原將人フィルモグラフィー

 

おかしさに彩られた悲しみのバラード(1968年 16ミリ 13分)

 原の高校時代、麻布学園の同窓生たちと共に作った映画で、1968年の東京フィルムフェスティバルで、プロの監督たちを抑えてグランプリを受賞。当時の全国の高校生たちの間に映画製作ブームを巻き起こした。当時佐世保の高校生だった村上龍も、この作品に影響されて映画を作った。その経緯は、小説『69』に詳しくかかれている。大森一樹も、原がいなければ、監督になったかどうか分からないと、事ある毎に語っている。最年少映画監督デビュー作品。

 ストーリー。映画が撮りたい。撮らずにはいられない少年。苦労してカメラとフィルムを手にするが、何を撮ったらいいのか分からない。本当に撮りたいものがないことに、気付いた少年は雇われカメラマンとなる。監督はカッコつけの社会派。あっ、違う!こんなの映画じゃない!その偽善性を暴き、少年は再びカメラを手にし、旅に出る。

 そのプロセスを第1章「地獄の季節」から第8章「再び自己否定あるいはラストシーン」まで、章立てされた、短いシークエンスの連続で、畳み掛けるように展開されて行く短編映画の傑作。「あの章立ては大好きだったゴダールの『女と男のいる舗道』を見て、実は中学高校で30回以上見てるんですが、字幕による章立てをやりたくて仕様がなかったんです。あと、2コマ、3コマっていう短い編集は、大林(宣彦)さんの『いつか見たドラキュラ』。あれも30回以上見てました。使ったカメラがゼンマイ式の1カット10秒ももたないやつだったんで、ドラキュラでいこうということになって・・・」と、原は語る。

自己表出史「早川義夫」編(1970年 16ミリ 35分)

 1967年、ジャックスを結成した早川義夫は、芸能プロダクション主導のグループサウンズの時代にあって、オリジナルのロックを日本語でやっていた。まさしく早川義夫こそ日本のロックの先駆者だったのだ。

 1969年。原が日本のロックの先駆者、早川義夫のドキュメンタリーを撮りたいと取材を申し込んだら、ジャックスはもう解散していた。そして早川はピアノを弾きながらジャンルにとらわれない彼自身のなかから込み上げて来る個的な民族音楽とでも言うべき歌を歌っていた。最早、ビートルズもストーンズもドアーズも聴かず、美空ひばりの「悲しい酒」がいいと答える早川に、原は自分のいる場所から世界に向き合う誠実な魂を見た。この取材が「自己表出史・早川義夫編」という作品に結実した。

東京戦争戦後秘話(1970年 35ミリ 1時間45分)

脚本 原將人・佐々木守 監督 大島渚

 大島渚によって提示された「遺書を残した男」という主題のもとに、原がシノプシスを考え、佐々木守とともに肉付けした映画。

 主人公、元木象一は、1969年の東京戦争と呼ばれた、街頭闘争にまで発展した全共闘運動のさなかに、ありきたりの東京の風景ばかりが写された一本の映画を手に入れ、「映画で遺書を残して命を絶った、ある一人の男がいた」という幻想に、取り憑かれてしまう。元木は、男を象るように、ありきたりの風景ばかりを撮り歩くようになり、映画を遺書としようと覚悟を決めていくのだが、恋人である泰子は、元木の写そうとする風景の中に立ち、自らが被写体になることで、風景を背景に押しやり、元木の妄想を妨げ、思いを遂げるのをやめさせようとする・・・。しかし、結局、元木は映画で遺書を残した男になってしまうのだが、その遺書の映画を手にする、また新たなる男がいた。

 それは、現実か幻想かいう、ありきたりな二元論を、風景の多層性によって超える試みだった。原は、また中学3年の時に見て映画言語の自由さに魅了された、ロブ・グリエとアラン・レネによる「去年マリエンバード」の、現実か幻想かの二元論を映画という時間イメージに結晶させて乗り超える試みに強い影響を受けていたとも語る。しかし、曖昧なかたちではあるが、主人公を自殺させたことがずっと引っ掛かっていたと言う。そして、恋人、泰子に新たな映画を提示させることができなかったこと、主人公、元木と一緒に新たな映画を撮らせることができなかったことが、数十年後の「20世紀ノスタルジア」につながっていると言っている。

