(はじめに)

 昨年の阪神大震災以後、何度も神戸を訪れている。
そして、死者6000人を超すというこの大災害の一端を、具体的なそれぞれの人の苦しみという形で、感じ取ることが出来てきたように思える。
そのたびに思うことは、死者6000人、被災者30万人の天災がこれだけの悲惨な光景を生み出すのであるとすれば、日本人だけで死者2000000人とも言う、第二次世界大戦の悲惨さはどれほどのものであったかということである。

 阪神大震災を考えていて、第二次世界大戦に及ぶというのは、自分でも思いがけない発展だったが、昨年末から今年にかけて、満州事変以後の日本の進路に関する本をたくさん読んだ。
日本が中国に侵略の手を伸ばしていく流れの背後に、無数の死者が透けて見え、それが阪神大震災の死者と破壊された町の光景とが重なったのである。
それというのも、地震によって初めて、無数の死者というものが、私のイメ−ジに具体的に浮かんできたからである。
地震の後の神戸の町を見た人の中から、「空襲の時の焼け野原みたいだ」という話を聞いたし、老人の被災者の中には、今回の地震と過去の空襲の恐怖を混同している人もあった。そういうことも、一層、両者を結びつける結果となった。

 おそらく今後も、天災としての大地震は避けられないだろう。
では、人災であるけれども、あるいはもっと大きな災厄となりうる、戦争はどうだろうか。
そして、日本の満州事変以後の15年戦争は避けられなかったのだろうかというふうに、関心は動いた。
過去を振り返って、戦争はここで止められたということが言えないとしたら、今後もそういうことは言えないということになるのではないだろうか。
そう考えてみたのである。

 歴史にifはないと言われる。
だとすると、歴史は単に過去の事実を時間をおって並べることに終ってしまうだろう。
歴史に何を学べるのか。しかし、こういう風に考えると、私のような歴史の門外漢である人間に、一体何ができるのかということを疑ってもしまう。
また、自分の日常に何の関係があるのかとも。
そう考えながら、とりあえず感じたことだけを書いてみたい。


(「太平洋戦争」と「大東亜戦争」)

 日本人の多くにとって、「戦争」というのは「太平洋戦争」のことだろう。
フィリピンやインドネシア、タイ、ビルマ、南洋の各地に広がった戦線が、まずはイメ−ジに浮かぶ。西太平洋全域が戦場であった。

 開戦の日は、12月8日の真珠湾攻撃であり、敗戦の日は8月15日である。
敵は、ABCD包囲網の、アメリカ、イギリス、中国、オランダであった。
日本は、物量豊かな米英を相手に無謀な戦いを挑んで、最初の半年は勝利を続けたが、それもつかのま、ミッドウェ−、ガダルカナルと形勢逆転され、ジリ貧となって、結局大都市を空襲で焼け野原とされて敗戦を迎えたのである。

 しかし、この見方は、「太平洋戦争」が「支那事変」の発展以外のなにものでもないことを、見過ごさせる面を持っている。
そこからは、日本が敗けたのは、米英にであって、中国にではないという受け止め方が出てくる。
敗戦の時点でも、陸軍の中には、そういう受け止めかたがあった。まだ、中国戦線では戦えるという。

 日本がアメリカと戦ったのは無謀であった。
そのことに反対する人は少ないだろう。
日本軍が人海戦術で3〜4ヵ月かけて作った滑走路を、アメリカ軍はブルトーザーを使って数日で作り上げたというような話を、戦後になって皆が聞かされている。
その一点を取り上げても、実に無謀な戦争だったのだと。
当時の日本の工業生産力は、アメリカのそれに比べ、各部門で違いはあるものの1/10〜1/100だったのである。
また、船舶量をとっても、真珠湾奇襲の結果を含めても、一度として日本軍はアメリカ軍を上回ったことがないのである。

