万葉律 映像 短歌・俳句 guidance

映像短歌・俳句

映像を撮りながら、短歌・俳句を詠む。

あるいは、短歌・俳句を詠みながら、映像でも短歌・俳句を詠んでいく。

五七五あるいは五七五七七のリズムにのせて、 日本の伝統的なうたのリズムを感じながら
カットを重ね、その場で短い映画を撮る。

それを万葉律と名付けよう。




<うた>は先にあってもいい。
並行してあってもいい。
映像を撮った後から、撮った映像を見ながら考えてもよい。






撮り直しはしない

編集しながら撮ること。

すると、<うた>のリズムと編集しながら撮ることが、映像に独自の緊張感を与え、
それを繰り返しているうちに、映像力が高まる。





映像と<うた>のセッション

映像短歌・俳句にはどうしても<うた>の言葉が必要である。

映像だけで<うた>を詠んでみると、これが、意外にも面白くない。

言葉で考え、映像を撮っているのに、その言葉が隠れてしまうからだ。
そして、映像も、隠れている言葉に足を引っ張られて、
テンションを上げていくことができず、それらしい意味あり気な映像の羅列になってしまう。


 芸術は身体と魂の解放だ。天真爛漫でなければいけない。


映像に<うた>の言葉をぶつけることは、
身体と魂の解放が解放されるためのかなり有力な方法となる。  
言葉と云っても、<うた>の言葉は韻律だしリズムだ。

主語があり動詞があり、形容詞があり、助詞があり、
目的語があるという散文とは異なって、運動的だし、時間的だし、音楽的だし、映像的だ。

 まさに、映像は<うた>なのだ。映像は、運動だし、時間だし、音楽だ。

光の音楽、
光楽なのである。

映像に<うた>の言葉をぶつけていくとそのことが分かってくる。

 映像には足し算と掛け算がある。

説明的な映像は足し算だが、<うた>の映像は掛け算だ。

足し算はどこでも学べたが、掛け算は今まで誰も教えてくれなかった。




身体のリズムを感じながら直感で撮っていく

<うた>が明確に言葉として、できてなくてもいい。
とにかく、言葉が言葉になる前の感覚に身を委ね、感じたものを、感じたように撮っていく。


後で言葉を付けて、<うた>に纏めていくのだと思うと、言葉で考えずに、感じたものが撮れる。直感で撮っていくことができるのだ。でも、撮りながら、どこかで<うた>の韻律、リズムを感じている自分がいることに気付く。それは、呼吸のリズムであり、心臓の鼓動のリズムでもある。撮るという行動によって、脳・感覚系と、身体・循環器系が結びつく。


それは、今ここにいることがまるごと肯定される、至福の<撮ることの時間>なのだ。





<うた>を待つ

ある程度直感を頼りに何カットか撮っていくと、<うた>の言葉が、ムクムクと頭をもたげてくる。ある纏まりを感じた映像が、<うた>に纏めてくれと要求する。


そこで、<うた>を纏めて、ノートに書きそれを撮る。あるいはカメラに向かって詠む。


 もちろん、途中で言葉が浮かんだら、短歌の場合だったら、最初の五文字でも、五七五でもいいのだが、それをノートに書き、撮っておく。そして、その後、七七に相当するものを撮り、先ほどの五七五に、七七の文字を加えて、その完成した短歌を撮る。その七七によって、最初の五七五が変わってしまうなら、それはそれでよし。


新たな短歌をしたためる。

撮り直しはしないことを原則としよう。編集しながら撮るのだ。撮り直しをしていくと、
すべてのカットは分解し、散文的になってしまう。

 編集しないこと。編集しながら撮ること。このことの意味は実に大きい。撮っている時の緊張が見る時間にまで持続していくことになる。この時間の持続感が身に付けば、編集にもその持続感を持ち込むことができる。編集しながら撮ることによって本物の編集力が身に付く。





目とカメラが手で出会う

すべてはカメラを手にすることから始まる。  
手は東洋医学の系絡の考え方から言っても脳・感覚系と身体・循環器系が出会う場所である。


 カメラを手にして、撮るべきものを探す。


目を見開き、眼で探す。見るのではない。貪欲に眼から触手を伸ばすのだ。触りたい、食べたい、嗅ぎたい、接合したい、欲しい、吸収したい、ある意味では原始的で本能的なあらゆる身体感覚を総動員して、眼から触手を伸ばすのだ。植物と違って、空気や水から直接栄養素を吸収できない我々動物は、食物を捕獲するための運動機能と眼を授かった。その本能が眼にはあるのだ。

 また、或る時は、進化をもっと遡ってみてもいい。植物と動物に分かれる前まで遡って、植物的な感覚で撮りたいものを探してみる。一本の大きな木にでもなったようなつもりで、見渡してみる。眼の貪欲な本能から離れて、大気から直接栄養素を吸収する気分で、大気にカメラを向けてみたらいい。その時、広い広角の映像が撮れる。