 この映画は原の監督作品ではないが、アーカイブ上映の際には、「20世紀ノスタルジア」とのカップリング上映を提案したい。

 また、原によれば、音楽を担当した武満徹氏に、どんな音楽を付けようか、と聞かれ、ビートルズ(ジョン・レノン)のストローベリーフィールズ・フォーエバーのような曲がいいと思うと答えたという。そして、「武満さんがスタジオで録ってきたのが、マジカル・ミステリー・ツアーあたりのビートルルズサウンドを彷彿とさせる、タブラとフェンダーの電気ピアノと、エレキギターによる、飛び切りキレイなテーマ曲だったんですよ」と原は語る。また、原の音楽的感性を評価していたそんな武満徹にいたく励まされ触発され、もちろん、それと前後する早川義夫との出会いもあって、その頃から和声の勉強を始め、自ら作曲を試みるようになったのだった。そのエピソードがなければ、「武満さんに相談されたということがなければ、自分で作曲をしようなどとは思わなかっただろう」と原は言う。おそらくこのテーマ曲は、「怪談」や「乱れ雲」などと並ぶ武満徹の重要な映画音楽の仕事だろう。

東京戦争戦後秘話・予告編(1970年 35ミリ 7分)

 これは原の脚本・監督である。風景の多層性をメッセージする仕上がりになっていて、「政治を告発しない!社会を告発しない!状況を告発しない!何も告発しない!大島渚の問題作!東京戦争戦後秘話!」という連呼するような戸浦六宏による締めのナレーションは、政治的にのみ語られすぎてきた大島渚作品に対する批評の在り方をパロディー化している。「果たして予告編として良かったのか分からないが、大島さんは面白がって、19歳のぼくに、好きに作らせてくれた」と、原は語る。

初国知所之天皇(1973年 8ミリ+16ミリ 約8時間/1975年 16ミリ 4時間/1993年 16ミリ2面マルチ 1時間50分)

 「古事記」と「日本書紀」をもとに、ジェームス・ジョイスがオデッセイをベースに書いた「ユリシーズ」のような方法で、神武あるいは崇神天皇をめぐる「初国知所之天皇」という映画を撮ろうとした原は、その日本国家の起源を廻るロケーションハンティングの旅が、映画の起源を廻る旅に変貌していることに気付く。そして、それが自分の撮りたい映画であることを自覚する。そして、北海道から大和、出雲、高千穂と南下し、旅の果てに、鹿児島で、映画を撮って自殺した16歳の少女の遺書の映画に出会うのだが・E・。(何と奇妙な符合!まるで東京戦争戦後秘話のようではないか!)そのプロセスを日記風に辿ったロードムービーである。

 何故、ロードームービーだったのか。原はこう語る。

「ちょっと気恥ずかしくて大きい声では言えないんですけど、『イージーライダー』のミーハー的な大フアンだったんです。ビートルズ、ストーンズ、ドアーズ、グレイトフルデッド・・・ロックバンドが大好きだったぼくは、これぞ、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーによる映画バンドの映画だと思いました。続編を作るかなと思っていたら、ビートルズのように解散してしまって、その後、ピーター・フォンダがソロアルバムのような『さすらいのカーボーイ』を作るでしょ。あれも大好きですね」

 この作品のオリジナルバージョンは、16ミリで撮り始めながらも中断していた原が、19世紀、印象派の筆遣いの相似形として始まった、粒子の移ろいとしての映画の起源に最も近い、8ミリに遭遇することによって完成した。そのため、原が8ミリと16ミリをシークエンス毎に切り替えて映写した。音はオープンリールに収められ、映像のタイミングで原自身、ポン出ししていたと言う。いわばライブ上映である。上映時間約8時間というのもそのためである。夕方からの上映では終電に間に合わせるため、微妙に可変速の8ミリ映写機のスピードを上げ、オールナイトでは、気持ち良く寝入っている人があれば、あまり先に進まないようスピードを落として目覚めるのを待つこともあったと言う。その後、8ミリ部分を16ミリにブローアップし、4時間の16ミリバージョンが誕生した。そして、十数年、そのバージョンは2台の映写機による1時間50分の2面マルチバージョンに変貌した。しかし、オリジナルの8ミリは一部を除いて火事で焼失しており、現在、上映可能なバージョンとしては、16ミリバージョン、16ミリ2面マルチバージョン(2006年ロッテルダム映画祭正式出品作品)、その2面マルチバージョンに火事で焼け残った8ミリを加えた3面ライブバージョンがある。 ちなみに、オリジナルバージョンは1973年度の朝日新聞の日本映画回顧のベスト5に選ばれ(佐藤忠男選)、その後、キネマ旬報の日本映画(史)200選にも選ばれている。

