●8・15 敗戦記念日によせて
 戦争は精神「障害者」に何をしたのか。
         
                   
                          塚崎 直樹
   
1,戦争中の精神病院を考える前に。

 まず大量の死者ということを考えたい。
その時に、最近私たちが経験した、1995年1月の阪神大震災の死者が約6000人であるということ、その死者を出発点に考えたい。
戦争というのは、沢山の人が死ぬことだ。
その死者に対する想像力というのは、まずは、身近なところから求めないとわからない。
 第二次世界大戦の戦死者は、1937年7月の日中戦争の勃発以降の8年余りの戦争で、日本人の死者は約310万人にのぼる。
このうち軍人・軍属は約230万人(うち海外210万人)、民間人約80万人(同30万人)である。
 日本の被害をはるかに上回るのが、日本がアジア諸国に与えた被害である。
各国の死者はいずれも不正確な数字しかないが、中国千数百万人、フィリピン約110万人、インドシナ200万人、インドネシア200万人をはじめ、アジア全体では2000万人にのぼると見られている。
そのほとんどは民間人であり、南京10数万〜20万人、シンガポール4〜5万人のように日本軍によって虐殺された人も多い。
またインドシナの200万人は、日本軍が米を徴発する一方で米作から麻などの軍用作物の生産に強制的に転換させた結果、餓死した人の数である。

 次ぎに、第二次世界大戦の死者全体を考えてみたい。次の表を見てみたい。
〇 第二次世界大戦(1935〜1945)における戦死者数をその他の犠牲者数。 
( 『夜と霧』みすず書房 出版者の序)

   国名  戦死者及び行方不明者 一般市民の死者及び行方不明者
 オーストリア   220.000    125.000
 中国  1.500.000  膨大にして計測不可能
フランス    245.000    152.000
ドイツ  3.000.000    800.000
 日本   2.565.898    600・000
 ポーランド    550・000  5.000.000
イギリス    403.195     60.359
 アメリカ    520.433       −−−−−
 ソヴィエト  4.500.000  6.000.000
ユーゴスラビア  1.706・000     膨大 


 第二次世界大戦全体でみると、死者は4000万とも5000万人ともいわれている。
ソ連千数百万〜2000万人、ポーランド500〜600万人などナチスドイツによって徹底的に痛めつけられた東欧・ソ連の被害が圧倒的に大きい。
西欧の連合国はアメリカ約3〇万人(太平洋地域で9万人余り)、イギリス連邦約6〇万人などとなっている。
ドイツは約450万人(うち民間人約100万人)だが、民間人の半数以上はナチスによって殺された人たちである。
 こうして見てみると戦争犠牲者の圧倒的多数は、日本とドイツが侵略した地域に集中していることがわかる。
しかもその多くは民間人であった。
死者の多くが軍人だった第一次大戦に比べて、民間人の犠牲が軍人と同じかあるいは上回ったことが第二次大戦の新しい特徴である。

 第二次世界大戦以後のアメリカの戦死者数(兵士)は、ベトナム戦争56,201人、朝鮮戦争33,629人である。
これに比べるとき、いかに第二次大戦の死者が膨大であったかを想像できよう。

 では、この死者のイメージについて考えることにしよう。
日本人の死者310万人を棺桶に入れて並べたら、6200Kmになる。
これは直線距離で東京からニューデリーまで並ぶ距離である。
世界中の死者を並べると、地球を二〜二周半する。
この棺桶にそれぞれ5人の人がすがって泣いているとしたら、その泣き声はどれほどの響きになるか。
 死者と破壊ということで考えると、阪神大震災級の破壊が、各都道府県に10カ所起こったと考えればよい。
その光景が、第三次世界大戦を防止し、日本においては平和憲法をもたらしたと思える。
しかし、時代の変遷とともに、その光景が風化しつつある。
その風化に抗する道は何かを考えてみたい。


