xx Hold me in your arms xx

 ニューイヤー間近のニューヨークの夜。

 人々の喧騒の間をぬって目的の曲がり角まで進み、裏道に足を踏み入れた。

 一歩、表通りから踏み出せば、そこは別世界。華やいだ雰囲気から一変した薄暗い世界へと引き込まれる。

 いくら安いからって、こんな所に部屋を借りるもんじゃねぇな……。

 思いながら、慣れた隙のない身のこなしで自分のアパートへ向かう。いつになく湿った空気に、優人は眉根を寄せた。

 なーんか、イヤな予感がするんだよなぁ。

 ありがたくないことに自分のこの手の予感が当たることを優人は知っていた。

 闇をすり抜けアパートにたどり着いた優人はコートのポケットを探り、鍵を取り出す。それを鍵穴に突っ込もうとした時だ。階下の部屋のドアがバタンと大きな音をたてて開けられ、階段を上ってくる足音。

 優人がそちらへ目をやると、隣の部屋の住人、ゴッドマムが、階段口から飛び出してきた。

「ヘイ、ユート!」

 手首を捕まれ、体格のいいゴッドマムに引きずるようにして歩かされながら、優人は目を白黒させた。

「お……おい、ちょっ……と」

「あんた、医学部生だったね?」

 足を止めずに、ゴッドマムが言う。

「はぁ」

「下の坊やが大変なんだよ」

『ちょっと待て。俺はまだ大学一年で……』

 と言う隙も与えず、ゴッドマムは優人を階下の部屋に押し込んだ。

 さっきの悪い予感はコレか……。

 仕方なく優人は真っ暗な部屋の入り口で、手探りで電気のスイッチを探す。それらしきものを見つけ、押すが、まわりは明るくならなかった。優人は首をかしげ、カチャカチャと何度か押してみるが無駄のようである。

「ああ、ダメダメ。電気代払ってないからストップされてるらしくて、つかないのさ」

 横からゴッドマムが懐中電灯を差し出す。一度、自分の部屋に戻って取ってきたらしい。

 驚きながらも優人はそれを受け取り、部屋の奥へ進んだ。耳に微かにゼイゼイという呼吸の音が聞こえ、そちらを明かりで照らす。

 汚くよごれたベッドの上に、まだ5、6歳ぐらいに見える小さな少年が横たわっていた。顔を赤くし、肩を大きく揺らして苦しそうに息をしている。

 驚いたことに暖房もかかっていない部屋の中で少年の上に掛けられているのは薄い毛布一枚きりだった。

「……タ…」

「ん?」

 少年が何か言おうとしているのを察して優人はその口元に耳を寄せる。

 少年は熱い息の間から懸命に言葉を吐き出す。

「ウォ…ター……」

「ああ、水だな。ちょっと待て」

 言って、優人は持っていた明かりでまわりを照らす。部屋の隅に食器棚らしきものがあるのが見えて駆け寄った。

 コップ、コップ、と呟き、開きをあけて中を見る。

「……?」

 ない。食器が一つも。

 冷蔵庫の中は空で、水道の水はひねってもひねっても出て来はしなかった。

「なんなんだ、ここは!」

 思わず叫んだ優人に後ろから声がかかる。

「ユート。さがしたんだけれど、ここには毛布の余分1枚さえないよ」

 その言葉に、優人は低くシット!と呟き、ゴッドマムに懐中電灯を手渡す。

「それで俺の手元を照らしてくれ。とりあえず、このガキ、俺の部屋に連れてくよ」

 ゴッドマムがうなずくのを確認して優人はベッドから少年を抱き上げる。

「軽すぎるぞ……オイ」

 一人ごちながら、大股で優人は歩きだした。明かりを持ったゴッドマムがそれに続く。

 部屋を出た途端、大きな赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。

「おや、ウチの子だ!今娘の子供をあずかってるんだよ」

 どうしたものか……と、ゴッドマムが自分の腕の中にいる少年に視線を走らせるのを見て優人は言った。「こいつの面倒はみるよ。また何かあったら声かけるから、あんたはあっちをどうかしてくれ」