ユリシズの不思議な旅(1979年 ビデオ 28分)

 原が、友人の映画作家岡部道男氏宅を訪問するうちに、親しくなった岡部氏の息子、百合静くん(小学校3年)に8ミリカメラを持たせ、一緒に撮影し、その8ミリフィルムを取り込み、作った作品。また、岡部氏が愛犬シロの首に8ミリを括り付けて撮影した8ミリを映写して見るシーンもあり、全体がビデオによって統合されたホームムービーの万華鏡のような作品になっている。

 この作品は日本ビクター主催によるビデオフェスティバルに応募されたが、20分以内という規定をクリアしていなかったため、選外となった。しかし、当時の審査員だった手塚治虫氏にえらく気に入られ、特別参考作品として入賞作品とともに上映された。(余談だが、原は鉄腕アトムの「ホットドック兵団」が子供の頃の愛読書だったと言っている。)

らいちょうのうた(1982年 35ミリ 35分)

 富山県の依頼により製作され、富山博覧会の県のパビリオンで上映された。夏と冬で羽根の色を変える雷鳥に興味を持ち、未だ見たことのない冬の真っ白な雷鳥に会いに、積雪10メートルを超える厳冬期の立山に登る少年をめぐるファンタジー。音楽を作曲家、新実徳英が担当し、原が作詞した「らいちょうのうた」と「ゆきがふふふ」は新実の合唱曲集「おとぎの国から」に収められ、全国の小中学校や、合唱団によって幅広く歌われている。

走れ!シービー家族(1984年 ビデオ 25分)

 吉永みち子「気がつけば騎手の女房」(草思社)を原作に、有馬記念でのMr.シービーと騎手の吉永正人、みち子一家を追ったテレビドキュメンタリー。オンエアーはフジテレビ系、製作はドキュメンタリージャパン。原が初めて手掛けたテレビドキュメンタリー。

赤ちゃんのいる暮らし〜毛利子来の育児相談(1987年 ビデオ 1時間)

 育児書のベストセラー「赤ちゃんのいる暮らし」(筑摩書房)をベースに、著者の医師、毛利子来の診察室に通う親子を記録し、原作に沿って、型通りのマニュアルとしての育児ではなく、子供の多様な個性と発育に対応する多様な育児のあり方を主張する毛利子来の人柄にも迫ったビデオ。育児情報とドキュメンタリーとメッセージが一体になっている。このビデオを見て子供が欲しくなったカップルが何組もあると言う。

百代の過客(1993年 ビデオ 9時間25分/1994年 16ミリ 3時間40分)

 1993年、夏。芭蕉の「奥の細道」を下敷きにロードムービーを撮ろう思い立った原は、芭蕉と曾良になぞらえて、14歳の息子とともに二人で東京から東北を廻って大垣までの旅に出る。原はキーボード、息子はギター。俳句も詠むが、それ以上に歌を作る。原はビデオを常に回し、息子は気が向いたら8ミリのフィルムカメラを楽器のように回す。原は作品としての映画作りを目指すが、息子は夏休みの気楽な旅のつもり。原は離婚していて、息子とも別居中なのでコミュニケーションはなかなかとれない。その二人の齟齬が巻き起こす様々なドラマがたっぷり詰まった、意図と非意図が織りなす、劇的ドキュメンタリー、あるいはドキュメンタリー的劇。1990年代の私的ドキュメンタリーのブームはここから始まった。

翌年、山形国際ドキュメンタリー映画際のコンペ部門に入選したため、16ミリの短縮版が誕生した。また、ビデオ+8ミリのライブ上映も可能。

20世紀ノスタルジア(1997年 35ミリ 1時間40分)