2,戦争中の精神病院の状況。

 私は精神障害者の戦争体験をまとめた経験がある。(『声なき虐殺』1983年)
戦前の精神病院病床数は 23958床(昭和16年)だったが、戦争末期にはそれが3995床(昭和20年)にまで減少している。
統計によると、昭和15年から21年の死亡数は、松沢病院では定床の約2倍の2000人に及ぶ。
これを全体に当てはめると、日本全体では1〜5万人がその期間に死亡したと予想される。
この数は、その当時の精神障害者の重症者はすべて死滅したに等しい。
日本全体の戦死者310万人と比較すると、その数値が極端に大きいとは言えない。
精神病院だけが悲惨なのではない。
 日本とドイツでの精神障害者のあつかいに違いがあったと言われる。
ナチスは組織的抹殺をした。
しかし検討すると、ナチスの障害者抹殺が27万5千人だとしても、当時のドイツと日本の精神病院の病床数の違いが指摘できる。
ドイツの 26.5床/万人に比べ、日本は 2.2床/万人にすぎない。組織的抹殺をしようにも、それだけ収容されていなかった。
 ドイツでの反省は、有名なワイツゼッカー大統領の『荒れ野の40年』の中に、精神障害者への虐待として明確に触れられている。
しかし、日本での反省はどうなっていたか。
明確に言葉にされてはいない。
あれはひどかったという程度ですましている。「餓死した医者、看護者はいない。」という指摘はあるが。
 戦争体制下での餓死者とは何なのか。
精神障害者は社会変動に弱いということが言える。
松沢病院の死者には昭和16年にひとつのピークがある、社会体制が動くと、対応しきれない人に、負担がかかってしまう。
閉鎖的環境は社会変動に耐える、自己調整力を奪う。
そのことから病院の開放化が重要であることがわかる。
地域で生きる力が重要。
第二次大戦で、イギリスやフランスでは、患者を解放した。
空襲などでやむえずそうした。
それでも重症の患者が自力で生きていった。
そのことを教訓にして、戦後は地域活動や病院の開放化が進んだ。
 日本でも戦後、精神病院の民主化や改革が進んだと言われる。
しかしそれはやっかいな重症患者がすべて死滅したから可能になったとも言われている。
一方、地域活動は盛んにならなかった。

ここにも考えるべき問題がある。
 戦争に餓死がともなう理由。 
戦闘と補給のバランスが無視されていた。
日本の軍事思想に補給の考え方が乏しかった。
そのことが戦場での略奪を必然化する。
軍紀の乱れを正せない。
略奪する対象がないとき、餓死が待っている。
ガダルカナル、インパール等々の戦場で起こったことがそれだ。
穀物の生産を軍需品の生産に変更したために、ベトナムには大飢饉が起こった。
100万人以上が餓死したと言われている。
 一方、空襲下の都会にも、餓死者はいた。
野坂昭如の小説「火垂の墓」に書かれている世界がそうだ。
 死者は何を語るか。
精神病院で餓死した患者は、ガダルカナルやインパールの戦場で餓死した兵士、ベトナムで餓死した農民、空襲で焼け出されて餓死した戦災孤児とつながりあう存在である。
そういう風な広がりの中で考えたいし、とらえたい。


3,現在の精神疾患者のおかれている人権状況。

 精神病院の状況は、一般市民、労働者のおかれている状況と違うものではない。
現在の不況下、リストラによる自殺者が年間3万人。
これは朝鮮戦争時のアメリカ軍の戦死者の数である。
それだけのインパクトを持って、それらの死者が扱われているだろうか。
3万人の中にうつ病の人が多いと思える。
そうして、精神障害者が死に追いやられている。

 精神障害者の置かれている立場というのは、障害によってもたらされる問題を社会全体で背負うのではなく、障害者個人またはその身近な人々だけに背負わせようとしているということだ。
つまり、障害そのものを問題にするのではなく、障害の結果生じた「反社会的」行為のみを問題とし、それを障害者個人に責任を負わせることで解決しようとしている。
 精神障害とは対人関係の病である。
適切な治療、対処法は、良質な人間関係を提供することしかない。
これは社会的解決でしか行えない。
 人口の数パーセントは必ず精神障害となり、ある程度の人は社会的にトラブルを起こす。
それを社会全体で責任を持ち、対応していく。
それが当然の姿だ。
 自動車事故が起こったとき、自動車の構造、整備、道路の状況(信号機の有無、道路の見通しなど)、など事故に関わるすべての要素を検討する。
決して、運転手の運転技術だけを問題にすることはない。
しかし、精神障害者が問題を起こしたときは、運転手のみを問題にするような方法を取る。
 障害者施設の地域コンフリクトに関して感じること。
その原因は何か。
それを差別意識によるものと定義することの危うさ。不
幸にして精神障害者が起こした暴言、暴行等によって、打撃を受けた人の負担を社会全体が引き受けるシステムがない。
個人の資質の問題にしてはならないだろう。
 今の社会は、精神障害者を援助の必要な人、良質な人間関係を求めている人と見るのではなく、犯罪者予備軍やトラブル発生者としか見ていない。
後者は、前者の不足の結果である。
たとえ後者の問題が起こっても、それを社会全体の問題としようとしない。
そこに問題がある。
だから、排除的な動きが出てきてしまう。