 ゴッドマムの決断は早かった。

  「そうだね。手がいるようなら、すぐにあたしを呼ぶんだよ」

  二人はドアの前で別れた。優人が左手と右足で少年を支えて部屋の鍵を開けている間に隣のうるさい赤ん坊の声がやんだ。ゴッドマムが抱き上げでもしたのだろう。

  床に散った参考書を足で脇へよけながら、奥の部屋に向かい、昨晩使ったままの少々乱れたベッドに少年を横たえる。

  暖房のスイッチを押して、コートを横にある椅子に向かって投げた。

  「水…だったよな」

  コップに入れてきたミネラルウォーターを右手で持ち、左手で少年の体を少し起こしてやりながら、声をかける。

  「おい、水だ。飲めるか?」

  涙を溜め、ぼうっとした少年の瞳が優人を見返してくる。熱のせいで頭が働かないらしい。

  優人はコップの縁を少年の口に押しつけた。そのまま少し傾けると、水が少年の唇から顎に伝う。

  「このヤロー。水が欲しいんだろーが。ちゃんと飲めって 」

  少年の服の端で口元を拭ってやる。優人はしばしの間思案し、熱冷ましの薬とタオルを取りに走った。

  どうせなら、薬も一緒に飲ませちまおう。……これやるのって、夢だったが、それは女相手に限るよな……。

  苦笑して、優人は自分の口に水を含み、薬も一緒に押し込む。

  そして、おもむろに少年に口づけた。少年の口内に水と薬を移し、それを飲んだのを確認すると、彼のその渇いた上唇を舌でちょっとなめ、湿らせてから口を離した。

  「……なんか俺ってアヤシイおじさん 」

  一人笑いながら、少年の汗で濡れた服を全部脱がせてタオルで体をふいてやる。その作業を終えると優人は自分の大きなシャツを着せ、上から羽毛布団をかぶせてやった。

  「ちょっと待ってろよ。隣のおばさんの所、行ってくるからな」

  言い残し、優人は部屋を飛び出す。そして隣のドアをドンドンと叩いた。

  「ゴッドマム!氷枕、ねぇ?それから、あいつに合う服」

  「ちょっと待っとくれ」

  中から声が返って来、優人はホッと息をつく。

  しばらくしてドアが開いた。

  「とりあえず氷枕を。服はウチの息子のお古を探してみるから、後で持って行くよ」

  「サンクス」

  ゴッドマムに軽く手をあげて、部屋へ戻る。タオルを巻いた氷枕をそっと少年の頬にあててやる。

  「ん……」

  小さく声をもらした後、気持ちいいのか少年はふっと微笑んだ。薬が効いてきたのだろう。先程の苦しそうな息がだいぶん収まってきていた。

   頭の下に枕を置き、汗で額に張り付いた前髪をかき揚げてやっていると、外からゴッドマムの声がした。

  「ユート、入るよ」

  「ああ、どうぞ。開いてる」

  散らかった部屋の中にゴッドマムを迎え入れ、優人は苦笑する。それに気付いたゴッドマムは豪快に笑った。

  「気にするんじゃないよ。ウチも似たようなもんさ」

ニッとゴッドマムに笑い返して奥の寝室に続くドアをしめる。

  「寝させてやろう。熱がかなりあったけど薬でだいぶ引いてきたみたいだし、もう大丈夫だと思う。ちょっと体力なさそうなのが心配だがな。目を覚ましたら何かやわらかい物でも食わせてみるよ」

  「あんた……」

  ゴッドマムが大きな手を優人に向かって伸ばす。

  「な…なんだよ」

  優人はちょっと体を退いた、がその手は彼の頭を捕らえ、ぐりぐり力強くなでまわした。

  「イイ子だねぇ」

  「オイ、こら。やめろ」

  優人は顔を赤くしてその手をどけさせる。

  自分に背を向け、コーヒーを用意し出した優人に、ゴッドマムは眩しそうに目を細め、微笑んだ。

  「服、少ししか見つからなかったが、ここ置いとくよ」

  「ああ、サンキュー」

  言って、優人はコーヒーをゴッドマムに差し出す。受け取って、ゴッドマムは寝室の方へちらっと目をやった。

  「あの子ねぇ、一ヶ月前くらいからウチのパン屋に毎日のように顔を見せてたんだよね。それが、ここ三日くらい来なかったから気になって部屋を覗いてみるとあのザマだよ。心細かったろうねぇ。真っ暗な中で一人」