 そんなことを考えながら、カメラを持ち歩くだけでも楽しい。<撮ることの時間>にいのちの進化のすべての過程があるなんて、ちょっと考えただけでも楽しい。





カメラの時間は呼吸ではかる

撮るべきものが見つかったら、カメラに手を添えて持ち上げて、目の位置に持っていき、ファインダーを眼で覗く。この時から、貪欲な動物的本能と植物的本能を融合、統合させよう。


フレームを決めるのだ。


フレームが決まったら、ちょっと動物的本能を前に出し、植物的本能でカメラを回し始める。カメラが回り始めたら、植物的な身体・循環器系に全てをゆだねよう。手持ちカメラの、その揺れは呼吸と鼓動と血流のリズムだ。1、2、3・・・と秒数によって測ってはいけない。ファインダー内の秒数表示も無視しよう。


ひと呼吸、ふた呼吸・・・自分の呼吸あるいは心音によって時間を測り、納得のいったところでカメラを停める。あるいは、パンしたかったらパンしてもいい。始まりの画と終りの画をしっかりと決めてからパンしていく。始まりの画でひと呼吸、カメラの移動でふた呼吸、止めの画でひと呼吸と、この時も、自分の身体のリズムで時間を測っていく。


このパンは、五七五の3カット分に相当するかもしれない。
このパンだけは例外的に撮り直しが認められるかもしれない。
納得のいくまで繰り返したらいい。


マニュアル操作が可能ならば露出などの操作などを行えば、
<うた>の言葉の助動詞的なニュアンスに相当するものが加わるだろう。


 フィックスで撮るにせよ、パンするにせよ、手持ちカメラのその揺れは、それをスクリーンやモニターで他者が見る時、それが、見る者の身体・循環器系と共感的な関係に入れば、他者は心地よく見ることができよう。





欲しいものを探す(あなたはどんな画を食べたいのか?!)

ワンカット撮ったら、頭のなかでそれを何度もプレイバックしながら、次の画を探す。

記憶が不確かならば、撮ったものを見返して、頭の中の映像を鮮明にしてやればいい。
とにかく、プレイバックしながら次の画を探す。動物的、植物的本能と感覚をフルに使って、貪欲に探す。


 何が欲しいのか?何が気持ちいいのか?何が面白いのか?何が刺激的なのか?


我と我が身に尋ねつづけるのだ。

サイズはどうか?アップを撮ったから次はロングの広い画だろう、イヤ、同じサイズをかさねるかな、とか、動きは?右から左へ動いたから、次は、左から右へ、かな、イヤ、正面への動きかな、イヤ、同じ動きを重ねるかな、イヤ、カメラの動きでいこう、などと本能や感覚だけでなく、知性もフル回転させて考えていく。身も心も総動員するのである。そんな作業を繰り返していると、不思議なものでふっと<うた>の言葉が浮かんでくるものだ。そしてその時、何を撮るべきかが明確に分かる。


 これを繰り返しカットを重ねていくうちにストーンと直感的に、落ちてくるものを感じる。身体的にも心的にも、達成感と安堵感がやってくる。これが短くてもひとつの作品を仕上げた時の喜びなのである。この時、もう、<うた>の言葉はすべて浮かんできているはずだ。

 その浮かんできている言葉をノートに羅列し、前に持ってきたり後ろに置いたりしながら、並び替え、五七五あるいは五七五七七の<うた>の体裁を整えていく。これはクリエイティブな時間の最後の、最高に楽しい時間かもしれない。


字余り、字足らず、あえて定型を破ってしまうのもいい。

その時は、直感をもって、自信を持ってやってしまおう。
そしてそれを、余裕を持って読める秒数でカメラに収めて、映像短歌・俳句の完成となる。

そこで、映像と言葉を続けて見直してみて、ひらめくものがあったら、さらに、もう一首詠んだり、<うた>の言葉の後にワンカット加えるのもシャレている。



映像力

フィルムの時代に比べて、デジタルビデオとパソコンで編集がいとも簡単にできるようになった今、私たちの映像力は確実に落ちていることを知らなければならない。


その場で撮ったものを見ることができない、フィルムには特殊な見る力が要求された。

その場で撮ったものが確認できないフィルム撮影では、撮りながら、現像された状態が見えなければならなかった。時間の持続のなかで、時間を超えて見ることが要求された。それが撮影現場の緊張感をもたらし、作品に於ける映像の力にも反映された。しかし、ビデオ撮影ではその場で確認できるし、ある程度写っていれば編集という後処理でどうにでもなることから、緊張感は薄れ、時間感覚を伴う映像力が確実に低下してしまうのだ。


 その映像力のことを、私は<映画の力>と呼びたい。


ビデオ映像が記録だとすると、映画(フィルム)は表現なのだ。
ビデオは記録性に於いて非常に優れているので、その記録性に足を取られて、
表現に到達できない。


ビデオで映画を目指しても、自分探しのドキュメンタリーや、劇映画を撮ろうとしても映画ごっこの記録になってしまうことが多いのも、そういうことだ。


 撮り直しをしないことを原則に、撮ったその時、再生出来るというビデオの長所を最大限生かして、その場でひとつの作品を仕上げてしまう映像短歌の試みは、ビデオの記録性が<映画の力>、表現を取り戻すことにもつながる。







トップページへ||御感想はこちらまで

ムービースターズプロジェクト