 では、どうしてアメリカを敵にすることになったのか。
その答えは、日中戦争にある。
日本が中国との戦争をやめることができないため、必然としてアメリカとの戦争に入ってしまったのである。
その時点で、日本は中国との戦争に勝てなくなっていた。そればかりではなく、戦争を持続するためには、戦線を拡大するしかなくなっていた。
そんな戦争に、見通しがあるわけがない。
言ってみれば、「太平洋戦争」を経ることなくして、日本は中国との戦争をやめることもできなかったのである。

 では、何故日本は中国と戦争をするになったのか。
それは、満州の権益を守るためであった。
そして、満州の権益とは、日露戦争で得たものであった。
さかのぼれば、日露戦争は朝鮮半島に対する、ロシアの圧力との戦いであった。
そして、朝鮮半島の権益は、日清戦争で得たものであった。
こういうふうにさかのぼれば、明治維新以後の日本の対外政策の流れが、一つの必然のようにして「太平洋戦争」につながっているように思えるのである。
「太平洋戦争」を回避できなかったかという問いは、この流れを別に転換できなかったかという問いとなる。

 近代日本の動きが、最初からそのようなものであったどうかは、議論のあるところで、少なくとも日露戦争までは、色々な選択があったのではないかと考えられている。
日露戦争に勝利することで、日本は後戻りできない過程に入ってしまったというわけである。
少なくとも日露戦争には、勝利するか敗北するかという岐路に立たされているという緊張感が、国家全体に存在した。
開戦の時から、どのように講和を結ぶかが、真剣に検討されていた。
軍事行動も節度有るものであった。
政治の動きと、軍事行動が密接に結びついていた。
しかし、それらの考慮は、後の「満州事変」や「支那事変」では存在しないのである。
戦争や軍事が勝手に動きだして、だれにも止められないものとなってしまっていた。
軍部独裁と言われるものが、それである。

 しかし、よくよく見てみると、日清戦争の時点でも、旅順を占領した日本軍は多数の住民を殺害している。
決して、日露戦争までは無軌道ではなかったなどとは、言えないのである。
日露戦争以前の北津事変では、日本も欧米諸国とともに派兵したが、最も統制が取れ、士気が高かったのは日本軍だと言われた。
実際、欧米の軍隊のやりかたは、ひどいもので、北京の円明宮が破壊され、財宝がことごとく掠奪されたのであった。
その際の日本軍の優秀さが、その後の日英同盟締結の可能性に結びついたとも言われる。
しかし、その後の20〜30年間に日本軍のたどった姿を見ると、統制が取れて立派だと言うのも、早く一等国として認めてもらいたいという、欧米に媚びる姿だったのではないかと思えてしまう。
おそらく、日本にはアジア向けの顔と、欧米向けの顔とが、使い分けされていたのだろう。

 第一次世界大戦が、一つの分岐であったと思える。
日本は日英同盟を根拠として、ドイツに宣戦布告し、中国のドイツ租借地と南洋諸島を攻撃、占領した。
その行為は、一部で「濡れ手で粟」「火事場泥棒」と非難された。
日本はこれを好機と、ドイツの利権を奪おうとしたのである。
ベルサイユ講和会議で、日本の要求は一部入れられ、一部は退けられた。
しかし、結局日本は、退けられた要求を求め続けるのである。
あたかも、日清戦争で得た遼東半島の権益を、一度三国干渉で失っても、日露戦争で取り返した時のように。

 日本は、結局第一次世界大戦の意味がわかっていなかったし、そこで萌芽の形で現われたものを見ることもできなかったのである。
一つは、アメリカの大統領ウイルソンが提唱した民族自決の原則の意味であった。
また、戦争がもはや軍隊のみのものではなく、国家全体の総力戦であるという現実であった。
このことは、もう国家がアジアと欧米に顔を使い分けることが許されなくなるということでもあった。
日本はそのことを認めることができないために、中国への泥沼的な侵略戦争に引きずりこまれることとなっていった。

(日露戦争の遺産)