  ゴッドマムはこのアパートの一階でパン屋を経営していた。

  「親は?」

  優人の問いに、分からないという風にゴッドマムは手を広げ、首を傾げてみせる。

  「悪いねぇ。ウチ、今小さい子がいるからあの子のこと、あんたにまかせちまって」

  「気にするなって。それより、またあんたがいなかったら赤ん坊が泣くんじゃねぇ?」

  優人はゴッドマムが、帰りやすいように言ってやった。

  「ああ、そうなんだよ。ごちそうさま。おいしかったよ」

  ゴッドマムは空になったカップを机に置き、立ち上がる。

  優人は玄関のドアを開けて、ささえてやりながら言った。

  「悪いがまた何か世話になるかもしんねぇ」

  「いつでも来な」

  ゴッドマムは温かく言い残して自分の部屋に戻って行った。

  さて、と優人は自分の部屋を見回す。そして手あたり次第、本や雑誌を本棚に突っ込み出す。

  ここにはソファーなどという気のきいたものがなかったので寝る場所を作らなければならないのだ。

  優人は床に、ザコ寝を覚悟し、忙しく動きまわった。

 

 

  翌日の朝、寝室に足を踏み入れた優人は呆然としている少年の瞳とぶつかった。

  「よう、気分はどうだ?」

  少年に向かって歩み寄る。優人は少年の前髪をかきあげ、自分の額を彼の額に押しつけた。

  「ん、熱は下がったようだな」

  「……ここは?」

  「俺の部屋。おまえの部屋の真上だ」

  「え…あ…えっ?」

  あせってベッドから跳ね起きて、自分の着ている服を見て二度驚く。少年は優人の大きなシャツを着せられたままだったのだ。

  「落ち着けって」

  優人は苦笑して少年の肩に手を乗せ、怖がらせないようしゃがんで目の位置を下げた。

  「俺は優人。日本人だ。おまえの名前は?」

  「……キット」

  思わず少年は愛称の方を答えてしまった。

  「キット……クリストファーか?」

  ハッとしたようにキットはうなずく。今まで母親にしか呼ばせたことのない愛称を目の前の初めて会った男に教えてしまうとは……。自分がそっと唇を噛んだのに男は気付いたらしい。わざわざ気を使って聞いてくる。

  「キット……と呼んでいいのか?」

  男の声が自分の名を呼ぶやさしい響きにちょっと迷った末、キットはうなずいた。

  「じゃあキット。おまえは下の部屋で熱を出して寝込んでたんだ。そしておまえがしばらく店に来ないんで心配したゴッドマム……パン屋のおばさんが様子を見に行っておまえが熱を出しているのを見つけた。で、俺の部屋で手当したんだが……分かったか?自分の状況が」

  優人は五歳くらいの少年に説明しても無駄か、とも思ったが幸い少年はしっかり理解しているようである。 うなずいてキットは口を開いた。

  「あの…迷惑かけてごめんなさい。ありがとう」

  しっかりお礼を言ったキットに優人は一瞬驚いた顔を見せたがすぐに笑って小さな頭をポンポンと叩いた。

  「気にするな。あ、ちょっと待ってろよ。服、取ってきてやる」

  隣の部屋でゴッドマムの持ってきた袋から服を取り出そうとした優人の横を大きなシャツを着た少年が走って通り抜ける。

  「おい、おまえ!」

  そのままドアの外へ飛び出そうとしたキットを、袋を放り出して駆け寄った優人がその腕の中へ抱き込んだ。

  「こーらこら。どこへ行く気だ。ん?」

  優人は後ろからキットの後ろからその小さな耳にむかってささやく。もちろん力強い腕はキットを抑えたままだ。

  「あの部屋に戻るつもりだったのか?」

  うなずくキットの体をまわして自分の方へ向かせる。自分はしゃがんで目の高さを合わせた。

  「どうして。急がなきゃならないのか?」

  キットは視線をそっと落とした。

  「お金、払えないから。こんなによくしてもらっても、ボク、少ししか持ってなくて……」

  このガキは本気で言っているのか?と優人はまじまじと少年の顔を見つめる。少年のおびえた瞳に涙が浮かぶ。次の瞬間、優人はバカヤロ、と呟いてその小さな体をぎゅっと抱きしめた。

