
そして逆に言うと、彼の文学に対する物足りなさも、その点に関わってくる。
つまり、我々は彼の思考の流れを共感を持って眺めることができると同時に、その出発点が違っていることをも感じてしまうのである。
つまりほとんどの読者は、ブリキの戦車の中で敗戦を迎えたわけではない。
むしろ、彼が馬鹿げたものであるという、昭和初期の日本の社会を身を持って知ることもないままに、作品として司馬文学に出会っているのである。
彼の作品にはいつも、戦争の中で無意味に死んでいった兵士の存在が、背景にあるように思える。
そしてそこから、対比的に作品を照らし出している。
しかし、そのことを最も正しくとらえられるのは、彼と同じ運命を担った人々であろう。
司馬遼太郎から年齢を隔てるに従って、その背景の世界は遠ざかってしまう。

 人間は自分が生まれる前の50年ほどの歴史から大きく規定されているだろう。
しかし、その本人にとって、自分自身を規定しているものの存在をとらえつくすことは困難だろう。

一方で、その人の50年前に生まれた人にとっては、全てが身をもって経験したことになっている。
司馬遼太郎にとって、ブリキの戦車は現実であるが、戦後派のわれわれにとって、ブリキの戦車は歴史そのものである。
司馬遼太郎にとっては、自分が生まれるまでの50年が問題であったろうし、明治維新から日露戦争までがもっとも力をそそいで解明すべき課題であっただろう。
しかしわれわれには、明治はすでにはるか遠くであり、大正から昭和初期にかけてが、むしろ解明すべき歴史であろう。
そして、司馬遼太郎にとっては、それらは何より生々しい現実であっただろう。
このずれは世代の違いがもたらす、当然の問題であって、どうすることもできない。

 司馬遼太郎は、ブリキの戦車から穴を掘って、ついに日本人の岩盤にまで達した。
その作業の過程は実に学ぶべき物であるし、そこで得られた成果も有効なものであるだろう。
しかし、歴史を学ぶということは、どの世代にも同じような作業として存在しているものではない。
司馬遼太郎が、昭和初期の日本は馬鹿げていたと述べたからと言って、我々がその時代を同じように馬鹿げていたと述べることはできない。
それは我々が、身をもってそのことを経験していないからである。
当然のこととして、司馬遼太郎が前提としていることを、我々も同じように前提とすることはできない。
その点に関して、歴史は科学ではない。

  私が司馬遼太郎の作品に関して感じた納得と不満は、これら二つの点に関わっていると思える。
つまり、彼のとった方法への共感と、彼の立脚点への違和感ということになろう。

  司馬遼太郎は、江戸時代から明治にかけて日本の社会に生み出されたものが、世界史の中でも評価に耐えるものであると考えた。
そして、昭和初期にそれらの成果が大きくねじ曲げられて、日本の国民と周囲の国の人々に多くの迷惑をかけたと見る。
しかし、軍部の支配という熱病がさめてみると、本来のありかたに戻って、日本は驚異の復興をとげたというのである。
そして、60年代の経済の高度成長の過程で、江戸から明治にかけて作られ維持されてきたものの多くが、その可能性を使い果たされてしまった。
彼はバブルという土地投機の現象こそ、それらの最終的消滅を示していると見た。
彼はその晩年に、土地投機の危険性を、何度も指摘している。

 しかし、彼は日本の将来をまったく悲観していたかというと、そうではない。
だが、意味もなく楽観していたわけでもない。
日本の文化は、その困難を乗り越える力をもっているだろうとしながらも、具体的な答えを次の世代に手にゆだねたのである。
つまり彼は、どの世代にも正しくあてはまる答えを作ったとは言わなかったし、自分自身の答えを、制限された範囲に限ったのだと思う。

(あとがき)

 司馬遼太郎は小説家なので、本来はその歴史小説を材料にして論ずるべきなのかもしれないが、エッセーのほうにその特徴が現れているように思えて、もっぱらエッセーを材料にした。
最新作の「風塵抄2」も取り上げた。
エッセーとしては、ここに取り上げたもの以外にも多数あるが、引用するには適当ではないものもあり、上記のものに限ってしまった。
対談や座談会にもおもしろいものがある。
興味のある方は直接それらにあたってもらいたい。引用の中に、ひとつでも興味を引かれる文章があって、それを手がかりにして、彼の作品に縁が結ばれれば私としてはうれしい。
ただ、言えることは、それらすべてが自分自身の作品作りにつながる物であって欲しいと言うことである。
自分自身の作品といっても、もちろんそれは、必ずしも書かれた作品を作るという意味ではない。
作品を書くような作業としての、思索や読書というものもあると思うからである。

                                 (1996,5,30)

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