1 到達度評価は、絶対評価でも相対評価でもない
2 目標には、到達目標と方向目標の二つがある
3 教師の目標づくりは、子どものそれの代行である
4 目標内容は、科学・芸術・技術・言語・運動、つまり人間の
現実認識と感応の表現であり、その成果である
5 目標の間には系統と構造がある
6 精選された目標に即して、豊かな教材・教具が準備される
7 目標・教材の構造が、指導過程を決定する
8 指導過程は、基本性の指導と発展性の指導の二段階からなる
9 目標内容への習熟が、意欲を育て、関心・態度を育てる
10 到達度評価は、子どもたちの間に教育的な学習・生活集団をつくりだす
11 評価は、診断・形成・総括の三つの機能にわかれ、その方法は多様である
12 回復指導は、子どもたちの到達段階に即して、多様に工夫される
13 到達度評価の評定のものさしは、到達目標である
14 形成テストは、通知票の点数には加えない
15 総括テストでは、あらかじめ到達(合格)基準が決められている
16 教えないものはテストに出さない
17 通知票の項目には、教科の名前ではなく、教えた内容をかく
18 到達度評価型の入試制度は、資格試験・進級である
19 到達度評価は、教師の力量を育て、民主的な学校をつくる
20 到達度評価は、父母との対話・信頼の道を開き、父母の学校参加を準備する
21 到達度評価は、だれでも、いつでも、どこでも、できる
1 到達度評価は、絶対評価でも相対評価でもない
到達度評価の立場は、これまでの相対評価や戦前の絶対評価とは評価のあり方についての基本的な考え方や原理・原則を異にします。到達度評価の理論と実践は相対評価や絶対評価のもつ教育評価論としての問題点や欠点を克服して、教育の場にふさわしい評価のあり方を模索する教育運動の中から生まれました。相対評価は、統計学の正規分布曲線の理論を使って、個人の成績を学習集団全体の中での順序、位置として表すことにより学力を評価しようとしてきました。この評価のやり方は、戦後の教育改革のなかで、戦前の主観的な評価法を批判して、より合理的客観的な評価の方法として導入されて以来、今日までわが国の小・中学校の評価方法の主流となってきました。このときに批判され、相対評価に対して絶対評価と呼ばれることになった戦前型の評価法の問題点は、評価の基準が教師の主観に委ねられてしまい、また学力の評価に態度や関心の評価が混同されてしまうというところにありました。
一方相対評価論の方法は教師の主観を排するという点では確かに有効だったわけですが、子どもたちにどんな学力がついたかという肝心な点がこの方法ではわからないという、教育評価の方法としては致命的な欠点を抱え込んでいました。
到達評価の理論と実践は、これまでの評価法にかえてすべての子どもたちに学力を保証する教育評価のありかたを追求するものです。
<田嶋 一=国学院大学>目標は、その設定のし方の違いによって、到達目標と方向目標に大別される。
到達目標は、「ひらがなの文章が読める」「くり上がりのある足し算ができる」のように、最低限ここまでという内容が実体的に設定されている目標である。それに対し方向目標とは、「数に対する興味・関心を育てる」「のびのびと楽しく歌う」のように方向性だけを示し、ここまでという限定のない目標である。現在、教育目標には、この二つの目標が混在している。
目標設定の違いは、教育についての基本的な考え方にかかわってくる。目標を方向目標として設定することは、学習の水準や対象がある方向性の延長線上に無限に広がり、ある学年段階で獲得すべき教育内容を確定するのがむずかしい。そこには、子どもたちの学習の達成は、水準にばらつきがあるのは当然で、だから目標の方向線上にあればよいと考える。ある段階でだれもが獲得すべき最低限の教育内容を確定していくことを意味する。到達目標は、どの子も到達すべき目標である。
到達度評価は、目標にてらして教育的活動の成否を点検するのであり、目標を到達目標として設定することを基本とする。どの子にも基礎的な学力を保障していくために、従来方向目標として表現されていた目標を、到達目標へと設定し直していくことが求められている。
