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顔に当たる水で目が覚めたのは ユジノサハリンスクのホテル「ベルカ」
21日早朝のことです

遠くて近い外国 ロシア
2年に1度行っているシベリア抑留者慰霊の旅も今回で4度目
今年は 平成21年8月20日〜25日、
樺太(サハリン)の日本人墓地慰霊の旅に出かけました
20日(木) 成田発 午後4:30発のウラジオストク航空機で 
一路ユジノサハリンスク(旧 日本名・豊原)へ
  2時間で(日本時間との時差で 現地時間8:30)
薄明かりの中ユジノサハリンスク空港到着 
生憎の曇り空で 星は見えず 残念・・・
ホテルのレストランで 結団式 参加者の名前と顔を覚える

夜中に トタンをたたく激しい雨音 それでも旅の疲れで寝入ってしまう
早朝6時前 顔にかかる水飛沫で目が覚める「ウン・・・・」
一瞬何のことか分からず
気が付くと 天井から滴が ポタン ポタンと顔や肩に落ちてきている
雨漏りだ
びっくりして フロントへ 
居合わせた事務の女の人に事情を説明しようとするが
 言葉が分からない
何とか身振り手振りで説明し部屋へ連れて行く
事情が分かっても何もできない 
とりあえず 雨漏りのない場所にベッドを移動
それでおしまい 
「ごめんなさい」もなかった

外は生憎の雨
天気予報も芳しくない
それでも
午前中か それとも午後からにしようかと迷った末
朝食の後 早速市内の日本人共同墓地へ
現地の人達の墓地の奥日本人共同墓地は有った
雨の中 心からの感謝を込め慰霊法要を行う
法要の後
旧 豊原の地図を目当てに 日蓮上人六老僧の一人「日持上人像」の台座跡があるという旧市街地へ向かう
そこは 東山と呼ばれた山裾 現地添乗員さんも以前に見たことがあるというので
 あたりを探し回るも 残念ながら見あたらず

旧日本人町の面影を求めて市内観光
旧樺太庁(現在は 博物館になっている)
博物館で 驚きの発見
 旧樺太神社(神仏混淆で有ったためか?)で「日持上人」のお位牌発見
 日持上人の信仰が 確かにこの地で行われていたことの感激を新たにする

その後 郵便局・刑務所(現在も刑務所として使われている)などを見て回る
車窓かから見られた旧王子製紙の工場跡が廃墟として残っていたのに胸が痛む

市内のあちこちに 第二次世界大戦 戦勝記念碑・モニュメントが見られる
ご存じと思うが 日本とロシアの間には 日ソ不可侵条約が結ばれ
 相互に戦争をしないことが約束されていた
その約束を破って50度線を越え 
 ソビエトが日本領に攻め入ってきたのは 
昭和20年8月8日のことである

勇敢な日本軍は
ニジノサハリンスクにすんでいた日本人を
日本に戻すため
クマザサ峠でソビエト軍を迎え撃つ
塹壕(防空壕)をに籠もり
攻めてくるソビエト軍に立ち向かうも
全滅されたと聞く
そのクマザサ峠で慰霊法要
私が導師となり勤めることになった
当時クマザサに覆われていたこの地も
野球のグランドより広い芝生の広場になっていた
しかもソ連軍の戦勝記念のモニュメントまで建っていた
添乗のロシア人も嘗て
防空壕があったのを知っていた
せっかく慰霊をするなら
その防空壕の前でと
さんざん探し回るが見つからず
時間も迫ってきたにで仕方なく
広場の端ソビエト軍が攻めてきた方に向かい
祭壇を組む
正装しその祭壇い正座した時
ご本尊の下に一筋の道があることに気がついた
もしや
早速その先を見てもらうと
僅か5メートルほど先に
防空壕の跡を発見
この地で亡くなった人たちが
ここでお経を読んでくださいと
迎えてくださったとしかおもえなかった。
感激の内に
法要を勤めることができた
たくさんの抑留者が亡くなっておられますが
日本からの慰霊は少なく
なくなった方たちも
私たちを待っていてくださったと思います