さよなら相対評価

-到達度評価へのおさそい−

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 このページの文章は1990年3月に発行した大学時代のサークルの卒業10周年記念誌に掲載したものです。同窓生はほとんどが教育関係の仕事についていますので一般の人にはわかりにくい部分があると思います。また、その後の実践の進展などで内容的に古くなっている部分もありますのでそれらの部分には(注)をつけました。
 頑張っている同輩の先生方は「おもろい」「おもろい」と読んでくれますが、なんせ長いので一旦保存してから読んでくださるようおすすめします。                       1996年8月

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到達度評価を生かして
100パーセントの生徒に
必要最低限の学力を
身につけさせきる
実践
はじめに(ぜひここから読んでください)
実践目次
付1:初夢−おじいさんの時代にはなかったこと
付2:到達度評価の基本的な考え方(全国到達度評価研究会編)

【0】はじめに
 今年も卒業式のシーズンがやってきた。ほとんどの生徒が自分の進路を決定し、後は卒業証書を手渡され晴れて義務教育の終了を待つばかりの希望に輝くシーズンだ。我々教師も煩雑な進路事務からほぼ解放され午前中だけの卒業行事で生徒が帰宅した後、図書室なんかでコーヒーをすすりながら、そんな生徒達の未来に思いを馳せつつ卒業証書の校印、校長印を談笑しながら押すというように、久々に余裕を取り戻す時期でもある。
 でも、僕はこの卒業証書のハン押しのこの作業、徹底的に嫌いだ。一辺10cm近くある大きなハンに均等に朱肉をいきわたらせムラの無いように一枚一枚押すのがしんどいからではない。最近うちの学校ではン万円するハン押し器を購入したからそれはそれはそれは楽な作業になった。ではなぜか。
 卒業証書の本文

右のものは
中学校の教育課程を
終了したことを証す

 という文句がそらぞらしくて仕方が無いのである。
だいたい、中学校の卒業認定はどんな風に行われるかというと、認定の会議にかけられるのは出席日数が3年間の出席しなければならない日数の3分の2に満たないものが対象である。学年会の場でリストアップされた名簿を見ながら本人の意志や保護者の希望などを確認しあい「留年させてもよい方向に向かう展望が無い」から「卒業後に期待をする」形でたいていの場合卒業を認定する方向で話は進む。そして、それが職員会議にかけられ、校長が「様々なことを考慮して」卒業を認定するという具合いだ。まず間違いなく「卒業」となる。どんなに学力が身についていなくてもおかまいなしなのである。

人間には一人の社会人として生きて行く上でどうしても身につけておかねばならない能力がある。それに豊かな人生を味わうためには誰もが知っておきたい教養がある。キャッチボールぐらいまともにできないと仲間とのレクリエーションさえ楽しめない。ドレミだけでなく簡単な和音進行を知らないとロックバンドも組めないだろう。簡単な漢字さえ読めないではマンガを楽しむこともできないではないか。(実際、授業をエスケープして廊下に座り、ワルの仲間に一つ一つ漢字を教えてもらって漫画を読んでいる生徒がいた。1時間たって見に行ったら5ページも読んでいなかった)。そんな能力を獲得させるのが義務教育の9年間の学校の「義務」であるはずだった。ところが実際には出席日数だけで中学校の教育課程を修了したと判断する。いつから義務教育の「義務」は「学校に登校する義務」にわい小化されてしまったのだろうか。

 小学校に入学するときに用を済ませておしりを自分でふけない子どもがいないように、中学に入学するときに足し算引算ができない生徒はいないように、せめて中学を卒業するときには数学で言えば例えば正の数・負の数の計算や文字を用いて方程式をとくことぐらいはみんなができなければならないことだ思う。全員が獲得しきらなければならない最小限のことがらが獲得されたのかどうかおかまいなしに「中学校の課程を修了した」とハンを押さねばならないのがおかしいと思うのだ。

授業をする。テストをする。点数をつける。点数順に並べかえる。上から順番に一定の比率で「5」「4」「3」「2」「1」とわりふっていく(*)。数字を単票(*)にかく。一覧表にかく。通知簿にうつす。それでオシマイ。もし仮に、獲得すべき事柄を全員が獲得し普通に考えれば「差」なんてつけられない状態になったとしても、ちょっとしたミスや回答欄の間違いで「差」が作られる。塾でしごかれている生徒にしか解けないような問題が解けるか解けないかで得点差がでる。その得点差をもとに成績をつけるから、できなければならないことができていても順位が下だと「1=劣っている」の烙印がおされる。逆に病気で学校を休んだり、どうしても理解できないことがあって必要な事柄を本当に獲得できていない生徒も単票に「1」をつけることで「教育」が完結する。真の意味で「1」「2」がついた生徒にはその時点こそ教育のスタートであるはずなのに……。オール1の通知簿と卒業証書を同時に手にして卒業していく生徒がいる。これを義務教育というのだろうか。

(*)「5」〜「1」 …京都では5段階相対評価といって通知票の評定は5〜1で表される。他府県では10〜1の10段階になっているところも多い。
(*)単票 …各教科の先生がそれぞれの生徒の評定を書き込み担任の先生に渡す票。担任の先生はこれをもとに通知票を作成する。

 さきに書いた「キャッチボールのまともにできない生徒」とは実は僕のことだ。小さいころから公園へ行って野球をする代わりに御所(*)へいっては蝶よ花よ、ザリガニよ…と遊んでいたおかげでそうなってしまった。いまだに職員リクレーション(reーcreation)でやるソフトボールは僕に取ってデクリエーション(deーcreation)でしかない。ああ、いつもライトでつったっていなければならない辛さといったら!

(*)御所 …正式名称は「京都御苑」。兼六園、新宿御苑とともに一般の人の立ち入りが許されている数少ない国民公園の一つ。周囲4kmの広大な敷地の中には豊かな自然が残されている。
 最近ここに迎賓館建設の計画が持ち上がり自然破壊や国民公園としての性質の関係で問題になっている。

 そのことも動機の一つ。それに初めて講師として行ったR中学で、成績下位の生徒がほっておかれて荒れまくるまっただ中に担任として放り込まれ授業を聞いてもらえないだけならまだしも、エスケープはされるわ、殴る蹴るの暴力は受けるはという毎日を経験した衝撃が忘れられないことが一つ。そして、そのころ読んだ加藤文三氏の『すべての生徒が100点を』(地歴社)の実践(*)に刺激されたことがきっかけとなって現在勤務しているN中学校二巡目のこの3年間、ささやかな実践に取り組んだ。

(*)加藤文三氏の実践 …社会科の先生で全員が基礎的な社会科の知識を獲得できるように100点運動の実践をした。

 それは一言でいって「到達度評価」と呼ばれる実践である。しかし、到達度評価はこの言葉通り受け取ればその目的は期末に「5」「4」「3」「2」「1」の相対評価でなく到達度で評定をすることだと受け取られがちである。しかし、教育は評価・評定をもって完結するものではない。あくまでも目的はすべての生徒に基礎的・基本的な能力を獲得させることである。だからあえて自分の実践を「到達度評価」と呼ばないことにしている。「すべての」にこだわろうと思った。この言葉を空文句ないし枕詞にせず、数学的厳密さをもったかけ値無しの「100%の」生徒に必要な能力を身につけさせることにこだわろうと思った。

