(2000,12,15到着分)
「そんなときに、そんな心配は・・・」
この話は、今まで何処の誰に話しても爆笑されてしまう話であるのだが・・・。学生だった頃、私は某大手コンビニの深夜帯のバイトをしていた。そのコンビニの周辺地域は柄が悪いせいもあってか、私がバイトに入る時間帯には、必ずと言っていいほどコンビニの前にヤンキーだかチーマーなんかのたぐいがたむろっては、タバコやシンナーを吸ってラリっていた。そういった光景は私にとっては当たり前のようになっていて、べつだん、気にも止めないようになっていた。
そんなある夜のことである。私がレジの係をしていると、外でシンナーを吸ってラリっていた15,6歳の少年がくしゃくしゃの千円札1枚を握りしめてフラフラと店内に入ってきた。彼は、フラフラとレジの私の前まで来て、
「500えんのーてれふぉんかーどー、くーださーいーー。」
と、くしゃくしゃの千円札を私に差し出した。私はいつものことなので、500度数のテレフォンカードとおつりの500円をラリった少年に差し出した。ところが、その少年は、テレフォンカードと500円玉を眺めて不思議そうな顔をしたまま、立ち去ろうとしない。私も「何か不愉快なことでもしたのかなぁ」と思っていると、彼は私に、こう言った。
「あのーー、しょおーひぜーはーーー?」
(訳・あの、消費税は? 注・テレフォンカードは非課税商品)
しばしの間、私は唖然としてしまった。
笑い話はここまで。私が言いたいのは、そんなときにまで、消費税の心配をさせてしまっているそんな、世の中についてである。なんなんでしょうねぇ。おいおい、ラリってカタルシスを得ている最中にみみっちく消費税の心配なんてするなよ。どうなっているのですかねぇ・・・。
はぁ。
(コメント)
人間は他の人から見ると、つまらないことにこだわる傾向があります。ジンクスなんてものもあるし、そういうこだわりが無くなると、人間としての味わいも無くなってしまうかも知れません。私などは、寝るときに定位置にめがねと時計がないと眠れません。起きたときに時間を確認するというのが癖ですから。それに強度の近眼なのでめがねが必需品です。それで、私が死んでしまったと思われるときでも、まくら元にめがねと時計を置くように家族に頼んでいます。いつ生き返ってもよいようにです。もし、生き返ってめがねがないと、考えるだけでも不安ですからねえ。このコメントを読むあなたはどうですか。
(お詫び) m( v )m
この記事を誤って「ぐるぐる日記」に掲載してしまいました。ご迷惑をおかけした執筆者の方に深くお詫びいたします。申し訳ありませんでした。
(2000,11,13到着分)
「メロンて、高級品なんだよなぁ・・・」
まず、最初にハッキリさせておかねばなるまい。わたしは、お金持ちではない。まして、私の実家も決して裕福ではない。そして、この文章は、「つぶやき」というよりも、むしろ「謝罪」だということを・・・
今年の夏に話は遡る。私の実家から「クール宅急便」によって小学生の頭ほどのメロンが送られてきた。ここで改めて言わせてもらうが、私の実家、そして私自身も決して、あるいは、かなり裕福ではないことを。さて、話を元に戻すとしよう。そのメロンを目の当たりにした妻は、「うきゃー、メロンだぁ」とはしゃいでいる。その横で私は、こう、つぶやいた、
「ちっ、メロンなんて送られてもなぁ・・・」
私にとってメロンは高級品でも何でもない。ただの『果物』のひとつにすぎない。何度でも言ってやる。私も、私の実家も決して裕福ではない!ましてや、メロンを栽培しているわけでもない!
