2002.6.23

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神による幻 −希望の民として−

エゼキエル書   47:1-6(‐12)

 預言者エゼキエルは、バビロン捕囚期の預言者でした。第1回捕囚の時もバビロンに連れて行かれ、587年のバビロン捕囚で再びバビロンに連れて行かれ、妻もそこで死ぬという、自ら大変に厳しく、苦しみに満ちた生涯を送ります。そのような中で、預言者として召命を受け、捕囚の中で希望を失っている人々を励まし続けました。

 エゼキエルという人は、神の霊によって特異な体験をする預言者で、病的なものを持っていたのではないか、とまで言う人がいますが、それはどうでしょうか。病的にならざるを得ない状況の中で、苦悩する預言者として、いわゆる正常でないこと、異常な神の体験を持ったことを「おかしい」と言うことはできないでしょう。愛ゆえに「神だって狂う」というような、狂わざるを得ない状況が、エゼキエルの前に広がっていたのです.その中で、エゼキエルは、この捕囚の民の「見守る者」と、神に任じられました(33章)。

 この見守る者の責任は、大変に重いものでした(33:1〜9)。しかし、捕囚の民のために、神から「見守る者」に任じられたといっても、人々に喜ばれたりはしませんでした。人々は、ともかく落胆の中にいて、これまでも預言者イザヤやエレミヤらによって、罪の裁きとしての滅び、ということが言われていましたが、反省するより、自分たちを守ってくれなかった神に絶望していたようです。しかし、これも、言い方は違いますが、私たちの思いでもあるかもしれません。信仰と言い聖書の神と言っても、現実の前では、と。

 エゼキエルは、そのような幾重もの絶望の声の渦の中で、神からの幻を見せられ、それを人々に繰り返し伝えています。もちろん人は、またおかしな奴がおかしなことを言っていると言って聞きはしませんでした。それでもエゼキエルは幻を見続け、それを語り続けます。変な奴なのか。むしろそれを言うとしたら、諦めない神の熱心が狂っている、と人は言うべきでした。彼の幻は、決して諦めない神の愛の現れであり、神の「希望」そのものであったのです。

 いくつもの幻の最後の部分に、やがて復興される神殿の幻があります。地上の神殿であるのか天井の神殿であるのかは分かりません。(余談になりますが、私たちの計画している会堂は、地上の会堂ですが、同時に天の会堂に触れている会堂であるのだと思います)。それは、王を中心とした国ではなく、神殿を中心とした神の民の幻でもありました(皆さんは、またここでも妄想と思いますか?)。

 そして、その神殿の最後のところに、今日の聖書の幻があります。神殿の敷居の下から、泉がわき出、南の壁の方に一旦は流れ、さらに東の方向、エルサレムの東に広がる荒れ野(ユダの荒れ野と呼ばれていた荒れ野)に向かって流れていた、と。私たちのように水に恵まれたものたちには、感じ取れないのですが、乾燥地帯、砂漠地帯に住む人々にとって、泉や流れは命を支え潤すものとして受け止められていました。その水が、神殿から流れ出していくのだと。

 それは、小さな流れでした。砂漠に対して、荒れ野に対して、まったく意味のない流れ、気休めであり、すぐにも干からびてしまう流れ、と誰もが思うような流れです.ところが、そこから1000キュビト(1キュビト=肘から指先まで=約45p)、450m進むと、その流れはくるぶしほどの深さの流れになっていました。さらに1000キュビト進むと膝までの深さとなり、次は腰まで、さらに1000キュビト進むと、もう泳がなければ渡れないほどになった、と幻が伝えられます。他に支流があったというのではありません。あの神殿の敷居の下からのちょろちょろとしたか細い流れが、この流れなのです。

 この幻はさらに続きます。やがて、死海に注ぎ、一部塩を作るところを残して淡水となり、死の海が生き物の生息する所となり、周囲は緑に覆われ、木々は毎月実りをもたらし、その葉は薬となって病をいやしてくれる、と。もちろんこれは幻です。目の前には、依然として干からび、また私たちの思いを干からびさせる砂漠が広がっているだけです。神が与えてくださる神殿の泉、すなわち神の言葉に信頼するかどうかです。それ以外ではありません。教会はどうなのでしょうか。私たちは、どうなのでしょうか。神の言葉を信じない人間の賢明さは、絶望に彩られている、と言ってよいでしょう。私たちは希望の民ではなかったでしょうか。

 少し話が飛ぶようですが、有事法制と関連して、坂本龍一が監修した「非戦」という本を読みました。時代はいろいろで、マルチン・ルーサー・キング牧師から、例のバーバラ・りーさんなど50人ほどの人が書いています。それらを貫いている言葉、祈りは、「希望」です。まったくの希望です。

 しかもそれは、どこかで信頼し合うことで成立しますし、さらに言うなら、憎しみ合わずにはおれない者の中に働きかけてくださる方への信頼がなければならないだろうと思います。そのような意味で、神殿の敷居の下から流れ出て荒れ野に向かうちょろちょろとした流れ、すなわち神の言葉に信頼を置くかどうかでしょう。そのような意味で、教会が「希望」の伝道を行ってきたかどうか、いや、その前に、聖書に希望を託してきたかどうかなのかもしれません。

 道は決して容易ではありません。希望を持ち続けることは容易ではありません。エゼキエルの幻に、人々は、また、何と愚かなことを、と思ったに違いありません。しかし、憎しみに憎しみをと言う、人間の魂の荒野に命も将来もありません。目に見える現実に抗して、この小さな流れの幻を見つめる者でありたい。エゼキエルの見た幻は、キリストの愛の命の流れです。私たちは、この方に信を置いてきたのではないでしょうか。教会は、この方によって、絶望の中でも希望をいだく群れではなかったでしょうか。エゼキエルの見た幻を共にしましょう。