僕の実践の流れは次の様になる。
【1】授           業
【2】「ありがたいプリント」配布
【3】試           験
【4】一   言   返   し
【5】チ ェ ッ ク 表 の記入
【6】追           試
【7】副   表   渡   し


 ※表中【6】の追試でまだ学力が身に付いていないと判断させる生徒については【3】から繰り返すことになる。

以下、それぞれの説明をしながら最近思っていることなどを書こうと思う。また、

【8】サマースクール      
【9】3年間を振り返って    
【10】I字型の学力観からT字型の学力観へ


として、【7】まででカバーしきれなかった生徒への対応を【8】に、この実践を振り返っての思いを【9】【10】に載せてみました。特に【10】の「I字型の学力観からT字型の学力観へ」が私のこだわりを一番良く伝える文章だと思います。ご一読ください。

【1】授業−「数学を暮しの中に」

 だいたい数学という教科は授業そのものが嫌いだという生徒が多い。そこでまず楽しい授業を心がける。といっても、ギャグや冗談で生徒をのせるだけでは数学そのものへの興味は向いてこない(もちろん生徒達を笑わせることは好きだ)。ここでのポイントは「数学を暮しの中に生かそう」という精神を徹底することだ。「憲法を暮しの中に生かす」のと同じくらい意識的にこの考えを大切にしないと授業は絶対無味乾燥なものになる。例えば教科書をそのまま授業すれば教えている自分自身が数学嫌いになりそうなほど数学の教科書は面白くない。詳しくは書かないが図や写真が少ないこともあるが、何より生活との関係が全く見えてこないのだ。例えばなぜこの単元の知識を身につける必要があるかの説明や興味をそそる話題を提供すること無しに単元ののっけから

(問い)2乗すると16になる数をいえ

とエラそうに切り出し、その直後、突然、

(問い)「2乗するとaになる数をaの平方根という。」

と概念を教え込む。あまりの突然さにア然としているスキをついて、さらにその直後に

 「1、次の数の平方根をいえ。
(1)1 (2)25 (3)100 ……」

と問題が始まるのである。
この間わずか9行。
長さにして7cm足らず。

 「ここで消化不良を起こした人はもうついてこなくてイイデスヨ」

といわんばかりである。(一度改めて数学の教科書を見てみるとおもしろいよ)
だから、教科書はほとんど使わない。毎回プリントを用意していく。
 さらに、「数学を暮しの中に生かす」ためには自分自身が実生活の中で数学が利用されていることに目を光らせるようにし、数学に関連する話題を蓄えておくことに努力している。そして授業をその一見数学に全く関係のない話題から始める。政治の話あり恋愛の話あり失敗談あり科学技術の話題あり。しかし、この話は落語の枕と同じでその時間に学習する内容の伏線になったりその日学習した内容で解決可能な問題だったりする。生徒は先ずそこでその話題に引き込まれてしまっているから、こちらが「さて、今日の学習は……」と本題に入るサインを送っても気が付かない。構えることなく学習にはいっていくことができるのである。ある生徒が最後の授業のアンケートでこのスタイルを

 「とんでもない話から始まるので”今日は遊びかな”と思わせといて実はプリントの内容に関係があり、気が付けば配られたプリントを見つめている。この現象は心のスキをついて人間をあやつる一種のさいみん術のようなものに思われる。3年の数学は宗教的な授業ではないかと思う。」
 と評してくれた。

また、よく実験をする。一人一人に持たせた線香に一斉に火をつけて、燃やした時間と線香の長さの関係を調べる。一次関数の授業だ。部屋中にこもった煙の香りが何とも言えない。(ホントに宗教的!!)。「速球王」という投げた瞬間からミットに収まるまでの時間を100分の1秒単位で測ってくれるボールをデパートで買ってきて様々な位置から落下させ、落ちる時間と落ちた距離の関係を調べる。これは二次関数。秋晴れの空の下で戸外へ出てする授業を生徒達は大変喜んだ。平方根では電卓を持参させて「2回かけて2になる数」をルートキーを使わずに計算させる。1時間近く必死で計算して「1.4142135」ぐらいまで到達する。実はどこまでいっても終らないことをパソコンに計算させた2000桁近くをプリントして配ってビビらせる。(*)等々。

(*)2000桁のプリント …浮Qが小数ではどれだけ桁数を伸ばしても表しきれない数であることを実感させる授業なのだが、その後、この2000桁はテープ状につなげて箱の中から手品師のようにずろずろと引き出すパフォーマンスをして見せている。生徒は毎年大笑いしながら浮Qの不思議さを実感してくれている。詳しいことは「アルゼンチンへの重力旅行」のページの「浮Qforever」。

 それから工作もする。一番生徒が喜んだのは「紙風船づくり」の授業。自分で右図のような舟型を設計し紙を切り、張り合わせてこしらえるのだがこの設計には実は三平方の定理の知識がどうしても必要なのだ。それに平方根の知識と二次方程式の解き方も知っていなくては。それから近似値の考え方少しと。自分で計算して設計した結果、ただの平面からイメージ通りの立体(球)が出来上がることには生徒達は感動せずにはおられない。(実は僕がつくってみたかったんだ)。
 こうして、その学習をする意義や考え方の基礎を具体的にしっかり理解させておいてから計算にはいる。プリントには教科書よりたくさんの問題を教科書以上に系統的になるように努力してのせている。しかも、毎時間発展問題付きだから塾へいっている生徒が時間を持て余すことはすくない。
 ……というようにして授業がすすんでいく。

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【2】「ありがたいプリント」

 定期試験前に学級活動として生徒達に「予想問題作り」に取り組ませるのはよくあることだ。この活動によって問題製作に当たった班の生徒達はその学期で学習した事柄を振り返ることになる。また他の班の学習も援助することになり学級の全員が学力の向上を目指すことができる大変よい取り組みだと思っている。
 この予想問題作りを担当の教師自身(僕)がしてしまったのが「ありがたいプリント」である。
題して

   『教師自身が予想する○○学期中間(または期末)試験予想問題』。

 この予想問題は教師自身が予想しているのだから定期試験のほとんどの問題がこのプリントの中から間違いなく出題される。しかも「このプリントの出題範囲の8割を解ければ基本的に『3』を保障する」と約束もした。だから生徒が「これさえできるようにしておけば点が取れる」とありがたがってありがたがって「ありがたいプリント」と命名してくれた。

(*)「基本的に『3』を保証する」 …先にも述べたように相対評価ではテストの成績を基本に上から順番に一定の比率で「5」〜「1」を割り振る。従ってみんなが努力すればどんなに頑張っても「2」「1」になる生徒が出てくるシカケになっている。そのことが厳密に行われているとは知らなかった若い時代に「3を保証する」と生徒に言明した。が、その結果、みんな(特に低位の生徒)の努力したこと努力したこと。
 その後、割り振りを厳密にしなければならなくなり3を保証するとはっきり言えなくなった。すると、「どうでもいいわ」と手を抜く生徒が目立つようになってきた。