 失敗は成功の元というが、逆に言うと、成功は失敗の元でもある。
おそらく、日露戦争の勝利がもたらした遺産というものが、その後の日本をあやまらせてしまったと言ってもよいのではないだろうか。
もっと言えば、日露戦争の勝利の原因を、自分たちに都合よくまとめあげてしまっったところに誤りがあったと、言うべきかもしれない。

 日露戦争の勝利は、危ういものであったのであり、政府の中枢の人間はみんなそのことを知っていた。
しかし、大衆には知らされておらず、ポーツマスの講和を不満とした民衆の日比谷公園焼き討ち事件などを見ていると、民衆レベルでは決して制御されたものではなかったことがわかる。
むしろ、民衆の意識をかき立てなければ、戦争に人々を駆り立てることは不可能なのだろう。

 ともかく、日露戦争はうまくいったと考えられていて、その後の日本の流れを決めたと言えるだろう。
おそらく、第一次大戦への参加の仕方が、いっそう拍車をかけたと言ってよい。
日本海でバルチック艦隊を撃滅した記憶。
旅順要塞を包囲し、突撃を重ねた苦労。
奉天での大会戦。
それらは、あるものは奇襲作戦の重要さを、精神主義の有効性を、率先即決の決定的意味を示しているように見えたわけである。
日露戦争後ほぼ30年で、日本はその教訓を使い果たして、滅びの道をたどったのである。

 太平洋戦争の初頭では、機密保持にしても厳重を極めたが、ハワイの奇襲攻撃に成功してからは、いつしか暗号を読みとられるようなゆるみが出ていたと言われる。
山本五十六が、戦争が開始されればしばらくは暴れて見せますが、その後は続かないと言ったと言われるが、見通しもないのに暴れてみせるなどという言葉が出ることはすでにおかしいのである。
むしろ政略なしに軍事だけが動いている奇妙さが見て取れるばかりである。
このことは、国の実力を考えずに、軍隊だけが肥大化した奇妙さに通じている。

 ともかく、軍事力でやれば何とかなるという考え方が、できてしまったのである。
そして、その最も顕著な例は、軍事的謀略であろう。「満州事変」「支那事変」などみなそうである。
結果的に成功すればなにをやってもよいという風潮が出てきてしまった。
一度、それが認められると、行き着くところまで行くしかない。止めようがないのである。

 軍隊が、軍事のみを重視し、特に戦闘のみを重視して行った結果、軍隊そのものをとても奇形的なものになっていってしまった。
軍隊が、国家内の国家になり、すべてを支配したのである。
そういう行為が長続きするわけがない。
結果的に、国家の破滅が起こった。 
太平洋戦争の末期には、神懸かり的な特攻攻撃まで考え出された。
全くの精神主義である。
合理的な近代国家にあって、およそ考えられないことであろう。

 補給を考えない戦争など考えられそうもないと思えるが、それをやったのが当時の日本軍だった。
悪名高いインパール作戦をあげるまでもなく、中国戦線でも補給は現地調達が原則のようなものであった。
それではとても、現地の民衆の支持など得られるわけがない。

これも、結局は、戦争行為のみを軍事行動と考えるからであって、補給を重視すれば、そこから軍需産業、交通、通信、その他へと軍事以外の観点を持たざるをえなくなっていく。
そうすると、当然のこととして、軍事のみで国家を考えることはできないという結論になっていくはずである。
それは、結果的に軍事的観点からの発言のみでは、説得力がなくなるのであって、軍部の指導性は部分的にならざるを得ないだろう。
それを回避すれば、戦闘行為にのみこだわるしかないだろう。
しかし、言うまでもなく、そのような姿勢では、1930年代以降の総力戦を戦うことはできなくなっていたのである。

 真珠湾攻撃の時、日本軍はアメリカの太平洋艦隊を撃破したが、現地の補給基地はほとんど攻撃しなかった。
当時、ハワイに備蓄されていた原油は、日本の消費量に換算すると、優に一年半の当たるものだったらしい。
「油の一滴は、血の一滴」というスローガンまで飛び出すことになっていた実状から言うと、大きな手抜かりであるが、これも戦闘にのみ関心を持っていたというあり方から考えると、うなずけることなのかもしれない。