  「そんなの、いるわけねーだろ」

  やさしい、やさしい声が頭のすぐ上から降ってくる。 キットの瞳から涙が流れだした。

  どうしてこんなにやさしくしてくれるのだろう……。 優人の甘いコロンの香りがキットの鼻をくすぐる。涙が止まらなくなる。肩を震わせ、泣きだしたキットに気付き、優人は少しだけ腕の力を抜いた。

  「よーし、よし。好きなだけ泣けよ」

  キットはその言葉に応えるように力を抜いて体を優人の腕にあずけ、彼の胸に顔を埋めた。


 

 しばらくして優人は静かになった腕の中のキットをそっと自分の体から離し、その顔をのぞき込む。窓から差し込んだ朝日が折りよくキットの顔を優しく照らす。昨晩のものとは比べものにならないくらい安らかな寝顔……。

  「寝てる……か」

  安心して気持ちよくなっちまったんだな。病み上がりだし、と苦笑しながら昨晩のようにキットの体を横抱きにして立った……途端、足にジーンときた。ずっと同じ格好でしゃがんでいた為しびれてしまったらしい。

  「ってぇ」

  思わず声を上げてしまって、ハッとする。腕の中の子に目をやると案の定、彼はパッチリ目を開けてしまっていた。抱き上げられている自分の状況に気付いてジタバタしようとしたキットを床に下ろして立たせ、自分は座り込む。

  「起こしちまってごめんなー。てっ、てっ」

  ジンジンする足を掴むが、そんなことをしても止むわけがない。

  呆然と優人の様子を見ていたキットだが、彼の足がそうなってしまった原因が自分にあることに気付いて申し訳なさそうな顔になった。

  「あの……ボクのせいですよね……すいません」

  年齢にふさわしくない、大人びた口調に優人は眉をしかめる。

  どこで、このような言葉遣いを身につけたのだろう。普通の5、6歳の子が使えるような口調ではなかった。

「バーカ。子供は素直に甘えてりゃいいの。あやまるなよ」

  心配そうに近寄ってきたキットの頭を優人は軽く押した。口調は大人びていてもやはり子供だ。キットは、はにかんだ顔を見せた。

  こんな顔も出来るんだな、と優人は少しホッとした。

  「服着替え……る前にシャワー浴びたほうがいいな。一人で入れるか?」

  キットがうなずき、優人は痺れのひいてきた足を床に付けて立ち上がる。ゴッドマムが置いていった袋をのぞくと下着もちゃんと入れられている。袋ごとキットに手渡すと、その背を押しながら浴室に連れていった。

  「タオルはこっち。好きなヤツ、使っていいぞ」

  後ろ手にドアを閉め、しばしの間思案する。

   食事は何にしようか……と。バスルームから水音がしだすのを聞きながらその場を離れ、キッチンに立った優人は病み上がり人用の食事の用意を始めた。

  ドアが開く音がして、そちらを向くと、おそろしくキレイになったガキが立っていた。汚れが落ち、透き通るような白い肌をした細い腕が少しまくった袖口から伸びている。

  優人は目を細めて思わず呟いた。

  「末恐ろしいガキ……」

  「え?」

  聞こえない、と聞き返してきたキットに何でもない、と優人はあわてて首を振った。まさか、面と向かって言う訳にもいかない。

  「こっち来いよ。髪をふいてやる」

  胡座をかいた上にキットを座らせ、首にかかっていたタオルを持ち上げた。

  「服、ちょうどだな。それ、ゴッドマムがくれたんだ。後で一緒にお礼、言いに行こうな」

  髪をかきまわされながらキットはうなずく。

  優人は仕上げに手ぐしで髪をそろえてやった。

  細い金色の毛が、優人の指の間をすべる。

  「キレイな髪だな。大事にしろよ」

  キットは首を縦に振る。

  「オッケ。後は自然乾燥だ。食事にしよう。ライスは柔らかめに炊いてある。その隣にあるのはミソ・スープと言って、日本の料理なんだが、口にあわなかったら置いておいていいぞ。サラダは、食べれるな」