なぜ、そんなプリントを作るのか。

 これも「100%へのこだわり」である。

自分自身の中学、高校時代を思いだしてみると試験前には多くの教科がある中で何からどう勉強に手をつけて良いのか解らなかったことを思い出す。いつもいつもこんどこそはと真剣に計画をたてて勉強するのだが点が取れない。何かの学習雑誌で「先生が特に力を込めて話された部分は要注意です」とかいう一節を読んで「ああ、そういえばあの部分がこれやな。よし、そこを集中的にやろう」と頑張ったあげくそこからは結局一題も出題されなかった悲劇を味わった経験は誰にもあるだろう。僕にも当然ある。それに、暗記物は苦手だったから社会の勉強に時間を取られて他の教科が結局時間不足で手つかずに終ることも多かった。
 そこで、試験範囲の単元でどうしても身につけておくべき目標を問題の形で提示することを考えた。これだと

(1)これさえ理解しておけばテストで点が取れるのだから生徒にとって具体的な目標ができる。特に低位の生徒はその中のいくつかでもできるようにしようと頑張れる。

(2)試験問題は時間の制約からその期間に学習した事柄をすべて試験問題にすることができない。身につけなければならない事柄が10あったとして10とも試験に出せばとても50分の試験時間で収まらない。しかし、「ありがたいプリント」の宿命として10ある必修事項を10とも学習しておく必要があるため全ての生徒が全事項の復習は必ずすることになる。(しかし、いったい試験時間50分とは誰が決めたのだろう。早く問題を解くのも必要かも知れないがじっくり時間をかけてでも正しい解答を得ることも必要だ。問題を解くのが本当にのろくてこちらがいらいらする生徒だが時間内に解いた問題はほとんど正解という生徒がいた。もしできればそういう生徒のためにも「時間無制限」の試験をしてみたい。)

(3)逆に教師自身がついつい興奮して力を込めてしまった授業だがあまり重要でない内容を生徒は知ることができるから生徒は無駄な学習をする必要がない。本当に必要なことは何かが一目で解る。

(4)このプリントの問題ができるようになれば後は他の教科に努力を振り向けることができる。(一度生徒に試験前に自分が試験勉強に取れる時間(A)と試験に向けてしなければならないことに要する時間(B)を計算させたらほとんどの生徒がA<Bだった。)

(5)教師自身が何を確実に身につけさせなければならないのかを改めて検討できる

等、様々なメリットがあるわけだ。
 ただ試験問題を2度作るようで労力は倍になるけれど。
もちろん問題は市の数学研究会発行の「基礎確認プリント」や教科書を参考に漏れのないように考える。関連する次の単元に絶対必要なものや生きて行く上で必ず必要になるような計算や概念を同学年の他の数学の先生と相談して決定することにしている。そうしないと問題選択がその時々の思い付きになる危険がある。
(こういう最小限必要な知識、能力が何なのか一部の教科では研究が進んでるようだが全教科で意識的に日常的に検討していくことが真の「義務教育」のためには重要だろう)  それと細かな注意やアドバイスをつけた模範解答のプリントを必ず配る。だいたい参考書をお金を出して買わなければ解き方についての正式な印刷物を手に入れられないのは絶対おかしい。参考書を買えない生徒は教科書にたよらざるをえない。しかし、教科書には一つ一つの問題の解き方は載っていない。(*)

「『ありがたいプリント』には色々とお世話になったので  お礼をいっといてください」

ある生徒の感想である。

(*)解き方についての正式な印刷物 …私は例年夏に京都大学で行われる「数学入門公開講座」に参加することにしている。数学を勉強するのが主な目的ではない。生徒の気持ちを理解するためである。講義内容は「入門」とは名ばかりでわりと高度な数学を講義されるわけだがここで、数学の授業を受ける「生徒」になって講師の教え方の良いところ悪いところを学ぶわけだ。講義要項は配布されるのだが我々最先端の数学から離れたものにとっては基礎的な事柄を忘れていたり身に付いていなかったりで読んだだけではよく分からないことが多い、講義(生徒にとっての授業)を聴いてもその場でではもちろんダメ、家に帰って要項(中学生の教科書にあたる)をみてもダメ、自分の筆記した講義録(生徒にとってはノート)をみても思い出せない…。たぶん、低位の生徒は同じ様な苦しみを味わっているだろう。一度の授業で理解してもらえると思ったら間違いなのである。「復習しなさい」といったって数学の苦手な生徒はノートと教科書を眺めて途方にくれるだけなのだろう。
 そこで、一昨年(1995年度)から、ありがたいプリントに出題した問題の詳細なテキストを配ることにした。だいたい毎回20数ページになるが、これを期待している生徒がたくさんいるためつくるのにそんなに苦は感じない。むしろ楽しんで作っている。高校入試の面接で「愛読書は」とたずねられて「数学の先生が試験の前に作ってくれる単元の解説書です」と答えた生徒がいた。

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【3】試験

 (1)基本問題と発展問題に分ける

 ありがたいプリントの配布から約1週間後に本番の試験だ。ありがたいプリントのほとんどを出題することもあればその一部分しか出題できないこともある。しかし、どちらの場合も「ありがたいプリント」と全く同一問題を出すのではない。計算問題なら数字や出題順序、図形の問題なら図形の向きや角度は変えて出題する。例えば方程式の単元で「ありがたいプリント」に

  3x+12=27

という問題をのせていたら、

  5x+15=35

というような問題を出題するわけだ。大変良く似た問題だがこの型の問題が解けるかどうかを検査するのが目的だからほとんど同じ問題で差し支えない。全く同じ問題なら「ありがたいプリント」を丸暗記してしまえば解答ができるが数字が違っているとやはり考えて解かねばならない。だからこれだけのことでできるかできないかの判定は十分可能なのである。「三角形の合同条件」の様に丸暗記が必要なものはそのまま出題してやればよい。 そのまま出るのだからほとんどの生徒が必死になって暗記をしてくれる。(ほんとに「ほとんど全員が」、なのだ。小学校以来数学が苦手で計算問題の理解が困難な生徒はいるが、全学年250名余りの人数に対してこの種の問題で暗記すらさぼって解けない生徒は毎回数えるのに片方の手で十分だった)

 さてこんな方法だと「100点が続出して困るではないか」という先生がいる。
全員が良い点数だと成績がつけにくいというのである。(*)しかし「100%」にこだわる発想から行けばそれは大いに歓迎すべきことであり困ることでは決してない。それこそがこの実践の目的なのだから。そして一度文字どおり全員に100点を取らせて相対評価にこだわる文部省の連中(*)にすっとぼけた顔をして「どーやってひょーてーしたらいーんですかぁ?」と聞いてやりたいと思う。

(*)全員が良い点数だと成績がつけにくい …先に述べたとおり相対評価は全員を上から、あるパーセンテージで区切って「5」「4」…と評定していく。だからどこかで数字の間の区切り(例えば「5」と「4」の境目)を決めなくてはならないのだが少ない点数差だと1点違いで「5」のパーセンテージを大幅にオーバーしたり逆に少なくなったりしてしまう。だから成績がつけにくいのである。  もちろん、これは本末転倒している。(ネット上では声は伝わらないことも承知の上で)大きい声で言うが「成績をつけるために教育をしてるんではない!」
(*)相対評価にこだわる文部省の連中 …文部省もさすがに今までの点数中心・偏差値中心・暗記中心の学校教育では問題が頻発することに気づいたらしく最近「新しい教育観」というのを言い出した。その中心の考え方は知識や技能ではなく進んで勉強しようとする「意欲や態度」を評価するというのである。「意欲や態度」をどのように評価すればよいのかという問題を始め、様々な疑問や問題があり現場の教師は大変憤慨もし混乱もしている。しかし、根本から相対評価を無くしてすべての生徒に力を付けようとは思っていないらしい。「絶対評価を加味した相対評価」というわけの分からないいい方ながら「相対評価」を残した成績の付け方をしなさいと言っている。