<山口修平=埼玉純真女子短期大学>到達目標(内容)は子どもが目あてとして持つ発達課題である。そしてそれを教師がしっかりと作ることが、子どものそれの代行であるとする理由は次の4点に示される。
第一に、国民の教育権保障とは子どもの発達権・学習権の保障である。教師の教育活動はそのための親権(義務)を付託されたものである。そこでの教育目標は、到達目標・方向目標を問わず、子どもの発達課題を具体化したものであり、本来的に子ども自身のものである。
第二に、教育目標は、科学・文化の系統性と子どもの能力の発達の順序性の交点で設定される。それはまた、発達の最近接領域(ヴィゴツキー)としても表現される。しかし、その系統性、順序性の把握は子どもたち自身によるのは無理であり、専門家としての教師が代行しなければならない。
第三に、到達目標はより具体的に設定されなければんらない。それはまた、しっかりとした教材解釈にもとづく教材の系統性や指導過程の明確化の作業でもあるのである。こうしてはじめて、子どもたちの「つまずき」とそれへの対処が正しく捉えられるのである。
最後に、その到達目標が日々の学習過程を通して、子ども自身の目やす、励ましとなるように、目標が自覚化されるような授業の展開も大きなテーマとなるのものである。
<内海和雄=一橋大学>4 目標内容は、科学・芸術・技術・言語・運動、つまり人間の現実認識と感応の表現であり、その成果である
到達目標は各学校段階の各教科に即して設定される。従って、今、目標内容の範疇として、言語的認識・数量的認識・科学的(社会科学と自然科学)認識・技術的認識・身体的運動的認識・芸術的認識・道徳的認識を想定することができる。これらの認識の内実=目標内容は、一方では学習者によって習得されるべき「内容的局面」と、他方では彼がそれを学習するために必要とする認知的な「行動的局面」によって構成される。「三角形の面積を求めることができる」という目標の場合、三角形の面積は内容的局面であり、底辺×高さ×1/2という求積操作が行動的局面となる。到達目標の実施巣には、教科として系統化され、論理化された科学と学問の内容と、それらの知識あるいは認識の成果を、学習かがわがものとしてかちとるために自ら追求しなければならない、認識の論理・認知の構造が示唆されている。
このように、到達目標は授業を通じて学習者が習得すべき学習の結果あるいは学習の到達基準を示している。授業は、学習者がこの学習結果の完全獲得と到達基準への完全到達を実現するための営為である。目標の行動的局面に即して最良の教育内容の計画的組織化が遂行されることになる。従って、到達目標の設定によって、教育課程自主編成の論理が明確になったということができる。<稲葉宏雄=京都大学>到達度評価の推進は、質の高い・分かる授業の飽くことのない追求であり、すべての子どもに基礎学力をつけることの極限までの試みである。そのための第一の課題が、到達目標をどのようなものとして設定するかである。
学校の教科指導では、前項で述べたように、すべての子どもに、人間としての発達に欠くことのできない、科学・芸術・技術・言語・運動つまり人間の現実認識と感応の方法とその成果を、基礎学力として身につけさせ、それを生活の中に生かし、生活を向上させ、社会の発展を実現する力として発揮できるようにすることを最終目標とする。
私たちは、子どもたちが、毎日の学習を積み重ねることによってこのような基礎学力を確実に習得することができるようにするには、無系統な教材の詰め込みではなく、この教科目標を教科の構造と子どもの発達の筋道に従って系統づけ、学校階梯全体を見通した学年目標、基本的指導事項ごとの到達目標、さらに毎時間の達成目標を、「何のために 何を・どこまで・どのように教えるか」という、教科の構造と子どもの発達の筋道をふまえて、科学的客観性と実践的普遍性を備えたものとして設定する。
このことが、子どもたちに人間としての豊かな発達の基礎として不可欠な基礎的・基本的な学力と主体的・能動的に学ぶ意欲・習慣・態度を身につけることを保障する前提条件でもある。