  また無言でこっくりやったキットに優人は苦笑した。

  「おまえ……ほんっと、口数少ないな。慣れないから、か?」

  優人の何気ない問いかけに、キットがビクッと肩を震わせる。それには、優人の方があわてた。

  「いや、別におまえのこと話せって言ってるワケじゃないぜ?そりゃ、おいおい話したくなった時に話してくれりゃいいさ。ずっと嫌だったら、言わなくてもいい」

  あたふたと、言葉をつむぐ優人にキットは困ったような顔で、それでも笑ってみせた。

  目の前にいる男に自分の話をするのがイヤなわけではない。ただキットは記憶をさかのぼるのが怖かった。母親に一人あの暗い部屋に置いて行かれた苦い、思い出したくない記憶。まだそんなに古いものではない。しかし勇気を出して、今話してしまった方がいいかもしれない、と思う。この何でも受けとめてくれそうな男の前ですべてを吐き出して、少しでも楽になれたら……。

  「食事の後で……お話します」

  いいのか?と目で聞いてくる優人にキットは微笑みを返す。

  二人は静かに食事をすませた。

   キットは味噌汁まできれいにお腹に片付けていた。 優人が食器の片付けはどうしようか、とキットの方をうかがい見ると彼はすでに話す決心がついた様子である。後にすることにした。

  とりあえず食器類は流しに突っ込んでおいて、再びキットの前に腰掛ける。

  「あ……あの」

  口ごもるキットに、ん?と声をかえす。優人はくつろいだ態度をとって、いつでもいいぞ。ゆっくり準備しと、というポーズを示してやった。

  キットが突然立ち上がり、優人の隣に移動する。

  「……?」

  座ったまま体をそちらへ向けた優人の方にキットは腕を伸ばした。その腕をそのまま優人の首にまわし、抱きつく。

  ずっとキットはどう言えばいいのか考えていた。話をする間、先程のように抱きしめていて欲しくて……しかし恥ずかしくて口に出して言えなかったのだ。それをキットは行動に移した。優人が正しく自分の思いを理解してくれるのを願いながら……。

  そして、優人はキットの思いを正確に読みとった。一瞬目を見開いた優人だったが、すぐにキットの小さな体に腕をまわし、立ち上がる。

   甘えん坊だな、と軽口をたたきながら。

  言われたキットは恥ずかしさに耐えられず、せっかく手にいれた優人の腕の中というポジションから反射的に抜け出そうとしたが、察した優人が腕に力を込め、それを止めた。

  「バカ。甘えればいいんだよ」

  一度、キットを床に立たせて抱きなおし、隣の部屋に移動する。

  「ここで話そう」

  言って、優人はベッドの上に腰をおろし、その足の間にキットを座らせた。そして小さな体を後ろから覆いかぶさるように包み込んだ。

  心の寂しさが必要以上のスキンシップを求めてしまうのだろう。

  優人は、怖がるな。おまえは一人じゃない、という思いを込めて抱きしめてやる。暖房の効きがそれほどよくないため、低めの室温の中でお互い相手の体温が心地よかった。 


 

 キットの話は優人が自分の子供時代からは考えられないようなものだった。

  キットの母親マーサは一度に一人の人しか愛せない人間らしい。キットを産む前はキットの父親を愛していた。しかしキットが生まれてからはその愛は彼に移り、マーサと結婚もしていなかったキットの父親はマーサのつれなさに彼女から離れて行ってしまった。それでもキットとマーサは二人で幸せに暮らしていたのだ。マーサは自分の稼ぐ少ないお金で愛する子供と共に懸命に生きていた。だがキットの幸せは一ヶ月前、突然くずれ去った。マーサは勤め先で知り合った金持ちの男と恋に落ちた。他の人を愛し始めたマーサの目には次第にキットの影が映らなくなっていった。

  「その日母さんは、少し出張をしてくるから、と大きな鞄を持って出て行きました。それまでに、そういうことは何回かあったし、別におかしいとは思わなかった。変だと思い始めたのは二週間程たってから。いつもは長くても一週間程で帰ってきてたから。……母さんのクローゼットを開けたら……いつも母さんの持ち物は全部そこにはいってたのに……あけたら…何もなかった」

