初出      京都新聞 2000年5月4日 

Jポップは、近代詩を歌う。
        

 二○○○年になり現代詩はいまだ、大衆からは孤立している。これは、きっと事実であろうが、私は、詩が大衆化することを望んでいるわけではない。詩の言葉は、既成の言葉のあらゆる規制や概念を壊し「新しい言葉の姿」を時代に提示してこその前衛であろうと確信しているし、そのために大衆という視点からすれば難解で、ある種熱狂する言葉の姿を見せざるを得ないのだから。そう易々と、時代や大衆に作品という身を投げ出すようなことはしたくない。市場を開くためには、もちろん難解であることは、マイナス要素であるが「難解である」こともまた、ひとつの批評的な反応であり、ただ「わかりやすい倫理観」を語って双手を挙げて称賛されはするが批評の余地すら生じない詩など、無用であると信じている。だがしかし、自らが書いた詩が、大衆の中で流通することを夢見ることもある。たとえば、流行歌にでもなって街にその詩があふれだしたらどんな心地だろうかと。
 そこで私は、いま時代や若者という大衆に支持されている言葉として流行歌の歌詞を眺めてみた。昨年、二十万人という観衆を集めて野外コンサートを開いた人気バンド、GLAYが歌う詩の一端を引用してみよう。

 無口な群衆、息は白く、
 歴史の深い手に引かれて
 幼い日の帰り道、凛と鳴る雪路を急ぐ
       (「ウィンター・アゲイン」作詞TAKURO)

 夜の静寂に深く埋もれそうな二人に
 覚めて見る夢は幼すぎて
 重い荷物を引きずる様に
       (「ハピネス」作詞TAKURO)

 いわゆるJポップの彼らが歌う詩は、まるで近代詩なのだ。安室奈美恵が歌う小室哲哉の詩も、サザン・オールスターズのヒット曲「ツナミ」もまた、ずぶ濡れに湿った戦前の浪漫的な近代詩感覚そのものである。現代詩を書く私にしてみれば、このレトリックや隠喩などの術は、あまりにも古色蒼然としている。そして宇多田ヒカルや椎名林檎の詩は、逆に日常感の独白に終始し、乾いた反浪漫をクールに歌っている。詩の意味性や、そこで語られる主張を薄く溶解させて、言葉の息を潜ませるような方法といえば、この両者の傾向は、同種であるともいえる。リズムやメロディがひたすら先行し、言葉は、その平板な地平にただ、塗り隠される。
 これらの詩は、マスプロダクトを考えた商品であるのだから、前衛とは無縁であるといってみることも可能である。しかし、少なくとも今という時代の言葉であって欲しいと願う。また、インターネット上で読む若者たちの詩も、傾向的には似通っている。いまだに話題は、賢治であり中也であり朔太郎なのである。
 詩における、前衛などは、とうの昔に諦められたのか。それとも現代詩が辿りつつ開いてきた道筋が、ただ、時代を生きている大衆の感覚と乖離しつづけ、もはやこちら(現代詩)側こそが、「進みすぎた未来のアノクロニズム」を生きてきただけなのか。
 いや、もっと言えば、今の若者たちは、とうの昔に現代詩然とした言葉を見限り、変な言い方だが、「一足飛」に近代詩の世界に共感したのだろうか。

 織りいづる物の象、
 おぼろなる月夜の空に。
 さまよへる心の隈に、
 彼の象、花は織りいづ

       (「かたち」三木露風)

明治四三年に刊行された詩集からの引用であるが、往時の前衛性を知るに十分である。少なくともGLAYの歌う詩よりも、前を歩んでいる。
いまの現代詩が、戦後詩の地続きで、流行の思潮を弄していたとき、流行歌は、むしろ大衆詩の心情に沿い近代詩の薄い浪漫を剽窃していた。私は、そのことに少し失望もするが、羨望も抱く。そこが複雑な心境であるが、とりあえず、現代詩人は、自らの前衛性を試み練る意味でも、戦後から連綿と受け継いだアカデミックな殻を破き、今の流行歌と肩を並べて大衆の前に提示し直す必要があろう。そしてまた、あまり顧みなかった近代詩にみられる洗い晒しの前衛性をも見直す格好の時が訪れたといえる。