(統帥権)

 日本軍を特徴付けるものとして、統帥権の存在があった。
おそらくそのような考え方がなければ、軍隊の動きはもっと規制されたものとなっていただろう。
統帥権というのは、軍隊を統括するのは天皇であって、それ以外の力を寄せ付けないと言うものである。
実際、日本軍が真珠湾を攻撃すると言うことを、閣僚ですら知らされていなかったらしい。
軍事機密であるというわけである。そのために、軍部が独走してもそれを事前にチェックすることはとてもむつかしかった。
既成事実がまかり通り、政治家は事後処理にあたるしかなかった。
もちろんこのような動きは、明治時代には顕著なものではなかった。
それは、権力を握っていた人々も、明治維新前後の混乱を乗り切ってきたので、政治と軍事の分離など考えられなかったからであろう。
しかし、昭和の時代には、軍事が一人歩きする状況になっていた。
それを許したのが、この統帥権の考え方であった。
そして、明治時代にはおそらく考えられないような理解のされかたをしていただろう。

 統帥権が問題となったのは、ロンドン軍縮会議の批准をめぐって、国内が対立した時に、対立政党を攻撃するために持ち出された時である。
政党が、自分たちの存在根拠を突き崩すような論拠を、政争の具として用いたのである。
そういう歴史を見ていると、暗然たる思いとなってしまう。
半年か一年の尺度でしか有効性のない勝ち負けのために、10年も20年もその国が大きく規定されてしまうような問題を取り上げるのであるから、なにをかいわんやである。

 統帥権は、明治政府の軍隊が、薩長の軍隊を基本として発足したが、国内を統一するためには、特定の藩の軍隊であってはならないというところから出たものである。
つまり、当初は必然性をもっていた。それが、時代背景を変化させた状態でも存続して、当初なら考えられないような働きを示したのである。
どうも、日本の国というのは、一度決めたことは、なかなか変更できない国のように思える。
特に社会の大枠というものについてそういえるようだ。
奈良時代にできた律令国家の枠組みを、明治維新まで続けてきたのだから、根元的な構造をなかなか変化させられないものだろう。
それが、天皇制存続の根拠だろう。おそらく、日本の社会の隅々までが、そういった性質を持っていると思える。
そんな具合だから、明治時代に作ったものを、高々数十年の後に、的確に変更していくなどということは、困難であったのだろう。
おそらく、統帥権の考えかたの危険性に気づいていた人もあるだろうが、結果的に有効な動きをすることができなかったと思える。

 天皇は神聖にして侵すべからずということが、そのまま軍隊は神聖にして侵すべからずということになってしまった。
あらゆる批判を許さない存在が、その腐敗を免れるということはありえない。
腐敗した軍隊が、その国民をどこへ導くか、その答えの一つが、戦前の日本の姿だったであろう。

 (バスに乗り遅れるな)

 ナチスドイツの登場によって、日本の軍部は大きな影響を受けた。
ドイツの興隆を見て、ドイツに習おうとした。時には熱狂的な動きすらあった。
三国同盟しかりであろう。
しかし、後になってみると、おおむねはドイツの政略に乗せられていたことがわかる。
日本が真珠湾を攻撃して、米英に対して宣戦を布告した時というのは、ドイツがスターリングラードでの敗退を始めるときとほとんど同時であった。
日本がドイツを当てにして、戦争を始めた頃には、ドイツはすでに傾き始めていたのである。
こう言った情報を取ることに日本は何故か、とても不得意である。そもそも都合の悪いことは、見ようとしない傾向がある。
例えば、日本が中国との戦いに入り込んでいたころ、最も中国に武器を輸出していたのは、実はナチスドイツであった。
ところが日本の軍部は、ドイツ贔屓からそういう情報を、報道させなかった。
まったく、自分の願望の節穴から、世界を見ていたわけである。
軍事顧問も多数いて、日中戦争開始直後の上海での戦闘などは、その実体を見ている者からは、日独戦争に他ならなかったという。
その後の交渉によって、ドイツは中国から手を引いたが、そのことは米中の接近を促すこ とになっていった。

