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ソシュールのパラドックス 1

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ソシュールのパラドックス

相原奈津江

言語の夢を見ているのか、
言語が夢を見させているのか。

言語学が作り上げてきた数々の虚構を
ソシュールの視点で照射する。

「多くの言語学者が亡霊を創り上げ、執着しているため、ラングはまやかしの実在で満ち満ちているのです。しかし、亡霊はどこにいて、どこに実在があるのでしょうか」(リードランジェのノート)と第二回講義で述べているのは今日でも有効です。
 ソシュールの言語学での位置が、「哲学におけるあなたの目的は何か。――ハエにハエとり壷からの出口を示してやること」(『哲学求』・309節)と語ったウィトゲンシュタインと同じに思えてきます。(本文より)


 「日本語」教育の現場で起こる様々な問題点。言語単位とは何か。語は画定されているのか。なぜエクリチュールはラングを覆い隠すのか。ソシュールの第一回・第二回講義を参照しつつ、「一般言語学第三回講義」の訳者が、編集者との対話を通じて、その思想の今日的意義を明らかにする。西川長夫氏絶賛の「『日本語』を再審する」も併せて収録。

「日本語」の現場から
ソシュールの原点に鋭く切り込む!

目 次

1
ソシュールのパラドックス

  はじめに…………………………………………………………………9
  ラングの体系とエクリチュールの体系………………………………14
  ラングとランガージュ…………………………………………………25
  ラングの地理的相違と時間的相違……………………………………34
  体系としてのラング……………………………………………………46
  定義と使用………………………………………………………………53
  音の単位と言語単位……………………………………………………61
  口の出来事と耳の出来事………………………………………………69
  聴覚イメージと概念……………………………………………………78
  記号学の中心としてのラング…………………………………………89
  表意記号と表音記号……………………………………………………94
  正書法の崩壊……………………………………………………………105
  方言とエクリチュール…………………………………………………116
  音声学的エクリチュール………………………………………………132
  同一性、価値、実体……………………………………………………141
  抽象的実体と具体的実体………………………………………………150
  意味作用と価値…………………………………………………………162
   連辞的関係と連合的関係………………………………………………169  
  恣意性と記号の変化……………………………………………………175
  片割れとしての語と文…………………………………………………185
  共時性と通時性…………………………………………………………191
  差異のたわむれ…………………………………………………………202

2
「日本語」を再審する
   自明性への問い…………………………………………………………211 
  「日本語」は「国語」から生まれた…………………………………216
  言文一致は言文不一致…………………………………………………224
  共通語は標準語の新ラベル……………………………………………233
  いまだに話者のいない「正しい」発音………………………………237
  「文法」という名の架空の規範………………………………………244
  改めて「主語」を問う…………………………………………………252
  「文学作品」から「テクスト」へ……………………………………256
  おわりに…………………………………………………………………262
  参考文献…………………………………………………………………266
   あとがき…………………………………………………………………267 

※220頁で、保科孝一は東京大学文学部国語学講座四代目主任教授とありましたが、保科孝一は一度も主任教授になったことがありませんでした。お詫びして、訂正いたします。


■2012年7月1日・A.Y氏より

言葉を学ぶとき、外国語を学ぶときに、何が問題になるのか、頷けるところが沢山ありました。

■2010年12月24日・K.T氏より

講義を終えての編集者との対談の内容をきちんと理解するには、講義そのものを読むことが必要のようです。 もう少し時間をかけて勉強しなくてはと思っていますが、ソシュールの苦悩 の在りかだけは感じることができました。 後半の「日本語再審」は、情熱的 かつ視野の広い議論で、感服いたしました。

■2010年1月18日・X氏より

 ○日本語の「政治性」を分析する手法はあざやかである。

 ○(引用文ではあるが―p246)、「技術」のギリシア語原語は「ティケー」でなく「テクネー」。

 ○紀元前四世紀のギリシア人であるアリストテレスが論理学で使ったのはギリシア語 hypokeimenon で、それを紀元前一世紀頃から使われたラテン語で言えば、subjectum になるので、p252の「アリストテレス以来、論理学の用語として用いられていたラテン語 subjectum は」という記述は少し正確さを欠く。

 ○「文法という名の架空の規範」、「改めて「主語」を問う」の章は極めて啓発的。日本語は「主語ー述語という形式をもたない―p256」 のであれば、日本語の文章の何を基本的な形式として捉えればよいのか、を(機会があれば)相原氏に教えてもらいたい。