<中原克巳=京都府立鴨き高校>到達度評価の実践において重要なことは「何を教えるのか」(目標の設定)を考えてゆくときに、その目標が教育的価値をもち、教科の系統と子どもの実態からみて、欠くことのできないものを重点的に選んでいくことである。到達目標として設定させる学習項目の量が問題なのではなく、重要な内容をよくわかるように学習するという「質」が問題としてとらえらえれなければならない。教育内容はできるだけ少なく、重要で基礎的・基本的なものにしぼっていくこと、あるいは、教科書の内容の中で重要なものについては充分時間をかけ、そうでないものについては軽く扱っていくことが「教育目標の精選」である。目標を精選し内容を少なくすることは、授業時間を減らすことではない。「少ない内容を、豊かな教材や教具で」十分な時間をかけて授業しなければ、子どもたちに内容を十分に理解させ、目標に到達させていくことはむずかしい。現行の学習指導要領小学校理科では、動物の発生は「めだか」しか扱わない。しかし、メダカの卵は小さい上に、温度調節が難しいし、日本国内でもメダカの住んでいない地方(河川)はいくつもある。そのため、きわめて人工的条件を設定して、教室内で実験をすることが多く、発生の仕組みについてよく分からないまま終わってしまう子どもが多い。蛙、いもり、やもり等の野生動物や、にわとり等の家畜など豊かな教材を使って学習すれば、子どもの理解を深めることができる。
<高橋哲郎=福井大学>異分母分数の加法が「できる」という目標について1/2+1/3=5/6を例に考えてみよう。
(以下、画像準備中のため今少しお待ちください)
学力については、 @基本性−すべての学習者が身につけるべき内容(概念・技能など) A発展性−基本的学力内容を適用・応用・複合・総合させて、より高度の上位概念形成と技能、さらには教育目標が示す人格形成にせまる内容。 のふたつに区分して考えられる。
指導過程においては、まず個々の教材目標を明らかにし、その基本性に属するものを取り扱い、個別概念及び技能を身につけるよう配列を計画する。
教科目標にそい、教材の目標分析により、基本性と位置づけられる学力形成をはかった後に、獲得した個別概念・技能を、より高度・複雑な上位概念形成と、高度の技術獲得に向けて、適用・応用、及び個別概念の複合・総合をはかる指導計画を組むべきである。この段階の学習過程を学力の発展性の指導と位置づける。
発展性の指導段階では、すでに獲得した基本性学力の習熟と、上位概念の形成、より高度の技能の獲得を目指す目標を設定すべきである。
その学習カリキュラムの進行につれて、学習者のより深い教材に対する理解と洞察、学習意欲の形成がなされ、新たに展開する世界を獲得する喜びと、豊かな教養に支えられる人格形成が期待される。ふりかえって、このような発展性を支える基本的な学力形成をはかる必要がある。
<仲野治雄=京都市立八条中学校>到達度評価では、学力を基本性の段階と発展性の段階に分けてとらえています。そして、この発展性の段階の学力を「習熟」という言葉で表しています。
しかしここでいう「習熟」とは、例えば計算や漢字など何かの技能について機械的に繰り返し練習するといったものとはちがい、知識の習得の発展的形態として位置づけます。「科学的概念や各種の芸術的形象、そして方法や知識などの到達目標の内容をなしているものが学習主体によって十分にこなされた形態」を「習熟のレベル」と考えています。つまり、学習者の生き方、思考力、態度などの人格的価値を包摂した概念として位置づけているのです。これによって、関心・態度の形成を子どもの個人的な責任にせず、また道徳教育の強化へ進むこともなく、あくまで教科指導における教材や指導過程の問題としてとらえることができるわけです。
このように、到達度評価の学力論においては、関心・態度を学力に含め、知的なものと態度的なものとを対立させるのではなく、知的なものを保障しながら態度的なものを形成しようとする統一的見方に立っています。
ですから、目標内容の基礎的な知識・技能の習得とその「習熟」こそが、その知識・技能をもとに、学習者が意欲的に、様々な事象に対する関心を育て、自分なりに問題を解決しようとする態度を育てることになると考えるのです。
<橋本衛=神奈川県大和市立南林間小学校>10 到達度評価は、子どもたちの間に教育的な学習・生活集団をつくりだす
