モンゴル慰霊団参

モンゴル慰霊団参紀行記


歳月は宿を去ると雖も、又来たりて美景を成す。
恩者去り、一たび往きて更に来たること無し。
その悲しみ月を送りていよいよ深く
涙いよいよ増せり。


あなたは知っていましたか?
かつて戦後、モンゴルに於いて1600人以上の日本人が亡くなっていることを。
1945年終戦後、モンゴル国には労働力が大いに必要となりました。
モンゴル政府は人員確保をソ連に要請。ソ連はシベリア抑留者をモンゴルに送り込みました。
その数12318名。
捕虜になった兵士を初め罪無き一般人の人達です。
1945年10月初めに5000人の日本人が送られました。
第2陣は1945年12月16に到着。その日は大変寒く吹雪だったといいます。
日本人兵士達はモンゴル到着後すぐに健康診断を受けました。
中には2名の女性がいた他、殆どの人たちが肺や胃腸の病を持っていることが分かりました。
これらの人はホルジボランとバンバダルジャーの病院に入院させ治療したと言います。
捕虜兵士の半分をウランバートル市、もう半分を北部地域に集中させ、
国立図書館・劇場・映画館・大学・ホテル・縫製所・煉瓦製造所
マンション・ビール工場などの建設に従事させました。
毛皮工場・フェルト加工工場・靴製造には、700人、
スフバートルのマッチ工場で200人の日本人が働き、
ナラハイの鉱山では、1日に6トンの石炭を掘るという条件で働かされていたそうです。
その他にもたくさんの人たちが労働させられていました。
夏の昼は40度を超え、
冬はマイナス30度近くになるという過酷な条件の中、
日本に帰れることなく当地でなくなった人が1600人以上もおられるのです。
今回はその人たちの慰霊のために、
平成18年9月22日〜29日モンゴルを訪ねました。

22日 13:40 関空発の大韓航空機でソウル経由モンゴル・ウランバートル空港へ。

到着は23:20。モンゴルは標高1700bほどの高地。思わずゾクッとする涼しさ。


翌日23日 9:00 早速アルタンボラグの日本人墓地へ慰霊の旅に出発。
アルタンボラグ日本人墓地へは約400`の行程。
8時間ほどで到着予定。バスはモンゴルの大草原の中をひた走り・・・最初は、「広いね」・「雄大だね」「北海道にも直線の道があるけれどここはその何倍もあるね・・・すごいね・・・」等々の言葉も、1時間2時間となるとうんざり。

17:20 スフバートルへ到着。 スフバートルはロシアとの国境の町。街には国境地帯の何とも言えぬ緊張感があるそこから20`ほど離れた、アルタンプラグの日本人墓地へ。お墓の跡を探し回るのだけれどなかなか見つからない。牛の骨が転がっているだけ。日本ではとても考えられないことだが、運転手の好意でバスが荒れ地の中を走り回り、それでも道から離れた草原の中にかすかにそれらしき跡を見つけ、祭壇を組んで6時過ぎから慰霊法要。午後6時を過ぎているのに、太陽は日本の午後3時頃・・・まだまだ明るい。

法要を無事済ませ、セレンゲ川とオルフォン川の合流点、ここ地域一番の景勝地を訪ねる。ここは地元の人に言わせる地チベット一の景勝地とのこと

午後9時ホテルに到着。1日を終わる

翌24日は、朝7時出発。スフバートルの日本人墓地へ。
途中お墓は見えるけれども近づく道が分からない。変化の人登場・幸いアベックの案内でお墓に向かうことが出来た。スフバートルは炭坑の街。昔は石炭採掘で賑わっていたという。今でも街の下には無数の坑道が張り巡らされ、何時陥没するか分からないところが多いという。お墓の近くは特に危なく、今でも地元の人があちこちと縦穴を堀り採掘している。そんなところに大きなバスが通るのは無理。相当歩くことを覚悟、と思いきや、運転手さんの曲芸のようなハンドルさばきでお墓の前に横付け。無事法要を済ませることが出来た。