 日本は、ナチスドイツに幻想を持とうとしていたように思える。
ヨーロッパにおけるナチスドイツの破竹の勢いに、幻惑されていた。
その動きを無視することに対して、「バスに乗り遅れるな」という言葉が使われた。
ドイツがヨーロッパを席巻する前に、敗戦国フランンスの支配していた、ベトナムを占領しようという動きが、それである。
しかし、この南部仏印の進駐が、米英との対立を回避不可能な地点に引き込んでしまった。では、その時点で南部仏印の進駐が米英との戦争を招くという風に、意識されていたかというとそれがあまりはっきりしない。
なにか、今動かないと損だというような、ムードのようなもので動いているにすぎないのである。

 果たして、ナチスドイツが本当に、ヨーロッパ全体を支配できるのか、どこかで破綻するのではないか。
そういう検討が、十分行われたわけではない。
どこに向かっているのかわからないままに、出発しそうなバスに乗ってしまう。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」そんな態度が、国の大きな政治にまで出てきたのでは、国を滅ぼしてしまうのも、当然だろう。

 禅の修行をしている弟子を評価するのに、その弟子が何で動いているのかで、三つに分けるという話を、聞いたことがある。
一番の弟子は、厳しく扱われると、「なにくそ。そのうちに見返してやるぞ」という恨みをもって、修行するというのである。
二番目の弟子は、老師から親切にされて、この恩に答えたいと考えて、修行するというのである。
三番目の弟子は、あの老師は有名であるから、その後についていけば何かよいことがあるだろうというのである。
一番の弟子は恨みに附き、二番目の弟子は恩に附き、三番目の弟子は勢いにつくというらしい。
「バスに乗り遅れるな」というのは、勢いに付くという宣言以外の何物でもないだろう。

 しかし、こういった傾向が過去のものであるかどうかは疑わしい。
日本中がバブルで騒いでいたころのことを思うと、とても過ぎ去ったこととは思えない。
動き出すバスを横目で見ながら平気であるというのは、相当強固な基盤の元に生きているのでなければ不可能なことであろう。
「バスに乗り遅れるな」という 言葉に対しては、どうしてもそういうことを考えてしまう。

(テロリズム)

  日本が、軍国主義に傾いていったのは、5・15、2・26のテロルの衝撃ということを、避けては通れないだろう。
2・26事件によって、一時は廃止されていた、軍部大臣の現役制が復活した。
このために、軍部は自分たちに都合の悪い総理大臣を忌避するために、大臣を出さなかったり、引きあげさせたりした。
軍部の同意を得られない政治は、成り立たなくなったのである。
それも、現役軍人でなければ、軍部を押さえられず、テロルの再現を許すだろうという思いからであった。
結果的に、テロルを予防するために、一層軍部の言いなりになるということになった。
テロルの効果を何より認める結果となってしまった。政治家も自分が殺されるのは怖い。
しかし、そのことが政治的な決定にまで影響を及ぼしたら、とても冷静な判断は出てこないだろう。