  その時の感覚を思い出したようだ。キットは少し震えながら、しかし抑揚のない声でそう告げた。心なしかキットの体が冷たくなっているように感じる。

  しばらくの沈黙の後、再びキットは言葉を紡ぎだす。

  「それでもボクは思いましたよ。いつもより長い出張だから、服もいっぱいいるし全部持って行ってもおかしくないって。だけどそれから二日三日たって、時間があったからボクは考えてしまったんです。母さんが出張に出ていく前の態度を。ボクが何を言っても上の空で、ボクのいうことほとんど耳に入ってないようでした。最後のほうになったら、ボクの姿も目に入らないようで……。その時は、疲れているんだ、とあまり気にもしませんでした。母さん、疲れてると結構そういう傾向が前からあったし。でも母さんを待つ間ボクには嫌になるほど時間があったから……ボクはバカだから、母さんが出て行ってすぐに気付かなかったボクは本当にバカで……でも気付いてしまったんです」

  いいかげん聞き慣れたキットの大人びた口調が妙に冷たく優人の耳に響く。

  「もういい。キット」

  この先を言わせてはならない、と直感した優人はキットを遮るが、彼は自分を止める声に構わず言いきってしまった。

  「ボクが母さんに捨てられたってこと…に」

  変な風に語尾が揺れる。

  「キット!」

  顔は見えないが肩が震えているのでキットが泣いているのがわかる。

  優人はキットを抱く腕に思わず力を加えていた。

  「…キット……」

  「ごめ……なさい。泣かれたら困ります……よね。もう泣きすぎて涙は渇れたはずなのに」

  何も言えずに優人は手にかかるキットの髪を梳いた。

  「ねぇ、聞いて下さい」

  キットは涙に濡れた頬をそのままに、自分の頭の上にあった優人の顔を見上げる。もう新しく溢れる涙はない。ホッとして大きな手で涙の跡を拭ってやりながら優人は、ああ、と応える。

