さちあ
sachia hase

関西の人・まち(3)

 今回の取材は京都の安井金毘羅宮という縁切り・縁結びの神社です。鳥居宮司さんという方に話を聞きました。


縁と縁切り

 雑然と車の並ぶ駐車場。しんと静まりかえった路地に木がただぼうぼうと茂っている。八坂神社のある京都・東大路を南へ、警察署のあるところを西へ入るとそこは安井金毘羅宮の境内。祇園の南外れに位置する。木々の間際にまでラブホテルの看板がせり出し、境内の燈籠には「ホテルラブイン」「アオイホテル」の文字が見える。縁切りと縁結びで知られるこの神社は、まもなく生誕900年を迎えるという古い名刹である。
 つきあたりになる水場で手水し、右へ折れると絵馬がぎっしりと並べられた本殿が見える。絵馬を手にとってみると、「悪縁を断ち切り良縁に恵まれますよう に」といったものから、「○○(男性の名)と付き合っている、私以外のすべての女との縁を切ってください」というものや「○○(女性の名)にはもううんざ りです。6:00から8:00の間に、鍵を置いて出ていってくれますように。おねがいします。だまって出て行ってください」という切迫したもの、また 「○○の金銭感覚のなさにはもう耐えられません。早く別れられますように」といったものもある。個人の意志や、願いを超えて働く因縁というものに対する働 きかけが祈願となって現れている。
 この神社は、天智天皇の御世に創建され、藤の名所でもあった。のちに主祭神となる崇徳天皇(1123〜41)が藤を好んで堂を造り、寵妃烏丸殿を住まわせたといわれる場所である。
 崇徳天皇は、死後、京の人々から怨霊として恐れられたことで有名であるが、父鳥羽天皇から疎まれた悲運の生涯をもつ。鳥羽天皇の妻となった崇徳天皇の母 待賢門院は、嫁ぐ前に鳥羽天皇の祖父白河上皇と関係があったという。崇徳誕生について疑念を抱く鳥羽天皇は、白河上皇の圧力で崇徳に皇位を譲ったが、後に 彼を退位させ、自分の三男である後白河天皇に心を注ぐ。崇徳天皇は鳥羽上皇の死後、保元の乱によって異母帝後白河天皇に敗れ、讃岐へ流された。
 流された讃岐で、上皇は大乗経を書写し、都に納めてほしいと送ったが、信西入道(1106〜59)が呪詛のためではないかと疑い、経を送り返した。この ことに憤った崇徳上皇は、「大魔王となって天下を朕がはからひになさん」と言って指の血で願文を書き、経の箱に「奉納竜宮城」と記して海底に沈めた。する と海上に火が燃え、童が出てきて舞踏し、これを見た上皇は「所願成就す」といい、それより爪髪を切らずに六年の後崩御した。それ以後、都には火災や疫病が おこり、崇徳帝の呪いだとささやかれ始める。そんな中で彼の霊がこの神社に降り、夜な夜な光を放つようになる。大円法師という真言の名僧が参籠し、崇徳帝 の御霊を見る。大円法師は後白河天皇にこのことを奉じ、詔がでて堂塔が建立され、御霊を鎮めたと伝えられる。 
 安井金毘羅宮は、讃岐の崇徳帝が金刀比羅宮で一切の欲を断ち切って参籠したことから、何かを「断つ」ことの祈願所として信仰されてきた。後に金刀比羅宮 の大物主神を勧請し、今に至る。崇徳帝が断とうとしたものは、一体何だったのだろうか。戦によって心ならずも別れなければならなかった寵妃烏丸殿との悲恋 による悲しみが、また、幸せな男女のえにしを妨げるすべての悪縁を断ち切るともいわれている。
 現在縁切りのみならず縁結びの神社としても親しまれ、中が空洞になってくぐることが出来る碑は、「縁切り縁結び碑(いし)」として良縁をもたらすと言われ、石の表面が見えないほどたくさんの形代(願いを記したお札)が張られている。

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