 テロリズムの恐ろしい点は、相手もそれを使い出すと、それに引きずられ、どちらが始めたか区別が付かなくなってしまう点である。
そして、本質が見えなくなってしまう。
日本の軍部がテロルを梃子にして、自分たちの意志を通そうとしたとすれば、逆の面から見ると、テロルに揺さぶられやすい性質を同時に生んでしまったとも言える。
日本軍が中国に駐留して、そこで反日のテロルに曝されたとき、たわいもなくその挑発に乗ってしまう傾向を生んだ。
中国在住の日本人が、テロの対象とされたとき、軍隊がそれに対してどうすることもできないとなると、何のための軍隊かと言われても、反論のしようがなく、結局軍事行動の拡大をまねいてしまう。
日中戦争が本格化する前の中国の状況は、本格的な戦争に突入しなければ、収まりのつかない状態であったようだ。
日本人に対する、中国人の非情な暴力に、対抗しないわけには行かない。
そういう論調が支配的となっていた。
しかし、そのころ反日デモの中で、暴行を受けたり、破壊された対象に薬商人がかなりみられた。
こういう行動は、平和的な活動を中国で行っていた日本人に対する、無節操な暴力のように思える。
しかし、その当時の情報に よると、中国で行われていた薬商というのは、ほとんどが麻薬商人であったらしい。
そういうことになると、中国でテロルの対象となっていた日本人が、どんな行動をとっていたかも想像できる。
日本にいるだけの日本人には、そういう情報は入っていなかっただろう。
むしろ、現地でいかがわしい行動をとっていた人が、それそうとうの目にあっていることを、中国人の暴力性の現れと考えてしまったこともあるのではないか。
そういうことは、やはり検証しておくべきことであろう。
極端に言えば、麻薬商人を守るために、戦争をしてしまったというようなこと。
しかし、それ以前にイギリスはもっと直接的にそういう戦争をしていたのだが。

(欧米の動き)

 20世紀の初頭の欧米の中国での動きは、ひどいものだった。
義和団の乱の時など、北京に攻め込んだ軍隊が、皇帝の宮殿などを徹底的に略奪、破壊した姿は、目に余るものがあった。
おそらく世界で一・ニを争うような豪華な宮殿であった円明宮は、先にも触れたけれど、放火されて、跡形もなくなってしまっている。
その帝国主義国が、30年ほどすると、中国の抗日戦争を支援する立場に立ち、その当時の西欧の帝国主義に対し、批判的な姿勢をとったであろう日本が、逆に出遅れた姿でまねをして、昔の姿を忘れたかのような態度をとった英・仏などから、非難されることになったのだから、皮肉なものだ。
たとえ政治力学が主だとしても、彼らが、時代に流れの中で、植民地主義を精算しようとする動きを見せていたのに、日本はそれに逆行するような動きをしてしまった。
何故、そんな読み違いをしたのか。また、彼らは、どういう風にして、自分たちの行動を変化させていったのだろうか。

 考えてみると、西欧諸国の植民地経営は、日本などよりはるかに年期が入っている。
その限界もよくわかっていただろう。
自らの手で、幕を引かなければならなくなった。
そこが、日本のあり方の違いとしてあるのではないか。
植民地が、矛盾を拡大させて、処理できなくなっていく。
そういう動きの中から、国家を揺るがすような問題が噴出してくる。そういう経過を日本の国は、とっていない。
戦争が一挙にそれらを解決してくれた。
それは、幸運なのかもしれないし、当然学ぶべきことを学びそびれてしまっているのかもしれない。

 日本の近代史を考える場合、西欧の近代史を比較することも重要だろう。
西欧が植民地主義を克服した過程と、日本のそれとの違い。
また、それがそれぞれの国家にとってどういう意味を持ち、社会にどういう影響をもたらしたか。
ただし、こういう風に考えようとすると、参考となるような本がなかなか手に入らない。
既成の歴史観をなぞるだけなら、いくらでも参考になる本はあるけれど、少し具体的な問題をつきつめようとすると、とたんに物事はわかりにくくなってしまうと思う。

(変わらないもの)

 こうして、戦前の日本がどうして戦争に傾いて行ったのかを考えてくると。現在の日本も決してそのころの動きから自由になっているとは思えない。
組織が勢いを持って動き出したとき、それに本当に抵抗すると言うことが、困難であることを思えば、当時の心ある人々の苦労も、しのばれる。
時には、身につまされる。確かに、時代背景が違うのだから、同じ事はもう起こらないだろう。
しかし、同じようなことが、異なった姿で現れたときはどうだろうか。
当時の記録を見ていると、とても楽観はできない。
そして、その楽観できないという思いがわいた時に、私は自分が、社会の中で逃れられない場所を自分が占めているのだなあと思った。
私がまだ学生の頃は、その当時の記録を読んでも、自分とは関係のない、過去の話であった。
しかし、今となっては、過去と言える根拠はないと思ってしまうのだ。