 宮沢賢治の「双子の星」をベースに、アシュラ・ル・グインの「闇の左手」フィリップ・K・ディックの「火星のタイムスリップ」などのSF的エッセンスをたっぷり盛り込んだ青春ファンタジー。広末涼子の映画デビュー作。原は日本映画監督協会の新人賞を47歳にて受賞。

 バブル以来、高層ビルの建ち並ぶ東京のベイエリアの、とある高校の放送部に所属し、ビデオカメラを手に取材に駆け回る遠山杏(広末)は、ある日、天才ビデオアーティストと称される奇妙な転校生、片岡徹に、自分の中に寄生している宇宙人が分裂するからその片割れを引き受けてくれと頼まれる。詳しい話を聞くとそれは徹が撮っているSF映画の構想であることが分かり、杏は徹の映画作りに参加する。自分の中の宇宙人の視点で、しかも現在の地球の状況を星にレポートするという視点で、東京を見てみると、全く違った見方ができるので、杏は楽しかった。そして、徹が好きになる。しかし、撮り歩くうちに、徹は、夜も眠らない都市・東京に取り憑かれ極度の不眠症に陥り、高層ビル群が巨大な墓石に見え、地球の滅亡までも見えてしまうのだった。地球を救えない自分自身に死の影さえ散らつき出し、宇宙人を星に返して来ると、星と交信するのに最も適したオーストラリアのエアーズロックに旅立つ。日本に取り残された杏は、地球の滅亡は防げるというストーリーで映画をョ成させ、徹に送る。それを受け取った徹は帰って来る。

 どうしてもハッピーエンドで終わらせたかった、と語る原は「東京戦争戦後秘話」で主人公を自殺させてしまったことがひっかかっていたと言う。その大島渚監督が監督協会新人賞の授賞式に病気をおして、車椅子で駆けつけてくれたことが何よりも嬉しかった、と語る。

私の東京物語(1997年 ビデオ+16ミリ+8ミリ 約1時)

 この作品はライブ映画「ロードムービー家の夏」(共同監督作品)から原のパートを中心に纏めたものである。

 地方(木曽)から東京に出てきて、子供のいなかった伯父夫婦といわば二世帯の大家族を築いた原の両親と原の育った環境が、小津安二郎の東京物語(昭和28年)を中心にしたフィルモグラフィーと比較しながら、語られる。昭和25年の原の生まれた時から、写真マニアだった原の伯父さんの撮ったアルバムがビデオに撮影されトリミング、ズームなどで構成し直され、流れていく。そこに昭和32年からはダブル8の8ミリが加わる。伯父さんの趣味に8ミリも加わったのだ。また、それは漆器商を営む原の家の配達用の車両が、2台のスクーター(ラビット&シルバーピジョン)から軽自動車(スズライト)に変わった時期にも重なっていた。初めてのドライブ。東海道と中山道を通り10時間以上をかけた木曽への帰省の8ミリ映像。原は、伯父が8ミリに凝り出したため、小学校2年でスチールカメラと引き延ばし機を譲り受け、原家の写真係になったと言う。暗室代わりの押し入れの中で、印画紙を現像液に浸けて像が浮かび上がる過程こそ、原にとっての初めての映画作りの体験であったと言う。映画とは、動くか動かないかではなく、時間のなかを移ろっていく映像であると、原は映画を定義し直す。「それはジョナス・メカスも言っているんですよね。ラスコーとかアルタミラの洞窟で焚き火の炎にゆらめいていた壁画が映画の始まりだったと」

MI・TA・RI!(2002年 8ミリ+ビデオ シネマスコープ 3面マルチ 1時間30分 2007年版として改訂予定)

 2002年、フランクフル国際映画祭で観客賞を受賞した作品。その後、京都、東京、弘前、名古屋、大阪で上映されたが、それぞれ1回、ないしはせいぜい数回、しかもレイトショーであり、多くの人々に見る機会を提供できなかったため、再上映が渇望されている。