その夜、私はそのメロンをまっぷたつに割り、種の部分をスプーンで取り除き、その部分にハーゲンダッツをぶち込んでガブガブと何の感情もわかぬままに一気食いした。妻は大変驚き、しばらく絶句した・・・後、こう、言い放った「メロンて入院するくらいの病気にならないともらえないんだから!!!!!!!!!!!」
もう一つ、ハッキリさせておきたい。私はこの後一生、メロンを食べられなくとも何とも思わないし、また、自主的にメロンを買いにゆくこともないだろう。しかし、八百屋で妻にメロンの値段を見せつけられ「メロン」という果物が人々にとって、どれだけのステイタスとネームバリューがあるのかを思い知らされた。
めっきり冷え込んできた晩秋の我が家にて、実家より送られてきた2箱の「ラ・フランス」を眺めつつ、そんな、過ぎていった夏のことを思い出しつつ、「ラ・フランス」を丸かじりしていたらまた妻におこられた。また、八百屋にゆかねばならないようだ・・・。
最後に、もう一度だけ言わせてもらうことにする。私も、私の実家も決して裕福ではなく、ましてや、ラ・フランスなんぞ栽培してないことを!
「最近、水掻きが張ってきたなぁ・・・」
私の指の股には本当に自分でもビックリするくらい、立派な水掻きがついている。それは、まるで、競泳の選手のように本当に立派な水掻きなのだ。これは、何度も言うが、人に自慢できる事なのかすらよくわからないが、本当に立派な水掻きなのだ。
私はもう10年以上まともに泳いだことがない。普通、競泳の選手でも何年かまともに泳がなかったら、水掻きなんてすぐに退化?して無くなっていってしまうだろう。しかし、私の水掻きは、10年以上もろくに泳がないにもかかわらず、年々その面積を広げつつある。うーむ・・・
この現象は、私に「水に帰れ」という何かの啓示なのだろうか?それとも、「もともと生物は海の中にいたんだよ」といった具合の生物の進化の過程における名残りなのだろうか?はてはて、むむぅー・・・
真相は分からないが、まぁ、とりあえず誰かに自慢でもしてみよう。そうしよう。
つぶやきは、つづく・・・(かもしれない)
(コメント)お釈迦様には、普通の人と違った身体の特徴があったそうです。その一つが、水掻きの存在。つぶやきさんは、お釈迦様に近づいている?ヨッ。生き仏。
(2000,10,27到着分)
わたしが精神科に通院をはじめて、この秋で7年目になる。7年も精神科に通院していると、いろいろな患者さん(本来はこういう書き方はしたくないのだが・・・)に必然的に出会う事なる。そしてその人達は殆どといって良いほどに、自分の身の上話や、病状なんかをこっちの都合なんかお構いなしにしゃべり続ける。そして、最後に満足したかのように、こう、呟く。
「しんどいですわぁ・・・」
精神科に通っている人々の殆どは自分が病気になったことを、まるで、貧乏くじでも引いたかのように思っているらしい。それでも中には、自分が病気になって「良かった」と公言する人もいる。話を聞いてみるとなんのことはない、自分の不幸(?)を勝手に様々な宗教や思想に当てはめて、「弱者の救済」として自分をある意味、慰めているだけだったりする。まあ、それが、その人にとって本当に「救済」になっているとするならば、わたしは、さらさら批判する気もないのだが・・・。
昨年、わたしは、医療関係の仕事をしておられる年輩の女性と何度か2人で話をする機会があった。
わたしも正直なところ、病気を抱えてしまったことを「貧乏くじ」を引いたととらえているところがあった。(その時期、かなり精神状態が一時的に不安定だった)しかし、何度かその女性と様々な話をしているうちに、わたしの口から、意外な言葉がこぼれた。
「病気になって、良かった・・・」
そのとき、わたしという人間は、なるべくして「病気」になったんだとこころの底から思えたし、また、はじめて「あきらめ」以外の感情で病気を受け入れられたような気がする。
わたしは、今、人生の中で生まれて初めて、戦っています。もしかしたら、誰にも理解されないとも思っています。
でも、いいんです、それで