4,もし、今日本で再び戦争になったら、精神病患者はどう扱われると予想できるか。

 戦争とは何か。
戦争の近代化は戦争の職業化を生んだ。
若者が兵隊になるということは、家庭人や他の職業を持っている人には、軍隊や戦死の影響が強すぎてうまく行かないから。
逆に他の職業や家庭生活の影響が軍隊に持ち込まれては困る。
軍隊は純粋な戦争機械でないといけない。
つまり、戦争と日常生活は相互背反のものである。
精神障害者はもっとも機能的社会となじまない存在だ。
 今の日本で、戦争になったからと言って、急に目に見える問題が起こることはないだろう。
むしろそのことがこわい。
問題が目に見えなくなってしまっている。

 「声なき虐殺」を書いた時の体験について触れてみたい。
私は本が出てからも証言者と接触を取っていた。
特に三人の人とは継続的に連絡を取っていた。
その結果、それぞれの人の証言というのが、それぞれの人の生きるテーマとかかわっていたことがわかってきた。
ある人が家族の運命として述べたことは、時間がたってみると、その人自身の運命でもあった。
つまり、戦争がその人自身のテーマを浮かび上がらせたのだ。
 震災のときの問題も同じだった。
震災を経験したときに、仲良い夫婦は一層仲良く、仲悪い夫婦は一層不仲になった。
つまり、戦争に触れて自分の中の何が動き出すかが重要。
戦争によって、新たなテーマが出てくるわけではない。
 もうひとつ証言者をどうやって見つけるかの問題がある。
証言を引き出す方法である。
それに加えて、証言者が証言を続けるようになることが重要だ。
証言集を出すことによって、その証言をした人が、より公然と証言者として登場できるように、できることが理想だ。
沖縄で戦闘下の精神障害者の体験を集めたとき、証言者が二度と証言しないと言うのを聞いた。
本が残っても、証言者が沈黙してしまうのでは、問題だ。
証言者の核になっている体験は変わらないのだから、その核になる体験が発展していくことに協力すべきだ。
 経験は過去の物ではない。
事実は変わらなくもその意味付けは変わる。
過去のことだから話してもらえるということはない。
つまり、過去から教訓を得るのではない。
過去に照らされた現在をみるのである。
または、現在を変えることによって、過去の意味づけを変えていくのである。
 精神障害者の戦争体験というと、そこに一般の人より強い差別や抑圧があるのではないかと考えやすい。
しかし、そんなことはないと思える。
極端な差別がどこかに凝縮されているわけではない。
そういうところを発見して、そこからエネルギーを得ようとするのは、正当な方法ではない。
しかし、ものを認識するにはどこかから始めるしかない。
その視点が、精神障害者の戦争体験に着目することだとすれば、それは意味が大きいだろう。

 私が戦争中の精神障害者について、看護者に聞いたことで印象に残っていることを最後に紹介したい。
 一番悲惨な体験について聞いたら、空襲下の病院移転をあげられた。
空襲で生じた火傷患者を次の空襲の時、別の病院へ搬送したときのことである。
全身火傷した患者をトラックの荷台に乗せて運ぶ。
緊急の事態なので、まるで丸太を積み上げるようにして運んだという。
火傷の傷に触られることがいかに苦痛か、本当に阿鼻叫喚の光景だったという。
 一番の看護者の苦労について聞いたところ。戦後の民主化運動の中でのつるし上げを言われた。
民主化の意味もわからず、管理職をともかく非難すれば良いという考えだけで、職場の秩序や信頼が崩れてしまったという。
 これらについて、質問した時は、答えとして戦争体制下での障害者の餓死を予想していた。
その予想がはずれて、精神障害者の戦争体験という視点をもう一度考え直した。

 最後に宮沢賢治の法華経のことについて触れたい。
戦前の日本のもっとも良質なものとして宮沢賢治の文学作品がある。
宮沢賢治は、その遺言で、法華経1000部を印刷して配布するように家族に頼んだ。
そして、彼は、その本に自分の営為はこの本をあなたに手渡すことにつきると印刷することを願った。
しかし、その1000部の法華経は、配布され終わる前に、空襲で焼けてしまった。
つまり、賢治の遺言は達成されなかったのである。
戦争の力で、何が破壊されたか。
およそ、戦前の良質なものは、ほとんど破壊されつくしたであろう。
そのことの意味をもっと我々は感じ取る必要がある。


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