 ストーリー。日の丸君が代の国旗国歌法が制定された1999年、原は、中央集権的な国家の未来に危惧を抱き、パートナーのマオリと、生まれたばかりの息子、鼓卯を連れて日本探しの旅に出る。祇園祭の京都から原爆記念日の広島から九州を通って沖縄へ。そこで原たちが見聞きしたのは、音楽的に完璧にアイデンティティーを持ち自立した、日本のあらゆる地域がそうであって欲しい、沖縄の姿だった。「スーパーでも食堂でも、ガソリンスタンドに寄っても、流れてくるのは琉球音階の楽曲なんですよね。それも島唄から歌謡曲からロックからヒップホップまであらゆるジャンルの楽曲があって、東京から発信される流行が津々浦々まで鳴り響く日本の音の風景とは全く違った音の風景があったんです。サンシンが上手いので、年寄りが子供たちから尊敬されてる。感動ものでした」と、原は語る。

 「MITARI!」(1時間30分)は、8ミリ映写機2台とビデオプロジェクター1台によってシネマスコープ画面に投影される、三面マルチ、しかも生演奏ライブナレーションによるライブ上映の作品。マルチ画面は、センターがビデオ、左右が8ミリによって構成され、8ミリは秒4コマにコマ延ばしして映写されるので、印象派の絵画のような粒子の移ろいが見える。また、シークエンスに応じて、ビデオ1面、8ミリ2面にもなる。その時はプロジェクターのズームレンズで拡大して、常にシネスコ画面を最も有効に、目一杯使うようにするので、シークエンス毎にスクリーンサイズそのものが様々に変わっていく。原は語る。「だからライブなんです。かなりの迫力でスクリーンの生成変化が楽しめます。昔、映画館で最初にスタンダードサイズのCMから幕が左右に開いてシネマスコープになり、本編が始まるという瞬間にすっごいワクワクしたもんですが、それを随所で楽しもうという試みなんです」

 「MITARI!」というタイトルにはひとり、ふたり、みたり、の三人という意味と、見たりという意味が込められている、と原は語る。「最初は豊穣のバッハというタイトルでした。バッハの時代にできた音楽の平均率という方法は、あらゆる民族の交流を可能にした、人類が宇宙に誇るべき唯一のグローバルスタンダードなんです。互いの文化を破壊してしまう貨幣経済とは違うんです。明治からの文明開化でどうしてそれができなかったんだろう。だったら、日本は鎖国したままの方がまだましだったかなっていう思いがあって。たとえば、日本が鎖国したままで、しかも国歌がジョン・レノンの『イマジン』だったら、そうそう、チョンマゲと着物で歌うんですよ、それこそ想像しただけで楽しいと思いませんか」

MITARI!」には、原が旅をしながら作曲し、マオリが歌う、トリュフォーの「突然炎の如く」のジャンヌ・モローを彷彿とさせる、どんなジャンルにも帰属しない日本音階の楽曲が随所に挟み込まれている。2007年版では小学生になった息子がナレーションとコーラスに参加する。

あなたにゐてほしい I Wish You Were Here

(2007年 ビデオ 1時間40分)

 2004年から撮影を始め、仕上げ作業中の劇場用映画の仮編集版である。

 ストーリー。昭和33年。日本のとある山村。戦争に行き、未だ帰らぬ一人息子(熊太郎)の戦死を受け入れない父親(寅吉)がいた。息子の恋人で許嫁の渚は、帰らぬ熊太郎への思いを歌に託して歌い続けるのだった。「あなたにゐてほしい」はミュージカルである。 寅吉は電気工事の職人。息子は父親の仕事を手伝いながらテレビの時代が来るという夢を語り、電波の研究に大学へ行き海軍の無線班に入り、乗っていた輸送船とともに魚雷に沈んだ。寅吉と渚は、その熊太郎の夢を実現するために、電波の届かぬ村にテレビを映す共同アンテナを建てようと、山々に電波を探し、村々をテレビ購入の契約を取りに廻る。

 この物語には、日本のこの数世紀を見守ってきた木々の視点が導入されていている。「あなたにゐてほしい」はファンタジーでもある。木々と話ができるのは、渚だけ。 

 実は数年前、村にダム建設計画が持ち上がり、渚は少年熊太郎にそっくりの妖精に、ダム建設反対のメッセージを託されたことがあったのだ。村人たちの川を守る願いは結集し、ダムは村から去った。そして、村へのテレビ導入には木々たちは反対だった。しかし、熊太郎の夢を実現したいという渚の思いに「ぼくが、いや熊太郎が昔作ったアンテナだったら建ててもいいよ」と妖精が伝え、村にテレビがやって来るのだった。