 それから今の疑問に対してもう一つ付け加えれば、僕の試験ではやはり100点はほとんどいない。と言うのは「ありがたいプリント」から出題するのは毎回試験の70点分でのこり30点分はそれ以外から出すからだ。(*)前者を「基本問題」後者を「発展問題」と区別して出題している。発展問題の方は基本で得た知識や考え方、既習事項が身についていれば努力することで解ける応用問題を中心に出題する。これは生徒にとっては初めて目にする問題だから簡単に解答を得ることはできない。試験のその場で考えねばならないからこれは普通の試験と同じ。数学的カンが働いたりどこかで同じような問題を解いた経験があったりして解けたり、問題のつかみどころが解らなくて解けなかったりするからこれは点数が適当に散らばる。「ありがたいプリント」の内容を獲得しておれば基本的に「3」をやるといっているから残り30点分で「4」から「5」を決めることになる。(後でも触れるがこの「4」とか「5」とかも不必要だと僕は思っている。ただし発展的な能力や幅広い応用力が不必要だとは言わない。)

(*)30点分はそれ以外から出す …基本的な事柄がちゃんと理解できるっていうのは「普通」なのではないか?この単純な理由から現在では基本を100点にしている。できなければならないことができるようになったら満点がとれるってうれしいと思うのです。(計算の全く不得意なK君が2年生の図形の勉強で一念発起100点をとったことがある。その時彼はみんなの前で「オレ、生きててよかった!」と叫び。教室中笑いと拍手に包まれたことがあった)。  発展問題は「さいごに」で詳しく述べるように成績の上では重要視しないので50点にした。

 しかも、発展問題には塾では決して教えてもらわないような問題、計算の仕方だけでなく計算の意味を問うような問題(例えば分数の割り算ではなぜ割る数の逆数をかけるのかのような問題)を1題ぐらい入れておくから僕の試験で100点を取ることは

「ガッコーのジュギョーなんてなにさ」

というなま半かな塾組の生徒には(パコパコ賢い奴を除いては)至難の技なのである。
そんな風に問題を作るから試験全体で100点は続出しない代わりに基本問題の70点満点はざらにいることになる。それに基本問題でも満点を取る必要はないと僕は考えている。と言うのは人間的なミスは数学の能力とは無関係だと思うからだ。ミスがあるから8割得点できれば先ずその単元の要求する数学の能力は身についたとみて良い。ミスのない計算はコンピューターにお任せすればよい。要はコンピューターに正しく計算させるために必要な問題の解き方、考え方が身につけば良いのだ。
 人間がコンピューターに正しい計算方法を教えられないと例えば円周率を10000桁求めるのに18時間もあきずに寝ずに、疲れも見せず文句も言わずに計算をやってくれたのはいいがデタラメな数を出力し続けたりする。(プログラミングを始めたころの経験談)。コンピューターはアホだ。
 それに僕なんか授業中しょっちゅう計算間違いをしている。

 (2)解答用紙と問題用紙を別にしない

 それから、よく解答用紙を問題用紙と別々に刷って(または切り離さして)解答用紙だけ回収して採点する先生がいる(*)が僕は絶対そうはしない。
 繰り返して書くが僕の仕事はすべての生徒に基礎的・基本的な数学の考え方や問題の解き方を獲得させることだ。試験結果を利用して生徒を「5」「4」「3」「2」「1」に割り振ることではない。だとすれば試験の時に生徒が問題を解くために考えた痕跡、解答を得るために行った式操作などをこそ丹念に見てやる必要がある。試験の目的は採点にあるのではなく生徒一人一人の数学的な能力の獲得状況を個別に把握し検討することにある。

(*)解答用紙だけ回収して採点 …採点の楽さから言えば解答用紙と問題を別にする方が楽です。回答欄の文字と正解を見比べて同じでなければ×をしていくだけですから。でも、それはまさに採点−「点を採る」作業であって、その結果を成績資料にするだけの行為−教育とは全くかけ離れた行為だと思うのです。

 そこで問題毎に計算やメモのためのスペースを空け一つ一つの問題に対して解答欄をつくる。そして、試験用紙の冒頭「○学期期末テスト」などのタイトルに次の注意書きを必ず添える。

 「途中の計算や問題を考えるためのメモなどは消さずに残しておくこと」

 試験の最中には質問がないか受持ちの各クラスを回って歩くがその時も「途中の計算無しで答えだけというのは点をあげへんよ。しっかり残しといてね」と念を押す。実際その通りする。特に難しい発展問題では解答欄にカンで答えを書いてそれがたまたま当たっていたりすることがあるがどこを捜してもその解答にいき当たった痕跡すらない場合絶対点をやらない。逆に答えがまちがっていても丹念に問題の意味をしっかりつかみいろいろと考えている答案では正解にいたらなくても部分点をやることにしている。(「一言がえし」の項参照)  この方法のもう一つの利点。試験がえしの日に問題用紙を忘れてくる生徒が絶対いないことだ。これは断言できる。(ただし、僕は試験がえしの日に採点した問題用紙を全部忘れていったことがある。前の日から時間割をあわせておこうね)

 (3)採点

こうして試験問題を作るとひどい場合で一人当り3枚の採点をしなければならない。(*)4クラスしか持っていなくても170人分500枚余りに目を通さなければならない勘定だ。が、採点はそんなに辛くない。スペースが広いだけで問題の数としてはそんなに変わらないから。それに解答に至るまでの考え方でユニークなものに出会うとすっごく気持ちがいい。「よー考えとーるなー」と感心する。

(*)3枚の採点 …普通は解答用紙一枚の採点ですみます。

 途中の計算を見ていると、「あーこいつまたプラスマイナスで間違ごうとーる」とか「あれ、前は平方根の中を簡単にできひんかったのにできるよーになってるなぁ」とかいろいろ生徒の弱点や努力のあとが見えてくる。それを後で述べる「一言がえし」で本人に話してやるのである。

 (4)なんで100点が満点なのか

 最近なんで試験問題は100点でないとあかんのかということに疑問を持ち始めている。できなければならない問題が58題だったら58点でいいのではないか。なんで難しい問題は点数配分を高くするとかしなければならないのだろうか。もっと言えば点数なんてなしで「できなければならないことがすべてできた。」「この問題とこの問題はまだ理解できていません」という事実だけ残せばいいのではないか。点数なんてつけるから点数にこだわるんではないか。点数にばかり目がいくから生徒も教師も試験がついたらそれでオシマイになるのではないか。
次の実践ではそのあたりを攻めてみようと考えている。

