妙伝寺とは  玉樹院のページに戻る

 本山「妙傳寺」は、院号を「正法華院」山号を「法鏡山」寺号を「妙傳寺」と称し、文明9年(1477)円教院日意 上人によって開創されまし た。
 日意上人は、始め天台宗の僧として桑名妙蓮寺におられましたが、比叡山に登り学頭職となられました。学徳兼備博識宏才、弁舌さわやかでありま したが、偶々疑念を持たれ、これを晴らそうにも適当な師もなく、悩んでおられましたところ、身延山第11世法主行学院日朝上人の学誉すこぶる高 きを聞かれ、嘗て比叡山に於いて同学の間柄であったこともあって、身延山へ訪ねて行かれました。日朝上人と法論すること三昼夜に及び、日意上人 豁として疑念を氷解し、ついに日朝上人の弟子となられたのであります。
 文明九年に、創めて京都一条尻切屋町に堂塔伽藍を建立されましたのが、第一の妙傳寺であります。創建に当たり日朝上人と相はかり、宗祖日蓮大 聖人の御真筆御本尊・御真骨を分祀奉安し、遠隔の檀信徒のために便宜を図り、同時に身延影現神霊七面大明神の同木同体の御神体を奉安され、当山 を開創されました。その故を以て当山を「西身延」「関西身延」と称されるようになったのであります。
 日意上人妙傳寺に在ること23年、身延山第12世の猊座に就かれ、二祖浄性院日胤上人に衣鉢を譲られ、寺門大いに栄えました。その後三十年に して、三祖真浄院日肝上人に譲られましたが、足利十二代将軍義晴 公天文5年(1536)の台徒法乱の兵火に罹り、寺門悉く灰燼に帰したのであり ます。その難を泉州堺に避けて、同10年(1541)帰洛し、土地を西洞院四条下るに求め再興し、先と同様御真骨・七面大明神を御安置奉りまし た。これが第二の妙傳寺です。尚、現在でも、この地を妙傳寺前町といっております。
 それ以後、第六代慈眼院日恵上人の代、関白豊臣秀吉公の命によって、天正19年(1591)三たび京極二条上るの地に移され、一条家・四条家 の御菩提寺となり寺観大いに備わり、益々繁栄しました。
 日恵上人、ある時不思議の霊夢に依って、開運厄除けの祖師像を寄進され、当山に御安置されました。これが「錐揉みの御祖師様」の御霊像です。
第14代法性院日勇上人は、勇師法縁の縁祖でありますが、洛東山科の地に子弟教育のため栴檀林を開創され、講主となられて教学大いに振わいまし た。後水尾天皇の妃「東福門院様」は上人を召して、法華経を受講 せられ、御感もっとも厚く、親しく御袈裟衣を上人に賜られ、宗門に於ける金紋袈 裟の発軫となられました。この御袈裟は今日に至るまで、長く寺宝として受け継がれております。
 その後、第29代住心院日義上人の代、宝永五年(1708)3月8日、洛中に大火が起こり、その際、共に火災に遭い、伽藍悉く焼け尽きたので あります。この為、現在の地に移り、同時に一条家との深厚の因縁を以て、三宝院の宮より御堂一棟の寄付を得て、再築の緒に就き、上人在職中、山 門大いに栄えました。これが第 四の妙傳寺です。
 第35代了遠院日勤上人は博学宏才にして、説法一万座に及び、教化弘通を専らにし、宝暦14年(1764)の春、本堂を再築遷座の式を挙げら れました。これが、只今現存する本堂で、その結構壮麗なること人の知る処です。
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