 「昭和30年代の物語で、ダム、テレビ、そして戦争の傷跡、木々が語る日本の百年という視点も入れ込んで、単なるノスタルジーではなく、戦後の時代のカオスを未来に照射するかたちで描いているんですが、ちょうどぼくが小学校だった時代なんで、ぼく自身のカオスなんですね。そのカオスは撮り進んでいくうちに見えてくると言うか、よけい広がっていくというか。製作上のトラブルとかもイロイロあって、撮り足し撮り足しの試行錯誤のプロセスになって、それを整理するため、バラード以来、久し振りに章立てにしました。序章・渚から最終章・あまがけるまで20の章でできていて。そのカオスと章立てによる整理のせめぎ合いはかなり面白いですよ。いやあ、自分で制作もやってきたんで大変なことは大変でしたけど、と言うか、まだまだ大変なんですけど、こんなに面白い映画、滅多にないですね」と原は語る。

 「あなたにゐてほしい」には、役者としても活躍してきた鈴木清順監督を始め、頭師佳孝、麿赤兒、野上正義など映画界、演劇界を支えてきた20人以上の役者が出ている。「本当は、全部35ミリで撮ろうと思ってたんですよ。でも、カメラが音がうるさくて同録できないカメラだったから、アフレコって手もあったんですけど、芝居の部分はハイビジョンで撮ったんですよ。ビデオだと最小スタッフで、音も画も撮れますから。でもビデオはフィルムに変換してもやっぱりビデオなんです。フィルムの質感では無くなっちゃうんで、結果的には失敗でしたけど、おかげで、いろんなことが分かりました。実景はフィルムで撮っているんで、編集するには、フィルム部分をテレシネしてビデオにするんです。まあ、厳密に言えばハイビジョンですが、フィルムとビデオで撮ったものとをハイビジョンで統合してハイビジョン編集して、今度はそれをキネコっていってフィルムにビデオ信号を焼き付けてフィルムに変換するんですが、フィルムで撮った部分は、そのままフィルムに戻ります。ハイビジョンだとそれができちゃうんですよね。それをハイブリッドと呼ぶことにしました。ハイブリッドにすると、フィルム系の可能性がぐんと広がるんですね。最初からハイブリッドということを考えていれば、音がうるさくて同録できないと思っていたカメラでも同録できたんですね。スピードを落とすんです。通常のスピード(24コマ)の半分(12コマ)か、3分の1(8コマ)、に落とすとと、メチャメチャ静かですよ。それで、ビデオの段階でコマ延ばして、音とシンクロさせる。2コマか3コマ同じコマが続いて次のコマになる、動きは滑らかでは無くなるけど、昔の16コマの無声映画のようなチラツキは、勿論ありません。ぼくに言わせれば、粒子の移ろいが見えるし、よりイマジネイティブです。これぞ映画だと言えるほど、映画なんです。映画史的に見て、全く新しい映画です。コマを落としたフィルムによる、ハイブリッドの映画は、映画に新しい質感をもたらします。それと、ハイブリッドがいいのは、撮りが8ミリでも16ミリでも仕上がりは35ミリになる。8ミリで、コマ落として延ばすと、ほんとに印象派の絵画のような映画が出来上がるってことが分かりました。これには、まだ撮り足す画が2割ほどあるんだけど、それは8ミリのハイブリッドで行こうかなと思ってるんです。そうすると、ハイビジョン部分は、再生した液晶の画面を8ミリのハイブリッドで再度撮影して、マッチングさせるしかないのかなとか、これから技術的な試行錯誤が始まるんです。そのためのパイロット版なんで、そういう注釈付きで公開してもいいかなと、本気で映画とビデオの未来を考えている人には、完成版と見比べてほしいな、ということで、パイロット版の公開、真剣に考えています」と原は語っている。

初国〜エピソード1〜映画と云ふ神話

(新作 2007年完成予定 2〜3時間 休憩あり)

