このページの作成日:1998年 12月 6日 日曜日
このページの最終更新日:2001年 3月 9日 金曜日
1969 | 兵庫県姫路市に産まれる。ちなみに産まれた産院のお医者さんはアル中だったらしい。母親は、あとでそのことを知り、妹が産まれる際には別の病院にかかっている。 産まれてすぐに喘息の徴候があったらしい。姫路市の赤十字病院に通院。 | ||
1972 | 3歳頃、ひきつけを何度か起こしたらしい。脳波診断のため、やはり、赤十字病院に通院。 以後、喘息とこの脳波検査のため月に一度通院。半年に一度、睡眠中の脳波の計測を行う。脳波関係の粉薬一種、喘息関連の錠剤3種をこの頃から服用している。 | ||
1975 | 姫路市立城陽小学校に入学 | ||
1978 | 小学4年の5月に加古川市に引っ越し。加古川市立平岡東小学校に転校。この頃、脳波異常なしとの診断が下り、脳波の検査、投薬終了。飲む薬が一種類減った。 | ||
1979 | 小学5年のこの頃に親父の本棚から司馬遼太郎の「国盗り物語」をくすねて読む。けど、あまり面白いとは思わなかった。黒岩重吾の一連の社会派小説も読むが、パターンがどれも一緒で食傷した記憶あり。 望海塾とかいう西明石の進学塾に通う。23時くらいまで勉強していた記憶がある。 | ||
1980 | 小学5年の3月に父親が富山に転勤。それにつられて、小学6年4月より射水郡の小杉町立太閤山小学校に転校。喘息のため、富山県立医科薬科大学付属病院に通院することになる。また、この時期、富山と大阪のイントネーションの違いにはなはだ戸惑う。 転校早々の5月に校内で隠れんぼをしていたところ、卓球台の下敷きになり、左肩鎖骨骨折。 この冬、日本海側では18年ぶりに大雪。慣れない雪掻きをしたが、全然追い付かず、ある夜、上に積もった雪の重みで廂が崩壊する。 自分のお金で初めて漫画を買う。少年チャンピオン掲載で小山田いくさんの「すくらっぷぶっく」だった。 冬、ディケンズの「クリスマスキャロル」を読む。いわゆる世界文学全集に入るような本を初めて読んだことになる。 | ||
1981 | 太閤山小学校卒業。小杉町立小杉中学に入学。秋の運動会の練習中、ふざけて上手投げを食らった際、左肩から落下。再度左肩鎖骨骨折;_;。 この頃、百万人の英語を聞きはじめ、その影響でAir Supplyや、TOTOなどの洋楽にはまる。 親父の本棚にあった西村京太郎の「発信人は死者」を読む。ストーリーテリングの妙に感動し、秋の新刊「日本一周旅号殺人事件」を親に買わせたのを皮切りに、同氏の小説を入手できるだけ入手する。が高校時代には、トラヴェルミステリーがあまりに粗製濫造されているのに嫌気がさし、離れてしまった。一番のお気に入りは左文字進シリーズの「華麗なる誘拐」か十津川警部シリーズの「黙示録殺人事件」。 | ||
1982 | 妹が友人から「りぼん」、「なかよし」などの少女漫画雑誌を借りてきて、それを読むようになる。最初に気に入った少女漫画は曽根まさこさんの「不思議の国の千一夜」(現在、講談社漫画文庫刊)と池野恋さんの「ときめきトナイト」(現在、集英社漫画文庫刊)。 MBS毎日放送の夜間番組、「ヤングタウン」(通称やんたん)にはまり、特に月曜日、金曜日は毎回のように聞いていたように思う。しかし、クラスメートでこの番組を聞いている人間は誰もいないのであった。 | ||
1984 | 小杉中学卒業。富山県立富山中部高校に入学。進路指導の際、高岡高校を志望したが、担任から反対されたことが記憶に残っている。 高校の勉強についていけず、入学当初は泣きながら勉強していた。 初秋、妹が借りてきた少女漫画で柴田昌弘さんの「紅い牙/狼少女ラン」の続きが読みたくなり、集英社単行本、白泉社単行本と買い揃え、ついには連載雑誌の「花とゆめ」を購入しはじめる。これ以降、毎号欠かさず「花とゆめ」を買うようになる。 秋、体育祭の練習などで体に無理が生じたのか、喘息の発作か収まらず、10月より12月にかけての二月の間、入院。学校には病院から通った。 この頃から高校卒業まであんまり人間関係は上手くいっていなかった(と今では思う) 冬、たまたま行った富山市立図書館でブルーノ・ワルター/ウィーン・フィルのモーツアルトの交響曲第40番を試聴。これと前後して、FMでフルトヴェングラー/BPOの演奏する同曲を聴き、クラシック音楽の面白さに開眼する。 | ||