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【4】一言(ひとこと)がえし−試験がえしの授業

「握手をしてもらったのが印象に残っている」
「緊張した」
「こわいような気がする」
「どうしてもまわりがうるさくなるという欠点があると思う」
「はっきりいって心臓に悪い。あの返してもらうまでの『間』をなんとかしてほしい」
「次に役立つので良かった」
「テストの後の復習がやりやすかった」
「自分の苦手なところを教えてもらえて良かったです」
「何が駄目だったのかよく解って良かった」
「点数がいいときも悪いときもいろいろ言ってもらえてすごく良かった。だから非常に次のテストに役立つ。元気が湧いてくる」
「点数が良いとすごくほめてもらえ、悪いとどういうところが駄目なのか教えてもらえ入試の時はその部分を中心に勉強できました。」
「こんどは頑張ろうという気持ちがでてくる」
「自分の弱いところを発見できるし、先生に言われることで強く自覚することができたので良かった。」
「とてもうれしくて、私だけがこういうことをほめられたとかおこられたんだと思うととても頑張れる気がしました。」
「でたらめに書いた答えが×になるのでいやだった」

 これも今年卒業の3年生の「一言がえし」についての感想から拾ってみた。
 生徒がこんな感想を書く一言がえしとは何か。どんな効果があるのか。

 採点が終ると「試験がえし」の授業をする。多くの先生が立ったままさっさと試験を返してすぐに平均点を言って解説にはいる。この時よく耳にするのが「テストは返してもらってからが大切だ。どこを間違ったかしっかり見直しをしよう」という言葉だ。しかし、自分自身の経験を振り返ってみて「たしかにそうだ」と思いはするけれど実際は先生の解説を聞きながら赤ペンで答えを書いていくだけで家へ帰ってから何をするというでもなかった。「あのミスがなければ何点だった」とか「平均を越えたからまあいいか」など本質からは全く離れたことを考えるだけで返してもらったテストをもとに復習なんてエライことををした覚えなど全くない。
そこで試験がえしの授業にもこだわったのが「一言がえし」だ。
 試験がえしの授業は先ず全体の講評から始める。ここで、試験を返す前に講評をすることがミソ。返した後でする講評を生徒はあまり聞かないからだ。点数を見てしまったら最後。生徒は試験への興味はほとんどなくする習性がある。
 講評では全員が解けた問題は(これが少なからずある。だから0点はまずいない)良く頑張ったと大いにほめてやる。これは自分自身大変嬉しい。そして、多くの人が間違った問題や、間違った分野をさきに指摘しておく。これで生徒は自分の書いた答案に意識が集中しその時点ですでに反省を始めることができる。
次に一応平均点を知らせる。一応と書いたのは平均なんて全ての生徒に力をつける上では全く意味のない数値だからだ。教師も生徒も点数にこだわり、それをもとに成績がつくことを生徒が知っているから平均点が意味を持つだけで義務教育の教育の本質から言えば「まん中より上」とか「下」とかは全く不必要な尺度だ。全員が出来なくてはならないことは全員が出来なくてはならない。(A=Aは真だ!)。とはいえ、ただ、「ありがたいプリント」等で援助はしているもののミスをしたり学習が不十分な面が必ずあるため平均が70点になることはない。だから70点にに満たない基本の平均点を示すことで内容をもっと確実に自分のものにしようと呼びかける意味で平均の発表はしている。(*)

(*)平均の発表はしている …最近はこれもやめてしまった。

 大切なのは平均点ではなく「基準点」の発表だ。先に基本は満点でなくても良いと書いたがそれはミスや勘違いなどによる減点があるからだった。しかし、無制限に間違いを許すとなんのための「ありがたいプリント」かということになる。そこでこのテストで何点取ればその単元の力が身についたと認められるかの基準が必要になる。それが「基準点」である。問題全体の8割程度で適当な値を同学年の教科の先生と相談して決めるが大抵平均点より低い。そして、この「基準点」に達していない生徒が後日「追試」の対象となる。テストの点数での評価はこういう要領でするから、平均点が高いときなど生徒には

 「平均より低いからゆうて今晩首つったらあかんで。明日の朝刊に『教科担当の先生の話し』とかゆうてインタビューされたらかなんしな。基準を越えてたら自信持ったらええのや、そんなけとってたら日本全国どこいっても『おっ、俺はこの単元わかってるのサ』ゆうておっきい顔して歩けるさかいね。でも基準をこえへんかった人は今晩から勉強してや」

 と笑わしてやる。ひそかに平均点信仰を皮肉りながら。
 ついでに言えば日本人の勤労者の一人当り平均所得は600何万円(*)なのだそうだが信じられますか?これはボロもうけしている奴が小数ながらいる結果なのである。平均は恐ろしい。

(*)600何万円 …これも授業で扱ったことがあるが面白かった。松下幸之助(ご存じナショナルのもと会長です)は年間10億円の所得があったのですがこれを一日あたりに直すとなんと、約273万円! 一日で300万近くというのも驚きだがこれを1時間に直すと273万÷24で約11万円!1時間で11万円でっせ。…帰らしてもらいまっさ。

さて、前置きが長くなったがここで問題の「一言がえし」にはいるわけである。教卓の椅子にどっかと座り、名簿番号1番の生徒から一人一人呼び出し一人あたり平均45秒程度話をする。もし考え方が根本的に誤っているところがあれば短時間ながらその場で個別指導をする。その他、良く理解できている点、間違いが多い箇所等を指摘してやる。点数が悪くても基本的な考え方の間違いがなければほめてやる。逆に発展問題などでどうしてその答えに至ったか答案紙面に残された計算やメモだけでは理解できなかったとき等はその場で質問する。筋が立っていれば○。逆に突き詰めて話しているうちに

「カンでした。」

と白状する生徒もいる。その時は残念ながらその場で減点だ。「後生です。旦那サマー」としがみついてきた生徒がいたが僕は許さなかった。
時には勉強の仕方のアドバイスもその場でする。
 「基本は十分できてるのやから。もっともっとたくさんの問題にあたらな」等。生徒の方から  「先生、今度勉強できひんかった」
と風邪をひいてほんとに辛かったことを告白してくるケースもあった。ひとしきり話を聞いてやって
 「たいへんやったねぇ。次の追試でがんばりや」
と励ますこともある。
これが「一言がえし」である。
問題が一つ。返すのに時間がかかる。これは返している間に別の練習問題をさせたり、発展問題を再度配ってじっくり考える時間に当てたりしている。それから一つ一つの問題の解説は次の時間にじっくりすれば良い。
(でも、指導書(*)の基準時数には試験がえしに毎回2時間年間10時間取ると全然足りなくなるんだ。まえから思っていたが指導書ってなんなんだろう?)