一路ウランバートルへ
夕刻、ダンバルジャ日本人墓地で法要ここはモンゴルで一番整備された墓地の跡であろう。 8月初め小泉首相もここを参拝した。法要の後、塔の上を流れる雲が、日本を指していたのは、大変印象的であった。亡くなった人々も「日本に帰りたいと」を思っていたことだろうと涙する。
21:30ホテル到着

25日8:30 ホテルを出発。
ウランバートル市内観光(ガンダン寺・スフバートル広場)
10:30ダンバダルジャーリン寺院合同法要に参加。モンゴル外務省アジア局長・駐モンゴル大使館大使等も参列され、地元のテレビ局が取材に来ていた。初めに本堂の前に日本人慰霊のためにローソクを点け、チベット語の教典文字を表し、モンゴルの法要続いて、法華経読誦修法法要。モンゴルの寺院御宝前で日蓮宗の修法法要が行われたことなどかってなかったであろう、又これからもあるまい。感激した。


昼からホジルブラン村の日本人墓地へ。
こはウランバートルから10`。300人の日本人が葬られていた。法要の導師を勤めさせていただいた。戦争を知らない私が、縁を以ってここに端座し、慰霊の法要が出来ることに涙した。ここまで、4ヶ所の法要を執り行い、何とも言えない感激と満足感であったが、なお一層思いを強くした。

ナライハ墓地ウランバートルから70`12名の日本人が葬られていた。


その後、26・27・28日はモンゴル観光
移動中、雨の少ないモンゴルで雨と雷に遭い、すばらしい虹を見ることが出来ました。慰霊に行った私たちに、仏様がお礼をくださったのでしょうか。

ウランバートルから320`、エルセン・タスルハイ砂丘にあるにあるブルドのホグノ・ハーンキャンプ場へ。モンゴル名物ゲル(テント)に2泊。すばらしい夕日と虹満天の星空に「天の川」が見られた。ゲルの中はベッドと薪のストーブがあるだけ。朝・晩と昼間の気温の差が大きく、夜は寝る前に薪をいっぱい入れておくと暑すぎて寝られず、外に出て体を冷やし、寝床に着くが、薪の火は、2時間も持たず、午前2時と6時に薪を補填してくれるのだが、それまでは寒さで目が覚めてします。目が覚めて外に出ると、真っ暗な空に満天の星と、天の川を見ることができた。昔、京都でも天の川を見た覚えがあるが、こんなにすばらしいものだったろうか?


午前中は長袖。午後は半袖の生活。カラコルムのハラホリンでエルデニ・ゾー寺院遺跡を見学。亀石(この石の発掘によりモンゴルでのジンギスハンが治めた首都カラコルムの位置が分かった)
僅か1時間ほどであったが、ゲルの周りの砂丘地帯で乗馬を楽しみ、放牧民のゲルを訪ね、歓待を受ける。放牧民の子供は早くから馬に乗り、5歳の子供の手綱さばきはなかなかのものであった。

わずか8日間の旅ではあったが、日本語の達者な地元添乗員のブラヤさんの案内長距離のバス移動道中、バスのエンスト・オーバーヒートetc・・・おおらかな時間の流れ、すばらしい旅が出来たことに感謝

僅か5ヶ所しか慰霊できなかったが、モンゴルには確認されているだけで16ヶ所の日本人墓地があり、1600人以上の抑留者が亡くなっている。既に遺骨収集は終わり、遺骨は日本に持って帰られたと言う、だからといって、その事実を忘れてしまうことは出来ない。遺骨収集が終わった墓地の後は、見るも無惨な姿を残している。微力ではあるが、たった5ヶ所しかお参りできなかったが、たった1度しかお参りできなかったが、きっと喜んで居られると実感できた。行って良かった