1985 | 購読していた「花とゆめ」の「LALA」の広告にひかわきょうこさんの「時間を止めて待っていて」の予告カットが掲載される。その予告カットに一目惚れし、「LALA」の購読を開始する。わかつきめぐみさんの「So What?」や清水玲子さんの「竜の眠る星」の連載開始直後だった。これ以降、LALAも今に至るまで定期購読。 秋、自分の人生観を変える本に出会う。井亀あおいさんの「アルゴ・ノオト」という、九州の一地方出版社の本。この本と亀井勝一郎さんの「愛の無常について」が今に至までもっとも影響を受けた本ということになる。 「アルゴノオト」読了後、自殺者の日記ということで「20歳の原点」を読むが、こっちは当たり前のことばかりで、今一つと思い、大学時代の友人にくれてやることになる。 秋、LiveAidが行われる。翌日が福武書店(現ベネッセ)の模試であるにも拘わらず、3時頃から起きてイギリスのフィナーレまでを見続ける。 | ||
1986 | 受験生と云うこともあり、夏休みには毎日学校で勉強。富山には当時まともな予備校がなかったため。大学の入試問題などを時、先生に添削していただく。その節は本当にお世話になりました。 秋に受けた駿台予備校の模試の成績が最悪。第一志望を東北大学法学部としていたが、結果は「合格可能性まで一層の努力を要する」であった。にもかかわらず、12月31日、志望校を京都大学法学部に変更。 | ||
1987 | 富山中部高校卒業。受験制度変更のドサクサにまぎれて、国立京都大学法学部に入学。京都市内で下宿生活を始める。それにしても共通一次の国語の点数が117点でよくもまぁ、入れたもんです。さらに受験のため、1週間程宝塚市の伯母の家に泊まっていたが、家を出ていた従兄弟がファミコンを置いていったので、滞在中はずっと、ドラクエで遊んでいたのもいい思い出。まったく、なんで大学に受かったのだろう? 家を出たため、妹の購読していた「りぼん」、正確には連載の柊あおいさんの「星の瞳のシルエット」(現在、集英社漫画文庫刊)が読めなくなる。それはマズイということで、自分で「りぼん」を買う。「耳をすませば」の連載が終了するまで購読し続ける。 この頃には、聴く音楽はほぼクラシック音楽のみとなる。 | ||
1989 | 大学3回のとき、何をトチ狂ったか司法試験の受験を決意。勉学に励むが……。 この年、教養単位でおっことしてた体育の授業中、左肩を脱臼。以後、クセになったらしく、現在にいたるまで、年に一回以上は脱臼している。 | ||
1991 | 一年間余分に大学に通ったが、試験には合格できず。実家からの援助も期待できなくなるので、司法試験は諦め、就職活動を行う。司法試験の最終成績は、論文でCランクであった。 | ||
1992 | 大学卒業。以後、現在の会社。下宿を出て、また棲むところを探すのが面倒だったため、会社の寮に入る。大学入学時に購入したテレビを、部屋に置くスペースがなかったのと、全くテレビを見なくなっていたと云う理由で、隣の部屋の同期に譲る。 4月、朝比奈/大フィルでエロイカをシンフォニーホールで聴く。これが初めてのクラシックコンサート。 冬MacintoshIIciを購入。メモリ8Mに13inchアップル純正モニタをつけて50万。頭金無しのローンを組んだので、総額60万になった。これを15ヶ月で支払い。よく、これで生活できたもんだ。 当時のシステムは6.07(7.1の発表直後)でマックライトやファイルメーカーで遊んでいた。 | ||
1994 | 春にニフティに加入。通信を開始する。今にいたるまで、FCLA,FCOMICSは覗いている。 谷川史子さんの読み切りを読むために買った「りぼんオリジナル」で森本里菜さんを知る。その森本里菜さんの連載を読むために「りぼん」の購読を再開する。 FCLAのリスナーズオフに初参加。そのときお会いした方とは今でもコンサートなどで一緒になることがあります。 | ||