(*)指導書 …教科書会社が自社の教科書を使ってどう授業を進めるかを詳しく書いた本。1年間のいつ頃どの教材を何時間くらいかけて教えればいいかの例などがのっている。
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【5】チェック票

 一言がえしで自分の弱点をある程度認識してくれるが、さらに徹底するために「チェック票」を書かせる。例えば次の頁のような票だ。
 この票にはその試験問題がどんな力を検査しようとしたかが文章で書いてある。生徒はそれを読みながら

   ○…正解した、×…間違った /…解けなかった

を返してもらった試験を見ながら記入していく。そうすると間違いの多い生徒は どんな問題で間違ったかが一目で解る。2枚同じものを書いて一枚は提出させるから教師の側も生徒の弱点を知ることができる。基本中の基本は必ず理解できている生徒。文章題に弱い生徒。分数の問題はいつも間違える生徒。いろんなタイプがある。しかもこちらはずっと保存しておくから

「あっ、こいつは毎年図形は強い」とか
「あー、去年の方程式の学習が不十分だったから今年の連立方程式が弱いのか」

といつでも具体的に生徒の数学の能力の発達状況を追うことができる。まるで医者のカルテの様なものだ。そうだ、カルテだ。  医療は−(マイナス)を0にする営みで教育は0を+(プラス)にするいとなみだから全く同次元で論ずることはできないが、どちらも人間が人生を楽しく豊かに生きていくために必要な人の人に対する援助の行為だ。医療が人を苦痛から解放するために丹念な記録によって最善の手を打てるよう保障しているのに、人に夢を与え豊かな人生を歩める様に援助する教育もその個人の発達段階の正確な把握にもとづいて的確で有効な方法を講じる必要がある。
 指導要録(*)なんてやっと一息つける春休みに時間をかけて書く意味があるのかなあ。たくさん文字を書いて腕の筋肉を鍛えるぐらいの役目しかないと思う。ほとんど無意味な指導要録なんてやめにして「教育のカルテ」を整えよう。

(*)指導要録 …生徒一人ひとりの学習や生活の記録。学習の記録の欄は評定と全般的なコメントしかかかない。が、かくのは結構面倒である。

 票中、2回目とあるのは追試に利用する。定期テスト本番の結果は1回目の欄に書く。追試対象となった生徒は同じ票に2回目の結果を書き込み自分の成長を確認するのに役立てる。
 それから、感想の欄はかならず3行以上書かせる。「100点の人以外は反省点が必ずあるはず。特にたくさん間違った人は自分の身についていないのはどういう分野なのかしっかり書きなさい」と自分の学力診断および追試や今後の学習の意欲つけに役立てる。

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【6】追試験

 さて、100%の生徒に必要な事柄を身につけさせるためのこの実践で最も核となるのがこの追試である。

 小学校の時よく「居残り」を命じられ、かけ算の九九や漢字の練習をさせられた。今となっては大変ありがたかったと思う。学校が多忙化政策(*)で忙しくなってきているが今も小学校の先生は頑張っている。ところが中学はどうだ。出来なかったらハイそれまでーよ。「君には1をあげるネ」でほとんど面倒をみない。面倒を見ないことが当り前と思っている先生もいる。また、生徒指導や会議会議で面倒を見ようにも見られない現実もある。(クラブクラブという先生もいるが)。しかし、できないことをできるようにするのが教育ならばできなかった生徒を放置するのは教育ではない。だがしかし、現実には補習は時間的に難しい。そこで追試なのだ。
 追試は先に書いたように「基準点」に達しなかった生徒を対象に試験後約1週間以内に実施する。時間は放課後、30人を越えることはまずないからだいたい一つの教室があれば足りる。試験範囲はやっぱりありがたいプリント。ただし発展問題の30点分は出題しない。70点満点。本試験と同様数字や角度は変えて出題する。そして、時間は一応50分間だが早くできれば帰ってよい。でも発展問題がない分ゆっくり問題に取り組める。そして、この追試でも基準点を突破すれば基本的に「3」だという約束にしている。これがあるから生徒は「えーっ追試?!」といやな顔をしてもほぼ休まずに集まる。学年会(*)で承認してもらって、クラブより優先というところまでかち取ってあるからなおさらだ。それに1年の1学期の中間試験の時から実施したから今ではクセ(?)になっ てしまっている。

(*)学年会 …学校の会議は有名な職員会議だけだと思わないように。ここにあげた学年会(その学年の担当の教師が様々なことを相談する)の他に教科会、生徒指導部会、学習指導部会、運営委員会、生徒会顧問会、文化祭実行委員会、体育大会実行委員会、補導部会、庶務部会、予算委員会…などい〜っぱいあるのです。

その結果、追試対象者のほとんどが2回目には基準突破を果たしてきた。それでも駄目だった生徒は時間が取れれば後日「追追試」を実施する。こうして中学の数学の最初の難関「正の数・負の数の計算」の単元では最高7回の追試によって全員が正しく計算できるようになった。
 ここで追試のメリットをまとめよう。

(1)「ありがたいプリント」を真面目に独習すれば補習の必要がほとんどない つまり時間的に楽だということだ。本試験で基準に達しないものには試験前真面目に学習しなかった生徒が含まれる。「おっと大変」とばかりに今度は真面目に勉強してくる。

(2)個別指導がしやすい  追試はほとんどその場で採点するから、どうしても間違う問題についてはあの手この手で一言がえしができる。はじめの一言がえしでピンとこなくても別の角度からアドバイスできるから最終的には理解してくれる。

(3)補習ではできるのかできないのかはっきりしない  試験形式だから本当にできるようになったのかどうかがはっきりする。生徒も自分の力を確認できる。補習はそうはいかない。

よく

    「一回きりの試験で実力が解るのか」

といわれるがその通り。一回で駄目なら二回三回すればいいのだ。さきに「一言がえし」でも触れたが生徒の中には体調が悪くて試験を受けられなかったり計画が下手で他教科の勉強のために試験の日までに十分学習ができなかったろりするものがいる。そんな生徒でも本試験の結果で「2」や「1」をつけなければならないなんてごく単純に考えておかしい。「休んだ生徒は見込み点で」(*)なんてよくも無責任にいえたものだ。3年の2学期の成績ならば人生の運命にかかわる。(*)それに、本当に力がなくて試験で点を取れなかった生徒ならば何回試験をしてやってでもできるようになればそれでよいではないか。「正の数・負の数」で7回試験を受けたのはKさんで、その後も毎回追試にかかるのだが正の数・負の数で間違えることはほとんどなかった。
 しかし、効果をあげた追試だが3年になってさぼる奴がでてきた。ちきしょう!学校の勉強そのものを投げ始めると追試に来なくなる。全教科で手厚い指導がなされるようになれば勉強そのものを投げる生徒は少なくなるだろうと思うのだが。
 それと算数で小学校以来のいわゆる「落ちこぼれ」(「落としこぼされ」が正しいと言う人がいる!)にとってやはり数学はしんどい。小さいころからその時どきでその時点までに獲得するべき力を100%保障しなければ。(*)そんな学校制度制度に一日も早くならないだろうか。

(*)休んだ生徒は見込み点で …その学期の成績評定の最も重要な資料が定期テストの点数である。が、この定期テストに何かの理由で欠席した生徒についてはその資料がないため日頃の授業の様子や小テストの記録をもとに見込み点をつけ成績の評定をする先生が多い。
(*)運命に関わる …京都府の私立の高校は3年2学期の成績を内申点とする学校が多い。内申点が基準に達していなければ推薦を受けられなかったり入試当日の学力検査の点数をひかれたり大変不利である。
(*)その時どきでその時点までに獲得すべき力を100%保証しなければ …小学校以来算数・数学が苦手で通してきた生徒を3年生あたりではじめて担当になることもしばしばある。もちろん、何とか学力が回復して数学が好きになるように必死に努力をするのだが、会議その他の関係で年にほんの数日しかとれない補習ではとうてい完全な回復は見込めない。何年もかかって蓄積されていた遅れを取り返すにはやはり何年もかかるのだと思う。何年もと言わずとも少なくとも何ヶ月かは相当の努力をする必要があるだろう。そう思って、今年になってから毎日の家庭学習用のプリントを作成中である。  が、こんなもの、学期ごとにしっかり補習をしてそこまでの事柄を身につけさせきることをこまめにやっていさえすればつくる必要はないのだ。それが、本来の姿であるはずだ。
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【7】副票
 人間は始め、数を持たなかった。しかし、何万回という様々な実践を繰り返す中でやがて一対一の対応関係を足がかりとして、例えば指の本数と部族の人数の間に、果物の数とそれを分ける家族の人数の間に、また物々交換の際の魚の量と兎の量の間に共通の性質があることを発見していく。初めはぼんやりとした概念でしかなかった数は何世代にもわたる人類のさらなる実践の積み重ねの結果、人間の生きていく上で必要な抽象的な概念として定着してきたのである。
様々な量に共通して含まれるある性質を抽象したものが数であったからこそ、同じ「5」という数字をりんご5個、魚5匹、家族5人……と何にでも利用でき、またそこからそれぞれ2個、2匹、2人除いた残りを