 ○どの民族にもある文学遺産=伝統を相原氏は日本語の場合、どのように捉えておられるのかを(機会があれば)聞きたい。


■2006年3月22日・H氏より

 日本手話研究所が発行する「手話コミュニケーション研究」に寄稿するための参考文献として『ソシュールのパラドックス』を購入しました。実は町田先生のソシュールに関する本を購入しようと本屋に寄ったのですが、『ソシュールのパラドックス』が隣に並べられていましたので、何気なく手にとって開いてみたところ心に響くものを感じました。結局、町田先生の本は買わないで「ソシュールのパラドックス」を買いました。それからは無我夢中で読みました。 手話についての考えがまとまらず寄稿を断念しようと思ったのですが、この本に触れてから一気に考えがまとまり寄稿することができました。私は耳が聞こえませんので、毎日が日本語との格闘です。この本から日本語の考察について学ぶことが多々ありました。心からお礼申しあげます。ありがとうございました。  


■10月14日・月刊言語2005年11号(大修館書店)言語圏119頁

 1996年の新資料発見以来、ソシュール学はようやく、未知の相貌を窺わせるに足る厖大な草稿群と全面的に取り組む新たな段階に入った。本書はソシュール晩年の第三回一般言語学講義の訳者による平易な解説であり、時宜を得た刊行と言えよう。

 対話方式をとりながら講義の流れを追っていくという構成は、従来の理論体系の紹介とは異なった趣きがある。諸言語の地理的な相違から始まる講義の流れは味わい深く、随所に著者の日本語教師としての視線が活かされて講義の復元に独特の陰影を与えている。ソシュールが自ら「講義の綻び」を告白している箇所を掘り下げたならば、パラドックスはより鮮明に姿を顕してくるだろう。

 こうした点をも含めて、本書の一読をお薦めする。ソシュールの講義録は21世紀の読者をも挑発してやまない思考の現場なのである。(松澤和宏)


■9月21日・出版ニュース9月・下旬号(出版ニュース社)36頁

 ソシュールの言語学は難しいとされる。それは「ラング」や「エクリチュール」、あるいは「ラング」と「ランガージュ」、「聴覚印象」といったソシュール独特の概念が十分に理解されていないことによる場合が多い。そこでそれらの概念を整理し、正しい理解に導くために書かれたのが本書で、著者はソシュールがジュネーブ大学で行った講義を記した『一般言語学第三回講義』の翻訳者でもある。内容はこの第3講義を軸に、問いに対して著者がそれに答えていくというスタイルをとっている。例えば、別々の体系であるにもかかわらずなぜか同じものとして扱われることが多いラングとエクリチュールでは、第3講義からの引用や、発せられる言葉が別でも、漢字で書かれたテクストがあればコミュニケーションが成立する中国語圏を例にしながら丁寧な解説を行っており、これまでになくソシュールの思想に近づけるであろう。


■9月10日・S氏より

『「日本語」を再審する』では、1910年の日韓併合、創氏改名等については知っていましたが、強固なる「大日本帝国」形成の為に「精神的血液」たる「国語」の理念が上田万年により成立された当時の日本人がどんな言葉で話をしていたのか、想像したこともありませんでした(中略)「国語の時間」、「国語の先生」という音に慣れ、何の疑問も感じませんでした(中略)拝読した時は、本当に目からウロコの感じでした。大学の「国文科」が何やら古くさく「日本語学科」とする方が今の流行だと思っていましたが、看板をつけかえた学校は、「日本語」の背負う歴史的背景を知った上で、意識しているのでしょうか。少子化対策として留学生をどんどん受け入れられるように先見の明を持って科名をきめられたのでしょうか。知りたいところです(中略)ある中国語の勉強の場に出席の機会を得た時のことです。テキストを読んでいる時に、(中国人の)先生の発音が違っていると生徒が指摘しました。同じ声調の語が三つ重なったらどう発音するか、文法書に書いてあるのに、先生は「守っていない」という指摘です。中国人の先生は「別にィー」という対応だったので、生徒は更に規則じゃないのかと突っ込みましたが、先生は、そんなこと「意識して話をしていない」と言われたものですから、そこから延々水掛け論が始まりました。先生は理論的に反論できません。生徒は納得しません(中略)「そう使うからそう使うとしか言えない」「文法が先にあるのではない、話される語が先にある」「不滅の文法、規範、ラングが出来上がっていると考える人がある」「文法的理屈を言わない先生はバカにされる」……等々の文を論文の中で見つけては、あの場面を思い出しています。            