 この作品は神話と映画を巡るロードムービーである「初国知所之天皇」の続編であり、深層編である。「初国知所之天皇」は、神話をもとに、日本国家の起源を巡る旅が、映画の起源を巡る旅に変貌していくロードムービーであったが、本編では、天孫降臨以前のスサノオとオオクニヌシの出雲神話を巡る旅が中心になる。故に続編ではあるが、エピソード1なのである。8ミリフィルムを主に、また、「20世紀ノスタルジア」準備期間に撮られた、機材とメディアのための実験も、随所に挿入され、構成される映画エッセイである。ビデオ、ハイビジョン、8ミリ、16ミリ、35ミリとバラバラに撮られた映像を、それぞれの映像の違いを生に体験してもらうため、何か一つのメディアに統合せずに、それぞれのプロジェクターから送り出し、操作しながら説明していき、生で体験してもらう、久々の本格的なライブ映画になるであろうと原は語る。

 8ミリは今存亡の危機にあるが、8ミリこそが映画の深層にある、映画の崇高さに到達できるメディアであると、原は考える。この「初国〜エピソード1〜映画と云ふ神話」はロードムービーであり、歌(俳句)と地の文が入り交じる芭蕉的紀行文であり(8ミリフィルムとデジタルビデオの関係がそれにあたる)、と同時に、映画エッセイであり、映画による映画哲学の試みだ。

 「初国知所之天皇」は、16ミリで撮り始めながらも中断していた原が、粒子の荒い8ミリに遭遇することによって完成した。19世紀の印象派の絵画の絵の具と筆遣いに最も近い8ミリは、商業システムから外れ、4コマから24コマまでの可変速映写が可能な、音楽性を内在し、映画の深層に触れ、映画の崇高さにまで到達しうるメディアである。映画の起源にあった、動く印象派絵画としての、リアリズムではない映画への夢をはらみ、それを保ち続けている

メディアだ。ところが2006年、生産工程の老朽化によって8ミリの生産が不可能になった。一旦はそれに伴う販売中止が発表されたが、それを惜しむ声によって、纏め生産による5年間の販売延長が今年になって決定した。その5年間の需要によって、新たなる生産の可能性を探ると、メーカー側は言っている。そのきっかけにするためにも、原はこの作品を製作し広く公開したいと考えている。

 また、「20世紀ノスタルジア」の準備期間、原が撮りためたビデオは膨大な量にのぼると言う。実は、「百代の過客」を撮った時には既に「20世紀ノスタルジア」の準備に入っていて、「百代の過客」も、「20世紀ノスタルジア」のなかで、杏と徹が二人で撮る映画のテストケースとして撮ったと言うのだ。二人の登場人物が手持ちカメラと、据え置きカメラによって、二人だけで撮ることによってストーリーを物語ることができるのかという実験だったと言う。そう言えば、「百代の過客」で、軽ワゴンの天井から床にしっかりと張り渡した突っ張り棒に据え付けられたビデオカメラが、運転する原と同乗する息子のやり取りを余す所無く写し取っていたし、二人で歩きながら、片手を伸ばして、自分たちの方に向けられた超広角のワイドレンズを付けたビデオカメラは、全く手振れせず、ステディカムに装着されたような安定感でツーショットを撮り続けていた。

「歩きながらの手持ちカメラは、歩く揺れと同じリズムで揺れるので、前に向けると風景が揺れますよね。でも自分自身に向けると背景は揺れるんですが、向けた自分自身は驚くほど安定して写ることになるんです。並んで歩く人物も、共感作用が働くというか、無意識的にほぼ同じリズムで歩行するんで、同様に安定して写るんですね。走りながらでも、踊りながらでも、驚くほど安定するんです。しかも、その時シャッタースピードを落としていくと、背景は光の尾を引くように流れ、カメラを向けた自分たちは安定するというフォトジェニックな独自の質感が生まれるんですよ。『20世紀ノスタルジア』のミュージカルシーンはすべて出演者本人たちによる手持ちカメラなんです。あっ!と、ハリウッド映画もびっくりの、映画史上初の非ハリウッド的なミュージカルシーンです。特に東京タワーバックの『ニューロンシティー』なんか、スローシャッターの光の流れがメチャメチャ奇麗でしょう!」

