xx The Precious xx
体の中から活力のかたまりを抜き取られたような……そんな気分だった……。 何をする気にもなれない。 悲しくて泣けるのならまだいい。悲しみさえわいてこない。感情が自分の中で形になる前に、四散してしまって……。 あいつのコトを考えるのを心が拒否しているからだろうか。考えがまとまらない。 食事…もう長くとっていない……食べなければ……死。 そこで思考が分散し意味のあることが考えられなくなる。 そして靄のかかった脳裏になにも映らない時間が過ぎる 明日は、学校……行く?…もう何日休んだっけ……。 しばらくして、ふと思うが、ベッドに横になった体は動こうとしない。 俺はただ白い天井を眺めていた。 「おっ優人。重役出勤か?」 やっとのことでだるい体を起こし、学校へ行くと、ちょうど三限が終わった所らしかった。 いち早く俺の姿に気付いた友人の一人が声をかけてくる。 「ばーか」 「よお、優人。久しぶりだな。旅行でもいってたのか……っと、顔色悪いな。大丈夫かよ」 友人達の言葉は頭の中を素通りし、ただ簡単な言葉を無意識に返す。 「まあね」 ポツンと開いた、自分の席。引き寄せられるように、そちらへ向かう。 級友達はそれぞれもとの話の輪の中へ戻っていく。 ざわめきで満たされる教室……。 そう、これが日常。でもここに自分の居場所は……ない。俺は今までどのようにしてこの世界の中に混ざっていたのだろう?友人達の顔はすぐ近くにあるのにまるでフィルターを通して見ているように現実感がない。 「おい、優人。大丈夫か?」 軽く頬をはたかれ、いつのまにか自分の前に立っていた男を見上げた。 「……英一」 そう、自分はこの男を知っていた。顔も名前も。しかし、自分にとってこいつはどんな存在なのか。……わからない、そして……どうでもいい。 英一は眉をひそめた。何か気に入らないのだろうか。自分には関係ない。それよりも……一人に…なりたい。……本当に?……知らない……。 「大丈夫…そうじゃないな。食事はちゃんとしているのか?」 ショクジ…ああ、食事。 「食事…食べてない……かな」 「しっかりしろよ……まだ、だめか?」 マダ……何が?…こいつは知っていたっけ…あいつ、のコトを……。あいつは……いない…。もう…いない。 チャイムが鳴る。 目の前の男は去った。 「おい、おまえ真っ青だ」 声と共に、右腕を力強く引っ張られ、椅子から立たされる。 先生?……いや、英一。さっきのチャイムは幻覚? 教室の前を向くと黒板の文字が目に入る。 数学……もう一時間がたったのか。 思っている間に英一の左手が俺の腰にまわされ、俺の右手は英一の右肩の方へと引っ張られた。 英一は俺に肩を貸したまま、歩き出す。俺も引きずられるようにして歩いた。 どこへ?……あいつのいる所へ行きたい……。できない……?なぜ……。 英一は保健室のドアを開けた。誰もいない。 ……あいつもいない。 俺は、英一に誘われるまま体を動かす。ベッドに横になった。 ……え?何故……だ。どうして俺はここへ? 「何……をする。俺は別にどこも悪くない」 英一は目を見開いた。 「バカ野郎。青い顔してどこが悪くないって?いいかげんにしろよ」 初めて聞いた英一の大声に、呆然とする。頭の中にかかっていた霧がすうっと晴れていくような感覚。 英一って……こんなヤツだっけ?こいつは俺が話しかけない限り、ほとんど自分から話してこないヤツで…でも、話し出すと意外に自分の考えをしっかり持っていて……そういえば、今日は珍しく自分から話しかけてきて……。 何が……。違う…この世界にはあいつがいない。脈絡の無いいろいろな言葉が頭に浮かんでは消える。 ふわっと、温かいものが俺の頬を包む。……英一の…手? 「優人…しっかりしろよ。お前はこんなことでダメになってしまうやつじゃないだろう?知ってるよ、お前がどんなにあいつを大切にしていたのか。あいつと会ってからのおまえの世界にはお前とあいつしかいない……みたいな感じだったよな。あいつがいない今、この世界はお前にとって意味のないものになってしまったか?