学校は”ヒト”を”人間”にする場所である。自然的存在が社会的存在へと成長する場である。その学校で子どもたちが病んでいる。教師が、管理体制の強化の下でバラバラにされる。指導要領、教科書等の改悪で教える事項が多すぎて、”むずかしくて、わかりにくい授業”を強いられている。子どもたちは、相対評価の通信簿や内申書などによる差別選別の評価の体制の中でバラバラにされ、お互いに信じられずに、ときには憎みあうようにもなってきている。
到達度評価は若くて新しい教育科学である。すべての子供に確かな学力を保障する評価である。評価とは”励まし”である。「これだけわかればいいんだよ。みんなで励まし合ってがんばろう」と、到達目標を明示した分かる授業をつくりだしていくと、子どもたちは少しずつうちとけて、お互いに教えあうようになる。すべての子供に学力を保障するためには、子供の集団化は欠くべからざるものである。その際、授業の発話や教材などすべてが”人間的文化的”であることが大切である。
「中学3年間の英語の授業で一番うれしかったことは」の問いに「1年のとき班の人にむりやり暗記させられて、本をみないで班の人とみんなで暗唱できたこと」と答えたT君は、英語卒業文集に”Junior Hight School/Learn,answer,read/Useful,important/We are enjoying life/Junior High School"と書き、胸を張って卒業した。
<阿原成光=東京都練馬区立石神井中学校>11 評価は、診断・形成・総括の三つの機能にわかれ、その方法は多様である
到達度評価は、学力形成の過程をよりリアルに認識するために、評価の機能を三つに分けている。
「診断的評価」とは、子どもたちがこれから取り組むことになる教材や単元について、どの程度の理解力をもっているのかを知るために実施される。そして、もし不十分な時には、必要に応じて回復の指導が行われる。
「形成的評価」は、到達度評価がはじめて明確に提起したものであって、授業過程の中で実施されるものである。それは、従来から、授業のうまい教師が授業中の子どもの反応を知るために工夫してきた様々な教育技術(机間巡視やノート点検または小テストなど)を、形成的評価という形で取り出し、すべての教師の共有財産にしようとするものである。そして、その結果に基づいて、教師は自らの授業実践を修正するとともに、子どもたちにフィードバックされた結果に即して自らの学習活動を点検していくのである。
「総括的評価」は、ひとまとまりの学力単位の実践が終了した段階で実施され、同じく教師と子どもたちの教授=学習活動を反省するために活用されるのである。
ところで、評価を三つの機能に分けるということが、テストを無闇に多用することと誤解されてはならず、評価を実施する肝どころ(つまずきやすい箇所)などを発見するとともに、適切な評価方法(テスト形式や発問・レポート等)を工夫することこそが、大切なのである。
<田中耕治=大阪経済大学>12 回復指導は、子どもたちの到達段階に即して、多様に工夫される
到達度評価の目的は、すべての子供を目標に到達させることにある。したがって、評価の結果「つまずき」が発見されたときは、子どもたちの到達段階に即して、多様な方法による回復指導が必ず行われなければならない。
授業中における回復指導の方法は、
@同じ学習課題による回復指導
A到達度別による回復指導
B「つまずき」類型別による回復指導
に分けることができる。
@は、子どもたちの「つまずき」の程度や型の個人差が小さい場合に有効な方法で、再授業をする、補足説明する、すぐれた解答や感想文をみんなに紹介する。誤答を訂正させる。ヒントを与えて再考させる。班や全体で話し合いや教え合いをさせるなどが行われている。
Aは、子どもたちの「つまずき」の程度の個人差が大きい場合に有効な方法で、到達の程度に応じ、いくつかのグループをつくって別の課題を与えたり、個別指導をしたりする。
Bは、子どもたちの「つまずき」にいくつかの類型が見られる場合に有効な方法で、その類型に応じて、学習プリントなどを用いて別の課題を与えるものである。
回復指導は、民主的な学習・生活集団をつくりだすことに寄与するものでなければならない。また、今後ますます多様な方法を工夫し、蓄積していく必要がある。