 ここで、最初の戦争を阻止しうるものという問題に戻る。
戻ってみて、阻止しうるものを今の時点で考えることはできないと思う。
日本の1920代から40代にかけて、変わらぬ定点を持つことが、困難であっただろうことはよくわかる。
現在の時点で、いろいろな感想を持つことはできるだろう。
しかし、その時点に身をおいたとき本当に有効になるような尺度をつかむことは難しいと思う。

 その当時、中国の上海でジャーナリストとして活動していた松本重治の「上海時代」という記録を読んだ。
中国との関係が極めて厳しい中にあって、彼はジャーナリストとして、多くの中国人と友人となり、その人脈を背景に、和平の動きを探るのである。
そして、そのことに失敗したとしても、人間の信頼関係こそが最も重要なものであるということを、結論として述べている。
説得力のある話である。しかし、多くの人にとって、外国の要人と友人になることは困難だし、それが直接的な効果を持つような関係を作ることもできないだろう。
では、何があるのか。
その問いを、とりあえずは自分に引き受けることを、課題にしておきたいと思う。
そして、その課題を色々な形に読み替えていくことが必要だと思う。
また、色々な場面に置き換えていくべきだとも思う。
そして、何かの決定的な解決法が発見できるという考えを安易に取らないようにしたいとも思う。

 こういうことを考えながら、神戸の震災の跡地を歩いていると、震災による死者の姿が時間を経て過去のものとなっていくという風には思えない。
依然として現在の問題であると思えるのだ。

(おわりに)

 日本が中国との戦争をはじめ、そこから抜け出せなくなってしまった原因は、結局中国のナショナリズムの評価を誤ってしまったからだと思う。
第二次世界大戦後の、アジアにおけるアメリカの政策を見ると、アメリカもまた、それに成功したとは思えない。
ベトナム戦争での敗北もその結果であるとも思える。

 ただ、すべては変化していくのだから、中国のナショナリズムもその内容が変化していく。
ある時は、評価すべきものであるにしても、それがいつまでもそのままであるわけではない。
19世紀〜20世紀初頭の日本がまさにそうだっただろう。

 また、こういうことも言える。
20前半の日本は、周辺諸国に多大の迷惑を懸けた。
しかし、その後、直接的な海外派兵を半世紀にわたって行なわず、他国と兵火を交わすこともなかった。
前半のことが本当であるとすれば、後半のことも本当である。
どちらかだけを見たり、一方だけを極端に重く見るというのも誤りだろう。
戦争は大変なことだったけれど、その後も人びとは生きてきた。それも事実である。

 日本が「平和憲法」なるものを守ってきたのも、戦争の記憶があって、戦争はもうごめんだと思ったからだ。
そのことが、別のどういう表現をとったか、どういう思想として結晶したかとなると、おぼつかないかもしれない。
しかし、アジアの原野に屍を曝した人びとの遺産の上に、我々がいるという記憶は残されていると思う。
それが、いつまで続くかはわからないが。一つの記憶の中にあることは確かだ。

 震災の後の神戸へ、毎週のように行っていると、災害の跡地が整理されていく姿を見ることになる。
また一方で、人びとの変わらない心の傷に触れることもある。
そういうときには、地震が揺れだしたときとまったく変わらないものの存在を感じることもある。
ある時は、人びとの復興の力を感じ、またある時は、容易に癒されぬものを感ずる。
しかし、それらすべてを含んで、時は流れ、人びとは生き続けていく。
たとえ同じように生きているように見えても、人びとはもう震災の前の人びとではない。

 戦争を止められなかったかと問うことは、依然として意味を持つだろう。
しかし、戦争を越えて、人びとが生きてきたこと、そして過去と違った生き方を選択していっただろうことも、それにおとらず重要であると、今は思うのである。

                                       1996、3、10

 

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