そしてお前の世界にはお前以外に誰もいなくなってしまった。孤独…だろ?寂しくないか?現実からお前の中に他のヤツを引き入れろ。もともとのお前の世界にはたくさんの人がいたろ?お前の心にはたくさんのやつが入れるし、住めるスペースがあるんだよ。扉を閉じないでくれ。開けて……俺をお前の世界に入れてくれ。見ろよ、受け入れろ、まわりの人を」 入レテクレ?どこに……。俺の世界…心へ? ぼうっと英一の悲痛な顔が近くにあるのが見える。英一は俺の頭を抱きしめた。 俺は動かない。動けない? ……何かが俺の中で動き始めた。脳?…心? あいつのいない、これが現実。辛い……でも認めなければ?現実にいる俺はどこへいってしまうのだろう? ……俺の世界にもあいつはいない。それは、無意識にも俺があいつが死んだと認めている限り、変わりはなくて……。そうだ、俺は自分の世界にこもりつつもあいつがもういないことは認めていた。ただ救いのない世界で身を縮めていただけだ。 しかし現実の中で生きることにどんな意味が? 現実で俺は必要とされているか? 英一が小さく息を吐くのを肩に感じた。英一は俺を抱きしめ、俺の右肩に顔を伏せている。 彼は先程までの口調を改めて、今度は静かに話し始める。 「優人、俺はお前が大事だよ。あいつみたいに恋愛とか愛とか、そんな種類の感情じゃないけど、ただの友情って言葉では言えないくらいにはお前のこと想っている」 英一の声は、答の出かけた俺の心にすっと忍び込んだ。周りの物が、しっかりと目にうつり始める。英一の、色素の薄い髪。間から、白いうなじがのぞいている。新鮮な気分で、首を動かさず目だけで周りを見回す。 これが、現実。自分の世界と現実が重なるのを実感した。 俺の変化に、下を向いている英一は気付いていないようだった。 英一は言葉を続けた……さらに静かに、ささやくように……。 「そうだな……抱けって言われればお前のこと抱いてもいいと思えるくらいには大事……かな」 「なにぃ?」 思わず、大声をあげた。 抱きしめていた腕を解いた英一に、熱くなった……少し赤くなっているであろう顔を見られてしまう。 「抱かれてたまるかっ」 叫んでから、やっと落ち着いてきた俺は付け足しておく。 「……反対なら考えんこともないが……」 「却下」 英一は冷たく言っておいて、俺の目をじっと見つめる。正気に戻っていることを確信したのだろう彼は片眉を器用に上げて見せた。 二人、視線を合わせてニヤッと笑う。 「一種のショック療法とでも言うのかな。お前の大声と、とんでもねーセリフで霧がかかったようだった頭の中といい胸の中といい、なんかスッキリしちまったよ……ありがと…な。でも抱かせねーぜ」 英一の腰を抱き寄せ、最後の台詞だけを彼の耳に流し込む。 「バカ野郎」 英一は俺を自分から引きはがし俺の頭を枕におしつけた。 「寝てろ」 言い捨ててベッドからおり、部屋を出ていこうとした英一を呼び止める。 「背、俺の方が高いし、体格からいっても俺の方が攻だからな」 「まだ言うか?クソヤロー。一人の世界に戻りやがれ」 恩を仇で返すような真似しやがって、と毒づきながら英一はおもいっきりドアを閉めた。
ドアの閉まる大きな音を肩をすくめてやりすごすと、後には静寂が残った。 学校という場所にいながら静かだと妙な感じがする。 同じ一人でも、昨日までの一人とは随分違った。 穏やかな気持ちで天井を眺める。 それにしても……。 先程の英一とのやりとりを思い出して、一人ニヤケてしまう。 大声を出すほど、激しい感情表現ができるヤツとは思っていなかった。そして、まさか俺に向かって思っていることを吐露してくれるとは……。 こそばい気持ちになって、俺は毛布を頭からかぶった。「大事」…か。英一にとって、俺は大事。俺の存在理由はそれで十分ではないか。 俺はあいつを愛していたけど……。 望まれたら抱いてやってもいいくらい……英一が好きだし、大事だ……よ。 久々に、いい気分で眠れそうだった。
xx END xx 1997初旬 脱稿 |