 天動説ならぬ地動説、コペルニクス的転回とでもいうべきものであろう。原は、こうした自分の手持ちカメラによるセルフポートレイトを、向き合う人物を撮る時に水平のイマジナリーラインを想定し目線より下から切り返す小津ショットならぬ原ショットと称して、35年前の「初国」以来使い続けているのだが、レンズの反射をちらっと見ながらカメラを操作するフィルムカメラに比べて、対面式の液晶モニターの付いたビデオカメラになってから、運動神経が良ければ誰でもできる、簡単な特殊効果としての技法として完成した、と原ヘ言う。原ショットは35年前より露出していたのだ。

 「百代の過客」で再びビデオにより、高い精度で世に露出すると、誰彼となく使い始めた。簡単で驚くべき効果をもたらす便利なテクニックはあっという間に伝播する。海水で芋を洗うサルが百匹を超えた時、世界中のサルが海水で芋を洗うようになったのと同じ現象が起きた。もはや、それが原ショットであるなどとは誰も言わない。誰も知らない。「私的ドキュメンタリーばかりか、アダルトビデオ界で堂々と使われちゃ原ショットも形無しですよね」と、原は苦笑する。「後世の映画史家が原ショットを再発見するのを待つしかないんですかね?ところでそれは何世紀後でしょうね?映画という言葉、まだ残っていますかね?まあ、でもミュージカルシーンに使ったのはあれが最初ですから。ああそれからね、20世紀ノスタルジアの本編に未収録の『遺跡めぐり』っていう取って置きの歌があるんですよ。片岡徹の地球滅亡を予告するビデオクリップのなかに挿入したかったんですけど、ちょっと途中でキーが変わったりするんで難しいんですよ。練習期間も無かったしそれでカットしたんですけど、かなり重要な意味を含んだ歌なんですよ。

♪〜遺跡めぐる観光ツアー

  タイムマシンに映るノスタルジアのパノラマ

  20世紀の幼い夢の織りなすジャングルに

  彼らも美しさと懐かしさを感じるだろう

 ああ、20世紀ノスタルジアというタイトルですけど、百代の過客の最後に、『ノスタルジア 映画たまいし 20世紀に感謝』 って俳句がでてくるんですけど、そこからとってるんです。20世紀ノスタルジアって映画のことなんです。その前のナレーションはこんなです。

 <おそらく、20世紀は映画の時代だった、21世紀にはそう語られるだろう。映画ができてから人々は、映画の1シーンのように過去を思い、思い出を語る。だから、都市や風景の変貌も、映画の1シーンのように自明のこととして受けとめてしまう。現在すらも、一瞬のうちに、映画の1シーンになってしまう。ノスタルジアになってしまうのだ。 おそらく、私は別な機会にこのことを語るだろう。 20世紀の私たちのものの見方や考え方に、こんなにも影響を与えた映画のことを。>

 次は、初国知所之天皇のなかです。

 <まるで映画を見ているようだ。まるで見ているようだ。旅に出てからそう私は何度つぶやいたことだろう。似通ってはいるが見ず知らずの土地に分け入り、あるいは、幾度か立寄り見知っているはずの街が突然見知らぬ街に変貌するのに立ち会い、晴れたり曇ったりする光に和音に、遅ればせに自己の和音をのせながら、まるで映画を見ているようだ、そう何度つぶやき、つぶやき続けたことだろう。>

 でも、この映画っていうのはフィルムなんですよね。ビデオだと、ドゥルーズの言うように、フィルムの自然と人間の関係が、都市と脳の関係になっていうわけです。それは、20世紀ノスタルジアで、徹という男の子がビデオで都市を撮っているうちに、脳にダイレクトにきて、不眠症になってしまうというエピソードがまさにそれを語ってるわけです。ビデオのドットの点滅と脳のニューロンとシナプスの関係に近いんですね。だから厳密に言うと、杏が新しく撮り始める映像は8ミリフィルムでなければいけなかったと今は言えますね。撮影している時、ちらっと思ったんですけど、当時は、8ミリがこの世から無くなるかもしれないという危機感も無かったし、だから今ほど真剣にフィルムとビデオの違いを考えていなかったので、シナリオの段階できちっと詰め切れなかったんです。」

 原の新作ライブエッセイ映画は、出雲神話と都市文明との間の時空を行き交い、映画と何か、映画の起源と映画の未来についてのすべてを投入すると言う。

 

 

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