    5−3 

という計算で求めることが可能になったのである。つまり数は極度に抽象化された概念だからそれが指し示す具体は無限に豊かだということである。
一方、人間の発達は一人ひとりの人間にとって多様な経路をたどって成し遂げられていく。これに対する教育もたとえ一斉指導の形を取るにせよ一人ひとりのそこまでの発達段階に対応して一人ひとりの次の発達課題を明らかにしその能力の獲得を一人ひとりにふさわしい形で援助するきわめて具体的な活動である。そんな豊かな内容を持つ一人の人間の発達をこの世界の量的事象の抽象化の極みである「数」によって評価しようというのが現在の通知簿である。
たしかに通知票には「1」「2」「3」「4」「5」という数字だけで何も書いてないかといえばそうではないが例えばうちの学校の通知簿の

 5…優れている
 4…やや優れている
 3…普通
 2…努力しよう
 1…いっそう努力しよう

という説明が子供達のきわめて豊かな発達の現在の到達点とその子の今後の課題について何ほどのことを語っているというのか。こんな評定にこんな説明をつける位なら

  試験の点数をメインに順位付けした結果あなたは上位○○%です

と書いた方がよっぽど気が利いていると思う。しかし、これが許されるなら「あなたの順位は○○番です」と順位を知らせるのと何ら変わりはない。
 実際、この数字が生徒の学力について何も語っていないことは以前「通知簿の成績はどうしてつけると思いますか」とアンケートした時、一人一人の生徒がそれぞれ全く違った見解を持っていたことからもいえる。ある生徒は「テストの点を合計して上から5等分して決める」と考えており。またある生徒は「何点以上だったら4とかいうふうに決める」と考えていた。とにかくわかっちゃいなかったのだ。通知簿をつける方からすれば何も語らぬ数字を並べることは労力の無駄以外何物でもない。(まあ「進路指導」の名のもとに生徒を受験できる学校に振り分けるのには大変役に立つけれど)
 そこで副票の出番だ。教師になって実際通知簿というものを作成しなければならない立場になったときからこれを作るのが夢だった。
下のようにのような紙片をできるだけカッコよく印刷した表紙に綴じて(権威づけのため)通知票と一緒に学級担任から手渡してもらう。「通知票と一緒に」と言うのは副票をつけることが「こんな評価の方法もあるんですよ」と言うことを通知簿と対象的に示すことによる通知簿・相対評価体制への挑戦でもあるからである。
 この票にはその単元で身につけるべき事柄を指導要領・指導書に照らして簡潔にまとめてあり、その内容について到達した場合はその欄の右端に○をつける。到達不十分な場合は試験で問題が解けた割合に応じて、また復習が絶対に必要な場合は左端に○かついている。生徒はこの票を見て自分の弱点を再び認識できるわけだ。しかしその単元全体として「合格」の場合は右下の「総合」欄にはみ出すほどでかい「合格」のハンコがもらえる。通知簿で「2」であっても(*)自分の学力が必要な水準に達していることが解るわけだ。総合の左側の大きな欄は通信覧で追試対象になった生徒にはさらに具体的に弱点の指摘をしてやり励ましなどもそえてやる。

(*)通知簿で「2」であっても …相対評価の「2」。学校によって異なるが上から順番にして下位の約25%なら「2」とする学校が多い。

 この「副票」も生徒達にすこぶる評判がよい。

 「『副票』ってなにかよーわからんかったけど合格がかいてあったらうれしかったのね」

とごく単純な評価もあるが、

「副票は成績が3でも全部到達していたらけっこう自己満足にひたれた」
「通知簿では達成できたかどうかが自分でわからないけどこれを見るとすぐにわかりverygoodでした。」
「副票は点数が悪くても解っているかどうかの票だからそれがあると自信が持てていいと思います」

というような評価が圧倒的だ。成績上位の生徒も

 「副票は5や4の数字よりも自分はどこが苦手かよく解っていいと思う」

 と書いている。生徒だけでなく保護者の方からも「他教科でもぜひ実施して欲しい」という声もよく聞く。副票づくりはめちゃめちゃしんどい。が、やってきて良かったと思う。

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【8】サマースクール
 100%を目指して行うこれら一連の取り組みでほとんどの生徒が必要な能力や考え方を獲得する。しかし、まだ一部に到達しきれない生徒が残される。そこで副票を手渡すことでその単元の学習の終わりとしないでさらにできる年にはサマースクールというのを実施した。いわゆる夏休みの補習だ。今度の対象は副票で合格のハンコをもらえなかった生徒である。2年の時には「連立方程式」が解けなかった生徒が若干残されたため目標を「連立方程式が解けるようになる」に設定して実施した。対象者がきわめてはっきりしておりしかも小数だから対象者の全員が参加した。半日間講義と練習をし最後にこの単元の「ありがたいプリント」の範囲で試験をする。だめならさらに練習と追試。そして全員が「合格」した。100%達成だ。副票を持参させて合格したものから大きな合格ハンコを押してやった。みんなの顔がほころんでいた。通知簿や指導要録は「2」のままだが生徒の心には達成の喜びと自信が残ったことだろう。僕もやり遂げた充実感にひたっていた。

***

【9】3年間を振り返って

 まだまだ問題はある。

・一度到達してもその能力が定着しない生徒がいる。どうするのか。
・基本問題の選択はこれでよいのか。もっと重要な問題を抜かしていないか。
・副票の書き方はこれでよいのか。
・発展問題が解けるような力はどうしてつけるのか。
  etc.etc.