<水川隆夫=京都女子大学>対象の性質や状態について価値判断を下すことを評価とよんでいる。価値の判断は目的とのかかわりの中で可能となるから評価は目的と切り離せない。このことは教育における評価でも同様で、教育評価は教育目標実現とかかわって問題となる。目標実現の程度を判断するためには、まずその状態が正確にとらえられる必要がある。その際、とらえ方に3つのタイプがある。第一は、判断の基準を判定者の内部に求めるもので専門家としての判断を何よりも重視するという考え方である。これについてはその主観性や信頼性の欠如が批判される。第二の考え方は基準を働きかけの対象の集団の中に求めるもので、集団内のどこに位置するかで目標実現の程度をとらえ記述する。この方法は判定者の主観性を排除するという意味で客観的であるが、事柄を集団内の相対的位置関係に移し変えるため、目標の内容との関係がきれる。第三の考え方は、目標に注目し、目標への到達度で状態をとらえる。ここでは到達目標がカギとなる。それぞれの方法で状態をとらえ、それに価値判断をくだしたものが評価である。第一の方法に絶対評価、第二のそれに相対評価、そして第三の方法に到達度評価が対応する。基準への照合過程を物差しのあてはめと考えると、到達度評価における物差しは到達目標によって形成され、また刻まれることになる。相対評価のそれがノルムからのズレや累積比率で刻まれるのと対照をなす。
<三井大相=東京経済大学>形成テストは一般に毎時間の授業終了時、あるいは一つの教材の指導終了時に、「個々の教材のねらい」が達成されたかどうか、を点検するために行われる。この点検活動こそが到達度評価の中心的機能であり、その特徴なのである。つまり、教えられた直後にその学習状況を正しく把握し、つまずきが見られる場合には、それに相応しい回復措置と助言、励ましが与えられ、支えられ、日に日に教科指導を通して勇気づけられるのである。一方到達している場合には深化学習が用意され、一人ひとりの個性の伸長に役立つのである。ここにこそ到達度評価の求める教育の真髄があるといえる。従って形成テストは選別し序列をつけるためのものではなく、児童生徒の学習状況、教師の指導状況についての正確な情報を得る、つまりフィードバック機能なのである。その意味で教師の側には少なくとも同一学年、同一教科内での共通したテストに対する発想の転換が必要になってくる。
ところで形成テストの結果は、児童生徒の発達、成長に役立てるために、例えば児童・生徒学習進度記録簿等に記入されるが、絶対に通知票、内申等の評定を出すための資料にしてはならない。というのは、形成テストは児童・生徒を成長させ、勇気づけるためのものなので、それ以外の目的に使用することは有害であることが実践的にわかっている。あくまでも、形成テストのねらいは「終わり良ければすべて良し」である。
<大西匡哉=京都府立鴨き高校>15 総括テストでは、あらかじめ到達(合格)基準が決められている
総括テストは、学習してきた単元での子どもたち一人ひとりや集団の学習上の到達点や弱点を明らかにすることをとおして、教師と子どもたちの実践や取り組みを検討し、次の課題をさししめすためのテストです。
従って、このテストでは子どもたち一人ひとり(あるいは集団)の学習がどこまで到達しているかを知るために、この設問ではこのように(質)・これくらい(量)できていたら到達していると見ることができる到達(合格)基準をテスト作りの時点であらかじめ定めておくことが必要です。
この到達(合格)基準は、各設問の内容や量によって異なります。ある設問では100パーセントできなければ到達したと見ることができないものもありますし、80パーセントできれば良しと考えられる設問もあります。しかし、これまでのさまざまな実践をとおしてほぼ言えることは、全体として80から85パーセントできていれば到達(合格)していると見て良いように思われます。
また、私たちが注意しなければならないことは、テストの中であらわれた子どものつまづきをを注意深く分析し、子どもたちの学力の実像を明らかにすることです。つまずきの分析は、テストを判定の道具から指導の道具へ変えるポイントです。到達(合格)基準が、子どもをふり分けるだけの基準とならないよう十分注意すべきです。