■5月14日・E氏より

 ソシュールの(あるいはその読みの)細心を極めた言葉の探究について、今はただただ驚くばかりです。「日本語を再審する」にあった問題意識、すなわち、日本語(言葉)を教えるとはどういうことなのか、という問いが、ソシュールを介してより原理的に緻密に深められているということがわかりました。 

 このことは、私たちがどのようにして外国語を習得するのかという問題にも当然つながります。それで思い出したのですが、私が初めて英語に接したのは、小学生のときでした。近所のおじさんがクリスマスに子供達を集めてパーティーらしきものを催し、そのときに「諸人こぞりて」という賛美歌を英語で教えてくれたのです。私たちは即座に曲も歌詞も覚えました。(今でも憶えています)辞書的な媒介も文法的な媒介もなしに、です。もちろん歌詞の説明を聞いたうえでのことですが、オウムの口まねに限りなく近いけれど紙一重違うのは、言葉は心の中でやがて息づきはじめるということです。そうでなければ、とっくに忘れているはずです。

 もう一つ思い出したのは、これは中学生になって、初めて授業に英語が加わった頃のことです。何かの文章の中で、icebox とあり、私はこれが何であるのか皆目見当がつかず、困っておりました(中略)。そのとき教師は、icebox は、「氷箱」である、と教えてくれました。「コオリバコ」? 聴覚的イメージも視覚的イメージも何もなく、途方にくれたのが忘れられません。icebox をどう訳せばよかったのかという問題ではなく、英語を学ぶことのつまらなさの方が先に与えられた事が問題でした。しかし考えてみると、icebox =氷箱的な学習を、その後延々とやってきたのではないでしょうか。それ以来、小学生が一晩で覚え、口をついて出た英語の一節ほどに、英語が話されたことはついになかったわけです。

「ソシュールのパラドックス」が根底的に転倒してくれたのは、言葉の手触りや匂いといったものを、ネイティヴは「正しく」把握しているという信仰、あるいはそれらを大変「高度」な「文学的」なもので、外国語の初心者は「正しい」意味と文法をまず憶えなければならないといった根拠のない信仰です。言葉は場面場面で多様に使用されることにおいてあり、差異として、また関係としてあるのであって、それ以外のところに、「正しい」意味や用法があるわけでもなく、伺いしれない手触りや匂いがあるわけでもない、というように。        

 ここにおいて、「国語」が真に開かれたものとなると、本当にそう思います。短歌や俳句などの短詩型の文芸に親しむと、無意識に信仰に陥ることが多い。丸谷才一などはその狂信者でしょう。母国語は話すものにとっては慣れ親しんだもので、その優位性はあっても、絶対性はない。まして古典ともなれば、優位性すらおぼつかない。「エクリチュール」なのですから。しかし、わかったつもりにでもならなければとてもやっていけないでしょう、特に「国文学者」などは。

 昨今の日本語ブーム、よく知りませんが、多くは信仰告白なのではないでしょうか。「標準語」が「共通語」に改められたとありましたが、思うにテレビでは、どこにも、誰も話していないような「標準語」と、同じくどこにも、誰も話していないような「方言」に取り囲まれているような気がします。NHKのドラマなどその最たるものです。時には身の毛もよだつ思いをしますが、結局はそれらも徐々に受け入れられていき、気がつけば自分もそんな物言いをしていたりすることがあるのかもしれないと思ったりしています。「じゃないですか」


■西川長夫著『戦争の世紀を越えて』256頁より

後記  本稿は、2001年4月21日に名古屋YWCAで行われた日本語教育セミナー(現職者コース)における2時間の講義のテープを起こした原稿に大幅な手を加えたものである。講義のあとの受講者の方々とのディスカッションは、現場をよく知らない私にとってたいへん有益であった。なお当日出席されていた相原奈津江さんからは『「日本語」を再審する』(京都日本語教育センター、2000年[註:当年9月末退職])と題された見事な論考をいただいた。日本語教育について私が最も大きな示唆を受けた文章なのでここに感謝の意をこめて記させていただきたい。 


■『一般言語学第三回講義』 解題にかえて「甦るソシュール」西川長夫 293頁より

 その時、相原さんから何気なく渡された『「日本語」を再審する』と題された小冊子を京都に帰る電車の中で読み始めて、私は頭にガンと一撃を受けたのである。私がセミナーで話そうとしたことが、この40頁を越える論考の中で、はるかに的確に見事な言葉で記されていたからである。何と恐ろしい人たちの前で私は自分の無知をさらしていたことか。

その2

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