 しかし、毎年市の数学研究会で実施する全市のほとんどの中学(私立国立もふくめて約80校)が参加する研究会テストの結果を見る限りその成果は歴然としている。この学年が入学してきた1年生の4月に実施された研究会テストでは全員の平均点で全市20番台の成績だった。それが2年生で10番になり3年の初めでそれを維持、「総括テスト」と呼ばれる3年の1月実施のテストではついに6位入賞を果たした。相対評価を否定する見地からすれば順位で比較するのは間違っているのだが、このテストは選抜試験でもふるいわけのテストでもなく中学校で学習されるべき内容がどの程度身についているかを調べる試験だからできて当り前の問題が数多く含まれている。そのテストで例年のN中学校の3年生は平均50点足らずしか取れていなかったのに今年は69点だった。なにも試験を解くためのスパルタ教育をしたわけではない。「100%の生徒に力をつける」という当り前のことを意識的に目指した結果そうでない学校との差が開いていったのだと思われる。 ある生徒がこれまでに書いた一連の取り組みについて次のように書いてくれた。

「むちゃくちゃ親切なやり方だと思った。ありがたいプリントをするともう基本はしなくていいし、一言がえしも先生の気持ちが入っていてよかった。追試も親切だし副票も愛情がこもっていた。兄のアルバムを見ると高校の先生はこわそうな先生ばかりなので高校まで長谷川先生についてきて欲しいと思った」

 自分としてはほめられてうれしいが、ことは愛情や親切心の問題ではない。授業にせよクラブにせよ熱心な教師の愛情や親切心にあぐらをかいているのが現在の日本の教育行政だ。僕としてはあたりまえのことをしたにすぎないと思っている。日本中にこの当り前のことが制度として打ち立てられるのはいつの日のことか。
 先の第二次海部内閣の組閣で文部大臣がまた変わった。新聞によると父親である保利茂が引退したことによって急きょ会社をやめ政界に転身した二世議員だ。しかも政界転身後は農林委員会に長く身を置いたという。なぜ、教育の専門家を大臣にしない。いくら反動的な人間であっても教育一筋に研究し考え行動してきた人物を選ぶのならまだ話はわかる。いかに教育を軽視しているかがよく解る。

 「みんなに何とか一人前の力をつけたいと頑張った3年間でしたがみんなもよく頑張ったね。でも折りにふれ話してきたように日本の教育は実はまだまだおくれているんだ。あと5年したらみんなも社会人やね。先生と同じや。それまでもっと頑張って勉強せいよ。世の中の仕組みを見破ったり新しいものを創造するためには数学は大切な学問なんや。他の教科も大事やぞ。今まで以上に個性も伸ばせよ。今度は教師と生徒ではなくて同じ社会人としてよりよい世の中を建設していく仲間として再会しような。では、それまで元気で」

 と最後の授業を締めくくった。

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【10】さいごに−I字型の学力観からT字型の学力観へ

 これまでの実践の中で今現在日本の教育に通用している学力観をI字型からT字型へかえていかなくてはならないと考えるようになった。
今現在多くの教師と生徒を支配している学力観を図示すると(ア)の様になる。

一番下にできない生徒がいてその上に少しできる生徒が来、その上に普通の生徒がきてさらにその上に上位の生徒が列をなす。この学力観(相対的な学力観)だと「1」「2」の生徒はもちろん「3」の生徒は不満足だ。上には「4」「5」が待っているからだ。しかも「5」の生徒でさえいつも不安に悩まされる。上へ上へと頑張らなければ簡単に「4」や「3」に転落してしまう。おちおち自分の趣味に凝ったり個性を伸ばそうなんて考えていると「3」になってしまう。一つの教科だけならまだいい。9教科全部で上へ上へなんて考えると勉強だけに中学生活を捧げる覚悟がなければ駄目なのだ。実際そんな生徒がいる。生徒会の活動や学級活動さえまともにしない奴。もちろん趣味もない。  「3」あたりでうろうろしている生徒も大変だ。うかうかしていると「1」「2」の連中が攻めてくる。勉強勉強においまくられてどうしょうもない人間が育つ。この学力観がはびこる限り学校は競争と不安、諦めと優越感が支配する非人間的なものから脱却できない。
 そこで(イ)の様な学力観が貫徹する学校教育を建設するのが僕の夢だ。
 ここでは全員が到達すべき到達基準が万人の共通理解となっている。到達基準は難しいことではなく適切な手だてで誰もが獲得でき、しかも未来、自分の生活と社会を建設していく上で必要となる最小限の基礎的・基本的な事柄だ。だから、みんながそれだけはできるようになるように努力する。親も教師もそこまではウルサくいう。もちろんこの基準に達しなければ小学校であれ中学校であれ卒業できない。「課程を修了した」と認められないからだ。といっても努力して到達できない目標ではない。それで基準に達した教科は「合格」。現在の「3」にあたる。「合格」すればその教科はそれ以上勉強する必要はない。それだけの学力で後は自分で努力すればさらに高度なことが獲得できるはずだし、無理をして他人と競いあう必要もないからである。
 では、両側の「4」「5」に当たる部分は何か。それは、

「豊かさ」

の尺度だ。
その生徒の興味関心に従って幅広い奥の深い学習をすることを大いに奨励する。
 例えば現在でも音楽の時間にピアノを弾きこなすことは要求されないが、ドレミがどの位置にあるかは知っておかなければならない。このドレミの位置が到達基準でピアノを弾きこなすのは豊かさに属する。現在の学校ではショパンが弾けることは評価されないがこの学力観が支配するようになると「あいつはショパンができる」と皆から個性として認められることになる。一方ドレミの位置しか知らない生徒も「ショパンの弾ける生徒」に対して「低い」と見なされることはなくなる。現在の評価体制ならショパンなんて弾けるくらいの奴は当然「5」でドレミしか知らない生徒は「3」という「差」になるところであるが、音楽のその時点の到達基準に達しているのだし何よりも彼は他の分野で人にはない豊かさを持っている。例えば数学に関しては誰にも負けない。中学生ながら微分積分ができるのだ。それを利用して文化祭の展示の熱気球を設計してくれる。
 また別の生徒は虫についてはめっぽう強い。遠足に行ったらいろんな虫を捕まえて名前を教えてくれる。ある生徒は水泳が得意だ。他の生徒は現在25m泳げるのが到達基準だが彼は指導者の資格をもっていて水泳大会前には先生と一緒に早く泳ぐための指導をしてくれる。しかし、彼は体育「合格」以上の何物でもない。「水泳のできる奴」なのである。
 そういう様々なことについての「できる奴」を育てるための短期や長期の講座を精選された教育内容で時間数にも余裕を持った教師が自分の得意な分野について担当する。外部から講師を招いても良い。
 こうして、バレーボールだけはできるが勉強はさっぱりという生徒や勉強だけはできるがのこぎりさえ使えないという生徒はいなくなる。学校に誰もが出来なくてはならないことができるようになるための協力の輪が広がり、個性が繁茂するようになっていく。
これがT型の学力観の支配する学校の素描だ。

 しかし、これは社会全体がこうならないと実現不可能だ。中学だけが変わったとしてもすぐ前に入試の壁が控えている。現在のような選抜制度では到達していても更に上を目指さねば希望する学校に合格できないからだ。でも、T型の学校で基礎的な力をバッチリ保障してもらえていれば高校全入の制度ができても全ての生徒が入学後さらに自分の能力を伸ばして行けることになるだろう。

  教育にとって暗いニュースが多すぎる。ともするとグチばっかりこぼしたくなる。でもそこからは連帯は生まれても創造的な活力は生まれてこない。夢を具体的にイメージしたい。余裕ができれば今書いたような夢が実現された学校を想定してそこで生き生きと成長して行く少年と教師をえがいた小説でも書いてみたい(*)と思っている今日この頃だ。

(*)小説でも書いてみたい …その後、小説は書けていないが全国でいじめが多発した翌年1995年の年賀状に「30年後の私の孫から私に届いた年賀状」を想定して文章を書いた。題して「初夢−おじいさんの時代にはなかったこと」。これは短いのでついでに是非読んでください。
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