<滝沢孝一=東京都昭島市立玉川小学校>到達度評価におけるテストの目的の一つは、教師が授業の中で教えたことを子どもがどの程度学習しているのか、またどこでつまずているのかを把握することにある。そして、テストの結果を分析して、次の授業の改善のためにそれを役立てるのである。このように、到達度評価においてテストは、到達目標を設定し、授業を行い、その結果を確かめ、さらに次の授業にも生かしていくという授業実践の過程に位置づけられている。テストは本来このように使われるべきであって、単に子どもをランク付けするための手段であってはならないのである。到達度評価においては、それ故、教師は授業の中で教えたことをテストしなければならない。教えないものはテストに出さない。これがテストづくりの原則である。
しかし、このことは教えたことと同じ問題のみをテストに出題するということではない。教えたこととかかわってのことなのである。テストに出題する問題は、その授業の到達目標に即していて、かつその目標への到達度を把握できるものであれば、必ずしも授業の中で教えたことと同一の問題でなくてもよい。
テスト問題は、その授業の到達目標と指導過程に即して作成される必要がある。問題のむずかしさの程度も到達目標と指導過程にてらして適度なものにしなければならない。
<大津悦夫=立正大学>17 通知票の項目には、教科の名前ではなく、教えた内容をかく
子どもが通知票を手にしたとき、その項目に目を通す。その学期で学習した内容が浮かんでくるに違いない。
通知票には「合同の意味がわかり、三角形をかくことができる」、「倍数・約数の意味がわかり、求めることができる」などと表記してある。
通知票には学力の単位ごとの項目がかいてあって、子どもの学習目標になっている。その学期に学習した事柄が評価してあって、自分ががんばった学習は良い評価がしたるし、自分がさぼった学習は、良くない評価になっている。
つまり、他人との相対評価(順番のパーセント)で評価をしていない。
子どもたちは、自己の学力の状況が、学習をしたときの様子とともに、一目でわかるようになっている。
先生から「がんばりな!」と声をかけられたとき、「何をがんばればよいか」内容がすぐにわかる。
ある学校でのことである。分数の項目に「がんばろう」がついていた。冬休み、先生といっしょに回復学習をした結果、分数の学習ができるようになった。先生は、二学期の通知票の分数の項目に「1月5日、回復、できる」と訂正をした。
通知票は学習の到達結果を表すと同時に、学習経過としての性質も持っている。
<山路信明=京都府立城陽市立久世小学校>教育評価が、子ども・青年の発達を援助するものに必ずしも成り得ていないわが国の現実は、高校や大学の入学試験制度に、一種の相対評価に基づく選抜方式を採用してきていることに関わっている。これを、青年期の発達にとって教育的意味(個性の発見・伸長、進路選択能力の育成)を持ちうるものに変革していくための基本方向は、資格試験方式(到達目標を基準とする絶対評価)を導入することである。ここでの資格とは「下級校の教育課程の表示する教育目標にてらして、被験者が何を、どこまで教えられて得ているかを示す」(中内・『学力と評価の理論』・国土社)ものである。到達度評価の理論に立脚した資格試験方式を入試制度に導入するためには、およそ次のような前提条件が必要である。
@下級校の教授目標を到達目標にした、公認された学力モデルが必要である。
A下級学校の各学年での到達目標、評定の観点が明確にされ、その到達度によって進級が決定されること。
B出題や資格認定(判定基準を正答率でどこにおくか)には、上級受け入れ校および下級校の両者が共に関与すること。
C有資格者数は年度によって変動するため、受け入れ校の定員数に柔軟性があること。
D受験機会は年1回でなく数回とし、復活の機会があること。
E特定の教科・科目すべてに同時合格のセット方式でなく、個別科目の選択受験方式で科目ごとに合否が決定されること。