1995 | 朝比奈がシカゴ交響楽団を振ることを知り、5月と11月に渡米。これで何かがふっきれたのか、4月にはコンサートを聴きに東京まで行く。以降、コンサート三昧の生活が始まった。 | ||
1996 | 本屋さんで見かけたあゆみゆいさんの絵柄に陥落し、さらに某メーリングリストの影響で「なかよし」の購読を開始する。それまでCLAMPの作品はキライだったが、連載中だった「カードキャプターさくら」には完全にノックアウトされることになる。 | ||
1997 | 増加の一方を辿るCD、本、漫画に寮のスペースが限界を迎え、8月に念願の京都に引っ越しを敢行。1999年現在、未だに引っ越しの荷物で解いていないものがあるのは、ナイショである。 引っ越しと共に、京都インターネットに加入。 12月、会社の研修旅行に潜り込み、ベルギー、ロンドンに行く。研修内容は覚えていないが、そこで行ったコンサートと美術館のことはよく覚えているという模範社員ぶりを発揮した。 | ||
1998 | 年末、大学入学以来、ほぼ縁のなかったテレビとビデオを購入。 当初の目的は、放送大学に入るにあたりヴィデオの視聴環境を作ることにあったのだが、いつのまにかアニメのチェックに走るようになったことはナイショである。 | ||
1999 | 4月から放映されたテレビアニメ「To Heart」にはまる。ゲームがしたい病にかかる。会社のUNIXにリモートメンテするための環境が必要というのを口実に、6月DellよりWin機を購入。UNIXのリモートメンテにしか使わないのなら、メモリ192MB、HDD9GB、サウンドボードは必要無いはずなのに、BTOで組み込んでいることからして、使用目的はミエミエといえよう。案の定、最初に買ったソフトは念願の「To Heart」であった。以降、「痕」「加奈」「ONE」とすっかりはまりこんでしまう。 一応、放送大学にも入学。学割目当ての目的通り、6月PCに導入するためOffice2000をアカデミックで購入。 ウルトラセブンがDVDになることを知り、急遽7月DVD-playerを購入。よせばいいのに、CLDのフルコンパチである。以降、「ウルトラセブン」を筆頭に「To Heart」「十兵衛ちゃん」など、順調にライブラリが増殖中。 4月より仕事が大幅に忙しくなったため、コンサートは激減した。上半期で無駄にしたコンサートチケットの総額は10万円を上回った。 12月。使用しているノート(PB1400CS/G3-233)が限界に来たと判断。ApplestoreでPBG3をBTO。年末年始を会社で過ごす時の用意として、DVDをつけたことはいうまでもない。 | ||
2000 | ミレニアムということで、当然年越しは会社でコンピュータとにらめっこしながら行うことになる。暫く更新していなかったwebの更新を決意。とりあえず、お手軽にできる日記から、ってことで、2000年1月1日から日記を毎日更新\(^o^)/。 ギャルゲとアニメの日々は変わらず、しかし、漫画の比重が徐々に低下。15年に及ぶ「花とゆめ」の定期購読を止める。遠藤淑子らがメロディなどに移り、カラーも変わり、そして何より自分が年をくい、現在の感性についていけなくなったためと思われる。 11月、内示を受け、2001年01月より、入社以来のSE仕事から職種転換となる。 | 2001 | 職種転換に伴う研修を1月から2月にかけて受講。そのため、一月間東京勤務。横浜に設けられている寮に入る。また、寮では一月の短期滞在では固定電話サービスの申し込みができない、との通告を受け、携帯電話ならびにH"カードを購入。ところが、寮の電波状況は非常にまずく、H"での通信は短時間で切れてしまし、こっちがブチ切れてしまう。 2月に大阪に戻り、OJTが開始される。これが、ナカナカのくせ者で、全然使い物にならない毎日を過ごす。 |