應擧 圓山
  【1733〜1795




亨保18年丹波の穴太(アノウ)村 (現在の京都府亀岡市郊外)に生まれる。

初名は岩次(二)郎、通称は主水(モンド)、字(アザナ)は仲選(チュウセン)。

一嘯(Issho)・夏雲(Kaun)・仙嶺(Senrei)等の号有り。

鶴沢派の流れを汲む狩野派の石田幽汀(ユウテイ)に師事。

其の後、自然の写生に専念し、又は中国の古蹟を臨模。

とりわけ、趙 昌(Cho Shou)銭 舜擧(Sen Sunkyo)の花鳥や細密な美人画などを愛し、

更に、当時西欧より舶載された銅版画の手法も習熟し、渡邉始興を通じ光琳をを研究、

彼独自の新しい絵画=写生画を確立した。

その写生画はあらゆる階層の人々に支持され、当時の画壇の第一人者となる。

圓山派の祖として仰がれ、敬愛されつつ、寛政7年7月17日 その生涯をとじる。

三時知恩寺門跡入江御所)(京・新町上立売)にも、床の間の戸袋に、四季の写生画が現存する。

門跡=皇族等が住持する寺。  三時知恩寺門跡=後光巌天皇皇女 見子(ケンシ)内親王が初代住持