  「下睫のあたりに、涙腺がありますよね」

  「ああ」

  何を言い出すのかと、訝しげな顔をする優人にキットは少し笑って続けた。

  「あまりにも泣き続ける自分に腹が立って、えぐり取ろうとしたんです」

  「なっ、バ…バカ!」

  「そうですね。自分もそう思ったんで、やめました。ちょうどその頃、涙も止まったし」

  優人は絶句する。

  その間にキットは膝立ちになって、体の向きを変えた。ちょうどお互い向かい合う格好となって、二人は見つめあう。そして同時にふきだした。

  「ハッ、ったくおまえって、天才なんだかバカなんだか……」

  キットも笑いながら、きっとバカなんでしょう、と言って、優人に飛びつく。勢いづいたキットの体を支えきれず、優人はキットを受けとめた姿勢のままベッドに倒れ込んだ。

  「もう母の事はあきらめたし、吹っ切れたと思ってたんです……けど。吹っ切ったっていうか忘れてしまおうと思って」

  キットが少し真剣な顔に戻って、言う。

  「悪かったな。思いださせて。もういいぞ。二度と、思い出すな」

  うなずいたキットの髪を一度クシャクシャにかきまわして、優人はベッドから起き上がった。

  「ゴッドマムの所へ行っておこう。心配してるだろうし」

  言いながら、また優人はキットの体を抱き上げる。キットは、え?と思っている間に肩の上の高さまで持ち上げられた。

  「乗れ」

  言われて、キットはおそるおそる優人の首の横から足を垂らす。

  「ちゃんと、乗ったな。手ぇ離すぞ」

  いうなり体の支えを外されてキットの体がぐらつく。

  「おーい、おい。なにグラグラしてんだよ。俺の頭しっかり持って、体重を前にかけぎみにするんだ」

  やっと体を落ちつかせ、まわりを見回すと、今までと周りの様子が全然違って見える。

  わぁ、とキットが声をもらすのを聞いて、優人は満足げな顔になった。

  「新鮮だろ。このまま隣まで行こうぜ」

  肩車した格好のまま訪れた二人をゴッドマムは快く部屋に迎え入れた。

  しかし部屋に入ってもそのままの二人に呆れたような声がかけられる。

  「おいおい、いつまでそのままでいる気だい?」

  笑いながら言われてキットは赤くなり、下ろして、と小さな声で優人の耳元にささやいた。

  床に足をつけたキットはゴッドマムの前まで歩いて行って頭を下げた。

  「あの、ありがとうございました。ボクを見つけてくれて……それから、この服も」

  「どういたしまして。よかった。ぴったりだね。まあ、あんたの容姿にはもっとおしゃれな服のほうが似合うだろうが」

  「いえ……そんな…」

  「そのうち、買いに行こうぜ」

  それまで黙っていた優人が横から口をはさむ。

  「いや、あの。別にいいです」

  うまく、遠慮の言葉が出なくてキットはあたふたする。そんなキットを横目で見て優人は少し恐い顔をした。

  「てめぇ、俺の買ってやる服を着れないってか?」

  「いや、そんなことないです。でも……」

  「バットもボールもねぇんだよ。おとなしく、くれるって言うもんはもらっとけ」

  おずおずとうなずいたキットを優人はガバッと衝動的に抱きしめる。

  「やっぱかわいーぜ。おまえ」

   言って、優人はハッしたように続ける。

  「やべ……俺ってマジ、ショタコンの気があるのかも……」

  そんな優人と、また抱きしめられて彼の腕の中でバタついているキットを見て、ゴッドマムは豪快に笑った。

  その途端隣の部屋から赤ん坊の泣き声が……。

  「おい、まだあずかってるのか?」

  「ああ、今週いっぱいね」

  「キット、おまえ何とかしてこいよ。泣き止ませてみろ」

  うなずいてキットが隣室へ消える。程なく泣き声がおさまってきた。

  「Wow!鮮やかだなあ」

  「何?あの子赤ん坊の扱いが得意なのかい?」

  「知らねぇ。けどあいつなら赤ん坊が何を求めてるのか、もし寂しがっているのだとしたら何をしてやればいいのか、分かるかと思ってな……そんなことより、あいつのことだけどさ」

  優人はキットの身の上についてざっとゴッドマムに話した。彼女には話しておいたほうがいいだろうし、彼女に言うくらいキットも許してくれるだろうと思ったのだ。

  聞き終えてゴッドマムは、ほうっと深く息をついた。

  「……それで、あのこのことはどうするつもりだい?」

  「とりあえず、家に一緒に住むよ。あいつの食費ぐらい大したことないしな。ベッドのことは考えなきゃならねぇが」

  赤ん坊が静かになった後、キットは息をつめて隣の部屋からもれてくる話し声を聞いていた。

  『for the time being(とりあえず)』という優人の言葉が耳に残った。

  しばらくは、優人と一緒にいられる。けれど、いつまで?

  今のキットにとって、優人を失うのは耐えられないことだった。それがいつか変わるのだろうか。彼が側にいてくれなくても自分は生きてゆける?

  そこまで考えて、キットは自分自身に驚いた。たった一日やそこらで、こんなに人を頼ってしまうようになるとは。

  「キット、そろそろ帰るか」

  優人の声がして、キットはハッと我に返った。

  今こんなことを考えても仕方がない。誰も将来に絶対の保証を持って生きているわけではない。それは優人でさえもそうだろう。明日の心配をするより今を、今日を精いっぱい楽しんで生きたい。

  キットはドアを開けその前で自分を待っていた優人の手をとった。両手でその力強い腕に抱きつきながら外へ出るドアへ向かう。

  見送りにきたゴッドマムにキットは思いだしたように言った。

  「すいません。ボク名前、言ってませんでしたよね。クリストファー・スタンドソンです。クリスと呼んで頂ければ」

  「クリスだね。私はメリンダ・パーカーって言うんだがゴッドマムでいい」

  「Nice to meet you, Godmam」

  言って、キットは変な顔をしている優人を引っ張って、彼の部屋へ向かった。

  部屋の中に優人を押し込んでキットはニッと笑う。

  「ゴッドマムにはお世話になったけど、今ボクの中で特別なのは優人なんだ。優人だけボクをキットって呼んで。だめ?」

  くすぐったいような気分になりながら優人は目の前の大人びた子供を見る。

  「Thanks. Lovin' you 」

  キットはちょっと照れた顔をした優人から頬に軽いキスを受け取った。

  二人の生活はまだ始まったばかりである。

xx END xx

1997前半 脱稿




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