<天野正輝=京都大学>到達度評価は、学力評価と指導過程の広い意味での教育技術の開発をめざしており、わかる授業づくりと一体のものであるとともに、子どもの学力保障という視点から、教育研究、教育実践の諸潮流をその意図と到達度において整序し、その知見と英知とを結集する力と役割をもっている。それは、諸々の教育研究の総和の上に成り立ち、教育実践の協同化と分化をより効果的に組織し計画化して絶えず学校本来の教育力を高めんとする地道な努力へと発展す必然性をもっている。これゆえ、到達度評価の実践では、一人でもやれるところから始め、仲間を広げていき、少なくとも学校全体の実践としなければ完成しないのである。
到達度評価は、教師に子どもの学力保障の責任を自覚させ、教育実践の課題を明らかにするとともに、自らの教育技術や教材、指導方法HWの反省を迫り、よりよい指導を絶えず要求していくことで、必然的に教師の教育力量を高める。また、評価の基準が学力の内容としてはっきり表されるため、教師は子どもを見る目を次第に確かなものにしていくことが求められるし、可能となる。何よりも、自己の教育力量向上のプログラムを地道な実践を積み上げることで到達目標化し、実現していくし、またそのことを厳しく迫られる。さらに、子ども間の敵対的競争がなくなり、子どもの学力保障という共通の課題を個々の教師が持ち、評価の改善であるから不可避的に学年全体、学校全体をまきこみ、民主的学校をつくる。
<水谷勇=三重短期大学>20 到達度評価は、父母との対話・信頼の道を開き、父母の学校参加を準備する
長い間、通知票をめぐって特に学期末に、子どもは「やる気をなくし」、親は「おかしい」と思い、先生は「胃が痛くなる」状態が続いている。それは基本的には、できる子とできない子を不等に振り分ける、何ができ、できていないかを全く示さないなど問題ある五段階相対評価が通知票等の評価方法であることによる。この不合理をなくし、我が子にきちんと学力をつけて欲しいとのすべての親の正当な願いに応えうるのが到達度評価である。ところで今日「おちこぼれ」問題など学力問題は社会問題となり、我が子を通じてそれを自覚した父母はすでに学力をつけえない教師・学校への不信を抱いている。今後、この方向は強まる。それは、「教育改革」で振り分けを一段と厳しくする一方で、多くの親が仕事、生活の展望が十分みえないことと関連して、我が子には「良い生活」をさせるには、学力とりわけ学歴がないとだめだと切実に実感しているからである。従って、到達度評価への改善が緊急である。この改善では、どの子にも確かな学力を保障することをめざし、誰のために、何をどこまで、どのように身につけさせるかを明確化することの重視と統一して可能なところから実践する。そのため、子どもの学力はつき、学習意欲は生じ、父母の教師・学校への信頼も回復する。父母の学校参加も強まる。この中でこそ父母は教師の教育条件改善などの要求へも耳を傾け、教育運動も共同で進めやすくなる。
<大麻 南=京都教育センター>到達度評価で肝心なのは、教師と子ども、親と子ども、子どもと子ども、教師と親の人間関係が変わることである。この関係の転換さえできれば、あとはついてくる。そしてこの転換は、いつでも、だれでも、どもでもできることである。教師と子ども、子どもと子どもの関係の転換といえば、授業のひとこまひとこま、クラブ指導のひとつひとつが、その場となるだろう。親子関係といえば、食卓を囲んでの会話、通知票をもらって帰ってきたとき、いっしょに働くときなどが、その場になるだろう。教師と親の関係となると、PTAのときだけでなく、ズル休みした子どもの背後に浮かび上がる親の顔とくらしぶりを、教師がどのようなイメージで頭のなかに描き出すかの場面も、転換の機会になる。
では、どうすればこの転換ができるか。評価は、子どもの資質の判定ではなく、教師の力量や教育条件や教育政策の診断であり、これらを改良していくことであるというごく当然の原則を、学級経営から校外指導のすみずみにまで貫徹させることである。教師は、学期や学年末だけにこの評価のしごとをしているのではなく、分数の足し算、マット運動の指導のひとこまひとこまでこれをやっているのだとすることである。教師や親がこの意識の転換に成功したとき、到達度評価は始まるのであり、そして、この転換は、こどもとともにある教師と親のすべてにとっての義務というよりも必然の要求であり、当然の権利である。
<中内敏夫=一橋大学>